昔は昔で悲しくて




 家に帰ってきた。五月の半ばになって、初めての実戦があと三週間。目標の記録会は一ヶ月半後に控えている。

 インターハイ路線を気にしなくていい、というのは気休めなのかもしれない。

 正直、その空気を味わってみたかった。リレーはみんな速かったから、全中まで行けたけど個人種目は全然ダメだった。幅跳びで総体は出られたけど、通信の標準は破れなかった。しかも、総体でもボロボロの戦績で終わってしまっている。


「おかえりなさい、もうご飯できてるけど先にお風呂入る?」

「あー、うん。っていうことは今日はカレー?」


 お母さんはいつも温かいモノを食べさせてくれる。レンジでチンとかじゃなくて作りたて出してくれるので、ご飯がいっつも楽しみだったりする。

 そんなお母さんがご飯を作り終えている時は大体カレーかハヤシライスだ。


「そうだけど、嫌だった?」

「ううん、今日はお風呂先入りたかったから」


 今日はめちゃくちゃ暑かった。というか、これから暑くなっていくんだけど、汗が激しかったのでシャワーを浴びたかった。というか、これから浴びる。

 お母さんがタオルを渡してくれて、そのままお風呂場に向かう。大樹が先に入ったのか、靴下が落ちていた。大樹の靴下は本気で臭い。なんであそこまで臭くできるのかが不思議でたまらなかった。

 呼吸を止めながら、風呂場の外に靴下を放り投げて自分の服も脱ぎ捨てる。

 湯船の用意がしてある。シャワーだけにしようかと思っていたけれど、湯船に浸かった方がさっぱりするような気がした。


 お風呂場に水音と息だけが響く。なんか、自分の息のくせしていやらしく感じたのは、疲れているせいなのかもしれない。

 天井にいっぱい見える水滴を見つめながら、昔のことを思い出していた。




『陸上ってさ、自分の身体の使い方だけで戦うんだよ、凄くない?』


 私が陸上部に入ろうと思ったきっかけ、栞里の一言を思い出す。彼女とは小学生の頃から仲が良かった。でも、向こうは最初から天は何物を与えたんだってくらいに優秀だったけど、私はそこまででもなかった。

 小学校の頃なんかクラスで後ろから数えた方がいいくらい背が小さくて、足も遅かった。手先だけは器用だったから、いじめられずには済んだけどいじられる方ではあった。

 でも、栞里は違った。背も高くて、いつもニコニコしてて、スラッとしてて、みんなの人気者だった。

 そんな彼女が羨ましくって、追いついてみたくって始めたのが栞里と同じ陸上だった。

 でも、届かないってわかったのは始めて三日くらいの練習の時だった。


 100メートルのタイムトライアル。私は16秒くらいだったのに対して、向こうは12秒台だった。

 なんであんなに速く走れるのだろうか。なんであんなに速く体を動かせるのだろうか。


 それに、なんであんなに美しく身体を動かせるのだろうか。


 私もああなりたい。私ももっともっと練習して、あのくらい動けるようになったら見える世界が変わるんだと思う。私はその世界を見てみたい。

 見てみたいけど、才能の壁って思ったより厚かった。


 走れども走れども栞里になんか追いつけない。伸びても伸びても栞里には全く追いつかない。それでも練習はすごく楽しかった。

 自分が走る度に記録が速くなって、自分の成長が実感できる。


『才能なんて、私は信じてないよ』


 あれは、中二の関東大会の時に栞里が言ってた気がする。あの時、先輩達と栞里の四人で組んだリレー、決勝で中学日本歴代三位の記録を出したのを目の前で見てたから、余計に覚えてる。

 みんな、凄く速くて、やっぱり私じゃ無理だって思って、でもそんな時に奥村先生が隣にいた。


『藤堂、中村よりも遠くに跳べば勝てるぞ?』


 中一の冬に奥村先生が言ってくれた言葉だ。専門を決めかねてた私にちゃんと決めさせてくれた一言。

 あの時は、自分が体験したことのない話だとしても、その言葉が甘く感じたのを覚えている。栞里のように強くなれるのなら、その道に進むのもいいのかもしれない。

 奥村先生が元々跳躍の先生だったっていうのもあったかもしれない、だけど私はあの時の練習がとてつもなく楽しかった。


 フィールド種目は、トラック種目よりも自分の体と向き合わなければいけない。なにせ、動きがとても複雑で、それを一つ一つ高めてていかなければいけない。

 幅跳びを例にとっても、助走から踏切、空中動作に着地、四パート全てに細分化された技術があり、その結晶が好記録となる。


 ────大変な道のりだけど、記録が伸びたらめちゃくちゃ楽しい。


 自分がやっただけ記録に反映される。ダメだったところは何度も何度も確認して、修正するために何度も何度も練習する。

 ライバルがいるのは確かにいいことかもしれないけど、私にとっての一番のライバルはちょっと前の自分だった。いや、今でもそうだったりする。


「姉ちゃん、いつまで入ってんだよ!」


 風呂場からの怒鳴り声で目が覚めた。多分寝てたみたいだ。


「もう腹減った、早く出ろよ〜!」

「はいはい、すぐ出るから!」


 騒いでる大樹に軽く返事をして、湯船から上がる。もう五月なのに空気がひんやりしてるような気がした。

 着替えて食卓に着くと、もう家族が食卓についていた。カレーをよそっているお母さんと、手にビールを持っているお父さん。その視線の先には、一つのニュースが流れていた。


「日本人がとうとう10秒の壁を破ったんだな……」


 大学生が、日本選手権の100m決勝で9秒97の公認記録を出して優勝したニュースだ。この間のオリンピックでリレーがアジア史上初の銀メダルをとって以来、日本の男子短距離は破竹の勢いで競技力を向上させていた。

 こうなってくると、次のオリンピックは金も射程圏内に思える。

 陸上がこうやって注目されるのは非常に嬉しい。ドーピングなんかで注目されるのは嫌だなぁ……


「姉ちゃんもアレくらい速くなれば、ベスト出るかもよ」

「茶化さないで、自分の練習を先にしなさいよ〜」


 後ろから羽交い締めにして、大樹の頰をつねってやる。特になにも抵抗せずに変な声をあげながらつねられているのでものの三十秒で飽きてしまった。

 そのまま弟から離れて、食卓に着く。テーブルの上には山盛りのサラダと、湯気が立つトンカツが置いてある。さすがお母さん、揚げたてのトンカツに見える。随分と待たせてしまったようだ。


「そういえば、美郷。今度の記録会はリレーは出るのか?」

「出ない、栞里が嫌がっちゃって……」

「栞里ちゃんにとってはショックだったんだろうね……」


 お母さんがカレーをよそり終わる。相変わらずいい匂い漂うリビングに心を躍らせつつみんなで食べ始めた。

 あの全中のリレーから一年も経っていない。でも、あの一日は絶対に忘れないんだろうな……


「その話はいいよ、ご飯食べよ」


 カレーのスプーンを静かに口に運ぶ。食べれば食べる程その一日が思い出される。そういえばあの日、みんなでカレーを食べたんだった。

 元気のない栞里を元気づけようとして……栞里のお父さんに協力もしてもらって……あー懐かしいな……

 カレーを黙々と食べ終わって、「ごちそうさま」。部屋に体が勝手に戻っていく。


 悲しくて切なかった中三の夏の1日を思い出していた。

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