第3話(1)夏の花火は梅小路公園で

(三)


 夜の梅小路公園は暗い。公園内の道も整備されて、街灯もついていて、周りに大きな通りもいくつかあるというのに、夜になれば闇を吸い込むようにして梅小路公園は暗くなる。街灯の光というものが闇に負けてしまうのだ。その光は遠くまで届くことはない。辺りをぼんやり照らすだけで、精根尽きたというような顔をしている。

「花火というものはね、やったら怒られそうな場所でやらなきゃだめなの」

 近くのコインパーキングで車を停めて、安曇野さんは助手席のドアを開けながらそう呟いた。父は頷きながらそれに答えている。この二人は、どうやら違う波の立たせ方をするも波長と言うものが合うらしく、どちらかが主張を唱えれば共振するようにそれに頷いたり、「せやな」と言ったりことで答えている。一言で言えば、二人揃えばたいへんタチが悪い。

「わざわざ怒られんでええやん。人に迷惑かけたらあかん、ってお母さん言うてたし」

「アマヒコ。人に迷惑をかけないで生きる方法なんてないんや」

「そうそう」

「いや、ぼくはわざわざ迷惑かけんでええやんかって話を――」

「バレなきゃいいの、バレなきゃ。そうしたら近所のクソガキのせいになるから」

「せや。神様は見てる言うけどな、神様なんて案外仕事サボってるもんや」

「大人の言うことか?」

 うーん、と首を捻りながらぼくは花火のたくさん入った袋とバケツを車から降ろして外に出る。

夏の夜の蒸し暑さが、むっ、と頬を撫でた。そしてびったりとまとわりつく。夜になっても熱気は闇に紛れることはない。昼間の熱を放ち損ねたアスファルトが、今になってようやく思い出したように熱を宙に送り出している。

「暑いなあ」

 安曇野さんは、左手を腰に当て、ボーダー柄のカットソーの首元を掴んでばたばたとはだけさせる。その後ろ姿が、ぼうっ、とコインパーキングの蛍光灯に照らされて、少し幻想的に見えた。決して、そんなセンチな気分があるわけじゃなかったのに。



「花火をしよう」

安曇野さんが提案したのはその日の晩御飯のときだった。

「アマ君のことだから、どうせしたことがないんでしょ」

 安曇野さんは大皿のカツオのたたきに手を伸ばしながら、ふふん、と笑った。ぼくもそのお皿に箸を伸ばして、そして黙ってカツオをつまんだ。

「えっ、ほんとにないの?」

「あるよ! でも、あんま覚えてへん」

「せやなあ。ほら、従兄のケイタロウがまだ小学生のときに一緒にやったぐらいやから、あれ、いくつや? 五歳とかか?」

「まだ小学校は行ってへんかったと思うけどなあ」

「うわーっ、アマ君。ほんとに生粋の夏未経験者って感じ」

 そのとき安曇野さんは妙な使命感を持ったらしい。よし、と言って、カットソーの襟を正して、そして白ご飯を口いっぱい頬張った。

「花火、やろう。花火」

 安曇野さんは、にやり、と悪戯っぽく笑った。一緒に生活して気づいたことがある。安曇野さんのこの微笑みは、やっぱり悪いことを考えているときの顔で、面白いことが大好きだと言っているようなもので、そして、どうしてだか惹きつけられる色っぽさがあるのである。

「任せんかい。アマヒコ、やったるで」

「えっ、何を?」

「最高の夏や」

 段取りは次々と決まった。父はそれを聞いて「よっしゃ」と急いで食事を終え、店先にある納戸からバケツを取り出し、カングーの荷台に載せ始めた。いつの間にか参加することが父の中では決まっていたらしい。そして安曇野さんと食器を片付けながら「どこでやるんがええやろ」「なんかテキトーに暗い公園がいい」「梅小路公園がええわ。花火やったらあかんはずやけど。通報されにくそうやし」「されたらそのときはそのときで」「どんな花火がええやろか」「そりゃ、ヤバそうなやつ」「ええやん、ワンダフル」などと大人の交わすべきでない会話を交わしていた。

「大人やん。普通は、なんか条例とか法律とか守らなあかんやん」

 ぼくは少なくとも緊張していた。次々ときまって行く事案が大人しいものでないことにはらはらとしていたのだ。そんなぼくを見て、ははん、とあざ笑うように、安曇野さんと父は余裕をこいていた。

