第1話(2)コカ・コーラは瓶で飲む方が良い
「この辺りの子? なんか今日電車休みとかあるの?」
ぽかん、と頭を殴られたような気がした。この十数メートルの距離に、ぽっかりと空白が出来てしまったような感じで、ぼくは少しお姉さんから目を逸らして、はあ、と呟いた。
「はっ? えっ、電車? 電車なんて、こーへんよ」
「えっ?」
その瞬間、急にアブラゼミの鳴き声が耳に響いた。今まで、どこか別の空間にいたかのように、その一瞬の間に、ぼくはもとの空間に戻ったかのように思わせる鳴き声。そして、また別のセミの鳴き声が聞こえてくる。
「来ない、ってどういうこと?」
「ぼくは電車が走ってんのなんか、見たことないし」
ぼくのその言葉にお姉さんは、顔の表情筋を全部使って「何言ってるんだこいつ」と表明した。しかし、ぼくもこのお姉さんがなんでそんな顔をしているのかわからず、相変わらず頭の上の方で、ぽんぽん、と何か軽いものが弾けるような音がする。セミの鳴き声とともに、じんわりと一段と暑い夏が駅のホームに広がっていく。時折線路の上を駆け抜ける風も、今となっては心許ない。
「見たことない、って。あんた、中学生でしょ? なに? ずっと塔の上にいたの? 五重塔とか」
「お姉さんこそ。電車なんか、見たことあらへんでしょ」
「いや、昨日も電車で京都駅まで来たっての。東京の人だからって、馬鹿にしてるんでしょ。生意気。中学生? 京都の中学生ってこんななの? ムカつく」
お姉さんはそう言って、ぼくの方へと一歩、そしてまた一歩と近づいてくる。本当に一歩なんだろうか、と思うぐらい、お姉さんが近づくたびに視界に映るその姿が大きくなる。圧力、だ。めっちゃ怖い、そう思って顔を背けた。
いつの間にか一歩後ろに下がっていたぼくの無意識の行動は甲斐がなく、お姉さんは、すぐ近く、一メートルのところにいた。
そのとき感じたお姉さんの印象は、やっぱり大人の人だ、というもので、胸のふくらみも、腰のくびれも、きちんと化粧のされた顔も、ぼくの鼻の奥底をくすぐって、お尻の辺りに力が入る。お姉さんはため息をして、そしてぼくを、ぎろり、と睨みつけた。
敵意や悪意とは少し違う。「こいつを負かしてやろう」なんて、もっとタチの悪い眼差しである。
「私に喧嘩を売ったのは後悔すべきだね、少年」
でも、ぼくはそんなことを言われてもどうしようもなかった。
本当に、この街には電車は走っていないのだ。駅というものは確かにあって、誰もが電車というものがどういうものかは知っている。でも、誰も電車が走っているのは見たことが無いし、駅に人がいるなんて滅多にない。いたとしたら遊ぶ子供か、お姉さんぐらい変な人だ。
ぼくに詰め寄ってくるお姉さんにそんなこと言っても、お姉さんは「そんな馬鹿なことがあるか」の一点張りだった。
「はーっ、今朝もJRで稲荷駅まで来たの。それでもう走っていないなんて、馬鹿なことがある? ストライキするんだったらもっとこう、あるじゃん、社会的にさー。日本ここまで終わってないよ。ねえ、そうでしょ」
「いや、だって電車で働いてる人なんていーひんもん」
「じゃあ、中川家のモノマネはどうなんの!」
「中川家って誰?」
「最近の中坊はお笑いがわかってない! 少年、関西人でしょ。関東人の私が関西人よりお笑いに詳しくてどうすんの! しっかりしろっ!」
「へっ、へえ?」
そんな言い争いをずっとしても、なんにもぼくにはわからない。お姉さんの言葉は、なんだか水たまりに油が注がれたような気持ち悪さがあって、聞いていると乗り物に酔ってくるような心地がしてしまう。
夏の暑さでやられたのだろうか、と思ってお姉さんを見ると、言い争いが続くうちに、お姉さんも先ほどの威勢の良い顔つきから、どんどん、喉に何かが引っかかったような、心地悪そうな顔をしていた。
お互い、何か異なる世界からやっきたような、そんな感じで、ぼくとお姉さんの会話は食い違いだけを生み続け、頭の中に消しカスみたいなものが溜まっていく。
「はあ」
そして観念したように、お姉さんはため息をついた。
「京都は暑いしロクなことがないね」
思わず、うん、と頷いてしまった。
「そこは同感なんだ。ねえ、コカ・コーラの自販機この辺りない? コーラが飲みたいんだけど」
遠くのほうで相変わらずセミは鳴いている。屋根と屋根の隙間から見える空は、いつの間にか背伸びしてしまうほど高かった。
近くの自動販売機にお姉さんを案内することになった。改札を抜ける際に「なんで機械止まってんの?」とお姉さんは気味悪そうな顔をした。動いてるとこなんて見たことない、と言うと、またお姉さんは苦虫を噛んだような顔をした。きっと苦虫は口の中でぐちゃぐちゃになっているに違いない。
