行き先自由な四枚の切符
昨日は非常に大変だった。体力テストで声をかけなければいけないのに、結局声をかけられたのはただ一人だけ。明日の六限までに揃えなければいけないのに、かなりマズい状況になってしまった。
朝の練習を坂ダッシュまで終える。最近はいつもの公園に、見たことのない同い年同じ学校の子が筋トレしに来ているので、懸垂の日を腕立てとストレッチに変更していた。
「みーさーとー!」
股割りのストレッチをしていたその瞬間、脇腹を何かが這い回った。あ、今ピキって言った、やばい、ヤバイヤバイッッ?!?!
「み、みさと?!」
「つ、つ、つった……タス……ケテ……!!!!」
股関節に走るこの痛み、でもこれはよく練習後に、ふくらはぎや太ももを襲うアイツと同類なのは確かだった。
息が止まりそうなくらい痛い。股関節が
栞里に覆い被さられているのはなんとか分かったけど、もう、痛すぎて何もできない。
「深呼吸して……しろよ!!」
なんか怒られた。怒られた衝撃で痛みが吹っ飛んでしまった。落ち着いて深呼吸をすると、股関節に違和感は残ってるけど少し落ち着いてきた。
栞里が上に覆いかぶさって、伸ばしてくれていたみたいだ。
「ごめん、ありがと……」
「い、いや、別にいいんだけど、良かった……」
「そういえば、私の脇腹くすぐらなかった?」
「ぅいやあ〜? くすぐってなんかないよ〜?」
怪しい返事をしているが、あまりさっきの事を覚えていないので特に責めることは無しにしよう。
それにしても、不思議なことが一つある。こんな朝早くに、どうして栞里が来ているのだろうか。
「でも、どうしてこんな時間にここにいるの?」
「もしかして、自分に会いに来たんじゃないのかって期待してた?」
「してないから早く言って」
つまらなさそうにしている彼女の視線の先には、私がいつも気になっている同じ学校の子がいた。
懸垂が遠目に見てもとてもうまいとしか分からなかった。
「多分、多分だけど陸上やってたんじゃないかな……」
「え、あの子が?!」
栞里は目を細めながら、高鉄棒に近づいていった。近づけば近づくほど顔やシルエットが鮮明になっていく。
「あの〜、おはようございます〜」
「んぇ? あぁ〜、おはよ〜」
おかっぱ頭の彼女は眠たげな声を出しながら、こちらをぼけっと見ていた。でも、ここまで何も考えてなさそうな人も初めて見たかもしれない。
「あの、お名前は……」
「あたし? 私の名前は
高鉄棒からひょいと降りた彼女は、物珍しそうにこちらを見ていた。かと思えば────私達の脚を触り始めた……えっ?
あまりにも生々しい感触に、叫び声をあげてしまいそうになってしまう。でも、相手は同じ学校の、おそらく同じ学年の女の子だ。不審者ではない。
「うん、うんうん、小さい方の君は跳躍、多分幅かな〜、大体4m50誤差30cm。大きい方の彼女はスプリンター、12秒10誤差0.2秒かな〜」
今、私は何が起きているのか全く分からなかった。脚を触られただけで二人とも専門種目とベストを言い当てられてしまったのだ。何をされたのか全く分からなかった。
栞里に関しては全く平静を保っているが、こう言う時は手を見ればわかる。指をもじもじさせているはずだ。
させていなかった、あれ、全く動揺してない?
「ねぇ、もう一度陸上をやらない?」
栞里は、珍しく凛とした顔つきで彼女をじっと見ていた。その眼には一切の迷いが感じられない。
当の彼女はというと、髪の毛を手でいじりながらボーッと栞里を見上げていた。
「いいよ〜、別に〜」
「え、いいの?!」
「うん、あたし陸上好きだし」
こんなにもあっさりとうまくいくなんて思っても見なかった。あと一人になった。なったはいいのだけれど、どうしてこうも簡単に靡いたのだろうか。
「ねぇ、あたしのこと知ってるの?」
「まぁ、うちの先輩から聞いた話だけどね」
先輩、先輩?
