第5話(1)キスしたことない人にはキスシーンが書けない
(五)
「ほれみろ、イケメンやろ」
「でも、たぬ神さまはそのままの姿が一番かわええと思うけどなあ」
「男は可愛いと言われても嬉しくないんや」
城南宮は京都の伏見区にある大きな神社である。京都の南インターから出てすぐのところ(といってもこのインターチェンジなんて入っても行き止まりにたどり着くだけだから誰も利用しようとしないのだけれど)の大きな国道に突然と現れる藪の中にある。大きな駐車場を構えていて、そこまではまだ道路の延長のような印象なのだけど、拝殿へと向かう石畳の上に立てばその空気は途端に変わる。木々に囲まれているから、というだけではないと思う。こんなにクソ暑い京都でも、神社の中ではその暑さが少しマシになる。
石畳を進むと左手に大きな広場が現れる。木々に囲まれたその広場の入り口には、手洗い場があり、そして広場の中央には大きな舞台がある。たぶん、能とかで踊るところなんだろうと勝手に解釈している。その舞台を囲むようにして社務所や売店があり、そして奥には拝殿と本殿がある。京都には神社がコンビニエンスストアぐらいあるけど、城南宮はその中でもけっこう大きくて、そしてあまりごちゃごちゃしていなくて潔い。
一度しか入ったことはないけれどお庭も大変綺麗で、梅の見ごろのときなんかは、それはもう桃源郷なんじゃないかって思うぐらいらしい。桃の花ではないことが惜しいけど、梅源卿なんて言ったらなにか酸っぱい感じがするから仕方ない。
とりあえずと、ぼくと安曇野さんとナツキちゃん、そして人間の姿に変身した狸は拝殿をお参りして、そして売店へと向かった。お守りを買うべきや、と狸が言っていたからである。
「ここで女の子に間違って安産祈願のお守りをプレゼントするのがベタなんだけどね」
清めの砂、と書いてあるお守りを狸はチョイスしてぼくたちに持たせた。「神様のチョイスやから一番や」らしい。そんなことを誇らしげに言う狸は、神様と言うよりはやっぱりどちらかというと妖怪だと思う。
城南宮に来たのは別にお参りするためというわけではない。先ほどにも言った通り、京都には神社は煙草屋の数ぐらいあるので、神頼みするならアイスを買いに行くついででいいぐらいなのである。神様にはそれぞれ得意分野があるらしいけれど、城南宮の「方除」とか「厄除」とかはぼくとは縁がなさそうだし、そもそも神様ならなんでもできて欲しいと思って期待してしまうから別になんだっていい、と思う。そんなことを言うと隣の狸はたぶん怒るのであえて言わないけれど。
石畳の道に戻って庭園の方へと向かうと、そこかしこに屋台が見られた。屋台、と言っても綿菓子を売ったり林檎飴を売ったりと、そんな華やかな屋台ではない。そんなものが華やかか? って思う人がいるかもしれないけれど、夏祭りになんて行ったことないぼくからすれば随分と華やかである。そもそも、今出ているのが屋台と言うべきなのかもわからない。兎に角、午前中だというのに人がたくさんいて、たくさんの本をワゴンに詰めてテントで本をおじさんやおばさんが売っている。
今日は古本市の日である。
古本市と言えば下賀茂神社のものが有名だと思う。でも、この洛外のさらに外れにあって、立地の微妙に定評ある城南宮にも実はある。始まったのはここ数年のことで、京都には娯楽がもっと必要であると認識した若者たちによる「京都おもろくし隊」といういささかネーミングセンスに難がある団体が新たに企画したのである。「再生」と「古本」という言葉の相性には少々問題がある。
古本市に行くことになったのは、当然ぼくが進んで企画したというわけではない。そもそもぼくみたいな日陰に慣れた人間なんて、日向、ましてや人が多いところに出た瞬間に体温の調節の仕方がわからなくなって、動悸と冷や汗に悩まされるはずである。そしてお腹が痛くなる。お腹痛いときはお腹を温めたいのに、身体はどうして冷や汗なんて流すのだろう。
そんなぼくがどうして外に出て、こんなにも人が多いところに出ようと思ったのかというと、それは他でもなく、ナツキちゃんのせい、いや、菜月ちゃんのためである。
「古本市、行ってみーひん?」
一昨日の夜に来たメールだ。
まずぼくは携帯電話を置いた。そしてなぜか背伸びをした。自分の中にこの事態を収めこむには身体にスペースが足りないと思ったからであろう。あと、変な声も出た。ああ、とか。ううーん、とか。そんな類の、意味はないけどなにかが凝縮されている声である。
