やっと“高校デビュー”
いつもよりも一時間早いアラームと一緒に、ミーシャの猫パンチが飛んでくる。ご主人が早く起きて遊んでくれると思っているようだ。
身体を起こすとおもちゃのネズミがポトリと落ちてきた。ネズミを寝ぼけながら部屋の隅に投げておく。
強烈な後脚キックをお腹で受け止めて、私はベッドから降りた。
今日は私にとってはシーズン初戦。天気はとてもいい感じだ。
バスタオルを持って下に降りると、お父さんが髭を剃っていた。
「お父さん、お風呂入りたい」
「あっ、ああごめんごめん。ちょっと待っててな〜」
お父さんの髭剃りを待ちつつ、もう明かりのついているキッチンに目を向けた。お母さんがお弁当の担当なので、今日はすごく早起きしてるみたい。どんな試合でもお母さんのお弁当は本当に美味しいので、体だけは気をつけて欲しい。
「美郷の目標は?」
「えっと……5mは跳ぶ」
中学時代のベストは県総体で出した4m76。あの時は緊張でガチガチになってしまったのを覚えている。でも今回は記録会。校長先生になにがなんでも部の存続を認めさせる大会。
でも、それだけでしかない。
助走路にそんな事情は持ち込めない。十八歩の助走の中に練習の成果を意識して跳躍する。自分が楽しくて今までやってきたことを今まで通りやるだけ。
緊張するな、私。
お父さんの髭剃りが終わったので、私はシャワーを浴びにお風呂に戻った。
朝ごはんはしっかり食べて、自転車で会場まで向かおう。準備は全て整っている。
熊谷スポーツ文化公園陸上競技場は、埼玉の学生にとって第一の関門とも言われる県大会はおろか、関東大会や全国大会が埼玉で開催される時には会場になる大きな競技場だ。
「んぉ、さすがみーさん。殊勝な心がけだねぇ」
「一年生がテントの準備するのは当たり前でしょって、パー子さんも来てくれたの?」
今日はこの後、先生が自前のテントを持っているので会場の外に自分たちの拠点を作る。そのために先生の車に向かっていた。
「莉沙絶対に許さない…………益子です……夕実でもいいです……」
「ゆ、夕実、ね。覚えた」
「パー子は──ぐぇっ」
莉沙、背中をどつかれて大会前にノックダウン。夕実のムスッとした顔があの動物、えっとヤマネだ。冬になったらいっぱい寝るあのハムスターみたいなやつに似てる。
「今日はマネージャーとして精一杯頑張るから、みんな絶対部を存続させてね、そしたら絶対に入るから!」
小さいながらに力強いその目は、私の体が少し固まり始めた。緊張しちゃいけないっていったのに……
深呼吸してから、なんて返そうか考える。ちょっとうまい返しが思いつかないなぁ。
「みーさんは今、親友がまだ来てないから緊張させないであげて〜」
脇腹をぞわぞわされて声がどうしても出てしまう。でも、声と一緒にちょっとずつ胸のつっかえがなくなってきた。
私より少し背の高い莉沙にわしゃわしゃ撫でられた。こうみると栞里は本当に背が高いんだなぁ。私ももうちょっと背が伸びたらな……
「そういえば、場所は誰がとってるの?」
「麗華としーちゃんがとってる〜」
栞里は一年生の時、場所取りをよくやってた。というよりは現地にさっさと入って、ストレッチとか色々やっている。なんでも朝早く起きた方が自分の体にちょうどいいのだそうだ。
でも、それはわからないでもない。ちゃんと寝て、朝早く起きていた方が体はよく動く。競技の時間に合わせて動く人もいるって聞いたことがあるけど、私にはちょっと合わないような気がする。
「おお、未来の後輩たち、頑張ってるねぇ!」
「あっ、トモカ先輩、おはようございます、その後ろにいる人は……?」
「ああ、コイツは──」
「私は
トモカ先輩とヒナタ先輩の他に先輩がいたんだ……
私よりは身長の高い気の強そうな先輩。競技は何してるんだろう……
「期待はしてないけど、自分の力を発揮して」
「愛衣も素直じゃないんだから〜」
トモカ先輩が思いっきり拳骨を食らっている。
なんか、怖そうな先輩だなぁ、と思いつつ私はさっき受付でもらったプログラムを見ていた。
二日間に分けて行われるこの記録会。一日目の今日は、一番最初に女子400mがある。麗華さんは2組、トモカ先輩は1組に入っている。これはタイムレース決勝と言って、そのレース一本で記録したタイム順がそのまま入賞順位になる。そのあとは男子400mの後に女子の100m。
100mに関しては8組ある為、“0着+8”という表記がなされている。これは予選で出したタイム順の上位8名が決勝に進出するという意味だ。タイムレース決勝と違って、ちゃんと決勝という名前のレースがある。それは15:40から女子らしい。
栞里の応援も考えなきゃいけないけど、まずは初400の麗華さんを精一杯応援しないと。
