第3話(2)夏の花火は梅小路公園で

 結果として言うと、この世界の小さな、ぼくの世界ではとても大きな花火大会は、よくわからないこととなった。

 これから書くのはその顛末で、はっきりとぼくも覚えていないけど、大事なことだと思うのでしっかりと思い出してみる。

 そもそも最初からおかしいことは多々あったのだけれど、はっきりと「あれがいけなかった」ということがわかる瞬間があった。安曇野さんが、鞄から缶ビールを取り出したのだ。

「身体に火がついてきたならアルコールを注がなきゃね」

「おっ、サッポロ。ええやんか。いったれいったれ」

 ぷす、と缶から心地よい音が鳴った。いつも思うのは、ビールの缶を開ける音というのは、コカ・コーラを開ける音とは少し違う、大人の音だということだ。

「んっ、あーっ!」

 安曇野さんはごくごくごくと喉を三回上下させてビールを身体に流し込んでいく。そして、口から缶を離して、それまでずっと胸の奥で吐くのを我慢していた息を、満を持したというように吐くのである。

「美味そうやな」

「お父さんもどうです?」

「飲酒運転はあかんからな。人間生きることが大事や」

 そんな安曇野さんのほうにねずみ花火を数個、父は火をつけて投げていた。きっと羨ましかったのであろう。

 安曇野さんは、ぷはーっ、と再び吐息を夜空に紛れさせて、そしてぼくのほうをじっと見た。何を言いたいのかはすぐわかった。その笑みは、よくみる安曇野さんの、悪魔のささやきに心から笑って同意したような、そんな笑みである。

「アマ君、飲もうよ」

 安曇野さんは鞄から小さな小瓶を取り出した。

「未成年飲酒はあかんよ」

「断り方が下手くそ」

「いや、確固たる事実やないか」

「でも、私の胸には響きません」

「教師どこいった」

 安曇野さんはそう言うとぼくに肩を摺り寄せて、そしてもたれかかるようにしてがっしりと肩を組んだ。ずっしりと、思ってもみなかったその重さにぼくの膝はがくんと揺れて、そして一歩あとずさりする。安曇野さんの香りと、腕の柔らかさに、どきり、とした。

それが、彼女に圧倒された結果だったのだろう。その一歩が、負けを認めた瞬間だったのだろう。安曇野さんの手を、払いもせず、いや払うことも忘れていた。というより払うなんて無駄だと思っていたんだろう。そのまま受け入れてしまっていて、ぼくの口には小さな小瓶の口がひっついていた。

そして、強烈なアルコールの臭いが鼻を突き抜けて、脳天まで駆け抜けた。なんだ! と思っていたときにはぼくは口から注ぎ込まれたお酒を、ぶっ! と吐いていた。

「ぶっ! げぼっ、かはーっ!」

「さすがに焼酎ストレートはきつかったね」

 身体が一瞬にして熱くなる。心臓が一回鳴るごとに体温はぐんと引き上げられる。決して見えないのに喉はもう赤くなっているのは明確だし、脳天を誰かにずっとぐりぐりと押されている感覚がする。

これが酒の感覚か。ふらっ、とぼくは倒れそうになる。

「ちょっと待って。私ね、プラスチックのコップとオロナミンCを持ってるから」

「オロナミンCハイか。粋やね」

「じ、自分らアホちゃうか!」

 ぼくの必死の叫びもなんだかかすれ始めて、父はそれを聞いた途端に、はっはっと笑ってぼくにねずみ花火を投げつけた。

「うわわわ! あほっ! 殺す気か!」

「可愛い子には火を投げつけるんや!」

「それでも親か!」

「ワシかてビール飲みたいねん」

「知らんわ、ボケ!」

「酒をよこせ! 酒を!」

 まるで会話の通じない父の投げつけたねずみ花火は、くるくるとぼくも周りに火花をまき散らして踊っていた。そこらで噴き出し花火は火を噴いていて、ぼくの持っている手持ちの花火もなぜか衰えることなく火花をまき散らしている。まるで地獄である。

