第2話(1)せっかくの夏休みだしガリガリ君を

(二)


「ソーダ味って言われても、結局ソーダってなんだかよくわからないね」


 安曇野さんはそう言って、コンビニエンスストアで買った氷菓の袋をぺりぺりと破り始めた。その様子を見て、ぼくも自分の分の袋を開ける。この暑さだと袋を開けた瞬間に溶けてしまうんじゃないかって思っても、そんな僕の心配はよそにして、袋の中から覗かせる「ガリガリ君」は、鼻の先をひんやりとさせる香りを放っていた。

「コーラだって、なんかわからへんやん」

「コーラはコーラなの。わかる?」

「わからん」

「ガリガリ君」の、その色は空の色でも水の色でもなくソーダ色である。夏の陽の光を反射して、じめじめした空気を、一瞬で冷やして、ひんやりとした空気を放って、そして溶けた液を安曇野さんの細い指に垂らした。

「だって、クリームソーダのソーダは緑色じゃない?」

「うん」

「コーラはコーラ色で一緒でしょ」

「それは理屈になるん?」

「理屈なんて結局は誰かの思い込みの集積なの。覚えておきなさい」

「そんなん言われてもなあ」

「同じ理を共有してる人にしか通じないものなの、理屈って。私の理に屈しなさい」

 アイスキャンディーの先端がぼくに差し向けられた。安曇野さんは、そのぼくに差し向けたソーダ色のアイスキャンディーをそのまま自分の口に持っていき、一口齧り、しゃりしゃりと音を立てて噛んだ。

 宇治山のふもとの、少し寂れたコンビニエンスストアの前で、ぼくと安曇野さんは二人並んでアイスキャンディーを食べた。山が近いからか、不思議と暑さの種類が変わったような感覚で、じりじりと詰め寄ってぼくたちを追い込んでしまうような市内の暑さとは違って快適だった。

「変な街。『ガリガリ君』は私の住む世界と一緒なのに」

「味もパッケージも?」

「パッケージが若干違う気がする」

「ふうん」

「このチープさは、同じ。食べたあとの、目と鼻の間が、きゅーっ、とする感じとか。少しねっとりしていく口の中とか。唇がちょっと痒くなるとことか」

 安曇野さんは、そういってまた一口アイスキャンディーを齧る。少し明るい色の唇が、ぼくの知らないような色っぽさで、やはり安曇野さんは別の世界から来たらしい、となんとなく思って、並んで立つその間に浮かぶぼくの影が、少し歪んで見えた気がした。



 お姉さんは「安曇野ナツキ」と名乗った。ぼくは彼女を「安曇野さん」と呼ぶことにした。

 わからないことばかりだけど、わかったことが一つある。

 安曇野さんはどうやら、別の世界から来たらしい。

 別の世界ってなんなんだ? って。それは例えば地球の外とか、火星だとか月だとか。あと、時間が違うとか、過去とか未来からとか、そんなのならわかりやすい。でも、安曇野さんの住む世界は、そんなわかりやすいものじゃなかった。

 安曇野さんの住む世界にも京都はある。賀茂川は北から流れてきて鴨川になるし、鴨川デルタではカップルが飛び石を飛び越えているし、出町柳では豆餅が売られているし、伏見稲荷の近辺ではスズメが丸焼きにされている。

 だけど、少しずつ違うところがある。

 京都盆地の南に連なる山を見て、彼女は不思議そうな顔をした。「京都盆地の南に山はないはずだ」と彼女は言っていたが、そうはいえども南には大きな宇治山というものがそびえ立っているのだ、ぼくの住む街では。

「あんな山があったら奈良にも大阪にも行けない」

 はて、と思ってぼくは安曇野さんに尋ねた。

「どこ? それ」

 そのときいよいよ安曇野さんは、たいへん不味そうなご飯を食べたような顔になった。

 ぼくは京都の山の向こう側に何があるか知らないし、そんなことなど気にしたこともなかった。父親にも母親にも聞いても、さあ、と答えるだろう。誰もが気にしないことである。全ては京都で終わっている。そもそも、その山の向こう側に何かがあるなんて、思いもつかなかった。