「今日は子供の引率だからね」

「せや」

「余計に悪いことしたらあかんやんけ」

「たまにはこんなこともしなきゃだめなの。いい? 逃げたり追いかけたり、なんでも走ってるときにいつの間にか人は成長するものなの」

「さすが国語の先生はええこと言うわ」

「いや、わからんわからん」

 車に乗り込むときは陽もかなり落ちていて、ようやく空の色が夜のそれとなっていた。

陽が落ちてから車に乗り込んでどこかに行くなんて随分と久しぶりな気がした。ドアを開けたときに車の中の電灯が、ぱっ、と光ったのを見て少し心が高揚する。車の中だけしか照らせぬほどの弱い光なのに、この光にはぼくを高ぶらせる力があるらしい。

右の助手席に安曇野さんは座り込むと、「左ハンドルなんてテンション上がるわね」とシートベルトを締めながら呟いた。いつも美人ですましている安曇野さんのその表情は、なんだか中学生にも見えておかしくないほどの笑顔で、かわいらしいと思ってしまった。


 梅小路公園にはもうほとんど誰もいなかった。いったい何の前触れだろうかと訝しく思ってしまうほど静かである。思わず足音を立てるのもためらってしまう。

父は、どうしてだか舗装された道などを通らず、真っ先に広い芝生の広場を突っ切ろうとして、ぼくたちもその後をいそいそと追った。

「京都水族館ってこの辺じゃなかったっけ?」

「水族館? そんなもんあらへんと思うけどなあ」

「あれ? そうなの? まあ、海もないからね、この世界」

 安曇野さんは時折思い出したように、この世界にないものをつらつらとあげる。プレステもフォーまで出ていると言うし、アイフォーンというよくわからない携帯電話の話もしたりする。まるで未来から来た人の様に。でも、お互い今年は2018年だと思っている。

「でも、海が無いのにどうしてカツオのたたきが晩御飯に出たのかな」

「えっ?」

「この世界には海が無いんでしょ」

「でもスーパーに並んでんもん」

「だいたい、海がない世界なのに、電車がない世界なのに、海とか電車とかの概念は知ってるのね、変だなって」

「安曇野さんは難しい話をするなあ」

「大人だからね」

 広場の真ん中に来るにつれて、闇はどんどん深くなる。もしかしたら落とし穴でもあるのかもしれないとドキドキしてしまう。もはや自分の足すら見えない程暗い。後ろを振り返ると、もう街灯の光は随分と遠くにあった。なんだかそれがとても寂しい。

安曇野さんは花火の入った袋をぐらぐらと揺らしながら、ぼくの隣に立った。

「大丈夫。ちゃんとついてきてるから」

 そのとき、なんだかふわりと爽やかな香りがぼくの鼻をくすぐった。グレープフルーツのようにみずみずしくて、それでいて花のように華やかな安曇野さんから漂う香りに、ぼくは少しどきりとした。


 父が選んだ場所は、舗装された道の途中に現れる東屋の近くの小さな広場であった。「芝生やったら燃えるかもしらん」と誇らしげに言っていたのには、小学生の名采配、というような印象をうけた。

 流れていた小川からバケツに水を少しだけくんで、東屋の近くに置く。がたん、とブリキ特有の軽い音がして、周りに本当に誰もいないだろうかと、ふと不安になった。

安曇野さんはライターで蝋燭に火をつけていて、父はその隣でたばこに火をつけていた。「あっ、お父さん、ラキストなんていい趣味ですね」「せやろ、イキった男はみんなラキストのソフトを買うんや」なんて、よくわからない会話をしている。蝋燭の火が頼りない光を放ち始める。でも、幾分か、園内に立っている街灯の光よりかは力強い気がした。

「何から始める?」

 安曇野さんは、ぼくから花火の袋をひったくると地面に置いて凝視し始めた。手で持つタイプのものがいっぱい入った袋と、物々しい筒状の花火がいっぱい入った袋と二種類ある。当然、安曇野さんと父が最初に手をつけたのは後者である。

「やっぱり花火は打ち上げてなんぼや」

「えっ、いきなりそれやるん?」

「何事も最初が肝心。あとから考えたっていいぐらいのくだらないことだらけなの、この世は」

 安曇野さんとぼくの知ってるこの世は違うのに。そう呟こうとしたけど、「地獄からのフロムヘル!」と大きく書かれた花火の筒をこちらに見せつける、楽しそうな彼女の顔を見て、そのときはもう何を言おうとしたのか忘れた。


 ぼくたちの小規模の大花火大会は、「地獄からのフロムヘル」によって幕開けした。火をつけて離れて、しばらくその行く末を見ていても花火に動きというものはまるでなく、はて、と首を傾げて近づこうとしたときだ。

