棘のない薔薇

UMI(うみ)

棘のない薔薇

 パチン、パチンと薔薇を摘む。良く切れる鋭利な植木鋏で立花美咲は端正込めて育てた薔薇を切っていった。母が大事に育てていた薔薇だった。

 母はいわゆるロザリアンだった。誰よりも、実の娘の美咲よりも彼女の父よりも薔薇を愛していた。美咲が七歳の時、母は失踪した。男と駆け落ちしたのだ。美咲と父を置いて。妻子ある男性だった。美咲と父に残されたのは一通の書置きだった。


『薔薇をお願いします』


 美咲と父については一言も書かれていなかった。あの母は家族よりも愛する薔薇のことが気掛かりだったのだ。父は半狂乱になり庭の薔薇を焼き払おうとした、それを美咲は必死になって引き留めた。その残された薔薇だけが母が唯一残したものだったからだ。危うく薔薇ごと美咲は焼き殺されかけた。今も左腕には酷い火傷の跡が残っている。けれどそれで父は薔薇を処分することを諦めた。

 美咲は薔薇を愛してはいない。むしろ母の愛を一身に受けていた薔薇を憎悪している。それでも母を忍ぶものはもはやこの薔薇しかない。母の面影を追い続けるのは子供の宿命のようなものなのかもしれない。美咲は母の不倫相手を知らない。家族よりも愛した薔薇を捨ててすら選んだ男とは一体どんな人間だったのだろうか。そればかりが最近気になっていた。

 薔薇を数本切ると、流し場で綺麗に棘を取った。ゴム手袋をするとどうしても棘の取り残しが出るからだ。だから美咲の指にはいつも薔薇の小さな棘が少し刺さっている。指先も多少茶色く変色しているのだった。ここまでして綺麗に棘を処理しているのは美咲にしか知らない一つの理由があった。

 棘を綺麗に処理した薔薇を花瓶に活けた。玄関にそれを飾る。今日はサーモンピンクの薔薇だ。自分と同じ名前の『美咲』という薔薇だった。母は娘の自分を愛していたから薔薇の名前を付けたのではない。薔薇を愛していたから娘の名前に選んだのだ。美咲はそう考えている。

 花を飾り終わると、リビングに入る。テーブルに置きっぱなしにしていたスマホにメールが入っていた。相手は藤堂耕太。美咲の恋人だ。いや、愛人というのが正しいのだろう。彼は妻子ある男性なのだから。付き合い始めてもう五年になる。妻子がいると知ったのは三年前だ。あの時は修羅場だった。


「どうして黙っていたのよ!」

「君と別れたくなかったんだ」

「じゃあ、奥さんと別れて」

「勿論、いずれ妻とはきちんと離婚するよ」


 そのいずれは今もってやって来ない。何度別れようと思っただろう。あんな男と心の中で何度罵ったことだろう。それでも美咲は別れることが出来ないでいた。未練があるのだ。まだ、この男に。一番罵りたいのはそんな自分自身かもしれない。

 メールは「今夜会いたいから、行くね」というものだった。いつもこうだ。耕太は美咲の都合を考えてくれたことなどない。自分が会いたい時だけやって来ては、家族の元に帰って行く。

 ああ、本当に馬鹿な女だと美咲はスマホをソファに放り投げた。母のような家庭を壊すような女にはなるまいと思っていたのに、この体たらく。やはり自分はあの女の娘なのだと反吐が出る。ああ、せめて子供は生むまい。母や自分のような女の呪わし血の連鎖はここで断ち切るのだ。父は母が駆け落ちしてから浴びるように酒を飲んで呆気なく死んだ。完全な急性アルコール中毒だった。幸いにして保険金と家があったので美咲は大学まで出て就職することが出来たのだった。

「あーあ、私って馬鹿」

 そう言いながら美咲はキッチンへと立った。これからやって来る不誠実な男のための料理をするために。

「本当、馬鹿」

 美咲は自嘲気味に笑った。


 鍋からいい匂いがした頃にインホーンが鳴った。耕太に違いない。美咲はインターホン越しに念のため問いかける。

「どちらさまですか?」

「俺だよ、耕太だよ」

 玄関を開けると耕太はにこにこと笑って立っていた。もう耕太は四十を超えているが童顔とその屈託のない笑顔から三十代前半くらいにしか見えない。この男が不倫をしているなんて誰も思ってもいないに違いない。耕太は玄関先で革靴を脱いだ。

「おお、いい匂いだな」

 靴箱の上に置かれた薔薇には耕太は見向きもしない。気付いてすらいないのかもしれない。がさつで気遣いの出来ない男。それが耕太だ。今日も駄目だったかと美咲は内心ため息を付いた。最初から期待などしていなかったが、それでもがっかりしたのは事実だった。

 美咲はある幻想を抱いていた。もし耕太が美咲の育てた薔薇を美しいと言ってくれて、その薔薇を欲しいと望んでくれたなら。その時こそ、美咲の全てを耕太は受け止めてくれるのではないかという幻想だ。母への憎悪ごと全て受け止めてくれる時がその時だと、美咲は根拠なく信じていた。その幻想に縋っていたといってもいいのかもしれない。そんな幻想に捕らわれているから、別れられないのだとわかってはいた。