「ほーら、元気ハツラツ」

 すると安曇野さんが後ろからぼくに抱き着いた。その温かさや柔らかさに身体を縮めさせることができたのは一瞬である。すぐさまぼくの口には酒臭い栄養ドリンクが流し込まれていく。吐きだそうにも、どうしてだか吐き出せなくて、ぼくはごくごくと喉を上下に揺らしていく。

多分、今ここで抵抗したら、抱き着いてきた安曇野さんが離れてしまうのではないかって、下心があったのかもしれない。もう、嫌だ、反省する。

「ぶはーっ!」

「アマ君、良い飲みっぷりじゃん!」

「祝いの打ち上げ花火や」

 ぴゅー。

 ぱん!

 ぼくの足元が覚束なくなって、ふらふらと揺れ始めた。手に持っていた花火が消えると同時にぼくはその場にへたりと座り込んだ。父は未だに花火を振り回して宙に絵を描いている。安曇野さんは目の前でぼくを見てけらけらと笑っている。

 ぼくははあ、と息を吐いて空を見た。太陽はすっかり落ちていて、そして空には月がぽかんと浮かんでいて、その周りには小さな星が散りばめられている。気が付かなかったけど、空は晴れだったのだ。

夜空なんて今までこんな風に見たことがなかった。ただ、昼間の空の延長だと思っていた。でも実際は、誰かが昼の空に絵の具を落として塗りつぶして、そしてその上に模様を散らしたかのように、それは厚くて深みがあるものだと思った。

「もっかい聞くよ。アマ君はなんで小説を書くの?」

 ふいに、安曇野さんがぼくの隣に座り込んだ。

「誰かに読んでもらいたいわけじゃないのに」

 ぼくは空を見上げたまま、ぽかん、と口を開いた。

「なんか、落ち着くねん」

「ふうん」

「べつに生きてても、たいしたことはないし、夢もとくにないし、楽しいこともあんまないし、いつ死んだって別にええと思うねん。でも、書いてるときは、なんか、そこでは生きていける感じがして」

 その言葉は今までぼくが考えたこともなかったような言葉だった。口から出まかせ、神様が用意した原稿をそのまま読んだ、そんな言葉だった。でも、なんだかそれを妙に納得してしまった。ぼくは、うん、と頷いて、そんな言葉を言わせた誰かを探すようにまた空を見た。

「アマ君、それは間違ってるよ」

 安曇野さんはそう言って、ぼくの前に自作のお酒を置き、そして蝋燭の前まで歩いていき火に花火をかざした。

「いつ死んだっていい、なんて生きる人が、生きた小説なんて書けるわけないでしょ」

「そうかなあ」

「勘違いしてない? 小説のこと。小説ってね、生きてるの」

 花火は、じっ、と音をたてて点いた。



ぼんやりしていた。

 ずっとぼんやりして、安曇野さんを見ていた。

 すると隣に狸がやってきた。

「なに花火なんてしてんねん」

 狸が喋った。

「花火、したことなかったから」

 ぼくは、ぼけっ、としながらただ口を滑らせるように答えた。

「顔真っ赤やんけ! あほ! 中坊やろ!」

 すると狸はぼくの膝に乗って、びたん、とその小さな手でビンタをしたのだ。

「痛い!」

「未成年飲酒はあかん! 神様が見てんで!」

 狸はそう言ってぼくの膝から降りて、遠くではしゃいでいる安曇野さんや父を見た。

「あの女か。外からやってきたやつは」

 はて、とぼくは首を傾げた。

「外?」

「えっ、ああ。外や。まあ、変なとこや」

「うん、きっとそう」

 ぼくは狸の言葉にこくりと頷いた。

「やっと見つけたで」

 そのときである。ぼんやりとその高さしか照らせない頼りない街灯の陰から、一人の女の子が姿を現した。

 女の子だとこんな暗がりでもすぐわかったのはどうしてだかわからない。ただ、一目見たときから、血でもない、アルコールでもない、何かが鼻から身体を突き抜けたような感じがした。