 安曇野さんは、京都の山々を超えた先にもたくさん世界が広がっていると言う。人は電車や車に乗って、京都の向こう側へ行く。なんだその世界観、と思ったけど、安曇野さんにとってはそれが普通のようであって、おかしいのはお前の方だと言わんばかりの口調でぼくを責めた。

「そんなん、世界広すぎやん」

「京都が狭すぎるの。日本には一億以上の人間がいるの」

「は? 多っ」

「いや、なめてんの?」

「てか、地球には京都しかないやん」

「なにそれ? 馬鹿じゃないの?」

 安曇野さんの話す言葉には初めて聞く単語ばかりで、それが聞こえてくるたびに会話の歯車の間に何かが詰まって、がたん、と音をたててそして動きが少し止まる。

日本とか、奈良とか、東京とか。初めて聞く地名にぼくは気持ち悪さを覚えていって、どんどん歯車の動きが鈍くなって、とうとう油が切れたとき、安曇野さんは、はあ、とため息をついた。

参りました、のため息だ。でもその眼は負けを認めてはいなかった。



 そうこう、どうしようもない問答を繰り返していると、京都駅の近くにとってあるというホテルに電話すると言って、安曇野さんはぼくから携帯電話を借りた。安曇野さんの持っている携帯電話(スマホと言うらしい)は圏外で使えなかったというのに、ぼくの携帯電話の電波はしっかり三本立っていた。

 しかし、安曇野さんの取っていたというホテルには連絡がつかなかった。後に調べてわかったことだが、そんなホテルなど京都には存在していなかったのだ。安曇野さんはそれを聞くと知ると、なんだか指の先から硬くなっていった。

「なんか、まだ実感が湧かないんだけどさ」

「うん」

「そろそろ、やばいって思い始めなきゃやばいのかなーって」

 いよいよ安曇野さんの硬さが口元にまで及んだときのことだ。見覚えのある車が、のろのろとぼくのほうへと近づいてきたのである。ルノーの黄色い、カングーだ。

 短いクラクションが、ぼくたちの周りにまとわりつくような空気を一瞬で払い飛ばした。そのときのぼくと安曇野さんの表情には少々違いがある。安曇野さんは「なんだ?」っていう、少し見せ始めた疲労の色の上に、純粋な疑問の表情。そしてぼくは「不味い」という、苦虫を口の中に放り込まれたような表情だ。

 そして、車はぼくたちの前で止まると、うーん、と音を立てて窓を開いた。そして、仲から、にゅっ、と顔を出したのは、短い金髪の目だった、髭の生えた中年の男。

「なんや、アマヒコ。サマーバケーションやんか」

 そんな、わけのわからん言葉を発するのは、残念ながらぼくの父である。


 ぼくの家はこの近くで十年近く続いている喫茶店である。父はそこの店主をやっている。

「(500)デイズ」という一見まるで意味のなさそうで、知ったところでなんの意味もないような名前で、一応父にその由来を問えば「三百六十五日と言わずに五百日来てくださいって意味や」という、これまた世界の道理を飛び越えた厚かましいお願いでしかなく、この父は気が狂っているとぼくは思った。

 平日と土曜の朝から夕方までしか営業しないようなお店であるが、毎日近くで働くおじさんやおばさんたちで賑わっている。別に料理が美味しいというわけではないと思うのだけれど、なぜか人はよく集まる。ときたま父と話すためにわざわざ厨房に人がやってくることもあるぐらいである。確かに父はこの街ではかなり特殊な人間で、怖いもの見たさでやってくる人がいても無理はないと思う。好意をもって来ているとしたら、その人の価値観は間違っている。

 父は近所では有名な破天荒おじさんである。

まずおかしいのはその見た目。こんな京都の南という辺鄙なところではいやでも目立つ短めの金髪は、四十代としての威厳というものがまるで感じられない。おまけに短いひげまで染めているという徹底っぷりには恐れ入る。背丈も無駄に高くて百八十は余裕で越えてしまって、その目立ちっぷりに磨きをかけている。服装もなにか信条でもあるのだろうか、上下ともに必ずデニム生地である。

