第2話(2)せっかくの夏休みだしガリガリ君を
店に着くや否や、父は母に「お茶用意して。あっ、お茶言うてもコーヒーでもええねんで、日本語をそのまま受け取ったらあかんで」と言い、安曇野さんを入り口近くの席に座らせた。
日曜日の夕方なのでもちろんお客さんもおらず、電気はつけられていなくて窓から差し込んでくる、まだ夕陽とはいえないけれど、少しばかり暖かみのある色になり始めた陽の光が店内をほどよく照らしている。父はザ・スミスの古い曲を店内に流し始め、さてさて、と言いながら安曇野さんの前に座った。
「やっぱ女の子が店に来たらザ・スミスを流すべきやねんなあ」
安曇野さんは何と言えばいいのかわからない様子で、テーブルの上に置かれた角砂糖入れの陶器を見つめていた。当然の反応だと思う。その入れ物は、少し暖かみのある白で、円よりも滑らかな曲線を描いていて、佇んでいるだけで個性を醸していた。
コーヒーを飲みながら、父は安曇野さんにいくつか質問をした。どこから来たのか。どうやって来たのか。いつからここが変だと認識したのか。電車が走っている世界とはどういうものなのか。そして、安曇野さんは何者なのか。
安曇野さんは少し困った様子を見せていたが父の質問には首を捻りながらも答えていた。東京というところから新幹線に乗って来たこと。朝には普通に電車も走っていたこと。伏見稲荷の山から下りてきて駅についてから、世界が変わっていたことに気づいたこと。
「世界が変わっていた」、しかし、ぼくの世界はなんにも変わってない。いつも通り、京都は退屈な街で、いつも通り、ぼくはなんにも変わらなくて、いつも通り、クソ暑い夏。
多分、安曇野さんは、違う世界からやって来た。
ぼくの住む世界とは、違う世界から。
「で、あんたはどーいう人なんや」
「あ、安曇野ナツキです。大学四年生で、来年から中学で国語の教師をします」
そかそか、と父はそれを聞いて、うん、と頷いた。
「採用」
「はっ?」
ぼくと安曇野さんは、打ち合わせしていたかのように、ちょうどのタイミングで声を合わせた。
「短期のバイト探しててん、お父さん、仕事サボりたいねん」
待て待て、とつっこむ前に父は席を立って、ほれ、と言って黒いエプロンとシャツを持ってきて安曇野さんに手渡した。安曇野さんは、はっ、と言ったけれど「よっしゃー明日からアレや、ワンダフル」と言う父に圧倒され、それらを手に持って、こくり、と頷いてしまった。安曇野さんはやっぱり別世界の人だけど、父もこの世界とは少し飛び出たところにいると思う。
こうして安曇野さんはうちの店で短期で働くことになり、そして宿がないことから家の空き部屋に住むことになった。「家族が一人増えたで」父が母にそう言うと、母は「それは大変やねえ」と快諾した。言葉のキャッチボールという概念があるけれど、我が家では誰もボールを受け取ろうとはしない。
そして、彼女は、ぼくの日々にいる。
いつの間にか我が家には安曇野さんがいた。それも、すんなりと。隙間を埋めるように自然に。
流れとしてたくさんの過程を省略したように思える。でも、結果としてそうなったのだ。だいたいのことはそんな感じがする。結果としてぼくは生まれていたし、結果として十四にまでなっていたし、結果として安曇野さんに出会ったのだ。過程が大事だとかいうものはわからない。そこまでして、大事な過程というものを、ぼくは見たことが無かった。
その日は、安曇野さんが「南の山を見てみたい」と言って、ぼくと二人で父の車を借りて宇治山のふもとまで行ったのだった。初めて乗るという左ハンドルに安曇野さんは少し興奮して、父の車のCDのコレクションを見ては「変な趣味」と言ったりと少し楽しそうだった。数日が経って、安曇野さんも、彼女にとっては別の世界であるこの世界に慣れてきたようだ。
国道一号線に乗って南まで行く。南の方に行く車の数なんて知れてるから快調に車は進んだ。南の果てがどうなっているのかなんて気にもしなかったから、なんだかこの道を進んでいくのが、少し怖いような、そして、少し、面白いような、そんな気がして、ぼくは不思議だった。
