甘じょっぱい昼下がり
「記録会、七月じゃん?」
栞里が後ろから声をかけてきたのは数学の授業中だった。私は……数学Ⅰなんか分かんないよ!!!
ちょっと荒ぶるしかなかったけど、数学のことで頭がいっぱいだ。無視しよう。
「その前に、国体代表選考会があるの。公認記録があれば出られるんだけど、美郷は出る?」
「えー出たい……って無理に決まってんじゃん!!」
思いの丈を叫んでしまい、数学の神経質そうな先生に睨まれる。すみません、と一言謝ってからノートに戻った。
国体、国民体育大会の略称。都道府県対抗で様々なスポーツの頂点を競う大会。私たちの世代なら、インターハイと日本ジュニア、そして国体の三つで高校三冠だ。さらに言ってしまえば、実業団の人たちだって、日本選手権と全日本実業団、そして国体の三つで三冠。つまりめちゃくちゃ大きな大会だ。
当然、国内最高峰の大会ともあって、各都道府県一種目男女一名、さらには都道府県代表ごとに枠が決められているため、強化指定の選手の中で代表争いが熾烈な────
「多分、大変なことだと思ってるかもしれないけど、アレってただの記録会だし」
「嘘だよ、だってすごい人達いっぱいいるんでしょ?」
「いや、だってアレ、出来レースだってお父さんが言ってた」
何か不穏な言葉を聞いてしまった気がする。出来レースって、あの出来レースですかね。もう始まる前から結果が決まってる、みたいな……?
「そんな試合、したくないなぁ」
「そうじゃなくって、強化委員の人が二、三人に目星をつけてて、そこで一人に絞るみたいな感じ。だから、質の高い記録会だよ」
「ユニフォーム、中学校のしかない……」
上の人達との試合ができるのはいいけど、それはちょっと恥ずかしいな。たしかに中学校のユニもカッコよかったけど、でももう高校生だし……
「藤堂さん、早く前に出てきてください」
「いや、でも、それは恥ずかしいしなぁ……」
「何言ってるんですか、喋る余裕があるなら問題を解きに来てください」
思いの丈を答えたつもりなんですけど、多分答える相手を間違えたようです。一つのことに集中し始めると、別の事を忘れてしまうの本当にマズイと思う。よりによって今は三角比の話をしている。全く分からないんですけど、どうすればいいんですかね。
とりあえず、促されるままに前に出てみる。日が丸く斜めになった奴が……シータって奴だ。それは最近覚えたんですけど、なんの話をしていたんだっけ?
「えっと、ごめんなさい、分からないです……」
「授業中に話をする前にノートを取ってください。じゃあ中村さん」
怒られてしまったのは当たり前なので、謝って大人しく席に戻る。黒板に目を戻すと、栞里が問題を解き終えているところだった。
栞里は、数学がなぜか得意なので……だから今話しかけてきたのか。なんか、悔しいな。
***
「だって、国体の選考会なんて標準記録あるでしょ?」
「……5m位でしょ、ならいけるいける」
「……少年B女子走幅跳、参加標準は5m30だって」
莉沙の一声で、お昼を食べていた私はお箸を落としてしまった。
さっきまで期待していた自分が非常にバカみたいというか、普通に記録抜けないですけど。
「あと50cmも足りないんですけど、栞里?」
「えー、なんかごめん……私は出てくるんだけど……応援くる?」
結局応援じゃんか。でも、応援というか観戦というか勉強しに行きたい。
「それ、いつ?」
「六月の末。上尾でやるよ」
上尾って……遠いなぁ。でも、国体選考ってこの時期にやるなら去年もやってたはず……
「埼玉の中学生はよっぽどのことがない限り出ない大会でしょ〜」
「莉沙さん、それはどうしてですか?」