ホームストレートに入る手前くらいは人があんまりいない。だからスタンドの柵のところで応援できるのはかなりいい。
トモカ先輩はすごかった。一位の人も速かったけど、トモカ先輩は二位の人にめっちゃ食らいついてた、最後は抜かしたみたいで、電光掲示板には二着で名前が入ってた。
次の組には麗華さんが入っている。ここで大きな声を出して応援するんだ。多分それが一番いいってヒナタ先輩も言ってた。
「みーさん、麗華の応援に来たの?」
ジャージ姿の莉沙がのそのそとやってきた。麗華さんを励ましてからここにやってきたんだと思う。
莉沙は中1の時の持ち記録で出てて──1組に入っている。エントリーの時に提出したベストタイムが速い順に1組2組……と割り振られていく。その中で入っているのは非常に凄いことだと思う。もちろん、規格の違いを加味したタイムを出したらしい。
「アタシの応援も期待してるからね〜」
「もちろん、任せといて!」
今日は同い年の応援をめっちゃしつつ、周りの選手の競技レベルを把握するのが今日の目標。とはいいつつ、明日の緊張を吹き飛ばすつもりで空元気を出してみた。
自分の頬を叩いてから、トラックに目を向ける。やば、もう400mのレースが始まっていた。バックストレートに差し掛かるうちの一人、いたいた、麗華さんが走ってくる。
スタート見逃しちゃったけど、ここから応援してあげよう。いつものお淑やかな顔じゃなくてすごく辛そう。
「麗華さん、ファイトー!!!」
首を振りながら必死に走っている麗華さん。組の中で四位だろうか。ホームストレートに差し掛かる時、隣に必死に食らいついていた。
必死に足を進めてふらつきながらもゴール。ゴールではトモカ先輩とヒナタ先輩がいるって言っていた。
麗華さんの元に駆け寄ってあげたいけど、朝から少し体調の悪そうな栞里を見るとそばに寄り添ってあげないといけない。なんて思いつつ私は張本人がいるであろう招集所に向かった。
***
これから100mの決勝だ。県北の女子高生で一番速い人を決める、みたいな大事なやつではないけど、栞里が出るのでどうなるか楽しみ。
トラック競技の花形だということもあって、スタンドにはさっきよりも人がすごく増えていた。
栞里は予選では、タイムはそこまで重視してなかったのか、余裕を持ってスタートして、後半は流していた。それでも全体の三位で決勝進出を決めていた。
「清鳳学院はやっぱり強いなぁ、3人もいるよ」
「でも、去年の強い先生が病気になってからなんか大変らしいねぇ……」
病気……定年じゃなくて病気なのか……そんな話聞いたことないな……
よくわかんないけど、とりあえず栞里を応援しよう。
他に知ってる人は……もう一人は大貫先輩、栞里の隣にいる先輩が誰か分からないな……
『ただいまより、女子100メートル競走の決勝を行います。大会記録は去年、清鳳学院の天海さんが出しました11秒77となっております。それでは選手を紹介いたします────』
私の100のベストは大会記録と丁度2秒差がついている。やっぱりスプリンターの人たちってすごいなぁ……
『第四レーン、
あ、大会記録の人と名字同じ。もしかして同じ人かな……あっ、栞里呼ばれるじゃん!
『第五レーン、中村栞里さん、清鳳学院』
「栞里さん、ファイトー!!」
「えっ、麗華さん、アイシングはもういいの?」
さっき足を少し引きずっていた麗華さんがもう隣にいる。莉沙が心配そうにしているけど、本当に大丈夫なのかなぁ。
と思ってたら、莉沙が麗華さんをわしゃわしゃし始める。なんか猫がじゃれてるのを見ているみたいだ。でもケガに詳しい莉沙が大丈夫な感じでいるので、ちょっとだけ安心しておこう。
あっ、大貫先輩に声かけするの忘れてた。
でも、そろそろスタートしそうなのでレーンを見る。いい風が吹いていた。
────On your marks
栞里って背筋が伸びてて、クラウチングスタートする時にとっても綺麗なんだよね〜
それに、みんな膝ついたら上体起こしてなんかやってるけど、栞里はブロックに足をかけたらそのまま手をついてるから、なんかオンリーワンって感じがする。
────Set
スタートの合図とともに飛び出たのは6レーンの人。4レーンの天海先輩も同じくらいで出て……天海先輩が30メートルくらいで独走している。
栞里が置いてかれるなんて珍しい、と思ったら天海先輩のスピードがそこまで上がらなかった。あ、もしかして流してるのかなっ、後ろから栞里が来てるのにっ!
栞里が追い上げる。一度流すことを決めた身体に力を入れるのは難しい。ゴール手前で栞里が一気に抜き去ってそのままゴールした!
凄い、栞里1着────あっ!!!!
スタンドのどよめきと共に、タイマーを見る。記録は……11秒89!凄い、ベストだ!!