結果として、南の果ては、道路をぶつんと寸断するように、アスファルトを突き抜けて木々が生い茂っていて、そこから先は紛うことなき山であり、茶色の土や木の枝がばさばさと荒々しく傾斜を作っていた。誰も、入れそうにない。誰かを拒むように、山はそこには存在していた。
「本当に、ここで世界が終わっているんだね」
安曇野さんは、寂しそうにそう呟いた。ぼくも初めて見る世界の果てというものに、自分の小ささや無力さを感じて、なんだかすこし寂しかった。世界の果ては意外と近く、そしてどうしようもないほど大きな存在だった。
近くのコンビニでアイスキャンディーを食べ終えて、ぼくたちは再び車に乗り込んだ。
「なんか、どっか行く?」
安曇野さんはそう言って、車のエンジンをかけた。
「てか、あんた夏休みなのにずっと家にいんのね」
「別にすることもないもん」
「友達は?」
「おらへん。いたら、毎日家にいーひん」
「まあ、そうねえ」
安曇野さんは、鼻で、ふん、と笑ってアクセルを踏んだ。少し大きなエンジンの音が車をがたがたと揺らす。エアコンから放たれる空気は少し埃っぽくて、でもなんだかそれを吸うと落ち着いてしまう。空は雲が少しばかりあるだけで、濃い青をいつもより高いところで広げている。車はその空に吸い込まれるようにして走っていく。
安曇野さんが車を停めたのは、伏見稲荷大社の駐車場だった。
下賀茂神社や北野天満宮の駐車場なんかは、整備はされているけど砂利なんかが敷かれているから少し風情がある。でも、伏見稲荷大社はなぜだか頻繁に工事がされていたりするせいで、異様に社務所や駐車場が近代的である。こんな山の近くにあるんだから、もっと雰囲気とか大事にすべきなんじゃなかろうか。「だいたいのことは雰囲気でなんとかなる、つまりは雰囲気が一番大事や」と父はよく言っている。
車から降りて、少し山に境内を回ってみたいと安曇野さんは言った。
安曇野さんの話だと、安曇野さんは、稲荷山から下りてから自分のいる世界のおかしなことに気づき始めたという。この稲荷大社には何かがある気がするとのことだけど、稲荷山は大きくて、その何かを探すには大変苦労することだろう。
稲荷大社は国道のように大きな参道があって、そして楼門という大きな門がぼくたちを迎える造りになっている。本殿に行くには階段を上ってその門をくぐるか、それともその行程を無視して門の隣をすり抜けるか、別にどっちだっていい。「まあ、通ったって雰囲気補正がかかるだけでしょうしね」と安曇野さんは言って、ぼくと安曇野さんは階段に上る労を避けるためにそのまま横を通り過ぎた。
本殿は朱く、そして大きい。この赤はやはり朱色と表すべきだと思う。何回も修復されているから、少しありがたみに失せる気もするけれど、壁のなんだか威厳のある白と、柱の朱色と、そして夏の青空が、それぞれを互いに際立たせて、なんとも厳かな気分になるものだ。
石畳はごつごつとして、なんだかこの境内にあるものは不思議と一つ一つの石が大きく見える。本殿の裏に回ってもたくさんのお社や、そして狛犬替わりの狐の石像が鎮座している。よく見ると狐もひとつひとつ表情が違う。安曇野さんはそれを発見しては「なんかこいつ、性格悪そう」「こういう男はやたらボディタッチが多い」「こいつは絶対酒に弱い」「あー、こいつ嫌い。絶対自慢しかしないよ」などと一匹一匹を査定していた。
「なんで狐なんやろう」
本殿の裏を回って、奥の山の方に向かう。いくつかお賽銭を入れなければならないような社があったけど、ぼくも安曇野さんもそれらに興味は払わなかった。
「神の使いなんでしょ」
「別に、なんの神様でもええんちゃうんって思うんやけど。カワウソとか、ヌートリアとか」
「たまたまいたのが、狐だったんじゃない?」
「そんなもんやろか」
「私だって、そこにいたのがたまたまアマ君だったわけじゃない」
「じゃあ、もし狐やったら」
「牛乳あげてたんじゃないかな、私」
「狐って牛乳好きなんかなあ」
