第四十五話 さよならのめまい
余命二日。
「お世話になりました」
美観地区の夜、まほろば堂の就業後にて。今宵は望美の死亡前夜だ。
望美は和装メイド服を丁寧に折り畳んで真幌に渡すと、深々と頭を下げた。
遂に明日は、望美の死亡確定日。
真幌の説明によると、幽体離脱して自由に動けるのは今日で終了なのだそうだ。
明日は病院のベッドの上。こん睡状態で絶命寸前なので意識が回復することは、おそらくない。
今晩眠り、目覚めた先は冥土へと旅立った後の世界。事前にそう告げられた望美だった。
「お疲れ様でした、望美さん。こちらこそ、本当にありがとうございました」
備中和紙の封筒に入ったバイト代を手渡しながら、丁寧にお辞儀をする店長の真幌。
真幌は望美をじっと見つめている。
白髪と長いまつげに包まれた真幌の神秘的な瞳に、望美は吸い込まれそうになる。
望美の顔がぽっと火照る。照れて視線を反らす彼女。
今度は、真幌の横で並んで立っている忍に向かって頭を下げた。
「忍さんにも、本当にお世話になりました」
いつものハスキーボイスで忍が言う。
「ていうかさ。どうせアタシらも、そのうち
ひらひらと手を振る彼女。鋭い瞳がすこし潤んでいるようにも見える。笑顔もぎこちなく引きつっている。
「にゃあおん」
高い吹き抜け天井をあおぐ望美。
天井の見せ梁の上から、黒猫の鳴き声がする。
「マホくんとも、さよならね。君とは色々あったけど……元気でね」
黒猫マホは返事に答えず、ぷいっと尻尾を巻いて闇の中へ消えて行った。
「きっと照れてんのよ、あのがきんちょも」
忍がフォローを入れる。
望美は「ええ」と返事をしながら、視線を真幌と忍の方へと戻した。
「では。店長、忍さん、マホくん。どうかお元気で」
改めて深々とお辞儀をすると、望美は踵を返した。
表に『本日閉店』と札の掛かった引き戸を、がらりと内側から開く。
望美は店の敷居を跨いだ。
感慨深い気持ちに浸りながら店頭の暖簾を潜り、引き戸をそっと閉める。
前を見る望美。闇夜の美観地区が視界に広がる。
傍に流れる倉敷川の河川敷沿いを、レトロな外灯が淡い光を照らし出している。
連なる白壁や格子窓の町並に枝垂しだれ柳の並木道。淡い橙色の光彩が夜景を幻想的に包み込む。
師走の冷たい風がびゅうと吹きすさぶ。
コートの襟とセミロングの髪を押さえる望美。彼女は振り返り店舗を見上げた。
『まほろば堂』
濃い焦げ茶色の木製看板には、白い毛書体でそう記されてある。古民家を再生した、日本情緒あふれる老舗の土産屋だ。
どこか懐かしい佇まいが、望美の郷愁をそこはかとなくくすぐる。
ずっとぼっちだった自分が死ぬ間際になって、ようやく出会えた居場所。
心許せる暖かい職場の仲間たち。そして、心ときめかせる憧れの上司――。
「さよなら、まほろば堂……さよなら……店長……」
望美の瞳から溢れる生暖かい涙が、木枯らしと共にはらはら冷たい風に舞う。
こうして望美は、まほろば堂に別れを告げた。
*
その晩、自室のアパートで望美は夢を見た。
地獄の淵を彷徨う夢だ。
うなされた後、はっと目覚める望美。
「……夢か」
そこはまさに、魑魅魍魎が踊り狂い阿鼻叫喚に塗れた、地獄絵図そのものだった。
ふと以前、駅のホームで妄想していた自分の心の声を思い出す。
【――天国、そこがあたしの
――あたしの行き先は……冥土は……天国とは限らない……冥土は地獄かもしれない……冥土には……おとうさんはいないかもしれない……悪魔しかいないかもしれない……恐い……冥土は……恐い……。
未知と言う名の恐怖に怯える望美。
布団の中で、がたがたと歯を鳴らし全身を震わせる。
――怖い……怖い……死ぬのは恐い……。
涙が止まらない。畏怖の念に押しつぶされそうになる感情が、望美の瞳から堰を切ったようにあふれ出す。
望美はぶるぶると震えながら、枕を抱え布団の中でうずくまった。
――怖いよう……おとうさん……怖いよう……おかあさん……。
枕を濡らしながら、何度も何度も繰り返す望美。
軽い
布団の中で、天地がひっくり返る間隔に見舞われる。
望美の意識は、忘却の彼方へと薄れて行った。
*
余命一日。
望美がこの世に生存する最期の日だ。
本日、十二月七日の午後十時三十七分五十八秒を以って、彼女の死亡が確定する。
事前に、まほろば堂の店長から、そう告げられていた望美だった。
――ここは?
目覚めると、望美は真っ白な世界にいた。
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