「六月の末って通信の二週間後でしょ〜。“通信”っていうのは、えっと……全日本通信陸上大会、みたいな名前の奴があるんだけど〜、その大会に出てから、今度は県総体。えっと、みんなよく聞く“県大会”って奴の準備があるから〜、よっぽどの選手じゃないと出ないね〜」
普段テキトーな話しかしない莉沙がちゃんと説明している。この間の麗華の話を聞いて、やっぱり昔から仲がいいっていいなぁって思った。
「莉沙はどうするの?」
「んんー、今年は出ない〜」
「そっか……」
莉沙は、今年は出ない。去年は出たのだろうか。
それよりも、人の弁当を勝手に摘んでいる欲求不満な幼なじみの手を叩く。
「いいじゃ〜ん。なんでダメなのさ」
「逆にいいと思ったの? その唐揚げと交換ね」
栞里の大好物である唐揚げを交換条件にすると、私の玉子焼は必ず守られる。今日も、栞里は残念そうな顔をしながら箸を下げていった。
「玉子焼は今度貰うとして。私達、記録会の前に何かしらのレースに出ておくべきだと思うの。でも、今何かいい話ある?」
確かに、栞里の話は的を得ている。練習と試合は同じように、という話はよくある話だけど、初めての大会の雰囲気に慣れてないとかなり厳しい。
絶対緊張で何かやらかすだろうし、どこかにいい大会とかないだろうか……
「玉子焼くれたら教えてあげる〜」
「えっ、莉沙知ってるの?」
「知ってるよ〜」
隣から栞里に睨まれながら、莉沙の弁当に玉子焼を乗せようとする。餌を求めるひなどりのように口を開けている莉沙がいた。その口に玉子焼を放り込んで、しばらく待っている。
「美郷の玉子焼おいしい……あたしの分も作ってきてよ〜」
「それはお母さんが疲れちゃうからダメだけど……それよりも記録会のこと教えてよ〜」
「あー、そうだね〜。私のお父さんの大学の記録会とかどうかな〜」
「どこでやるの?」
「浦和、武州大学っていうんだけど〜」
莉沙は天然なのだろうか。武州大といえば……あれ。威勢良く考えてみたけど、大学の名前はそこまで聞いたことがない。そういえば、高校は強豪だけれども大学はどうなのだろうか。
「武州大って武州大附属の武州大でしょ、でもそこ出身の選手ってすみれさんくらいしかいなくない?」
「そうだね〜、附属で強い子はみんな強豪大学に引っ張られていっちゃうからね」
「……でもそっか、大学の記録会だったら附属の高校生達も当然出てくるのか」
栞里と莉沙が真面目に話し合っている中、麗華さんが何が何だかわからずキョロキョロしている。私の玉子焼は何故か一つ減っている。
麗華さんの学食の小皿に私の玉子焼が乗っているのを見つけた。もしかして、麗華さんがキョロキョロしていたのは、勝手に玉子焼が置かれたからだろうか。
「莉沙さん、これは私がいただいてよろしいのですか?」
「いいでしょ、美郷〜?」
「え、えっと……うん、いいよ」
麗華さんは真面目だし、いい人だからなかなか断りきれない。それはしょうがないことだと思うけど、勝手に取った二人に関してはあとでどうしてやろうか……
「その、それで、お二人が話しているのが分からなかったのですが……」
「えっと、簡単に言うと二ヶ月後に大会に出るんだよ〜」
「へっ、えぅ、しかし、まだまだ私はそんなレベルじゃないですよ……?」
「大丈夫、その大会は大会って言っても自分の実力を調べる大会だから、大丈夫!」
フォローになってないような気がするけれども、その時はその時だしまだいいかなぁ。少し目が怯えている麗華さんに最後の玉子焼をそっと渡す。さっきの玉子焼で気に入ってくれればいいんだけど……
「じゃあ、エントリーは明日考えよ〜」
「そうだね、じゃあ私は授業に戻るね〜」
ちょうど予鈴が聞こえた。私達は自分のクラスに戻って、授業の準備をしないと。
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