本殿を通り過ぎて奥へと向かうと山道に出る。誰だか知らないけれど、こんな山の中にたくさんお社を建てて、そして石段で道を作った人がいる。神様だって、人の世に降りるのはもうちょっと楽な方がいいと思う。山道は木々で覆われていて、そしてやはり風が緑で浄化されるせいか、ずっと陰になっているせいか、本殿にいたときにうけた重くのしかかるような暑さはなかった。
「ねえ、やっぱり変よ」
山道に入ってすぐのことである。安曇野さんは突然道の階段の中央で立ち止まった。
「鳥居がないの」
はて、と、ぼくは聞きなれない言葉に首を傾げた。ふう、と風の通る音がしたような気がした。石段にはぼくたちの他誰もいない。木陰の隙間から現れる日の光が、ちらちらと揺れて、今にも宙に浮かび上がるような気にさせる。
「鳥居?」
「この世界には、電車だけじゃなくて鳥居もないの?」
安曇野さんは眉間に皺をよせながら、指で宙をなぞりはじめた。
「こんな形。なんか、門みたいな。ほら。地図で神社のマーク、学校で習ったでしょ」
ようやくその形を理解することが出来ると、安曇野さんの指の動きがその形を描いているのがわかった。
「ああ! でも、なんで?」
「稲荷大社の千本鳥居って有名じゃない。山道に、鳥居が、どどどどどーっ! ってあるの」
「そんないっぱいあってもしゃーないやん」
「私もそう思うけどあるもんはあるの」
どうやら安曇野さんの世界では、この山道は木々ではなくてその鳥居というものが覆っているらしい。なんだか想像しがたい世界である。そんなものいっぱいあったところでなんなのだろう。数が多いからっていいもんじゃないのではなかろうか。
「そういや、今日ここに来てから鳥居を見たことない」
「うん。そんなもん、どこにもあらへんよ」
「変な世界。神様いないの? でも神社はあるでしょ」
「なんか、よーわからんけどあるもんが多いねん。でも、神様はちゃんとやはるよ」
ぼくたちはそう話しながら、いつの間にかぐるりと山道を下っていた。ちゃんと地図を見ないと、いつの間にか違う山に行っていたりすることがあるのが稲荷山である。途中、古ぼけた祠や、すごいポーズを決めていた狐の石像に出会ったりした。二人で手を合わせたり、狐の顔真似をしたりする。
「アマ君って別に暗い子なわけじゃないのにね」
「えっ?」
「友達、ほんとはいるんでしょ」
「おらへんねんけどなあ」
稲荷大社の本殿への道が記された看板に従って、ぼくと安曇野さんは山を下る。帰り道なはずなのに、どんどん山の深くにまで入って行く気がするのは、狐につままれたからだろうか。安曇野さんも「なんか変な山」と言って、ぼくと同じように辺りをきょろきょろと見渡している。
「じゃあ、なんでいないの?」
「わからん、性格が悪いんちゃう? 知らんけど」
「まあ、一理ある」
「そんなまだ性格とかわかるほど安曇野さんと喋ってへん」
「そんなこと言うからだめなの」
「へえ」
いつの間にか、ぼくたちを覆う木が少なくなっていた。夏の日差しが蘇る。民家のような建物の白い壁が、夏の日差しに照らされて、水分などからきし無いような印象を持たせる。
「安曇野さんは友達多いん?」
「少なくは……ない」
「なにそれ」
「いるいる。超いる。私性格いいから」
「まあ、うちにもすぐ溶け込んでたなあ」
「そりゃアマ君のお父さんが凄いんだと思うけど」
「あれは、まあ、アレやけど」
「まあ、世の中、わかんないことだらけだし、わかろうとするほうが難しいからね。わかんない人もいっぱいいるんですよ」
「突然なにそれ」
「ん? なんか、言ってみたくなったの。それっぽいこと」
ようやく山を下りきって、自販機で缶のコーラとアクエリアスを買って、ぼくたちは本殿の前を横切り車へと向かった。「結局、鳥居が無いことしかわからなかった」と安曇野さんは言って、そしてため息をつくのかと思いきや、コーラの缶を、ぷす、と開けた。
「こういうとき、たばこ吸いそうなのに。安曇野さん」
ぼくの言葉に、安曇野さんは、ふん、と笑った。
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