第二十七話 引き裂かれた約束

「おとうさん!」


 暖簾の奥から現れたのは亜紀だった。

 色あせたピンクのパジャマに身を纏っている。


「あっ! な、なんで、どうしてここに亜紀が?」


 ――ええっ! どうして娘さんの亜紀ちゃんが?


 中森とメイドの望美は驚愕した。

 亜紀は中森の五歳になるひとり娘だ。

 

 ふたりの疑問に真幌が答える。


「実は先ほど、私どものスタッフがご自宅からお連れしたのです」


 ――えっ、忍さんが?


「そ、そうなんですか……知らない人が来ても絶対に鍵を開けちゃいけないと、厳しく仕付けていたのに……でも、なんで亜紀をここに?」


 真幌がその理由を述べる。


「亜紀ちゃんに、おとうさまである中森様のことを相談しました」

「なっ?」


 ――な、なんですって!


「その上で、ご本人がどうしても伝えたいことがあるとおっしゃっていましたので、お連れした次第です」


「なっ? よ、余計なことを娘にしゃべったのですか? 相手は、まだちいさい子どもなのに!」


 店主に真相を暴露され激怒する中森。

 そこに亜紀が口を挟んだ。


「ぜんぜんよけいなことじゃないよ、おとうさん!」

「あ、亜紀……」


 今度は真幌が口を挟む。


「娘さんは、とてもしっかりとした賢いお子さんです。ちゃんと状況を把握し、理解をしています。それに父親の命を掛けた行動を伝えるのに、ちいさいも大きいもありません。人には家族の事情を知る権利があるのです」


「で……ですが……」


 狼狽する中森に、娘の亜紀が言う。


「おとうさん、アキをおいて、どこかとおくにいっちゃうつもりなんでしょ? そんなのぜったいイヤだからね!」

「亜紀……ごめんよ……おとうさんはどうしても……遠くへ行かなくちゃいけないんじゃわあ……」


「えーっ、じゃあアキもつれてってよ。いっしょにいこうよ」

「ごめんよ……それはできないんじゃ……だからこれからは……ひとりで良い子に……」


 亜紀が涙ぐむ。


「やだよ……そんなのやだあ……」


 言い合う父と娘。その傍に店長の真幌がそっと歩み寄る。

 メイドの望美は、真幌の藍染着流しを纏った背中をじっと見つめた。


 ――店長……。


 真幌はゆっくりと口を開き、父親に言った。

 

「中森様、若輩者の自分が差し出がましいかもしれませんが。ひとつ個人的な意見を述べさせて頂いてもよろしいでしょうか?」


 無言の中森。

 望美は心の中で呟いた。

 

 ――え、あの聞き上手の店長が、お客様に自分の意見を主張するなんて……。


「ご承知の通り、まほろば堂は死神との契約店です。そして自分は、死神と雇用契約を交わした人間であります」


 珍しく自分のことを語りだす真幌。しかも顧客の前でだ。


「いわゆる死神の手先。常識的に考えれば、世にも奇妙な恐ろしい業務です。だけど自分は、この仕事がそんなに悪いものではないと考えています」


「…………」

 

「この世の中は、争いや憎しみや裏切りといったけがれに濡れています。人種の差別や貧富の差も激しく、本当に不平等です。だけど人は何時かは死ぬ。死の現実だけは、誰の元にも平等に訪れます」


 真幌が真剣な表情で続ける。


「だから世知辛い現世とは早々に見切りを付けて、通常では到底叶わぬ夢と引き換えに、早めにあの世へ旅立ちたい。そんな望みを、とがめるつもりは毛頭ありません」


 言葉に熱が篭る。


「私どもが、お客様の大切な魂の代償としてお渡しする手土産。お客様がそれで成仏できるのか? それが本当の望みなのか? その夢や欲望を叶える事で、お客様の魂が本当に救われるのか? お客様のお話を聞かせて頂いて、しっかりと内容を見定める。その上で、お客様にとって最適な『冥土の土産』を提供したい。それが自分の仕事なんです」


 ――店長……。


 何時になく感情的な真幌。

 中森は娘の頬に顔を寄せ、店長の話を黙って聞いている。


 一呼吸置いて、店長の真幌が言葉を続ける。

 

「大切な娘さんを、この世にひとりぼっちで置き去りにする。それが、中森様の望む冥土の土産ですか? あなたの望む幸せのかたちですか?」


 そう言われた中森が、愛娘の顔を見つめる。

 亜紀もじっと見つめ返す。


「それは……私のように甲斐性なしのクズな父親なんて……消えてしまった方が娘の為なんですよ」


 真幌が優しい眼差しで問い掛ける。


「大好きなおとうさんがいなくなったら、亜紀ちゃんはきっと悲しみますよ」


 亜紀も父親の顔を見ながら言う。


「そうだよ、かなしいよ。だから、アキをひとりにしないでね。どこにもいっちゃやだからねっ!」


 真幌は父と娘の顔を交互に見ながら言った。


「ですから、こうやってあなたの帰りを待ってくれる人がいるうちは。自ら命を絶つなんて選択肢は、どうか脳裏から消し去って欲しいのです」


 顔をしかめて黙り込む中森。


「…………」


 そんな父親を亜紀が円らな瞳で見上げる。


「アキね、きのう、おかあさんとやくそくしたの」


「えっ?」っと中森が驚く。


「おかあさん、いってたよ。おとうさんはいま、たいへんなピンチなんだって。だから、どんなことがあっても、アキがいつもおとうさんのそばにいてねって。おかあさんのかわりに、しっかりまもってあげてねって」