次にメールをもう一度確認した。事実を受け止めるだけの余裕はできたと思ったからである。しかし、「事実というのはこの世になくて、そこにあるのは無限の解釈だ」といつぞや安曇野さんが言っていたとおりのことが起きた。つまりはぼくが飲み込もうとした事実は確たるものではなくて、現れたのは先ほどのぼくの解釈を上書きする、新たな解釈だった。
たぬ神さまが安曇野さんに声かけて欲しいって言ってはってんか。
なんか話したいこととかあんねんてー。
またお家とかに寄せてもらおうかなーって思ってんけど。
安曇野さん京都の人やないんやったら観光がてらどっかいかへん? って思って。
城南宮さんでそう言えば古本市が明日明後日やってんねんて!
ずっと行ってみたかってん。
みんなで、古本市に行ってみーひん?
新たな解釈。「デートじゃない」
いや、デートのお誘いという解釈は変貌を遂げてしまったけれど、それでもナツキちゃんに会えることは変わりなかった。ぼくは急いで安曇野さんに声をかけた。安曇野さんは、にやり、と笑った。まさしく、にやり、であって、にや、のところで口が動いて、り、のところで目が光る。
お風呂上りの安曇野さんは、AC/DCのTシャツ(ちなみに父が母にプレゼントしたが、母が全く着ようとしなかったものである)に短パンのラフな姿だけど、その言葉を口にするときはなぜか風格が出た。
「任せろっ!」
安曇野さんは、ソファからすくっと立ち上がった。その立ち上がり方は堂々としていて勇ましく、Tシャツなんかに合わせるには勿体ないような気がした。
「見てみー。これ、夏目漱石の全集や」
古本市に来て一番元気なのはやっぱりナツキちゃんだった。ナツキちゃんはワゴンの中にある厚い表紙の古ぼけた本を取り出して、ぱらぱらとめくり始める。小さな手と大きな本が対照的で落っことすのじゃないかって少しはらはらする。
「字ばっかりやなあ」
「そりゃ、本だからでしょ」
安曇野さんとナツキちゃんは、二人で本を手に取ってはなにかコメントをする。ぼくにはそんな引き出しがなくて、ただナツキちゃんのとる本を見ては、何を言おうか迷って、結局「凄い」とか「へえ」とかしか言えなくて、そんな自分に嫌気がさす。胸の奥にどんどん「今日の失敗」が溜まっていく感じがする。
「丹波君。夏目漱石何読んだ?」
「えっ、『坊ちゃん』とか――」
とかってなんだ。しか、だろ。
「私は『彼岸過迄』が好きやったなあ」
「そ、そうなんだ」
会話終了。
頭の中の赤ペン先生が会話の添削をするけれど、それだともう遅くて、ただただ自分が間違ってるってことだけを見せつけられるようで非常につらい。安曇野さんが羨ましい、と思った。ぼくは、ナツキちゃんのその微笑みを受け止めて返すだけの器量がない。
自分の知らない本の背表紙ばかり見ていると自分の知識や教養の無さを思い知るだけだったので、二人から少し離れて、料理本が多いワゴンのほうへとぼくは向かった。テントの中にいたのは五十ぐらいのおばちゃんであり、ぼうっと境内の木々を見ている。きっとなにか霊とか妖怪とかいるのだろう。霊能力はおばちゃんが使うほうが説得力がある。
そのとき、隣に人間の姿に化けた狸が現れた。どうやら狸も安曇野さんとナツキちゃんのガールズトークに交わることが出来なくて手持ち無沙汰になってしまったようである。神様が手持ち無沙汰ってどうなんだ。隣に並んで立つ、ぼさぼさの長髪に無精ひげが少し生えた、痩せこけた白シャツの大男を見ると、確かに神様扱いするのはどうかと思う。
「もうちょっとなんか、ええ感じに化けれへんかったん?」
ぼくは「オレンジページ」という雑誌の特別号をぱらぱらとめくりながら狸に会話をふった。
「ワシはずっとこのスタイルや」
「なんか見ようによったら浮浪者とかに見える」
「せや。それが大事や。普通にしてるよりなんか凄そうやろ」
「神様やのになんで見かけ気にすんねん」
「アホ、見かけは大事や」
「内面が外見に滲み出るんちゃうん。ほんまに凄い人やったら凄さがどうやっても滲み出るもんやって誰か言ってたで」
「能ある狸は爪を隠すんや」
「いや、凄そうに見せようとしてるやんけ」
「生意気なガキやな、この童貞がっ」
「関係あらへんわ!
