3.朝こそ希望をもって
入学してから一週間経った。時間は朝の五時半。家の近くの公園は空気がいつも美味しい。
丘の上にある公園からは、街並みが眩しく見えて好きだった。田んぼもあって、ちゃんとした街並みもある、日の光が荒川に射してキラキラ輝いて見える
家からジョギングして来て、軽く体操をしてから芝生でストレッチをする。
朝はやっぱり、体が硬くなっているので入念にストレッチしなきゃ怪我をしてしまう。
「眩しい……」
いつも、この公園は眩しかった。芝生に寝っ転がって、身体のストレッチをするのが好きだ。
普通のストレッチを終えて、身体が柔らかくなってきたところで動的ストレッチに切り替える。
身体の軸を意識しながら、股関節を開いて回す。回して脚を下ろす。下ろす脚に腰を載せるように下ろしていく。
単純な動きをポイントを抑えて、精度を高くして取り組む、自然と身体が暖まるのを感じてきた。
温まってきたら、今度はその動きをツースキップのリズムで、でも姿勢は崩さず丁寧に。さらに進んだら、軽く流すように走って少し体を落ち着かせる。
様々な動きを取り入れた
「よし、そろそろやろっか……」
もう体はポカポカして準備は万端だ。
丘に登る坂の下に飲み物を置く。ここから坂の一番上までは八十メートル。しっかりと動きを止めつつ、身体から軽く力を抜いて構えた。
自分のタイミングで一歩目、二歩目を踏みしめていく。平地を走るよりも、太ももにかかる疲労は大きい。だけど、それにめげずに一歩一歩を強く“下ろす意識”を持って走っていく。
これを十五本。一本一本の間は軽くジョグをしながら坂を下りていく。
毎朝続けている練習だった。中学時代に陸上を始めてから三年強、長く続けてきたとは言えないけど、何があっても続けてきた。
────それを一昨日サボってしまった罰が、あれだったのかもしれないね。
十五本目を走り終わったら、シメの補強運動に移る。普段は縄跳びか高鉄棒で懸垂か、近くで自重トレーニングをローテーションでやっている。今日は高鉄棒で懸垂の日なんだけど……
「ふぃ〜、あ、あれ?」
坂ダッシュが終わった後にいつも使っている高鉄棒に今日は見知らぬ人がいた。
でも、あの青いジャージの上は見たことがある。学校指定のジャージ、しかも私と同じ高校のものだった。
しょうがない。今日は懸垂じゃなくて、家に帰って腕立て伏せにしよう。でも、家に帰ったらシャワーを浴びたくなってしまう。昨日一昨日と朝練をサボってしまったのだ、今日は早めに切り上げて明日からまた追い込もうかな……
玄関のドアまで辿り着いて、バタバタと音が向こうから聞こえてくる。なんとなく予想できたこれから起こること、その為にドアの前から急いで逃げる。
「お姉ちゃん、行ってきます!」
「奥村先生に怒られないようにするんだよ〜!」
ガチャン、と乱暴に開け放たれたドアからバタバタと出ていく
部の朝練がない分時間に余裕ができたから、シャワーを浴びて
お母さんと二人で朝ごはんを食べる。お母さんは料理が大好きなので、いつも凝った朝食が出てきて楽しかったりする。
「学校には慣れた?」
「うん……ちょっとは……」
「陸上部の雰囲気はどう?」
やっぱり聞かれると思った。お母さんだってわざと聞いてるわけじゃない。『美郷と
だからこそ、だからこそ言いたくなかった。言いたくないけど、お母さんに嘘は絶対につきたくない。
「その、えっと、陸上部、廃部になるんだって」
「んー、そっか。じゃあ大学で陸上やるの?」
予想もしなかった返答に、私は思わずトーストを置いた。てっきり、お母さんは悲しむと思ったんだけど……なんだか負けた気分だ。
「なんで?」
「陸上部に入れなくても、美郷は朝練を続けてるじゃない。お母さんはね、美郷が好きな事に頑張ってるのを見るのが大好きだからね〜。高校で大会に出られなくても、大学で続けるんだったら、三年後を楽しみにしよっかな〜って思ってね」
トーストにどんどん涙が落ちてしまう。やだなぁ、今日はバター多く塗っちゃったからただでさえしょっぱかったのに、これじゃあトーストが食べられなくなっちゃうよ。
