蒼い夏のあの日。


 ────あれは、去年の夏。まだ中学三年生の全国大会の四日目だった。



「昨日は惜しかったですね〜」


 三つ編みのちっこい後輩が、栞里のストレッチを手伝っている。その横で、同級生のスプリンターがテーピングを巻き直していた。

 後輩の名前は鶴見つるみ絵梨那えりな。二年生にして一昨日の100メートル決勝で七位入賞。とても騒がしいけどかわいらしい後輩だ。


「200は苦手なんだよ〜」

「それにしても山形のあの人……えっと……」

「あー、天音の事?」

「そうです、小山こやま天音あまね先輩! 100と200で二冠ですよ!」


 小山天音、といえば山形県のスプリンター。去年は100メートルを12秒01という圧巻の記録で走って優勝、今年の優勝候補大本命だった。

 そのライバルとされるのが、栞里だった。今回大会でも100も200も準決勝はトップの記録で通過していた。


「栞里がビビりなのが悪いんじゃない?」

「決勝じゃなくて準決勝の、しかも他の人のフライングのせいでスタートが遅れるなんてね〜」

「しょうがないじゃん〜」

「10メートルくらいは絵梨那に先行されてたし、どこがしょうがないんだか……」


 一昨日の100メートルの決勝では、栞里は完全に出遅れて二位でフィニッシュ。記録は12秒11だったと思う。準決勝では12秒05まで上げられており、もしかしたらとは思ったけど……

 逆に良くあのスタートで立て直せたと思うくらいの結果だった。強い風に強い栞里だからこそなのかもしれない。


「じゃあ昨日の200は?」

「うっ……ちょっとお腹痛かったから……」

「ダウト、レース前にめちゃくちゃ自信持ってたじゃない。食べる物にも気をつけてた栞里がそんな事する訳ないでしょ」


 あぅぅ、なんて情けない声を出しながら栞里は身体を反対向きにしている。

 昨日の200メートルでは、栞里の動きがすごく硬かったような気がする。スタートからガチガチで、そのまま何も変わらないままフィニッシュ。25秒02で三位だった。

 二冠だった小山さんの記録は11秒96、24秒21と明らかに化け物だったけど。


 それでも、栞里は調子が悪そうに思えていた。


「でも、大丈夫。絶対46秒台だそうね」


 4×100メートルリレーの決勝がこの後控えている。昨日の準決勝は栞里を温存して、それで組の中での着順二位通過。だけど一昨日の予選では、栞里を入れて、さらにバトンワークも良かった。その結果47秒32という日本歴代二位の記録をを叩き出したのだ。

 それまでの記録は47秒30、あと一〇〇分の二秒に迫る大記録。しかも今回の決勝では三レーンと、悪くないレーンを取っている。


「四レーンに米沢八中、五レーンに長篠中、六レーンに東京女子学園。楽しくなりそうなレースですねぇ!!」

「どこも強豪ばかり……米沢八中はやっぱり小山さんがアンカーなのかね……」

「東京女子学園のアンダーパスかっこいいよね〜!」


 ウチ以外にも三校ライバルがいる。米沢八中は小山さんがいる学校で、長篠中はリレーの名門校。東京女子学園は確か一昨年新設された中高一貫校らしいけど、バトンパスがとてもすごいらしい。

 でも私達は絶対負けない。このメンバーだったら絶対負ける気がしなかった。


「そろそろ招集だ、早く行かないと失格になっちゃう〜」

「そう言ってる割には、栞里は動こうとはしてないのね」


 栞里と芽衣はいつも、こんな感じでじゃれついている。

 でも芽衣の方がいつも口で栞里を丸め込んでるっていうのが内情かもしれない。


「だってみんな行かなさそうだったんだもん……」


 しょげながら、栞里がゆっくりと立ち上がる。みんなでお金を出し合って作った陸上部のTシャツの黄色が凄く眩しかった。

 芽衣、倉科くらしな芽衣めいもスプリンターだ。全中出場の為の標準記録に一〇〇分の三秒届かなかったけれどそれでも12秒台で走る実力のある選手だ。性格は非常にサバサバしている。

