試技順1番、1回目の試技



 栞里がレース前にお腹を壊す気持ちが今なら分かる気がする。

 


 ハードルの並んだホームストレートを待機場所から見ていた。女子100mHハードルは3組行われてタイムレース決勝。莉沙は1組6レーンに入っている。

 同じ組の3レーンには清鳳学院の……漢字と読みが一致しない先輩が入っている。中学時代、沖縄から乗り込んできた天才ハードラーみたいな二つ名が付いてた、って莉沙が興奮してた気がする。

 大きな声で応援ができないので、というか緊張しすぎて気持ち悪くなってきたので、心の中で応援する。ごめん、莉沙。今度はいっぱい応援する。


 号砲と共に飛び出したのは4レーンの人、だけど三台目のハードルの時点でもう3レーンの先輩が前に出ていた。


『3レーンは清鳳学院の喜屋武きゃんさん、6レーンは同じく清鳳学院の氷見さん』


 地味に莉沙が追いすがってはいるが……莉沙が九台目の時、もう先輩は最後の10mくらいを走ってた。めっちゃはやい。おかしいと思う。

 そのままフィニッシュ。フィニッシュタイムは13”99だった。めちゃくちゃ速い。


 莉沙の結果も知りたいところだけど、助走路にいる補助員の人に準備するように呼ばれる。こうなったら、気持ちを落ち着けて自分の競技に集中するしか無い。

 競技開始のアナウンスを、静かに待つ。



『午後3時現在のグラウンドコンディションをお知らせいたします。気温31度、西向きの風1.3メートルとなっております。そしてホームストレート脇の助走路では、女子走幅跳が行われます。先日行われました、関東高等学校陸上競技大会におきまして一位二位を独占いたしました、清鳳学院の上田さん、武州大附属の多々良さんも出場致します。皆様、応援の方よろしくお願いします────』


 なんと、私の試技順は一番。隣の助走路には埼北高校の先輩がいる。毎回このアナウンスを聞く度に、緊張しちゃうんだよなぁ。

 先輩達がくれた伝統あるユニフォーム、その重みに胸を締め付けられながら跳ぶ。

 というか、今気づいたけどやっぱり小さいな、このユニ。スパッツはちょうどいい気がするけど……上が気になる。というかセパレートタイプってこんな感じなのか。


『それでは競技が開始されます。試技順1番は、ゼッケンナンバー4110番、清鳳学院の藤堂さんです』


 審判の人が、白旗を振った。あー始まっちゃう〜!

 息を吸って、吐いて、吸って、吐いて…………


「いきまーす!」

 ────はーい!!!!


 手を高くあげて、大きな声を出す。これで緊張を吹っ飛ばすつもりで、みんなの返事を受け取ったら……ゆっくりと身体を前に傾ける。

 吸って、吐いて、吸って、吐いて、吸って────!

 出だしは上々、体が勝手に歩数をカウントす────距離足りない!

 慌てて踏み切るけど、重力すっごい。着地の瞬間なんか、潰れたカエルの気持ちになれた気がする。

 とりあえず、旗は……白が上がった。ファールではない。

 ガチガチになったわけじゃない。助走はいい感じの走り出しだったのに、一歩足りなかった。助走の距離に合わなくて、急いで小刻みにして飛んだ。地面から力もらえなかったから……

 計測を待つ。かなり不満な跳躍だったなぁ……


「4メートル91!」


 …………えっ?

 去年までの自己ベストを大幅に超えた跳躍だ。自分では史上六番目くらいにダメな跳躍だった気がするけど、これでベストが出たんだったら……この後どうなるんだろ。

 とりあえず、ユニの中に入っちゃった砂を落としつつ待機場所に戻る。


「藤堂」


 上からドスの効いた声が聞こえて、顔が釣り上げられた。そこにはターミネー、じゃなくて奥村先生がいた。その隣には栞里が変な顔をして立っている。


「自分のスピードも把握できてないのか?」

「えっと、えっ、あ、そうですね、はい……」

「去年よりも、いや一ヶ月前よりも助走スピードが上がってる。1メートル下げてもう一本跳んでみろ」


 先生の端的なアドバイスに返事をしつつ、待機場所に戻る。他の学校の選手の跳躍を見つつ、トラックでは200メートルの決勝をやっていた。清鳳学院は五年前まで女子校だったらしく、男女比が偏っている。そんな中で、今の部長さんはすごい選手らしい。

 号砲一発なったかと思えば、もうコーナーを抜けている。男子の走りってすごいなぁ……あ、先頭はウチの学校だ。


『4レーンは清鳳学院の森下くん、一着でフィニッシュ。速報タイムは20秒98と出ております』


 すごい、速い。栞里よりも4秒ちょい速い。男子ってやっぱり凄いんだなぁ……と思いつつ、助走路に目を向けると、我らが上田先輩が助走路に立っていた。記録板では現在どこの学校か分からないけど、追い風1.2メートルで記録が5m48。ダントツのトップだ。四本目以降の跳躍ができるのが八位以内。その八位が4m77。

 お?おお?ん、お?


