第1話(1)コカ・コーラは瓶で飲む方が良い

(一)


 京都の夏はクソ暑い。

 熱い夏、なんて爽やかに言ってのけるのは、青春の汗を流す高校球児とか、冷たいビールを飲んでる水着のお姉さんとか、そんな人たちだけで、ぼくにとっては、夏なんて、ただただ蒸し暑くて、うざったいものでしかない。大っ嫌いだ。夏なんて。

 それだけ、京都の夏は暑いのだ。

循環することなく、日が昇るにつれて地上に蓄積されてって、風ですらそれを押し飛ばすことは出来ない熱気。身体を冷やすという本来の目的を忘れ、通気性というものをなかったものにしてしまってむわむわする汗ばんだシャツ。アスファルトやコンクリート、電柱の黒と黄色の縞々に照りつけられて、そしてそこから反射してぼくにめがけて集中的に熱を放出する陽射し。いじめだ。ぼくは夏にいじめられている。

 暑い。それで、踏切の上はなぜか特に暑い。

線路の方を眺めると、住宅街の錆びのついたトタン板や黒ずんだ木の壁が、暑さのせいかぐにゃりと曲がって見えてくる。多分、この線路の上には何か熱気が溜まるのだろう。実体はないけど、そこを通すともやもやと景色が霞んで見える。

暑い。クソ暑い。こんな、何もない住宅街なのに、ただ、暑さだけが溜まってる。


 ぼくと安曇野さんが出会ったのは、そんな夏のある日、八月一日のことだった。


夏休みが始まっても、ぼくは何も嬉しくなかった。

いや、居づらい中学に行かなくてもいいというのは嬉しい。でもそれだけで、別に友達もいなければ予定もない。ただただ、退屈な日々が、むき出しになって現れるだけだった。

むき出しになった日々に、じりじりと陽射しが差すのは痛い。だけどそれを覆うものがぼくにはないのだ。だから家に引きこもって、小説を読んだりする。それだけで良かった。

別に、なんにもなくていい。

なんにもない方が良い。むき出しの人間は弱い。ぼくが外に出たっても、きっと転んで傷を負うだけだから。外に出ることが出来るのなんて強い人間だけだ。例えば防具がいっぱい揃っていて、それだけでなく元々のHPも高いような、そんな人たち。それか、傷を負う前に勝っちゃうようなそんな人。ぼくはどちらでもない。ただただ体力も防御力もない弱い少年なのだ。少年って言っていい歳なのかわかんないけれど。

そうしてぼくは夏休み籠城計画を決めた。外に出ない。日焼けする心配もない。ただ毎日、起きて、ご飯を食べて、寝て、起きて、本を読んで、ご飯食べて、寝て。別にそれでぼくは満足なのだ。旅に出なくても、誰かと、戦わなくても。


まあ、いつ世界が滅んだとしても、いいんじゃないかって、そんな風に思ってた。

 でも、その日は、なぜだろう。外に出ようって思った。

 何かに導かれたのかもしれない。そんな、オカルトみたいなことがあるって知らない。

 でも、なにか、窓から、ふわっと風が吹いたような気がした。

 ああ、なんか、このぼくの日々が、いつ終わっても本当にいいのかなって、怖かったのかもしれない。



ごめん、暑かった。

毎回後悔している気がする。毎回思い知ってる気がする。京都の夏はクソ暑い。

結局うろうろと近所を歩いても何もない。財布を忘れたからコンビニでアイスを買うことも出来ない。いつの間にか歩いている道は帰路になっている。アスファルトの焼ける臭いのする、雑草も腐っていくような臭いのする、日陰に入ってもむわむわと熱気がぼくを包む、そんな帰り道だった。

 ぼくは足を速めた。速めるとなんだか汗がさらに出るような気もするが、止まっていても汗は出続けるので仕方ない。家に帰ろう。どうして外なんかに出たのだろうか。歩道の白いブロックの上を平均台のようにして歩く、アスファルトを踏むよりは涼しくなるだろう、って勝手に思った。実際はそんなことは全くなくて、暑さは歩くほどに増すばかりで、線路に沿って生えていた雑草が、頼りなく少し風に揺れた。


 その道を通りかかったとき、違和感があった。

はて、と思った。誰もいないはずの伏見稲荷駅に、人影があったのだ。

 踏切から見える駅のホーム。なぜか朱色の柱が立っていて、荘厳な神社の趣を出そうとして逆にチープな印象を与えてしまっている可哀想なホームだ。でもそのチープさにどこか哀愁というか、ノスタルジーのようなものを感じてしまって少し可愛い。十四年しか生きていないのに、ノスタルジーってなんなんだ、って思うけど。

