4.心のテストは突然に
「ねぇ、マジで言ってんの?」
朝からポカンとしている栞里の口に何か入れてあげたかった。間違いなく疑わずに飲み込むはずだ。
まぁ、廃部の話を聞いてもなお親友が「先生に交渉する」と言い始めたのだから、そりゃあビックリするだろう。私ならびっくりする。
「マジも何も、私、噂だけ聞いて何もしようとしてなかったなぁって思って。どうせ諦めるのなら何かしてから諦めたいなーって思って」
「まぁ、美郷の頭で考えた事なら、別にいいけど、いつやるの?」
「い、いつやろう、いつがいいかな、えっと、その……」
さっきまで勢い良く膨らんでた心の中の風船が急に萎んでいく。
そもそも私は何をすればいいのだろうか。学校の先生達が決めた事をどうやって覆せばいいのだろうか、そもそも私だって練習ちゃんとしてれば三年後、大学に行ってから考えればいいんじゃないのか。でも、高校で名前すら出てこなかった私が、大学に入ってなんとかでき、
「もうっ、そうやって人のこと巻き込もうとするくせに、すぐそうやって考え込む。美郷の悪いとこだぞー」
栞里に顔をいじられて、少し目が覚める。言い返したいけど、なんか言い返せなくって、心の中がすっごいいじいじしてる。これが図星ってやつなのかな。
でも、栞里の言う通りかもしれない。いっつも何かをやろうとしてこうやって考え込んでしまう。
まぁ、悪いところに気づいたからって、すぐに治せるわけじゃないんだけどね。
「いこ、美郷。ついていってあげるよ」
「へっ、で、でも、まだ話す事決めてないっ」
「先生っ、藤堂さんが先生に話したい事があるって言ってましたっ」
ホームルームの為に入ってきた九条先生に、栞里がよく通る大きな声で言ってしまった。どうしよ、もう後戻りができない。
大会の時よりも緊張している。一歩踏み出さなきゃ。ここから立って、先生のもとに行って、
「どうしましたか、藤堂さん」
「ひぇあっ!!!!」
目の前にいた先生に思わず腰が抜ける。気が抜けた感じのその瞳から、なんか不思議なものを見ているかのような視線に心が射抜かれたような気がする。
でも言い出せない、なんて言えばいいんだろ。「陸上部に、入りたくて、とか、でもどうしたらいいのか分からなくて」、なんて言えないし。でも、「このままで終わるの、いやだから」どうしても頑張りたい。私には、頑張ることしかできなくて。
「分かりました、先生に何日か、貰えませんか」
「えっ、何がですか?」
読心術、の使い手か?
分からない、先生がどうしてこんな話をし始めたのか分からない。なに、何日かもらうって、どういうことだろ
「美郷、多分自分で考えてるつもりだったっぽいです。大丈夫です。美郷にも考えさせてあげられませんか?」
「そう、それなら。明後日の放課後、職員室に来てください」
栞里と先生の間で話が纏まってる。なんでか分からないけど、なんかいい方向なのかな。
先生の後ろ姿を見送りながら、栞里に頭を撫でられている。いや、私なにも言ってない。なんでこんなに頭を撫でられているのだろうか。
「そうだ、今日、お父さんのところで練習するんだけど、見学に来る?」
その話で少し心が上向きになったのが、自分でもわかった。
実業団の中でも、指折りの実力者達が集う東洋電工。その練習を見学できるなんてこのチャンス滅多にない。
「うん、行く」
「じゃあ、学校終わったらすぐ行こ?」
いつもの親友の笑顔、ちょっと嬉しかった。
***
────東洋電工の警備詰所で受付を済ませて、私はグラウンドに入った。
トラックに目を向けると私がよく読む月刊誌だとか、日本選手権のライブ放送とかで見る顔の人が本当に走っている。
ホームストレートのスタートに見覚えのある背の高いシルエットが一人、その隣にはポニーテールがよく似合ってるかわいらしい女性が一人立っていた。
一人のかけ声と共に、並んでいた四人が走り出す。ポニーテールの女性の走りは、とても伸びやかだった。
最初の十メートルで既に先頭に立った彼女、トップスピードに到達した所で力を入れずに体を前に進ませて行く。あの感覚は栞里なら説明できるのだろうが、私には説明できない。
っていうか、その後ろにいるの栞里だった。
4人が走り終わったのを見て、私もそっちの方へ向かう。
「ふぇぇぇ……ああ、美郷っ、どうだった〜?」
いつも通りの抜けた声に捕まって、私は思わず逃げよっかなぁなんて思ったりした。
でも声の先には、ロンTに七分丈のスパッツ姿の栞里がこっちにやってきていた。
彼女が履いているPAMUのスパイクはいっつもカッコいいなぁって思う。
「練習参加、したくなったでしょ」
「いや、アジア大会とか控えてる選手もいるだろうし、その、私が混ざっても迷惑っていうか、」
「大丈夫、突然目の前に現れたりしなければみんな気にしないから、って制服じゃんっ、なんでスパイク持ってこないの〜!」
「きょ、今日は、家に帰る予定だったか
「おろ、こんなガールフレンドがいるなんて監督さんも気が気じゃないだろうね〜?」
栞里の後ろからおどけたような声を出しているのは、さっきのポニーテールの女性、どこかで見たことある人だ。
そうだ、あれは女子100m現日本記録保持者、河本すみれ選手だ。
トップアスリートのイメージが少しくず、変わったような気がする。
「す、すみれさん、そんなんじゃないですよ! 第一、私はそういうのには、興味ありませんし……」
「へー、じゃあ男の子の方が好きなんだー?」
「そ、そういうことでもないです!!」