 見た目だけでもちょっと授業参観などには勘弁してほしい風貌なのだが、その行動も参ったと言わねばならぬものである。

毎朝起床するのは午前四時で、小学校の頃からやっていたという剛柔流空手の形をすることから一日を始める。朝八時に店をオープンさせてからの仕事っぷりはというとこんなもんである。

注文されてコーヒーを淹れる、料理を作る、飽きる、客と談笑する、おもむろにチャイを炊いて配り始める、般若心経の口笛を吹いて厨房に戻る、いつの間にか母が店を切り盛りするようになる。

休みの日にはルノーのカングーに乗って朝早くから忽然と消えて、帰ってきたと思えば出町ふたばの豆餅とヌートリアを車に積んでいる。

 何をしでかすかわからないし、どんな経験があるかもわからない父は気さくでフットワークが軽く、そして常識など軽く上段蹴りで蹴っ飛ばしてしまう豪快さがあって、どうしてだか近所からの人望も厚い。「アマヒコ君のお父さんは凄いね」とお客さんに言われたことがあるけれど、本当にすごいのはこんな父に合わせることの出来る母であるとぼくは確信している。

 

  そんな「火を見ればとりあえずテキーラをぶっかけろ」みたいな根性の父のことである。安曇野さんという、普段ぼくが関わることのないようなお姉さんを見かけたときはさぞかし心が躍ったことだろう。あとで聞けば「ニューウェーブの時代が来たと思った」と言っていたがまるでよくわからない。父は、安曇野さんをみとめると、にやり、と笑った。

「どうも。うちの息子がお世話になってます」

「はあ?」と、安曇野さんなら絶対言う、と思ったけど安曇野さんも安曇野さんで、ひ弱そうな少年の父親が欧米人のような金髪のおっさんだということに少しばかりは驚いたらしく、きょとん、と表情を数秒前から停止させたままだった。

「いやー、ウチの息子はほんまになんかもう、こんな美人さん連れるようになるとなると、親父としては言うことなしやな。ええ話やで、ほんま」

「ちょっと待って、変なこと言わんといてや」

「変なことあるか。美人や。めっちゃ好みやもん。お姉さん綺麗やわー。ほんまに。チャイとか好き?」

「なんでチャイやねん、アホちゃうか」

「お前チャイ馬鹿にしてるから童貞やねん」

「関係ないわっ!」

「いーや、関係あるわ。そういうとこやぞ、ほんま。あっ、ほったらかしにしてすんません。いやー、ウチの息子ねえ、ええ奴なんですけど、いかんせん根性なしでねえ、ご迷惑おかけしてませんでした?」

「い、いえ――。あの、あなたは?」

「あっ、申し遅れました。アマヒコの父やってます。ウミヒコ言います。どうもどうも」

「あっ、安曇野ナツキです」

「ええ名前やな。ナツキって名前には美人しかおらんねん」

「なんやねんそれ。ちょ待って。安曇野さんはさ、あの、困ってはんねん!」

 この父は、どうしようもない会話をこのままだらだらと続けるに違いない! と思い、ぼくは思わず大きな声を出してしまう。しまった、と思った。父の目はきらきらと輝いていたからだ。

「ほう、言うてみい」

 父の面白いことセンサーが反応した証である。

「あの、私、なんだか別世界から来たような感じでして――」

「別世界」

 安曇野さんが困ったような表情になった。父が窓から、にゅっ、と一つ顔を伸ばしたからである。妖怪と見違えてもおかしくはない。

 そうこうしてると突如として父はカングーの後部座席の扉を開けて「まあ、店で茶でも飲んでいき」と言った。あからさまに怪しい男である。百八十センチの父に背中を押された安曇野さんは、はあ、となんとなく断れないような圧を感じたらしく、車に乗り込んでしまう。何もかもに違和感があるこの状況に、ぼくの喉の奥では不快感が盛大に踊っていた。

 そうこうしていると車は走り出してしまう。車内には、ジョンレノンの歌っている「スタンドバイミ―」が流れていた。

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