第四十一話 母の事情
「また、ここに来ちゃった……」
実家の玄関の前で、望美がため息混じりに呟く。
望美は母親の佳苗から絶縁されている。
継父による例のレイプ未遂事件がきっかけだ。
母は自分を信じてはくれず、継父の嘘の方を信じ込んだ。
実の娘よりも男の方を選んだのだ。
傍から見れば本当に白状で酷い母親だ。
ひとり娘が瀕死の重体だというのに、病院にお見舞いにすら訪れない。
自分はもはや、完全に母から見放されている。だけど――。
「おかあさん……」
この世の最期にもう一度だけ、母の顔を見て置きたかったのだ。
どんなに煙たがられ疎ましがられても、どんなに嫌われ憎まれても。
この世に残された唯一の肉親であることに、何ら変わりはないのだから。
望美はためらいがちに、玄関扉のドアノブへ恐々と手を掛けた。
そっと捻るが動かない。
「鍵が掛かってる」
望美は生霊でありながら、壁抜けの類は出来ないのだ。
中には入れそうにない。
こうなれば、母が外出するのを待つしかない。
佳苗は水商売のスナック勤めをしている。
もうすぐ出勤の時間の筈だ。
「でも、もし……あの人が出てきたら嫌だなあ……」
いくらこちらの姿が見えっこないとはいえ、継父の顔は見たくない。
あのゲスな悪魔とは絶対に出くわしたくない。
望美はゆっくりとドアノブから手を離した。
玄関前から離れ、近くの電柱の傍に佇む。
しばらくして買い物袋を抱えたふたりの中年女性が、並んで望美の前を通り掛かった。ご近所の主婦たちだ。
年の頃は母親と同じぐらいだろうか。望美にも見覚えがある。
突然、主婦たちは望美の実家の前で立ち止まった。
――えっ、なんで?
動揺する望美。自分の存在がバレたのだろうか。
しかし人間である彼女たちは、生霊である望美に気が付かない筈である。
主婦のひとりが、望美の実家を指差しながら小声で言う。
「ねえねえ、そういえば逢沢さんとこの旦那さんって――」
噂話だ。どうやら望美の姿が見えているわけではなさそうだ。
安心した望美はふたりの傍に寄り、そっと聞き耳を立てた。
「突然、居なくなったんじゃって。って、もう一年ぐらい前の話じゃけどね」
もうひとりの主婦が呆れ顔で言葉を返す。
「えー、今更なに言ってるのよ。ここのご主人さんは十年ぐらい前に亡くなった筈じゃけど?」
「違うわよ、あのずっと転がり込んでた例のヒモ男の方よ」
――え?
「ああ、なんだ。あのチャラチャラした無職のチンピラのことね」
「なんでもあのヒモ男、他に女作って逃げちゃったらしいの」
「へー、まったくどこまでもクズな男じゃねえ」
そこまで聞き終えると、望美はふたりの主婦から離れた。
どうしても居た堪れなくなったのだ。
結局、望美は母親の顔を見ることなく実家を立ち去った。
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