「私五位じゃん……」


 これはびっくり。私の記録は五位に入っていた。ゼッケンナンバー4110が輝いて見える。

 いきまーすの声が聞こえてはーいって言いそうになった。ダメダメ。待機場で大きな声を出すと怒られる。

 それにしても凄い。テンポよく入って行ってから、踏切前三歩をしっかり意識して、そのまま空中動作は一切力んでない。砂場の横でじっと見たいけど、斜め後ろからだとあんまり見えないなぁ……


「5m99!」


 すごい、一気にトップだ。あーん、私六位になっちゃった。いや、そんな事よりも、先輩の跳躍を思い出して────


「ゼッケンナンバー4110番、準備をお願いします!」


 なんでいいタイミングで呼ぶんですかね……。羽織っていたジャージを置いて、指定された助走路に入る。

 隣の助走路には、私より少し大きいくらいの緑のユニを着た子が入っていた。その背中からは、なんというか大人しそうなイメージだ。


「い、いきまーすっ」


 緊張した面持ちで手を挙げる彼女、大きな返事は……武州大附属の陣地からだ。ということはこの子も武州大附属なのか。

 ボケっと見ていた────えっ、助走スピードはやっ!!

 ちょこちょことめちゃくちゃ速いスピードで突っ込んで、流れるように跳んでいく。え、あんなに跳ぶの。マジで?


「6m02!」


 え、嘘でしょ?ま、え、うそ〜!

 地区大会で6メートルを見ちゃうなんてもうビックリ。めちゃくちゃ凄い人もいるもんだ……


『ホームストレート横で行われております女子走幅跳、1回目の試技が終わりましてトップは武州大附属の多々良さん、記録は6m02。それを追いますのは清鳳学院の上田さん、記録は5m99。以下は記録板をご覧ください』


 武州大附属の多々良さん……あっ、長篠中の凄い走幅跳の子だ。初めて見たけどこんなに凄い跳躍をするんだ……というかめっちゃ早かった……

 あっ、そう、私の跳躍の番だ。見劣りはしちゃうかもしれないけど、私は私なりに頑張るんだ。

 呼吸を落ち着かせて前を見据える。大樹と目があったような気がするけど気にしない。


「いきまーす!!」

────はーい!!!


 二本目、さっきよりも助走距離を下げた。でもいつも通り最初の13歩は力まずにテンポよく、修正した三歩前のマークにちょうどよく足がハマった──かな?

 タタタ、ターンっ

 リズムよく跳べた。ふわっと体が浮くような感覚に包まれて、その感覚に身を任せて力を抜く。砂場に着地してゆっくり立ち上がる。今の跳躍良かったなぁ……記録はどんくらい出たかなぁ……………………赤旗が上がっている。


 え、ファール?


 踏切線から出てしまっていた。いやでもいい踏み切りしてたんだよなぁ、認められないかなぁ……いや、赤旗が上がってるんだ、諦めよ……諦めて修正だ。


「美郷、5センチくらい出てた!」


 栞里がなんか悔しそうに見ている。5センチオーバーか結構大きいなぁ……

 普通に跳べてたらどんくらい良かったんだろ、ちょっと気になるなぁ……


「5m30」

「え?」

「今の感覚を忘れるな。今の跳躍を身につけろ。今じゃなくていい。今後三年間を使って今の感覚を解析しろ。解析して自分のものにしろ。上田や多々良を超えられるぞ」

「わ、分かりました……」


 奥村先生が珍しく興奮している。早口で喋っているのは、期間限定数量限定の高級スイーツを食べた次の日ぐらいの興奮をしていた。

 今の感覚が良かったのか。でもふわふわしてて全く分からない。いつもと何かが違って、何かが同じだった跳躍。同じ跳躍は、まだできない。それに……


 後ろの五人のうち、もう3人に抜かされて……しまった。八位以内から弾き飛ばされてしまっている

 とりあえず、今の跳躍を植え付けるために目をつぶってさっきの跳躍を思い出す。一メートル下げた助走が功を奏して、いや奏してない。5センチオーバーしたんだから、そこの修正を考えなきゃいけない。

 単純に下げるだけではダメかもしれない、もう一本跳んでみよう。






 二回目の試技が終わって、多々良さんは5m91、上田先輩はファールだった。県北の、しがない記録会のこの砂場で、壮絶な空中戦が行われている。

 そこに交ざれない私の実力に尻込みしてしまうけど、それでもいつかはその光景を見れると信じている。

 信じてるからこそ、一本一本を信じる。


 助走路に立って、背中に受ける風を感じる。この風なら……気持ち後ろに下がって前傾姿勢をとる。



「いきまーす!!」

────はーい!!



 息を吸って、吐いて、吸って、吐いて。

 一歩、二歩、三歩。落ち着いて助走に入って。間の11歩はしっかり刻んで、タタタターンっ。

 体が勝手に踏み切り板に反応していた。いい記録が出る時のふわっとした感じ、その後に着地でしっかり足を引きつけて────あまり引きつけられなかったかなぁ……


 立ち上がってから旗が上がるまで待つ。旗は……白だった。

 

 今までよりは良かったけれど、なんか腑に落ちない跳躍。まずは記録を聞いてから考えよう。



「4m98!」


 ────あと二センチ。小指二本分遠くに跳べていれば大台に乗った。

 なんか、すっごい悔しくて、でも涙も出ないのでちょっとどうしていいかわからない。とりあえず記録は伸ばした。順位は……五位。

 ちょっと嬉しい。いや、かなり嬉しい。だからこそ、私は浮かれてはいけない。


 四本目以降のジャンプでの修正点を考えなくてはいけない。いけないのだけど……もしかして、アレが私の会心のジャンプってやつ?

 何も思い浮かばない、あとで動画を見返そう。とりあえず私は、ジャージを羽織ってからボーッと助走路を見ていた。

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