真っ赤な火花が突如としてその筒を噴火口のようにして湧き上がり、そして、ずぼぼぼぼ、という音とともにまた真っ赤な打ち上げ花火を、それも三発も連続して放ったのである。ぱん、ぱん、ぱん! と連続して軽快な破裂音を夜の公園にこだまさせた。

「うおお」

 その音が父のなにかしらのスイッチを押してしまったらしい。父は細長い筒状の花火を二本両手にとって、そしてどちらにも火をつけた。二メートルほどの火花の柱が父の両手から勢いよく、そして緑赤黄紫緑と色とりどりの光を放っている。思わず実の親にアホという言葉を浴びせるハメになった。

「アホ! 何してんねん!」

「これが文明の光や!」

「安曇野さん、止めて! あかん!」

 ぼくの生きてきた十四年という年月はたいへん短いようだ。「火花をまき散らす父」という像にこれまで出会うことがなかったぼくは、この父の像に得体のしれぬ恐怖感を抱いて足が動かなくなった。あの父は化け物か。

思わず助けを求めるようにして安曇野さんの方に目を向けると、彼女は彼女で、自分の周りに四つの噴き出し花火を置いては、両手を広げてにやりと笑っている。ダメだ、この人もアホだと思った。

「強そうでしょ」

 安曇野さんは、それはもう、曇りもヒビのまるでない、満面の笑みだった。

「ごめん、わからへん」

「ラスボスっぽくない?」

「いや、全然わからん」

「古より伝わりし浄化の炎っ!」

 辺りは火花が縦横無尽に飛び交っている。実際はそんなことはないのだけれど、父の振り回す花火や安曇野さんがつけた花火が放つ火花でこの広場が埋めつくされている、そう思うほど彼らはわいわいと騒ぎながら花火を振り回したり、投げたり、互いに向けあったりしてけらけら笑っている。

 その場から足を動かすことも忘れて、ぼう、と立つことしか出来なかった。目に映るちかちかとした光が、ぼくの足から力を奪っていく。この場から離れては取返しのつかないことになってしまう。そう思わせる感覚。まるで、一歩でも動けば異世界へと足を踏み入れてしまうような感覚だった。

彼女はそういう感覚でこの場へやってきたのだろうか。そう思っていたぼくを、ぼくの立っている世界から引き離したのは、やはり安曇野さんだった。

「やろうよ、花火」

 安曇野さんがぼくに渡したのは、一本の細い花火であった。その取っ手のえんじ色が、なぜだか妙に鮮やかに見えた。

「ぼくはええよ」

「アマ君にはレディの誘いには断るという選択肢はないの」

「そんな勝手な」

「男の子は断り方を覚えて、ようやくレディの誘いを断ることが出来るようになるんですよ」

「なにそれ」

「どう? それっぽくない?」

 安曇野さんはぼくの右手首を掴んで、すっ、と引いた。まるでぼくを呪いから解くように。ぼくを違う世界へと誘い込むように。ぼくの足はふわりと軽くなる。

そして一歩、安曇野さんのほうへと近くなる。彼女の微笑みの意図がわかる距離に、ぼくは足を踏み入れた。

ぼくは蝋燭の火に操られたように、手に持った花火の先端を火に近づけた。

「意外と簡単に点かへんなあ」

「すぐ点いても『意外と簡単に点くねんなあ』って言うんでしょ」

 そう笑っていると、じっ、と音が鳴る。なにかに火が点く初めての感覚は、手に伝わる少しの振動。ぼくはその火花の光の行く末を、「あわわ」なんて力の無い声で見守る。その隣で安曇野さんは「変な顔」とけらけら笑う。手に持った花火から放たれた火花は、思ったよりも威勢がよくて、軽快で、そして早く萎んだ。

「花の色の移ろいは早いからね」

 安曇野さんはそう笑って、ぼくの花火から火種を奪い、そして自分の手に持った花火に火をつけた。そして、ぼくのもとからすっと離れ、くるくると花火を回して宙に弧を描く。その様子を、ぼうっ、と見ていた。

急に近づいたようで、離れたような。そんな風に、よくわからなくて、そしてずるい人だと、思っていた。そのときはそんな自分の気持ちなんてわからなかったけど。そして、父の放っていた打ち上げ花火の、ぱん、という軽い音を聞いて、ぽかんと頭を叩かれて、なんだかぽろりと何かが零れ落ちたようにして、ぼくの頭は軽くなった。


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