「しーちゃん、インターハイ優勝候補に勝っちゃったね」
「相手が流したからかもしれないけど……」
莉沙と感想を言い合ってる中、麗華さんは何かに感動したような様子でトラックを
見ていた。
「100mって凄いのですね……」
「もっと上になるともっと凄いんだよ、がんばろーねー」
ふにゃふにゃした莉沙の声に、なんか芯が通ってた。でも、莉沙の言う通りだ。
興奮して語り出しそうな私を抑えて、莉沙は麗華さんを連れていっちゃった。あっ、置いてかないで、栞里のとこに早く行かないとっ
100のゴール近くまで移動すると、栞里がスパイクを脱いで靴下で歩いていた。
「しおりっ!」
「あっ、美郷、それにみんなも!」
「一位おめでと〜」
言いたいことを言われてしまって、ちょっと言葉を探していると、栞里に捕まった。なんか抱きついてきてる。まぁでも、栞里は嬉しい時に抱きつき癖があるからしょうがないのかもしれない。
「ベスト、出た」
「……良かったじゃん」
すごく嬉しそう。12秒を切りたい、中1の時からずっと見てきたその目標を栞里は達成した。
「いつもこうやって、私に抱きつくじゃん」
「いいじゃん、こうしてると落ち着くんだもん」
栞里が深呼吸をしている。栞里の呼吸が落ち着いた頃には、100の結果が発表されていた。
1着は栞里で11秒90。2着はウチの天海先輩、11秒96。大貫先輩は12秒88で4着だった。
でも、栞里は離れようとしない。多分よっぽど嬉しいんだろうから、テントまでは離れないだろう。
「ねー、歩きにくい〜」
「だって〜、嬉しいし」
まるで私を歩行器みたいに抱きついてくる。自分の足で歩けって思いながらしゃがむと──しっかり抱きしめられてそもそもしゃがめなかった。
諦めて、テントに戻る。夕実が飲み物を買ってきてくれていた。
「…………ふぅ。それで美郷は明日何メートル跳ぶの?」
明日競技する一年生は私と莉沙だ。午前中は莉沙のハードルで、午後は私。って事で応援もみんなしてくれる。大きい目標を建てよう。
「5m……05」
「その5センチに何か意味あるの……」
莉沙が普段しないような目でこっちをみてくる。だって5センチって意外と大変なんだぞ……
抗議の眼差しを向けていると、どこかで見たような優しい目つきの人がいつのまにか混ざっていた。
「えっと……」
「中村さん、今日は楽しかった。貴女があと一年早くうちに来てたら、私は去年大泣きしてたのかもね〜」
清鳳学院のジャージ。私たちが着ている学校指定の物ではなく、憧れの陸上部専用。ユニフォームの配色で、胸の所には校章があしらわれている。とてもカッコいい。
というかこの顔今思い出した。栞里の隣のレーン走ってた人だ。
「ありがとうございます……」
「それじゃあ、みんなお疲れ様。この調子で
天海先輩はそのままエナメルを持ってパタパタと走っていってしまった。
栞里は先輩に勝った。今回の記録会、先輩達との戦いもある。
麗華さんが負けるのは勿論当たり前のことなんだけど、栞里が勝ったから一勝一敗。
明日、莉沙と私が勝てば勝ち越せる。でも……上田先輩でしょ……むりぃ……6mジャンパーなんて……5mすらも跳べ「ない私が勝てるわけがないじゃん────な〜んて思ってるだろ〜!!!」
頭をわしゃわしゃされている。犯人は誰だろうか……栞里でも莉沙でもない。であれば、犯人はトモカ先輩────
「えっ、お姉ちゃん?」
答えは栞里から出てきた。トモカ先輩ではなく栞里のお姉さん、
栞里のお姉さんなだけあってものすごい人だ。バスケットボールU-18日本代表として世界大会に出て得点王。インターハイでのシュート成功率は96%。栞里が陸上をやるために生まれてきたのなら、悠里さんはバスケをやるために生まれてきた人だ。
ただし、料理はできない。そこそこできる栞里と違ってものすごいものを作る。
「差し入れ持ってきたよ、お母さんがみんなで食べて〜って!」
なので、大体の差し入れはお母さんが作っているのは狩野中陸上部関係者の中で有名な話だ。
お弁当箱を開けると肉巻きおにぎりが入っていた。めちゃくちゃ美味しそう。
「明日は氷見さんと美郷ちゃんだね、これ食べて元気つけてね!」
「お姉ちゃんが作ってないのになんで偉そうなの……」
メンタル最強の姉とメンタル最弱の妹が言い争いを繰り広げている。いや、言い争いじゃない。栞里が負けてしょげている。
このままだと抱きつかれて泣きつかれるのは分かりきっていたので、敢えて麗華さんを間に立たせるような位置に立つ。
「でも、美郷ちゃん。強い相手と戦うことはチャンスなの。その技その考え方を盗むチャンス。陸上は自分との戦いがメインかもしれないけど、これはどのスポーツやってたってそんな感じ、だからもっとしゃんとしないとっ!」
背中をバシバシ叩かれて咳き込んでしまう。肉巻きおにぎりを吐き出さないように抑えてから涙を拭く。結構喉が痛い。
栞里に抱きつかれてキョトンとしている麗華さんと目が合う。栞里も「これは美郷ではない」って思ってそうなキョトンとした顔をしている。
こんな仲間達がいるだけで、背中を押してくれているような気がした。
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