 誰もいないはず、いても、意味などすらないホームに、細身でショートヘアの大人の女の人が立っていた。

 ぼくは、固定カメラで撮影された映画を見るように、首も視線も動かさずその女性を見つめた。彼女がいるだけで風がどこからか吹いてくるような、不思議な雰囲気のある人だった。伏見稲荷駅のホームが、映画のセットの一部になってしまったようだった。夕方の、すうっと鼻をくぐりぬけるような風が吹いた。彼女の黒髪は、ふわりと揺れた。

 

少し、近づいて見たくなった。カメラがズームになるように、ぼくはゆっくりと駅のホームへと足を進めた。改札とホームは一直線で繋がっている。もっとも、改札なんて機能しているはずはなくて、ただの開いたまんまのお寺の門みたいになっている。

 いつの間にか、気が付くと改札を抜けていて、ぼくも駅のホームに立っていた。向こう側のホームには、「伏見稲荷」と駅名が書かれた看板が屋根の影に隠れてのっそりと立っていて、日向になっている銅色に輝く線路と比べると向こう側はたいへん暗く見える。陰の世界と日向の世界と陰の世界と三つ別々にあるようで、向こうのホームは随分と暗い。こちらのホームに立っていた女の人、いや、お姉さんと言うべきか、は、ホームの自動販売機の前で屈んで、もぞもぞと自動販売機の中から何かを取り出している。

 お姉さんは、すらっとしていて、身長はきっとぼくより高い。黒のショートヘアと、はっきりと光を弾く白い肌が対照的で、そして睫毛と目の黒が濃い。ちょっと負けん気の強そうだな、って思う。白のポロシャツに、オリーブ色のロングスカートを合わせていて、そして革で出来たベージュのリュックを背負っている。

 美人なお姉さんだ、とそのときは単純に思った。胸の、決して大きくはないけど確かにある膨らみに、少しどきりとした、ごめん。

背筋が立っていて、その姿勢の良さが、もう社会の良しも悪しもわかってます、なんて言っているような気がする。確かに距離を離れて立っている。でも、その距離は、実際のその十数メートルよりも、なんだかもっと離れて見える。

 

そして、お姉さんは線路の方へと向き、買っていたペットボトルの蓋を開けた。多分、クリスタルガイザーだ。そして、水を一口、口に含む。華奢な首の喉のあたりが少し動いた。

 ぼくは食い入るようにお姉さんを眺めた。きっとなんでもない仕草なのに、その素振りはいちいち格好良くて、目が離れない。きっとお姉さんが、ため息をつくだけで、小説なら一ページも描写に使われるんじゃないかって本気で思ってどうしようもない。

お姉さんは、ペットボトルを口から離した。もう一度、口につけてはくれないだろうか、なんて思った。どういうわけか、両手を握りこぶしにして、脇に力を入れて、ぼくはドキドキしていた。


 そのときだ。

その瞬間、全ての光景が、コマ送りになってぼくの目に届いた。

 お姉さんが、ペットボトルを顔に近づける。

 お姉さんが、そのままそれを太陽に掲げる。

 お姉さんが、頭上にペットボトルの口を傾ける。

 そして、水が、ざーっ、とお姉さんの頭にかぶっていく。

 えっ。

 えーっ。

 ペットボトルの水は全てお姉さんの頭に注がれた。お姉さんのその黒髪は濡れ、そして白いポロシャツには灰色の染みが散りばめられる。

 水しぶきが、駅のホームのアスファルトに散らばった。きらきらと、陽の光をどこからか集めて、輝き始める。そこだけ、世界が変わった。そう思った。


「暑いっ!」


 お姉さんの声は、女性にしては力強い、芯のあって伸びのある、潔い声だった。

「ねえ、そこの少年。少年もそう思うでしょ」

 そのとき、ようやくお姉さんがこちらに向かって話しかけていると気づいた。お姉さんの、色の濃い瞳がこちらをじっと見ていた。

「夏はやっぱり激しいほうがいいけど、ここまでくると暴力でしょ。夏の暴力。夏が私たちに向かって、わーっ、って」

「は、はあ……」

「だったらこっちも徹底抗戦しないとダメ。暴力なんかに屈してはならぬ。負けてたまるもんですか、夏なんかにね!」

 お姉さんはそう言って、水で濡れた黒髪を手櫛でさっと整えた。この、ねっとりと顔にまとわりつくような暑さ。じりじりとゆっくり焦がしていくような暑さ。そんな暑さに抗っていくほどの爽やかさだった。不思議と、ぼくの喉の渇きも潤うような心地だった。

「ところで」

 お姉さんはぼくをまた見つめた。

「電車、全然来ないんだけど」

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