 招集場所で、ゼッケン前後ろと栞里の腰ナンバー「3」を受け取ってからみんなのユニフォームにつける。黄色のランシャツ、胸の所に「Karino」って緑の文字で書かれたユニは愛着が湧いている。


「東京女子学園、ユニフォームかっこいいよね」

「ええ、私はセパレートやだなぁ……恥ずかしいし……」

「何言ってるんですか、私は小さいからアレだけど栞里先輩は似合いますよ!」


 他の三人は他校のユニの話で盛り上がっている。東京女子学園は上が黒、下が赤のセパレートタイプだった気がする。あんなに派手なタイプのユニフォームだし、ちょっと私も恥ずかしいと思う。


「絵梨那は今のユニフォームにも着られてるじゃない。そんなこと言ってないで準備しよ?」

「ぁぁ〜美郷先輩が私のこといじめます〜」

「いいんじゃない、美郷だって言えるほど大きくないし」


 芽衣に言われてしまい何も言えなくなる。確かに私は152センチで小さいけどさぁ……芽衣だって十センチしか変わらないくせに……

 まぁでも、ちっこい絵梨那はむしろ気にしてないようで、クソ暑いのにこれでもかとひっついてくる。なんだか私が一番損した気分になった。


「そうだ、円陣組みましょう!」


 後輩の提案に先輩三人、私も含めた三人が恥ずかしがりながら応じる。今更円陣組む程でもないんだけどなぁ。

 とりあえず手を前に出している絵梨那の手を────放っておいてみんなで肩を組む。素っ頓狂な声をあげている絵梨那を放っておいて芽衣がみんなを見回していた。


「決勝もいつも通りガンバるぞ!」

「お「「おー!!!!」」」


 一人フライングしている。そのフライングの主があろうことか1走の絵梨那なのがわかったのでとりあえずくすぐってからみんな各自の場所に別れた。



***



 暑さが落ち着いてきて、ホームストレートは良さ目な追い風が吹いている。私は横風だからなぁ……と思いつつ、対角線上にあるスタートを見つめていた。

 マークはいつもの19歩から一歩伸ばして20歩の位置にテープを貼っている。

 早出だけは気をつけないと、なんて思いつつブルーラインに立つと、ファンファーレが鳴り響いた。


『ただいまより女子共通、4×100メートルリレーの決勝が行われます。全国中学記録は2010年に朝霞台中が記録した47秒30。2010年の全国大会にて樹立された大会記録でもございます。それでは出場校と選手をご紹介いたします。一レーン……』


 やっぱり、決勝のこのアナウンスは一気に胸が高ぶる。みんなが私たち、他の学校も含めて三十二人の走りを今か今かと待っているのだ。陸上の花形といっても過言ではないだろう。


『第三レーン、熊谷狩野中、埼玉。鶴見さん、倉科さん、藤堂さん、中村さん。準決勝の通過タイムは48秒01。予選では日本歴代二位となる、47秒32を記録しております』


 そのアナウンスで、一斉に注目が集められたのが分かった。8年ぶりの日本記録更新まで100分の2秒ともあれば、期待されるのは当たり前だよね……


『以上八チーム、欠場なし。それでは女子4×100メートルリレー決勝がスタートいたします』


 会場を静かにさせるように「しーっ」と声が流れる。全国大会になるとこれが流れるんだ……

 ぱっと見5000人はいそうな観客席が静かになる。人っ子一人いないような静けさ。青いタータンに、近くを走る高速道路の車の音が聞こえるくらい。あとセミの声も。



 ────On your marks



 1走の選手が位置につく。絵梨那は非常にスタートが速い。きっと一番でバトンを渡してくれる。



 ────Set



 腰が上がって臨戦態勢になる。それで…………



「絵梨那、ファイトーッ!!!!!」


 号砲一発、一回でスタートしたレースは案の定絵梨那が飛び出した。六レーンもかなり速いけど今はうちの方が早く見える。

 あっという間に芽衣にバトンが渡った。心臓が何かに掴まれたみたいにドキドキする。走れないかしれない。バトン落とすかもしれない。芽衣が来る、すごく速い、どうしよ、やばいやばいっ────


 身体が勝手に走り出している。マークに罠でも仕掛けてあったか、ていう感じで私の体が飛び出した。向こうに向いた三角をびゅんと通り過ぎて、「はーーーーい!!!!!」芽衣の大きな掛け声に右腕が引っ張られる。バトン、バトンをちょうだいっ、やったとれた!!

