第2話(3)せっかくの夏休みだしガリガリ君を
家に帰って、父と母と安曇野さんとで食卓を囲み、稲荷大社に二人で行ったことなどを話した。「お前も外に出る日が来るとは、ええ話や」と父は頷き、瓶ビールを手酌で飲んでいる(我が家では瓶ビールは手酌で飲むルールである)安曇野さんも、最初の方こそ遠慮がちに父と母と会話を交わしていたが、今では、父と同じように瓶ビールを手酌で飲みながら「いやー、サッポロクラシックはいいですねえ」なんて言っている。ぼくより我が家に馴染んでいるような気がして、なんだか歯痒い。
「ご近所だからよく行かれるのかと思ってました」
「あんなとこ、ただの山や」
「ただの山」
「カブトムシようとれんねん、アマヒコが虫好きやったらよかってんけどな」
「カブトムシなんてゴキブリの上位互換やん」
「何言うてんねん。お前、角あるとないとで全然ちゃうぞ。ほんまに、男としてどやねん」
なんだか以前より食卓は明るくなった。別に、テーブルの上の蛍光灯など変えていないのに、不思議と暖かな色味が増したような気にさせる。
夕食が終わると、ぼくは自室にこもり、安曇野さんは、リビングでテレビを見たり、食器を洗うのを手伝ったりするのがここ数日の常である。なんだかぼくの居場所というものが、少し狭くなったような気がする。人が一人増えるというのはこういうことなのだろうか。
ぼくは居場所を求めるようにして勉強机に向かった。そこにあるのは原稿用紙とシャープペンシルと消しゴム。そして、はあ、とため息をついて、ぼくは物語を書き始める。誰と出会おうが、誰と話そうが、ぼくの居場所はいつもそこだった。
ぼくは小説を書くのが好きだった。
もちろん、読むのも大好きだ。小さいころから児童書を読み漁っていたし、図書館に行けばファンタジーものからシャーロックホームズの出てくるような推理物まで、なんでも読んだ。中学に入ってからも、たくさんの本を読んだ。ライトノベルなんかにもどっぷりはまったし、難しかったけど、純文学と呼ばれるものも読んだりした。内容なんてよくわからない。でも、読んだらなんか凄そう、とだけ思って、凄そうなものを読んだ気分にいつも浸っていた。
そして、いつの間にか書くことを始めていた。どの話も短編ばかりだ。理由は途中で飽きてしまうのが怖いからである。
それがどんな話かというのは様々だ。あるものは首から上がキリンになった人のファンタジーものだったり、あるものはカレーが好きな主人公が電車に乗って旅に出る冒険ものだったり、あるものは恋をすると死んでしまう男の恋愛ものだったり。書けばなんだかぼくはたいへん満たされた気分になっていく。
別に誰かに読んでもらうためではなかった。そこに、ぼくの居場所が生まれるような気がするのだ。黒鉛で刻まれた、文字と文字との間に、居心地の良い隙間が生まれると思った。
外に出るなんかより、ずっとこの場所にいたかった。
自分が傷つくことがないのだ、この空間では。
いつものように、かりかり、と文章を綴る。
言葉はどうしてだか自然と生まれる。その一つ一つの良し悪しなど考えたこともないし、考えたところで何もわからない。勉強机の蛍光灯の光が、原稿用紙に反射して、そこだけ別の空間が生まれ、ぼくの右手はそれに吸い込まれるようにしてペンをそこに走らせる。
「アマ君」
「うわっ!」
世界の終わりというものは突然やってくるものである。
安曇野さんの声が聞こえたとき、蛍光灯の光は突然原稿用紙から反射するのをやめた。
慌ててぼくは原稿用紙を机の奥の方に、ぐしゃ、と突っ込んだ。心臓は一瞬でテンポを変えることが出来る優れものである。頭はぐるぐると回転するのにぼくがそれについていけないせいで何を言えばいいのかわからない。
安曇野さんが「何してるの?」でも聞いてくると厄介だ。ぼくは兎に角首を振って、「いやいや!」とわけもなく言った。なにが「いやいや」なのだろうか。