狸もぼくと同じように、適当に雑誌を取り出してぺらぺらとめくり始める。神様はいったいいつも何を食べるんだろう、とふと疑問が湧いたけど、聞いたところでどうしようもないし、湧いたまま流しっぱなしにしておいた。いつかは枯渇するだろう。
じりじりとセミが鳴く。なんとなく、隣に誰かがいるのに寂しい気持ちが身体のどこかで感じられるが、それがどこかはわからない。ふと目を逸らせばナツキちゃんの腕の白い肌が陽射しに照らされて輝いているのが映った。ノースリーブのひらひらしたグレーのブラウスに、少し丈の短い淡いベージュのチノパンとカンカン帽を合わせていた。
彼女がいるそこだけ、この蒸し暑さも何かで中和されて、温度なんて気にならない空間を形成しているようだった。その隣で、キツネのマークが胸に描かれた白のポロシャツにタイトなデニムを合わせた安曇野さんが立っていて、安曇野さんは安曇野さんで、この暑さなんて気にするほどでもないと言わんばかりの涼し気な顔でいて、それはもうこの暑さと真っ向から向かいあって勝ってしまったような、そんな感じであった。
「安曇野はんは、ようわからん人やな」
いよいよ本を物色することに飽きた狸は、道端に落ちてた石をころころと足で転がし始めた。ぼくは、少し呼吸を置いて頷いた。わからん人だ、と思いながら、最近は少しどういう人なのかがわかって来たような気がする。
「ナツキちゃんも、わからん」
自然と、ぼくは舵を切っていた。別にここでナツキちゃんの話なんてする必要がないはずなのに。
「ま、まあ、ワシもわからんからな」
「神様やのに」
「あんなあ、自分、神様のことなんやと思ってるんや」
狸は、かつん、と石を蹴った。ころころと石畳を転がる小さな石は、そうして溝に入り込んで止まる。
「なんでもほいほい出来るんちゃうん?」
「そんなことあらへん。そんなん出来たら元の世界に帰ってるわ」
「ほんまや」
「ワシかてわからんこともあるし、できひんこともある。下等な神様やからな。人間とまあ、一緒みたいなもんや」
「例えば?」
「例えなあかんのか」
「感情が、ちゃんとあったり?」
「せ、せやなあ。まあ、人並みに恋したりするかもしらん」
「恋? ほんまに?」
「アホ! 例えばの話や。例えば」
「恋する狸かあ。変やな」
「神様って言わんかい、神様。狸ちゃうぞ。狸は愛宕さん登ってたらええねん」
「それでも、神『様』、なんや」
「せや。サマー。サマー。敬わんかい」
狸は、ちら、とナツキちゃんを見た。前髪で隠れたその眼はよくわからなかったが、なぜかその視線はどことなく寂し気だった、気がした。そんなときはどうしてだかセミの鳴き声が大きくなる。変わるはずなんてないのに、この城南宮の境内が少し大きくなった気がして、照り付ける陽射しも依然として強いけど、なんだか甲斐がないような感じがする。
「まあ、どうしようもないことばっかりや」
さっ、とどこからかそよ風が吹いた。なんとなく、狸が操ったんじゃないかって、ぼくは思った。
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