第4話(2)女の子に送るメールはいつだってラブレターだ

 ここで重大な問題がある。

 女の子のメールアドレスを入手してしまったということだ。

 ナツキちゃんが帰ったその日は朝から夕方まで、携帯電話を開いてはアドレス帳の画面に移り、そして電源ボタンを押して携帯電話を閉じるという流れを、高機能な鹿威しのようにぼくは繰り返していた。

別に、何をするわけでもない。そもそも自分からメールを送るという勇気は全くないことはわかっている。自分には期待しないこと、がぼくのモットーである。ただ、そんな期待を誰かに押し付けるような卑怯な自分がいたことには驚いた。ぼくは、彼女からメールが来るのではないかとずっと期待していたのだ。

 机に向かって小説を書こうとした夕方のことである。勿論、小説など書けず、ぱかぱかと携帯電話を開いてはむやみに電池を消耗させることに余念がなかった。

 何を考えているんだ、と自問自答、したくはない。明らかにしたくないものが明らかになってしまうような、それを本能で察知するぐらいにはまだぼくは動物的である。狸の顔が頭に浮かんだけれど、狸は動物じゃなくてたぶん妖怪だな、と思った。妖怪には理性があると、父が言っていた気がする。

 そんなときに限って安曇野さんは、こんこん、とノックをする。ぼくの部屋の扉をノックするのは安曇野さんぐらいである。母は勝手に開けて入ってくるし、父はノックをする前に「父の登場のテーマ」を口ずさんでやってくる。

「アマ君、生協のみたらし団子食べる?」

 ぼくは慌てて携帯電話を机の奥へと隠し、ペンを持っていかにも原稿に向かっていましたという素振りをとった。部屋に入って来た安曇野さんは、いやに挙動不審なぼくの動きを見ても何も言うでもなく、みたらし団子の入ったプラスチックの容器を机にちょこんと置いた。

「どう?」

「あかん」

 団子を覆っていたラップをぼくは丁寧に破り始める。みたらし団子の蜜が手にかかって、それを机で拭こうとしたのを安曇野さんに止められて、ティッシュを貰う。一本ずつ安曇野さんとぼくは串を手に取った。口の中に広がらず、局所に限定されて感じられる安っぽい甘さだった。

 そのとき、安曇野さんが、もぐもぐと口を動かしながら呟いた。

「自分から送ってみたら?」

「げふっ」

「うわっ、汚っ!」

「えっ、なに?」

「メール、来ないんでしょ」

 その途端、ぼくの身体中の温度が急に上がったのか、それとも感覚が鋭くなったのか。どっちが正しいのかはわからないけれど、顔が火照ったのが一瞬にしてわかった。身体中の毛穴が開いて、脇には不自然な力が入る。恥ずかしさが心臓から全身へと駆け巡った。

「なっ、なんでっ!」

「だって、ずっと携帯見てんじゃん。朝から」

 また一つ頬に赤みが増した。安曇野さんは、随分と前からぼくのことを心の中で笑っていたのだ。

何か言い訳しようと思ったけれど、頭の中に浮かぶ言葉は「あほ」とか「ひどい」とか、そんな風が吹けば飛んで行ってしまうような重みの無い言葉ばかりで、ぼくは何も言いだせず、ころんころんと頭の中を転がっていく言葉を選びかねてただ眺めているだけだった。

「携帯貸して。私が打ってあげる」

「やめっ、あかんって!」

「じゃあ早く自分で書きなさいよ」

「でも!」

「何が『でも』なの?」

「いや、でもでも」

「出たな、妖怪でもでも星人」

「妖怪か宇宙人かどっちかにしてーや!」

「じゃあ、なんでなのか、答えてよ、地球人」

 じっ、と安曇野さんはぼくを睨んだ。その表情には、いつものあの悪戯っぽい笑みがない。 

 ぐっ、とぼくは唾を飲み込んで、ようやく見つけた、簡単な言葉だけで彼女に答えた。

「理由が、あらへん」

 その、考えに考えたぼくのその結論を、安曇野さんは、にこり、と笑って一蹴した。

「理由はそこにあるもんじゃなくて、自分で作り出すもんなの」

 どうしてだかぼくの右手の力はするすると抜けていた。そして、ぼんやりとした手つきで携帯電話を広げる。富良野ナツキという文字をアドレス帳から探すだけで緊張した。彼女のアドレスが書かれた画面が表示される。彼女の顔を思い出した。おっとりとしていて、ちょっとたれ目で、でもやっぱりぼくより年上なだけあって少し大人っぽい。

「そう。大事なことを思い出した」

 安曇野さんは、ぽん、とぼくの肩を叩いた。

「ナツキちゃんからメールが届くときは、着メロを変えなきゃだめだよ」

「なんで?」

「好きな子からメールが届いて、そして好きな音楽が聴けたら、二倍嬉しいでしょ」

 好きな子、だって?