どこの世界でも運動をしている人間には縦社会というものが必須オプションでついてくる。私はその片鱗を今見せられているような気がした。でも栞里がちょっとデレデレしてるのは、なんか解せない。
「まぁいっか、栞里ちゃん、今日なにするの?」
「とりあえず、今日は200のテンポ走を、27秒くらいで四、五本くらいやろうかなって思ってまして」
「じゃあ私もやるっ、がんばろーねー!」
河本選手に連れていかれる栞里の後ろ姿を見送る。世界と戦う選手といえど、無邪気な一面もあるもんなんだなぁ。
「あれ、美郷ちゃんじゃないか、一年前よりも随分立派になったね?」
声をかけられて振り向くと、栞里のお父さんが立っていた。
優しそうな声、とは裏腹にしっかりとしたアスリート体型に健康的な黒い肌、WOAKLEYのサングラスをかけている。
現役時代は日本リレーの黄金時代の一角を担った名だたるスプリンター、つい三年前までアジア記録を持っていたって聞いたことがある。
「り、立派って、むしろ痩せちゃって困ってるんです……」
「冬練習はよく走る分よく食べる。だから体重は増えやすいんだけど、それがシーズンに入ると絞れていくから自然と落ちるんだ。栞里もそうだったぞ」
また一つ賢くなったような気がする。私は遠目に栞里を見つめながら、前もって買っておいた飲み物を開けた。
栞里が珍しく言うのを頑なに拒否していたのが体重の話だった気がする。お姉さんにも言わなかったみたいなので、お父さんが知っているのは意外だった。
「栞里から教えてくれたんですか?」
「ああ、そうだね。まぁ、身長はともかく体重や体脂肪率はその選手のバロメーターを測るのに丁度いいからね。よく色々聞かれ」
「お父さん、やめてよー!!!」
後ろにはテンポ走の一本目を終えた栞里が、顔を真っ赤にして立っている。お父さんに対して怒っているはずなのに、何故か被害を受けるのは私だった。
ヒリヒリするくらい背中を叩かれた後に、栞里はお父さんと今日の練習について話し始めていた。
その時の栞里の顔は、いつもよりも真剣な顔つきだった。アスリートの、トップアスリートの顔つきと言っても過言では無いような気がする。
「だから今日のご飯はトンカツがいいな」
「分かった、寝る前の補強は多めにするしかないな」
時折聞こえる会話があまりにも親子しすぎていて、なんか面白かった。あのお父さんにしてあの栞里なんだろうなぁ。
「じゃあ、気を引き締めてあと四本。27秒フラットじゃなくて常に少し切るくらいで集中していけ」
元気の良い返事と共に河本選手の元に戻っていく。今度は自分から向かっていくその姿がちょっぴり凛々しく見える。
練習も終わって栞里がジャージ姿のまま、こっちにやってきた。
あの足首がシュッとしたジャージが似合うのはいいなぁって思う。
「お待たせ〜、一緒に帰ろ〜?」
「そのつもりで待ってたんだけど〜?」
自転車置き場に向かいながら、私は栞里の今日の練習の話を聞いていた。別の種目かもしれないけど、それでも陸上の話をするのは楽しい。
家までは三十分くらいだし、さっきの話でもしよっかな。
「ねぇ、コンビニ……行かない?」
「え、いいけど、何か買うの?」
コンビニで何買うんだろう、栞里が寄り道しようなんて言うことは滅多にないから、珍しく思えた。
「な、まぁ、なんでもいいじゃん……?」
近くのコンビニに自転車を止めると、栞里がウキウキしながらコンビニに入っていった。
何かいい事があったのかと思えば、レジに向かって何かを考えていた。
「唐揚げください〜」
ホットスナックを買っている所を初めて見たような気がする。急にどうしたのだろうか、慣れないものを食べると、お腹を壊してしまう体質を持つ彼女が少し心配になってしまう。
「練習終わってね、これを食べるのが楽しみなの」
「え、じゃあ、私と別れた後にコンビニ行ってたの?」
「まぁ、このコンビニ、美郷の家からは反対の方向だし、誘わなかっただけだよ〜」
あっけらかんとした感じで唐揚げを受け取りながら一緒に出てくる。アメリカンドックを買い忘れたので、急いで戻って一つ買ってからまた合流した。
「でも、私達にできることって何かあるのかな」
「さぁ。でも、分かんないなりにやってみればいいんじゃん?」
なんか、最近は栞里に後押しされてばっかだ。自分でなにかしらを考えて、ちゃんとやって行かなきゃいけないことだってあるだろうに。
でも、優柔不断気味な私からしたらこう言うのはとてもありがたい。
昔から、いろんな人に支えられていろんなことを学んできたと思ってる。だから今回も、栞里のその手に甘えようかな。
「そうだね、私なりに頑張ってみる」
「例えば、どうするの」
「仲間を増やしたら、いいんじゃないかな」
今は私と栞里だけだけど、あと二人くらい増やしたら少しだけ説得力は増えるかもしれない。
ちょうど明日は体力テストだ。これは頑張って仲間を探すしかない。
「たまにはいいこと言うじゃん、って美郷、携帯鳴ってるよ?」
栞里に言われて、ようやく私は一つの間違いを犯したことに気がついた。
家に、遅くなるって、連絡していませんでした。
「…………ご、ごご、ごめん、か、かか、かかか、帰る!!!!!!」
急いで自転車のスタンドを起こす。のんきな友達の声を背中に私は、複雑な気持ちで家に向かった。
お小遣い減らされちゃうかなぁ
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