バトンをください




 記録会が終了した。結局私は、五本目に4m79を跳んだだけで後の二本はファール。そこまで満足した跳躍を残せずに五位になってしまった。

 ダウンを済ませて、三人の元に戻るとハゲたおじさんが九条先生の前に立っていた。


「君達が陸上部入部希望の一年生ですね。私は校長の二階堂です」


 四人揃って挨拶を交わす。この人が陸部を潰そうとしてる悪い先生か。悪い先生っていうのは言い過ぎたかな。それでも、私は静かに話を聞くことにした。


「中村さんは、非常に素晴らしい成績を残してくれました。氷見さんも、もし今年インターハイ路線に出場していれば、という悔やまれる成績ではありますが…………存続は認められませんね」


 褒めてるのにどうしてけなすような事をするんだろうか。栞里や莉沙mじゃなくてやっぱり私の成績が悪かったのか。


「芦野さんの成績は1分3秒27。確かに陸上を初めて初レースと言う割には良い成績を出してはいますが、来年全国が狙える程の選手なのでしょうか。全国大会に進む資格を得る南関東大会6位、今年の6位のタイムは57秒89だそうで。六秒なんて縮まるはずもありません」


 莉沙が何か言いたげな顔をしているが言い出せずにモジモジしている。その間に私の話題になり始めた。


「藤堂さんは4m98。南関東6位が5m67と言う事ですが、彼女は経験者。それなのに南関東大会にすら進めないような成績を出されるようでは存続について首を横に振らざるを得ないのはここまで話せばおわかりいただけたと思いますが」

「────美郷はいっぱい練習してるんです!麗華さんだって!! それなのにそうやって人の事勝手に決めつけるのはおかしいと思います!」


 栞里、ありがとう。本当にありがとう。ちょっと泣きそうになってきた。


「今までの努力ではなくこれから採算が取れるか、それを私は見ているんですよ」


 悔しくなって唇を噛む、血が少し垂れてきたけどそんなの気にしない。こんなの、悔しすぎる。



「やはり、即戦力になる程の選手が集まったわけではなさそうですね」



 あのムカつくハゲが、知ったような顔で私たちの前に立っている。思いつく限りの悪口を心の中でぶつけながら、私は何度も何度もぶつけてやった。顔に出てたのかもしれない、校長先生が私の前に立っている。ずっと立っている。ちょっと嫌になってきたので三ミリくらい後ろに下がった。


「それで、君達としては何かあるかな?」


 何を言ったところで決定を覆すことはない、そんな感じで言いたそうな顔をしながらこっちを見ている。栞里は、申し訳なさそうに俯いていた。いや、一位を取った栞里が申し訳なさそうにしないで欲しい。

 芦野さんだって、陸上自体初めてなのにそれにしては良いタイムで走っていた。

 氷見さんなんか、栞里のお父さんに「あと少し磨けば全国タイトルなんてほしいままにできる」って言われただけあって、とてもいいタイムと順位だった。


 じゃあ、私は?

 何も誇れない結果。このままじゃ県大会で予選落ち。そんな選手はいらないと校長先生は言ってるのだ。

 陸上は結果が全て。そんな事は始めた時からわかっていた事だった。

 そこに出た数字が、全てを決める。だからこそ美しい。そう思っていたはずなのに、どうしてその思いを今は飲み込めないんだろうか。



「九条先生、きちんとお話ししてくださいね、全部員の前で」


 校長はどこかに歩いて行ってしまった。そこに残ったなんともいえない空気を、誰も拭い去る事なんて出来なかった。うん、この空気は盛り上げようの無いやつだ。






「皆さん、二日間お疲れ様でした」


 事前の校長先生との話を思い返して、本当に吐きそうになってきた。私が将来性を示せればまだチャンスはあったのかもしれない。

 九条先生の気遣いで、私達もミーティングに参加している。と言っても、なんか心が苦しくなってきた。


「県北記録会は、ここで引退する選手も、インターハイを控えている選手もいると聞きます。清鳳学院高校陸上競技部は、本多先生が定年で退職されるまで……輝かしい成績を上げてきたことも聞いてきています」


 九条先生の声がとても平坦だった。なんかみぞおちのあたりがキリキリする。栞里が少し肩を震わせていた。


「今回の大会でも、清鳳学院の、水色のユニフォームは十二分に強さを象徴していたと思います。それこそ、埼玉の常勝校として、見られていたのかと思います。ですが、今の顧問は、私です」



 先生の声が突然詰まった。



 さっきまで平坦な口調で喋っていた先生が、言葉を詰まらせている。いつも明るい先生が、下を向いて顔を上げられなくなっている。

 ああ、この後の話が分かるから、怖いのかもしれない。そう、怖いんだ。



「私は、十六年間を剣道につぎ込んできました。教師になって今、2年目の23歳です。そんなわかい私には……陸上のことなんて、わかりませんでした。一年目の時は今の三年生とぶつかってばかりで、わたしなんか、とてもこの大役に当てはまるものじゃない。どうして、剣道部じゃなくて全く触れたことのない陸上部の顧問なのか。ずっと考え続けてきました」


 みんな静かに、先生の話を聞いていた。でもせめて、前を向いてほしい、なんて私は思ってるけど……


「陸上って、ただ走るだけだとしか思ってない自分がいて、でも皆さんと関わるにつれて、これほどまで過酷で美しいものはあっただろうか。そんな風に感じていました」


 息を呑みながら、言葉を引きずり出しながら、先生は必死に話していた。その必死さは、私の心を無残にも引き裂いていく。ここまで心が痛くなったことがあっただろうか。


「…………わたしには、この陸上部をっ、率いるほどの力がありませんでしたっ……こもんなん、だから、一人一人のはなしをきい、て、もっと自分の力を発揮させてあげなきゃいけなかった。なのに、わたしは何もしてあげられなかった、職員会議の時だって、声を上げるべきだったのに!!!」