 そのときである。携帯電話がぶるぶる震えた。マナーモードにしていたのだ、とそのときどうでもいいことを思い出す。画面が開いていたから、誰からメールが来たのかはすぐわかった。間違いなんじゃないかって思った。画面いっぱいには、ゴシック体で彼女の名前、「富良野ナツキ」という文字が浮かんでいた。

 そのときはもうメールの内容なんてどうでもよくて、今なすべきことはバイブレーションを止めることだとしか考えていなかった。電源ボタンを押して、ぼくが画面を閉じると、安曇野さんは「なんでやねんっ!」と、ぴしゃりとぼくの頭をしばいた。

そしてぼくから携帯電話をひったくると、何回かボタンを押したあと、画面をぼくに見せつけた。それは、いつもよりも丸みを帯びて見える文字と、色とりどりだけどまとまりのある絵文字とで綴られた、今まで感じたことのないものを奮い起こさせる、不思議な数行だった。


こんにちは。富良野ナツキです。

昨日はいきなり天彦君が倒れたからびっくりしたわあ~。

朝もばたばたしてたからあんまりお話できひんかって、ちょっと残念。

自己紹介もゆっくりできひんかったから、また今度ゆっくり話そな。

今朝は美味しい朝ご飯とスイカをありがとう。人の家の朝ご飯ってなんかええなってならへん?

お父さんに聞いたんやけど、本が好きなんやって?

私も本大好きやねんで~。

丹波君は誰が好き?

私は星新一とかよく読むなあ。

またたぬ神さまと一緒に会いに行ったとき、おすすめの本とか教えてな~。



「教えてな~。だって。京都の人はほんとにメールも京都弁なのね」

 安曇野さんに肩を叩かれるまで、ぼくはずっとその文章を何往復もしていた。今まで読んできたどんな小説よりも、どんな詩よりも、簡単な言葉ばかりのその文章は、ぼくの心をどすんと突いた。液晶画面からは伝わるはずのない温もりのようなものが勝手に脳から生み出されて身体を循環する。

「う、うーん」

 いっぱいいっぱいになっている頭の中から漏れ出す声はもはや言葉になる暇がない。そんなぼくを安曇野さんはにやにやと眺めている。また変な声が出る。

「アマ君、返事、書きなよ。今すぐがいい」

 安曇野さんは携帯電話を取り上げて、そして返信のフォームの画面を開いた。

「なんか、めっちゃずっとメール待ってた人みたいでキモイやん」

「考えすぎ。そんな君の心境なんて考えるほど向こうは暇じゃないの」

「う、うーん」

「ほらほら、はい、携帯」

 渡された携帯電話はいつもより熱い。とりあえずと一つ改行したぼくは、それで動きが止まってしまう。やっぱりやめよう、って言おうとして安曇野さんを見ると、口元に手をあててじっとぼくを笑いもせず見つめてる。声はやっぱり言葉になることをやめた。口が思うように動かない、というか何を思っているのか自分でもわかっていないのだ。

 もう一度液晶を見た。こんにちは、と文字を打つ。でも、なんか違うような気がする。すぐさまクリアボタンを押す。もっと丁寧な言い方はないのだろうか、と自分の窮屈な頭の中をかき分けて言葉を探す。そしてまた、こんにちは、と文字を打つ。

「そうそう、出だしは大事よねー」

「勝手に見んといてよ」

「見たって何も書いてないじゃん」

「これから書くからー」

 指が一つ一つのボタンの感触を確かめるようにして動く。改行するたびにどきどきする。言葉を一つ選んで書いては、やっぱり違うとクリアボタンを押して、前の文まで消してしまう。やっぱり画面をのぞき込んでた安曇野さんは、ところどころで「うーん」と呟いたり、言葉の使い方を指摘してくる。

 小説を書く方が何倍も簡単だ。たった数行の文章を書こうとするだけで頭がずんと重くなる。なんだか熱っぽくなる。送ってもいないのに反応がすぐ来たかのように勘違いする。

「どう?」

 安曇野さんは、にっ、と笑った。その微笑みは、喜劇を見て笑う悪魔のような悪戯っぽい笑みでもなく、悲劇を見て憐れむ天使のような笑みでもなく、ただ単に、暖かい優しいものだった。