「どうしたの?」
「別に!」
「お母さんがスイカ切ったよって」
あれ、と拍子抜けしたのはその数秒後だった。安曇野さんはなにも言わずにそのまま部屋を出て行った。そう言えば「何してるの?」ではなく「どうしたの?」だったな、とようやく気付いたとき、リビングに向かうか、とぼんやり思った。原稿用紙をまとめ直して、机の棚の一番上に畳んで突っ込んで、蛍光灯の光を消した。ぼくの机の上の世界はしょぼんと消えた。
朝起きると、安曇野さんがぼくの部屋の机に座っていた。
「うげっ」
頭が回らないまま「なんだかやばそう」と伝える「うげっ」を出すと、安曇野さんはこちらを向いて「おはよう」と悪戯っぽく微笑みかけた。二十超えた女性の悪戯っぽい笑みというものは、きっと悪魔が教えたんだと思う、そんな微笑み方である。
「いつもならもうちょっと寝てるのに、早いね」
レッドホットチリペッパーズのTシャツを寝間着にしている安曇野さんは、原稿用紙の束を丸めてぼくに見せつけた。不味い。急速に頭に血が行きわたり事態が飲み込め、そして声を出す余裕もないまま、ぼくは慌ててベッドから安曇野さんのほうへと手を伸ばして、あぎゃ、とそのままベッドから転げ落ちた。
「あぎゃっ!」
「あははは! ださっ! アマ君ださいよ!」
ようやく声が出るようになって、「うわーっ」と立ち上がって安曇野さんの手に右手を伸ばしても、安曇野さんは「ほーれ」と言って椅子の上に立ち上がって、天井の近くまでぼくの原稿用紙を掲げた。なんだこれは。二十を超えた女の人がやるべきことか。
「あかん! 読んだらあかん!」
「あはは、こんなテンション高いアマ君初めて見た」
「あかんーって。それはほんまにあかんねんってぇ!」
「残念だけど、だいたい読んじゃったよ。悪くないよ。しっかりしてるじゃん」
「あかんーって!」
ぼくが椅子の上に乗ろうとすると、安曇野さんは笑いながら椅子から降りて、そしてベッドの上に立ってぼくをからかった。この野郎! とぼくは安曇野さんを追い回すも、どうしてだか安曇野さんはぼくの手をひょいひょいとかわす。そして安曇野さんはぼくを挑発するようにくるくる回って踊る。
めっちゃムカつく、これがぼくの気持ちである。
「中学生が書く割には文章が本当にしっかりしてるよ。国語教師が言うんだから」
「読ませるために書いてるんちゃう!」
「もったいない。才能あるよ、知らんけど」
「もうーっ! ほんまにあかんねんて!」
一通り追いかけっこしたり、手を交えたりしてるとお互い疲れたのだろうか、いつの間にかぼくはベッドに座り込んでいて、安曇野さんはぼくの机にもたれかかっていた。二人して息が荒い。だけど安曇野さんはずっとけらけら笑っていた。始めのうちは悪魔に見えた。でも、今は一人の女の人が明るく笑っているようにしか見えず、いつもより安曇野さんの背が低く見えたような気がした。
「文章と構成は及第点ね。でも、なーんか現実味がない。キャラクターにね、共感できない」
「誰も感想欲しいってゆーてへん」
「なーんか、いまいちハートに来ない文章なんだよ」
安曇野さんはそう言って、原稿用紙をぺらぺらとめくる。なんだか全て負けたような気がした。諦めというものがぼくに重くのしかかる。頭の先っぽのあたりが妙に重たく、顔を上げるのがなんだか少し苦しい。
「ねえ、アマ君はさ、何が書きたいの?」
「へっ?」
そして、ぽつり、とそんなことを言った。
「どうして小説なんて書いてるの? 何が書きたくて書いてるの?」
「それは、えーっ、と、書くのが、好きだから」
「それは、どうして?」
じっ、と彼女はこちらを見つめる。
「だって、小説書いてたら、あれやもん、ぼくの好きな世界が、形に、なんねんもん」
「アマ君の好きな世界?」
「う、うん。なんか、こう、誰とも競わなくてもええような、誰とも戦わんくてもええような」