 いつも朗らかな九条先生が、両膝を震えさせながら泣きじゃくっていた。メイクが全て落ちてしまいそうなくらいにはものすごく泣いていた。


「ごめんなさいっ……力のない先生で、本当にごめんなさい…………」






 その場がずっと静まっていた。周りはまだザワザワしてるのに。






「沼田、森下、上田、花山。こっちにおいで」


 優しいお爺さんの声がする。というか、少し離れたところにお爺さんが立っていた。

 真っ黒に日焼けした元気そうなお爺さんが先輩達を読んでいる。


「このノートを、読んでごらん」


 一人一冊、いや、森下先輩には二冊、何かのノートが手渡しされている。栞里は目を丸くしているけど、有名な人なのだろうか。いや、四人の先輩がすぐに従ったっていうことは……

 あれ。ポーカーフェイスがカッコいいはずの森下先輩が、ものすごく驚いた顔をしている。なんかすごいノートなのかな。

 ヒナタ先輩も、部長さんも震えている。すごく気になる────


「…………あっ、ま、まま、な、なんでですか……?!」

「すみませんね、九条先生。机の上に置いてありましたので拝見させていただきました」


 優しそうなおじいさん先生がニコニコしている。その先生が手にしたノートには、『T&F』と表紙に銘打たれていた。

 すごく気になるけど、どんなノートなのだろうか。『T&F』といえば、TrackField。つまり陸上競技の事だ。その関連のノートだとは思うけど……


「九条先生、私たちは先生のことをバカにしてたような気がします」


 上田先輩がゆっくりと話し始める。その声に二年生はおろか、三年生すら何も驚いていなかった。


「陸上の事も一切知らない先生が、私たちの顧問だなんて。そんな思いが根っこにあったから、いつもぶつかってばかりで先生を傷つけていました。でも先生はちゃんとした気持ちで向き合ってくれていました。それを見ようとせずに、ひどいことばかり言ってごめんなさいっ!」


 凛々しい顔をくしゃくしゃにして、膝に頭をぶつけそうな勢いで頭を下げている。その勢いでノートを落としてしまって、それでも先輩は震えながら頭を下げ続けていた。

 ノートがチラリと見える。


 身体が勝手に動いていた。先輩の足元のノートを拾い上げて、パラパラと見て────目が離せなくなった。

 その見開きページには、女子走幅跳の日本記録保持者、その跳躍の連続写真と一緒に、助走の流れや踏切、空中動作から着地までを事細かに研究しているページだった。

 書くことが足りなくて次のページ、さらに次のページまで行っている。

 練習法や、各所の動作に必要な筋肉を作る筋トレ。こんなに細かく書かれたモノを見たのは初めてかもしれない。


 ここまで研究できるのはなんというか……好きじゃないとできないと思う。

 嫌いとは言ってなかったけど、これはなかなか凄い。だからこそ残念に思────



「九条先生、二階堂校長には話をしておきました」

「………………と、言いますと?」

「逸材を四人、今すぐに手に入れられるチャンスを潰そうとするのか。一年育ててみるべきではないか、と」


 今度は生徒全員顔を上げていた。お爺さんの言っている意味がよく分からないけど、少しずつ目の前の曇りが取れていくような気がする。

 先生の次の言葉を待つように、表情の変化を見逃さないように顔を見た。


「インターハイの女子4継で、三位以内をひとまずの条件にしてもらった。これで、一年だけの問題ではなく部内全体で考えなくてはいけなくなってしまったが……それだけは申し訳ない」

「…………いえ、私達はベストを尽くすまでです」


 天海先輩のほんわかした顔が真剣な顔になっている。これ程までに大変なことがあるだろうか。

 全11ブロック、66校のうちの3位以内。精鋭中の精鋭がぶつかる戦い。先輩達に祈りつつ託すしかないのは申し訳なかった。


「ありがとう、天海。ここで突然で申し訳ないがオーダーを発表する」


 お爺さんって、これもしかして前任の凄い先生のことですかね、これ。今更、なんか状況を把握し始めたかもしれない。


「予選は天海と喜屋武を温存する。1走から中村、大貫、雪谷、上田。各区間、特に中村と大貫は三本通して同じ走順になるから、キチンと合わせるように。準決勝は雪谷の所に喜屋武、決勝は上田の所に天海を入れる予定だ。エントリー六人全員が走る事になるから、キチンと把握しておくんだぞ」


 インターハイのリレーでも、三本走る事をこの時点で考えている。常勝校とはまさにこんな感じなんだなぁ……って、しれっと栞里入ってなかった?

 栞里……大丈夫かな……あっ、ダメだこれ。表情変えないように頑張ってるけどこのオーラはダメ。ミーティング終わったらトイレ直行の奴だ。


「九条先生、私は定年の身です。ただの事務職員ですから、これからも顧問として頑張っていただく事になります。どうぞよろしくお願いします」


 前任だった先生の挨拶に九条先生がペコペコしている。あとであの先生にも話を聞いてみなきゃ、なんて思った矢先、栞里の頰に汗が一つ流れたのが目に止まった。


「それでは、今日はここまでにします」

「気をつけ、礼!」


 ありがとうございました、の号令と共に全員が顔を下げる。私が顔を上げた頃には、隣に栞里の姿はなかった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る