「どうって?」

「生きた小説を書くの、難しいでしょ?」

 えっ、と声が出る前に、安曇野さんはまた一段階、暖かい微笑みを見せつけた。

「小説?」

「好きな女の子に送る文章なんて、全部小説って言っちゃっていいよ」

「好きな女の子って! そんなん!」

「はいはい。まあ、難しかったでしょ」

「う、うん」

「でも、血の通った文章じゃなきゃ、人には伝わらないものもあるの」

 ぼくは携帯電話の液晶をじっと見る。別にただの文字列だ。自分の書いたものだから、新鮮さなんてまるでない。でも、例えどんな些細な言葉でも気持ちを揺り動かすことが出来る、それがぼくの好きな小説だった。これが、そんな文章だったらいいのに、とぼんやり思った。



 その日の夜、安曇野さんは、ガレージで線香花火をやろうとぼくを誘った。どうやら昨夜の花火大会では線香花火までたどり着くことが出来ず、余ってしまっていたというらしい。

「線香花火をやらないと花火は終わらないでしょ」

「なんで最後はしんみりするんやろう」

「楽しかったなあ、って反芻する時間も必要だからじゃない? 最後が良かった、よりも、ずっと楽しい時間だった、って思えたほうがお得だし」

 夕食を終えて少し休憩して、安曇野さんとぼくはガレージに出た。父はもうすぐ寝始めて、母は料理雑誌を読んでいた。喫茶店のガレージは車が5台ほど置けるぐらいの広さである。昼の熱気が夜の暑さに変貌したが、別に外に出られないほどというわけではない。街灯と自動販売機の明かりがぼんやりと辺りを照らしていて、タイヤ止めのブロックの上に座るとなんだか少し悪いことをしているような気分になるけど居心地が良い。この夜をまだ誰も知らないんだっていう優越感がぼくを満たす。

 蝋燭の火がぼんやりとぼくと安曇野さんの間に浮かんだ。安曇野さんの懇切丁寧な指導を受けてから線香花火に火を点ける。点いたのかな、なんて思ったときには火が点いていなくて、なんだ、と思ったときにぱちぱちと火花が飛び始めた。

心地よい音だった。肩をぺちぺちと優しく叩くような。それでいて、背中を少しずつ押されるような音だった。

「ナツキちゃんから返信来た?」

 安曇野さんは、線香花火を見つめながらそう言った。

「うん。ちょっとメールも続いてる」

「いいなー。メールが続くって久しぶりに聞いた」

 安曇野さんがけらけら笑うと火花はぽつんと落ちた。ありゃ、と言う安曇野さんを見て、思わず、ぷっ、と噴き出してしまう。するとぼくの火花もアスファルトにぽつんと落ちる。

「メールって、大変でしょ」

「文章ひとつでこんなに疲れるとは思わへんかった」

「小説もそう。それが自分の血となっているものなら書くのにエネルギーがすごくいるの。でも、人の胸に迫る強さ出るの」

「血となる?」

「経験とか、感情とか。キスしたことない人が説得力のあるキスシーンなんて書けないでしょ。想像力よりも大事なものがあるよ、小説ってもんはさ」

 二つ目の線香花火に火を点けた。さっきよりも勢いが良い気がする。すぐそこの自動販売機で買ったポカリスウェットで口を潤す。生ぬるい風も、今日はそれほど敵ではない。この花火の生み出す空間が、ぼくたちを包んで世界から隔離させていた。

「ねえ、安曇野さん」

 その世界なら、普段なら聞けないようなことまで聞けるとぼくは思った。

「安曇野さんは、元の世界へと帰りたい?」

 すると安曇野さんは、はあ、とため息をついた。わかりやすい、ストレートなため息だ。

「もちろんでしょ」

 ぼくは、ぱちぱちと鳴る火花を見続ける。そいつが言い訳を言ってくれると思っていたかもしれない。

「そっか。でもなんか、毎日家で楽しそうにしてはるから」

 安曇野さんは、じっ、と線香花火を見つめた。その眼は睫毛が長くて、少し潤んで、瞼のふくらみが色っぽい。少し、どきりとするほどだ。

「転んだ先で、転がり続けたら、前には進むことが出来るでしょ」

 ぽつん、とぼくの火花が地に落ちた。

「どうせ転ぶなら、前に進みたいもん、私は」

 そして、安曇野さんの火花も落ちた。線香花火はあと三本ずつ残っている。ぼくたちは一本ずつ取り出して、そして蝋燭に近づける。

 夏はいよいよ盛り上がりをはじめるのだ。こんな小さな火花に後押しされたぼくは、そんなことをなんとなく思った。

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