「玲子が……おかあさんが……そんなことを……」


 中森が視線を反らして呟く。

 そんな父親の顔を、亜紀が覗き込みながら言う。


「ねえ、おとうさんってしゃっきんがあるんだよね?」

「そ、それも……おかあさんが言ってたのか?」


「うん。ねえねえ、しゃっきんトリってどんなトリ? ワシさんやタカさんよりこわい? でも、だいじょうぶだよ。ちゃーんとアキが、こわいトリさんから、おとうさんを、まもってあげるからね」


 泣き笑いの表情を浮かべる中森。


「あ……き……」


 亜紀はにこりと無邪気な笑みを浮かべて行った。


「だから、ふたりでがんばろうよ。おとうさん」


 中森の肩が、わなわなと震える。

 その場にしゃがみ込んで、中森は亜紀を強く抱きしめた。


「亜紀……亜紀……ごめん……亜紀……ごめんよ……」


 ぼろぼろと大粒の涙を流しながら、何度も娘の名前を呼ぶ。


「おとうさん、くすぐったいよ。それに、ほっぺがびちょびちょー」


 離れたところから見ているメイドの望美の頬にもつらりと涙が伝う。もらい泣きだ。


 ――死んじゃいけない……悲しむ……家族が……いるうちは……。


 真幌の言葉を、自分の境遇と重ね合わせる望美。

 死んだ優しい父親と、生きている冷たい母親。彼女の脳裏にふたりの顔が浮かんだ。


 ――おとうさん……おかあさん……。


 暖かさと冷たさの入り混じった、彼女の心の雫が零れ落ちる。


 しばらくして、真幌がそっと声を掛けた。


「ですから中森様、どうか亜紀ちゃんの為に生きて――」

「――もう手遅れですよ、店長さん……」


 真幌の懸命な説得に、ようやく中森が応える。

 娘を抱いてしゃがみこんだまま、真幌の顔を見上げる中森。

 声を震わせながら真幌に言う。


「だって、私には多額の借金がありますし」

「借金の返済なんて、どうにでもなりますよ。ご家族の強い絆があれば、きっと乗り越えられます」

「それだけじゃないのは、店長さんの方がよくご承知でしょう?」


 中森が悲壮な表情で伏せ目がちに続ける。


「だって、私は既に『死神との契約』を交わしているんですよ」


 ――そうよね……確かに……。


「冥土の土産として、死んだ妻を娘と会わせてもらいました。死者を甦らせるという禁断の背徳行為。その願いも店長さんにご無理を言って叶えて頂きました」


 望美がうんうんと頷く。


「自らの魂と引き換えに、願いを叶えて頂くのが約束の筈。そんな私が、のうのうと今後も生き続けるだなんて。覆水盆に返らず。取り返しは不可能です。今更、どうあがいても手遅れ……」

「大丈夫ですよ」


 にこりと微笑む真幌。

 彼はテーブル席に戻り、一枚の和紙の書類を掴んだ。


「それ……は?」


 中森が亜紀から手を離し、立ち上がる。

 彼は真幌に詰め寄った。


 ――店長、それは? 一体なにが大丈夫なんですか?


 望美も一緒になって脇から店長に詰め寄る。

 生霊である望美の姿は、実体である中森親子には見えてはいない。だから遠慮はいらない。

 

 中森と望美はまじまじと書類を見た。

 

「あっ!」


 ――あっ!


『特約契約書』


「はい。先日、中森様からご署名頂いた特約契約書です」

「ええ、自分のサインもありますし……そ、それは分かりますけど……」

「だから大丈夫ですよ、こうすればね」


 真幌は中森の目の前で和紙の契約書を、中央からびりびりと引き裂いた。


「あああーっ!」


 ――あああーっ!


 顔を真っ青にして絶叫する中森と望美。ふたりの叫びがユニゾンする。


 ――ててててて、店長っ! そんなことしちゃっていいんですかっ? 大事な神の書類を勝手に破っちゃって。しかも特約契約書ですよ? それこそ背徳行為。っていうか神さまへの反逆罪ですよ? 本当にいいんですかあーっ!


 真っ二つに引き裂かれた契約書。それを真幌はぐしゃぐしゃに丸め、木製の床へと投げ捨てた。

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