ふーん、と安曇野さんは言って、また、ぺらぺらと原稿用紙をめくる。ぼくは、何も言えなくなって、ただ、エアコンの音が、強くなる音だけを聞いて、俯いていた。
「ねえ、アマ君。もしさ、これ読む人がいたときにね、いい小説だな、って思われたくない?」
「えっ?」
そして、安曇野さんは、にこっ、と笑った。
「じゃあ、質問を変えよう。ここに綺麗なおねーさんがいます。おねーさんは国語教師になります。そして、今までいっぱい本を読んできて、目も良いです。そんなおねーさんに『アマ君、いい小説書くじゃん』って思われたら、どう?」
「自分で言う?」
「別に私とは言ってないんだけどな」
にい、とまた悪戯っぽい笑みだ。この笑みの前では、ぼくは全て操られてる気がしてしまう。
そして、ぼくは、今まで思ってもみなかったようなことを言っていた。
ことばに出して、初めて、そうだと思ったような、ことを。
「そら、思われたら、嬉しいよ」
そして、安曇野さんは、にこっ、と、また笑い方を変える。いちいち、笑い方が上手いな、と思った。
「でしょ。じゃあ、いいこと教えてあげる。お姉さんの、アドバイス」
「世界って、そんなに悪いもんじゃないよ」
えっ、とぼくは口をぽかんと開けた。
「きっと、経験がまだ足りないの。アマ君は」
「経験? なにそれ」
「想像力って、実は消耗品なの。いろんな経験をして補充するの。アマ君は明らかにガス欠」
「あーっ、もう」
そのあとも安曇野さんはなにかとぼくの文章にケチをつけた。想像で書きすぎ、地に足がついていない、イメージが文章を先行してる、など。聞きたくもないことばっかりだけど、的を射ているので反論しようにもない。
ただ、そんな安曇野さんが楽しそうで、またぼくもなんだか言われているうちに、そのちくちくが心地よくなってきている気もする。いつの間にかぼくも反論を開始していた。そんなぼくを見て安曇野さんはさらににんまりして、ぼくより三枚も上手を取って、説き伏せてしまう。
ぼくは机に向かって、安曇野さんはその隣に立っていて、一文一文を一緒に吟味していた。読点の位置とか、助詞の使い方とか。比喩は多すぎると安曇野さんが指摘して、原稿用紙に二重線を引く。ぼくの机の上に生まれる世界が、少しずつ変わっていく。
外からセミの鳴き声が聞こえた。セミも起き始めたのだろう。時刻は朝八時すぎだ。ちょっと遅めに起きるセミらしい。窓から差す陽の光が少し強くなった気がする。
「夏ね」
安曇野さんも、ぼくと同じようなことを同じ感じ方をしたらしい。机から顔を上げて、窓の外を眺めた。
「夏らしいことしたいなあ」
安曇野さんは、ふふん、と笑って窓の外を眺める。別に何かがあるわけでもない。向かいの家の金木犀の木々の葉が生い茂っているのが見えるだけだ。それでも安曇野さんは、外をぼうっと眺めている。ぼくは、そんな安曇野さんのTシャツの隙間から見える腰の肌色を、じーっ、と眺めている。腰のうねる曲線は、視線でなぞるのにちょうどよかった
「お祭りとか、花火とか、素麺とか。どうせアマ君、やったことないでしょ」
くるっ、と安曇野さんはこちらを振り返る。ぼくは慌てて視線を逸らした。
「別に」
「だからダメなの。アマ君の小説」
セミの鳴き声が少し弱くなった。代わりに遠くの方でまた違うセミが鳴き始めた。
夏なんて、暑くて陽が長く照るだけだ。そう思ってた。退屈の種類が変わるだけだ。そう思ってたんだ。
でも、どうしてだろう。窓を背にした安曇野さんを見て、なんだか、ぼくは、このどうしようもない、クソ暑い夏が、少し素敵に見えた。窓から入ってくる光が、ラムネの瓶を覗き込んだときのように、きらきらして、輝いて見えてしまう。
「夏らしいことしようよ。せっかくの夏休みでしょ」
それが、ぼくの初めての夏の始まりだった。
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