 その子は、白いの長袖の襟の無いプルオーバーシャツに、そしてグレーのスカートのようなパンツのような、膝下まで丈のあるゆるいものを身に着けて、そして、黒と白の水玉模様のトートバッグを肩から下げていた。

「水玉だ」

 街灯の下で、その子はぼんやりと立っている。少しふんわりとパーマのかかった首元まで伸びた黒髪。小さな肩とほんのりある胸のふくらみ。細くて滑らかで美しい線を描く足。

 感じたことのない感覚だった。そのときはそこが夜の公園だとか今日は八月の何日だとかは全てなくなって、世界がぼくと彼女と二人だけ切り取られたように思えた。

ぼくは彼女に釘付けになった。色白で、目元がくっきりとしていて、そして上品な顔立ちだった。笑顔だとどんな風になるのだろう。ぼんやりとそう思ったとき、彼女は言った。

「花火、楽しそうやなあ」

 ぼくは、うん、と頷いた。

「初めてやったけど、楽しい」

「そやろなあ。私は、線香花火とか好きやけど、余ってるかなあ?」

 笑顔を太陽とか花とかで表現するなんてめちゃくちゃサムい。

 そう思ったけど、その子の笑顔は例えるなら向日葵だ、なんて、自分の表現力の無さを恨み、でも、それ以上はなんにもない、なんて思った。

 そしてその子はまた口を開いた。


「たぬ神さま、その子は?」


 そのときだ。はっ、とした。

 えっ、狸が喋ってる?

 てかなんで狸が喋ってんの、なんで普通に会話してんの、てかこの子なんで狸に話しかけてんの、なんで狸が喋る前提で話が進んでんの、安曇野さんどこ? 父どこ? てかぼくなんでずっと座ってんの? ここどこ? えっ?

 取り乱したぼくはなんともしようがなくなって、その場に置かれたコップを、ぐい、と一飲みした。

 まずい。

 飲み込んでから気づいた。これはめちゃくちゃ濃いお酒だ。

 ぼくの意識はそこで途絶えている。最後に見えたのは、彼女の、白と黒のトートバッグと、赤い靴下と、そして白いスニーカーだった。



 目が覚めた。

 そりゃ当然目は覚める。ぼくはなんでこんな自分がベッドの上で寝ていることに違和感を覚えたのか、起きて身体を起こしたときにはわからなかった。

 ぼんやりとベッドから起きようとして、寝汗の量にため息をついて、Tシャツを脱ごうとしたとき、昨晩のことを思い出した。

 超、頭が痛い。

 そういえば頭も痛いしなんだか気持ちが悪いし、なんかお酒臭い気がする。ぼくはお酒を飲んで意識を失ってしまったのだ。

 結果として父が連れて帰ってきたのだろうと推測すると、ふらふらとした足取りへリビングへと向かう。父と安曇野さんになんて言うべきかを考えた。連れて帰ってくれてありがとうと言うべきな気もしたが、そもそも酒を飲ませたのは安曇野さんで、花火で調子をこいていたのは父である。ぼくにまったく非は無い。

 うん、と頷いてぼくはリビングの扉を開けた。堂々とすればいいのだ。ふらふらで、胸も張れないけれど。

「あーもうっ! めっちゃしんどいねんけど!」

 そのとき、すっ、とリビングを何かが通り抜けたような間が出来た。

 異変に気付いたのはそれが通り過ぎて、ぽん、と音が鳴ってからである。


「おっ、アマヒコ、おはよう」

「こら、アマヒコ。まずおはようやろ」

「おはよーアマ君」

「おはようさん」

「あっ、おはようございます」


 食卓にある席がいつもより二つ多かった。

 そこに座っていたのは、昨晩現れた女の子と、そして喋る狸である。

「へっ?」

 頭が痛い。ぼくはその場で、ばたん、と倒れてしまった。

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