 がむしゃらに走る、隣の人を捕まえるように……あっ、捕まえられる、いける、いけるいける!

 マークが一瞬見えた、栞里はもう走っている。捕まえて栞里にバトンを渡して────向こう向きの三角も通り過ぎて、まだ遠い。背中が少し遠くて……えっ?


 ────バトン、わたせない。


 とおい、とおすぎる、はやい、はやすぎる、まって、まってよ、こっち向きの三角が見えてる、まって、まって、まってって!!



「────まって……!!!!」


 急に栞里の背中が近くなる。カランコロンと音が聞こえて。

 青いタータンに赤いバトンが落ちている。あれ、なんでバトンが落ちてるんだろう。

 あっ、バトンがなくなった。バトン拾ったのかな……私たちは何色のバトンだっけ……確か3レーンは赤色…………


 あれ、なんでレーンがにじんでみえるんだろう…………








『女子4×100メートルリレー競走の決勝、正式タイムが確定いたしました。一等は東京女子学園で47秒31。日本歴代二位の記録で優勝でございます。二等は長篠中で47秒33。三等は米沢八中で47秒36。以下は電光掲示板をご覧ください』




 電光掲示板にリザルトが出ている。

 優勝候補たちが上位を占めている。

 私たち熊谷狩野中はには……タイムの数字はない。


 DQ


 その二文字が書いてある。その意味をこの会場に来ている人達が知らないわけがなかった。

 だって、あの二文字は……


 DQしっかく


 って読むんだもん。そんなの知ってる。知ってるから……



「ごめんなさい、ごめんなさい……わたしが、わた、わたしが早出したから……っ!!!!!!」


 親友の泣きじゃくる声が聞こえる。一年生の時に全国標準に100分の1秒足りなかった時も、二年の全中でギリギリ決勝に行けなかった時も、二年の冬で肉離れをした時もあんな泣いてなかった。

 栞里は泣く、という行動を知らないはずだった。悔しいと思っても絶対に泣かない。きつくても泣かない。悲しくても、唇噛み切るけど絶対泣かない。そうだって知ってる。なのに、今、栞里がすごく泣いている。


 みんな声をかけられなかった。テントで栞里が大泣きしている。栞里って泣くんだ……

 いつもハツラツとしてて、みんなを和ませる絵梨那が……神妙な顔で俯いている。

 部長としてみんなを引っ張って、頼れるお姉さんな芽衣が……ずっと上を向いている。


 みんなにいっぱい差し入れをくれる、とても優しい栞里のお姉さんが……自分がミスをしたかのように顔が引きつっている。

 陸上については厳しいけど、みんなを思いやってくれてる奥村先生が……サングラスを絶対に外さない。




「…………私が遅かったから。私がもっと速かったら────

「違うっ、ちがうのっ!!もっとみんなの調子を見ておくべきだった!!流しの時にもう少し詰めるべきだった!!ぜんぶ、ぜんぶわたしが悪いの……調子も計れないのにアンカーで……大事なレースを潰して…………!!!!!!」


 身体が勝手に動いていた。

 胸の中で親友の泣き声が響いている。聞いたことのないくらい、くらいというより聞いたことのない大きな声で。


 栞里が早出をしたのかもしれない。私がいつもより遅かったのかもしれない。ビデオを見れば分かるけど、それでも栞里の事は責められない。私は責めたくない。



「……テント片付けるから」



 そう言った芽衣の、部長の目は真っ赤だった────

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