自動販売機は駅から出てすぐのところにあった。その色を見ただけで不思議とその会社を思い出してしまうような赤の自動販売機である。慣れた手つきで小銭を入れて、手を伸ばして一番上の段のボタンを押す。がたん、と音をたてるとなんだかすぐに取り出さなきゃいけない気分になってしまう。赤いラベルに、なんとも形容しがたい茶でも黒でもない色のコーラがぎっしりつまったペットボトルをお姉さんは手に取って、ぷす、と必要最小限の音をたてて蓋を開ける。
「飲む?」
一口飲んで、ぷはあ、と別に溜めてもいないはずの息を気持ちよさそうに吐いて、口をぬぐって、お姉さんはぼくにペットボトルを差し出した。濡れた前髪から水滴が、鼻の辺りにしたたり落ちた。
「瓶だと思って飲むといいよ」
「えっ?」
「瓶のコーラ、飲んだことないんでしょ。どうせ。若者は。覚えておいて。瓶のコーラや瓶のジンジャーエールは最高。最も高いって書くの。凄くない?」
思わず、ぼくはペットボトルを手に取ってしまう。
口をつけても、いいのだろうか。
まず考えてしまったのはそんなことで、思わず恥ずかしくなって、蓋に手をつけることすらためらった。でも、ここでどきどきしているほうが、ガキっぽいというか童貞っぽい、いや、こんなこと考えるのが童貞っぽいのか、とか考えてどうしようもない。童貞なんだが。
そんなぼくを放って、お姉さんはポケットから小さなゲーム機のようなものを取り出して、画面をぺたぺたと指でなぞり始めた。なんだか自分だけ舞い上がっていたような感じがして思わず顔が熱くなって、頬に流れる汗がようやく冷たくなる。さっきまであんなに暑かったのに。
何をしているのだろう、と思っていると、そのゲーム機にはボタンがなくて、画面があるだけだというのがわかった。その液晶画面には透明なカバーが装着されていて、林檎のマークが描かれている。
なんだ、あれ。
「やっぱ圏外じゃん。ダメねぇ。京都」
お姉さんは「こんな街中でも圏外なの?」とぼくを睨んだけれど、ぼくは何も悪いことなどしてないはずだ。ただちょっと怖かったので、ごめんなさい、と呟いた。そして、ふとお姉さんの触っているのが携帯電話らしい、ということが薄々と分かってきた。
「それ、携帯?」
「えっ、あんた、スマホ見たことないの?」
「スマホ」
「ねえ、ほんとにあんたこの時代の子? キツネが化けたとか?」
お姉さんは、ぎょっ、とした。
「スマホも知らないの?」
「携帯って、これしか知らんし……」
ぼくが自分の携帯電話を取り出すと、お姉さんは、目をぱちくりさせた。
「なにそれ、古臭い」
「古いってそんなん、最新機種やで?」
「時代の進歩は凄いの。いつの間にかプレステもフォーまで来てるんだから。だいたいフォーが出たのももしかしたら数年前とかかも。怖いね、ほんと」
「まだツーまでしか出てへん」
そしてお姉さんとぼくの間の空間は、ぽかん、と音をたてて広がって駅を埋め尽くしていく。
お姉さんは、線路の奥をずっと眺めた。その先には何もない。ぼくは、未だに蜃気楼とかそういうものがどういうものかは知らない。ただ、古臭い住宅街と雑草がぱらぱらと乱雑に並んでいて、別に風情なんてもなくて、ただ夏の空と一緒だと、不思議と「そういうもんだ」と納得するものがあった
「ねえ、あっちって南じゃん?」
お姉さんは線路の先を指さした。ぼくは、こくんと頷いた。
「どうして、京都の南に、山があるの?」
「はっ?」
「京都盆地は南には山がないはず。どうして、山が南の方にも見えるの?」
セミの鳴き声が、そのときはどうしてだか、ぼくとお姉さんの間を埋めることなく、別々の空気を通って伝わった。お姉さんは南に連なる山々を見て、ぼうっ、と口を開いている。濡れた髪から、また水滴がひとつ、ポロシャツに染みを作る。
「ねえ、コーラ。返して」
「あっ、はい、ごめんなさい」
「コーラは、いつもの味なのにね」
「そ、そうですねえ」
「ちょっと、暴力的な感じの炭酸」
「はあ」
「コーラ、好き?」
「す、好きやけど……」
「私も好きなの。だって、コカ・コーラだから」
ぼくとお姉さんの間の違和感。どうしてか、ただ話しているだけなのにすれ違いが生じてしまう。
ふと思った。お姉さんは、きっと別世界の人なんだって。
どうしてだかわからないけれど、お姉さんはぼくと違う世界からやってきたんだって。
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