ウチにいた先輩で彼女を知っていそうな先輩が分からない。
小野塚先輩やミサミサ先輩、コッペパンの先輩とかあとは……
「エルザさん、酒匂エルザさんって知ってるでしょ?」
「おーっ! てことは熊谷狩野中なのか〜、いいねいいね〜、エルザさんはいろんな補強教えてくれたから、大好きだよ〜」
酒匂エルザ先輩、ハードルで県勢初の全中入賞を成し遂げた選手だ。今は、確か東京の高校に特待生として進学したはず。
簡単に言うとドMだった。自分の肉体を鍛え上げる為には、いかなる痛み苦しみをも受け入れる、そんな人だった。
でも、エルザ先輩と栞里、仲良かったんだ……
「そうなんだ……あれ、確か中学校は……」
「鴻巣だよ〜」
「そうだよね……なんでエルザ先輩と仲良かったの?」
「家が近かったから〜」
にべもなく、氷見さんは言ってのけたけどよく考えたら納得できた。
エルザ先輩は確か鴻巣との市境に一番近いところに住んでたはずだ。多分ご近所さんだったのだろう。
それにしてもこの物怖じしない性格は一体なんなのだろうか。
「そろそろ時間だね〜、早く行かないと遅刻するよ〜?」
「わ、分かってるよ……栞里なんか遠いんじゃないの?」
「今日、制服持って来てるし」
結局、私だけ急いで家に戻る事になった。だけど、たった数時間後の学校がすごく楽しみになって来たのは、私の中の秘密にしておこう。
***
学校に登校すると、いつもの席に栞里の姿はなかった。この時間にはだいたいクラスメイトに囲まれてあたふたしているはずなのに何をしているのだろうか。
少し心配になったけれど、私は私で色々な準備をしなくちゃいけない。その前にトイレくらいは済ませておこうと、教室を出ると
「往生際が悪いぞ〜、いいじゃんか〜」
「り、莉沙に言われたら、入るしかないじゃない……」
「って事で、麗華も入るからよろしくね〜」
栞里と氷見さん、あと昨日の女の子が廊下でわちゃわちゃしていた。でも、今聞こえてきた話の流れだと……もしかして?
「おー美郷、芦野さんも入るって〜」
「芦野……さん?」
聞きなれない名前に戸惑っていると、昨日の女の子がこちらの方にやって来た。彼女が纏っているオーラにものすごく押されつつも、私はなんとか立った。このくらいのオーラがあれば、私も招集や待機場所で強く見られるかもしれない。
「遅ればせながら、
「あ、どうも……藤堂美郷です……」
毅然とした話し方で自己紹介されて、ちょっと怖いけどとりあえず自己紹介を返した。名前の響きがやっぱりお嬢様みたいだ。いいなぁ。
「じゃあ、また放課後にね〜」
一限の予鈴を合図に私達は自分達のクラスに戻ることを決めた。C組の一限は、確か数学だったはずだ。もう嫌だ、早く放課後になってほしい。そう願いながら、私は自分の机に戻っていた。
お昼はいつも通り二人で食べて、5,6限なんてほとんど記憶に残っていない。ホームルーム終了と共に私は先生のもとに一目散に走った。
「そんなに急いでどうしたんですか……?」
「先生、四人、四人集めましたよ!」
勢い余って教卓を押してしまい、先生を困らせてしまった。とりあえず元の位置に引いて戻してから、もう一度先生の顔を見る。その顔は、いろんな意味で驚いているように見えた。
なんて言われるんだろうか、ちょっと緊張してきた。
「は、早いですね、あと丸一日あるじゃないですか……」
「やっぱり、私陸上ぐらいしか取り柄がないので、本気で頑張りました!」
陸上ぐらいしか取り柄がない、と言って一瞬悲しくもなったが実は事実だ。
別に、誇れるほど頭がいいわけじゃないし、同い年の子達よりもスタイルがいいわけでもない。かわいいわけでもないし、ケンカが強いわけでもない。
それに、陸上だって成績はあまり良くない。県大会の予選に埋もれるくらいの成績でしかない。でも、他の誰よりも私は陸上が大好きだ。大好きで大好きでたまらない。片時も手放したくない。だからこそ今回は頑張った。
「……分かりました、校長先生に話は通しますが、私の権限で陸上部の部員とします……」
「え、じゃあ!」
「明日、四人全員で入部届けを持ってきてください……」
先生から手渡されたのは、みんなが持っていた入部届け。ようやく、ようやく私もチャンスを手に入れられた────!
「先生、ありがとうございます……!」
「気をつけて帰ってくださいね……?」
先生のおどおどした声を背中に、私はみんなの元へ向かった。
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