ずっと、ずっと陸上に関わっていたいと思ってた。だから、高校でできないのは悲しいけど、大学があるじゃんか。
「えへ、そっか、そうだよね。うん、頑張るよ、一人で頑張ってみる!」
「んんっ、でも美郷。一人で頑張る前に、ベストは尽くしたの?」
今度はバトンで思いっきり頭を叩かれたような感覚。お母さんがいつも大会が終わった後に言ってた言葉だった。
私は、今ベストを尽くしたのだろうか────尽くしてなんかいない。
入れないって聞いて、勝手に諦めてただけだった。それで何が一人で頑張る、なんだろうか。
今度こそ、恥ずかしくなってしまった。
「ほら、学校遅刻するわよ。早く行きなさい」
「うん、わかった。いってきます!」
お弁当を渡されて、私は結局いつもみたいに家を出た。今日の空は、なんか少し曇ってた。
***
「おはよ〜、体調はもう大丈夫?」
「どこかの誰かとは違うのでもう大丈夫ですっ」
後ろからからかうような声が聞こえて、思わず強く返してしまう。だけど、フォローはいらない相手なので特に気にしないでいると、
「ああ、親友だったはずの女の子にいじめられるこの私かわいそう……」
「気持ち悪い、栞里らしくないよ」
「えっ、そこ真面目に返しちゃうの、結構辛い」
ふてくされた顔でまた栞里はスマホに目を戻した。その目線の先には、何処かで見たことのある100mのレースが映し出されていた。
「それ、去年の日本選手権?」
「そう、すみれさんが日本記録更新したやつ」
確か、去年の日本選手権女子100m、その準決勝で東洋電工の河本すみれ選手が日本記録を二十年ぶりに更新したって言ってた気がする。
記録は覚えてないけど。
「追い風0.3メートルで11秒16。今年の世界陸上じゃ
凄い、世界が視野に入っているその風景はどんなものなのだろうか。しかも、私よりも二秒速い。
たった100分の1秒、たった1センチが明暗を分けるこの世界に置いて二秒なんて、月とすっぽんだ。象さんに向かって丸腰で挑むような、そんな感じの差。
2秒じゃ深呼吸もままならないくせに、その2秒に無数のランナーたちがひしめき合ってる。
「昨日、一緒に走らせてもらったんだけどさ、なんだろうね、何が凄いんだろう。全部が凄すぎてわからなかった」
「そっか、お父さんのチームだもんね、河本選手……」
そんな人と、一緒に走らせてもらえるその栄誉がどれだけ凄いものか。一般的な、その辺のランナー達と同じくらいの記録しか出せない私にとってはそれだけで羨ましかった。
「だって、このレースだってさ、鳴ってから最初の加速が綺麗にハマってるし、そこから接地がフラットなのにベタっとしてない、しっかりと母指球で接地しててピッチも空回りしてない。トップスピードに乗ってからそれを力まずにリラックスして最後まで保てるなんておかしいよ…………」
私は、そもそも栞里が何の話をしているのか分からなかった。走ることに関しては確かに必要だけど、こと100mのレースに関しては全く分からなかった。すごく熱弁されるけど、難しいんだなぁ、なんて思ってたりする。私
けど、そんな栞里はいつも楽しそうだった。私は自分の種目を語る時、あんなに楽しそうに喋ってるのかな。
「そっか、いいなぁ、栞里はそんな機会があって」
「だからさ、美郷も来なよ。お父さんも言ってたよ、『美郷ちゃんだったら大歓迎だよ』って」
確かに実業団の人達に囲まれて練習するのもいいかもしれない。上を見続けて練習するのだっていいことかもしれない。
────だけど、私は上じゃなくて前を見たい。
「いいかもしれないけど、でも私はやりたい事があるの、それに栞里も手伝ってほしいなって思うんだけど……?」
彼女のクリッとした瞳をしっかりと見つめる。思ってなかった反応をされたからだろうか、栞里は「えっ、えっ?」とすごく戸惑った様子でキョロキョロしていた。
私は、届くか分からないようなとこを見続けるだけなら、隣の人に勝ちたい。勝ちたいからこそ────
「先生に頑張って頼もう、絶対に結果を出すので入部させてくださいって!!」
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