「時間がなかったから。簡単で悪いけどシチューにしたの」

 美咲は努めて明るい声で言った。

「いいな。美咲のシチューは美味いから」

 耕太の妻は料理が下手らしく、いつも文句を言っているのだ。

「干し椎茸でダシを取るのがこつなのよ」

「へえ。それであんなに美味いんだな」

 耕太は夕食を食べると、さっさと帰って行った

「仕事抜け出して来たんだ」

 あははっと笑う。夕飯をたかりに来ただけかと呆れる。玄関で耕太を見送ると美咲は薔薇に話かけた。

「今日も気付いてさえくれなかったね」

 勿論薔薇からの返事はない。美しいとさえ言わない男にこの薔薇が欲しいと言ってもらえる日など到底来そうになかった。それでも一抹の願いを込めて美咲は薔薇を育てて飾るのだ。薔薇の棘をいつも綺麗に処理しているのはそのためだ。いつか耕太に贈る時に彼が棘で傷つかないようにと。

「私って心底馬鹿だよね」

 美咲は傷だらけの指先を顔の前で翳した。美咲の指が傷だらけの理由すら耕太は訊かないのだった。


『息子が熱を出した、ごめん。妻を一人にしておけない』

 そのメールを見て、美咲はスマホを床に叩きつけた。

「なによっ!」

 いつも耕太は美咲の家でごろごろしながら過ごしている。「五月蠅い子供たちもいないし、妻に粗大ごみされないし。美咲の家が最高」というのが理由らしい。そんな耕太が珍しくドライブを約束してくれたのだ。それなのに結果はこれである。

(普段は子供や奥さんの文句ばかりのくせに!)


「俺は給料を運んでくるだけの存在」

「家では邪魔者」

「妻は料理は下手だし。掃除も駄目

「子供は俺を万年平社員って馬鹿にしてる」


 そんなことばかり言っている癖にいざとなればこうだ。結局美咲よりも家族を取る。それなのに美咲は文句の一つ言うために耕太に電話もメールも出来ない。うっかり奥さんに気付かれる可能性がないとは言い切れないからだ。自ら耕太の家庭を壊すようなことはしたくなかった。不倫をしていて何を今更と言われそうだが、それをしたらそれこそあの母親と同じようなモノに成り下がってしまう気がした。

 耕太の家庭が終わりが迎えるのなら、耕太自身の手でやって欲しかった。いつか家庭よりも自分を選んで欲しい。あの飾ってある薔薇を欲しいと言って欲しいのだ。そう思い続けてもう三年だ。もう潮時なのはわかっている。それなのに別れることが出来ないのは、まだ好きだからだ。我ながら月並みだと思う。耕太に未練たらたらなのだ。

 母と駆け落ちした男性はどういう人間だったのだろうか。彼もまた家庭のある妻子持ちの男性だった。けれど男は全てを捨てて母を選んだ。同じように不倫している自分と母の違いは何だろう。皮肉なものだ。美咲は自嘲した。あれほど母と同じようなモノになるまいと思いながらも今は違いと共通項を探している。

 考えるのも疲れ果ててきた。美咲は仕事をすることに決めた。美咲の仕事はフリーのライターだった。収入は高くないが持ち家なので生活していくことに問題はない。それにおかげさまで耕太の都合にいつだって合わせることが出来る。余程締め切りに追われていなければ。もっとも締め切りに追われている時だって、耕太はやって来て好き勝手ごろごろしている。これもまた皮肉だなと美咲は思った。

 パソコンを立ち上げてメールをチェックすると今回は『不倫』について書いて欲しいという要望だった。

(タイミング、わるっ!)

 美咲はそう思ったが、仕事は仕事だ。美咲はため息を一つ。そして少し考えてキーボードを叩き始めた。


 結局出来た原稿はありきたりのものだった。

『人を好きになることは止めることは出来ないし、攻められることは出来ないけれど、多くの人を不幸にしてそれを背負って生きていく覚悟が必要です』

 ありがち、ありがちと思いつつも美咲はメールでそれを担当者に送った。

(覚悟かあ……)

 美咲は考える。美咲自身は独身だから、不幸になる家族はいない。母親は失踪、父親は死んでいるのでこの不倫を咎めるものもいない。問題は耕太だ。耕太にその覚悟があるのだろうか。とてもあるとは思えなかった。あったらとっくに離婚して美咲を選んでくれている。彼は家庭を壊すことも出来ず、かといって美咲と別れることもせずにのうのうと不倫を楽しんでいる。

(なんか、無性に腹が立ってきた……)

 手当たり次第にモノを部屋中に投げ散らかしたい気分に襲われた時だった。美咲のスマホがメールの着信を告げた。見れば耕太からだった。

『今から行くわ』

 そう簡潔過ぎるほどの内容。ふざけんじゃないわよと思わずメールを返そうと思って、止めた。久しぶりに、というか諦めて訊かなくなっていたことを訊きたくなったのだ。「いつ離婚してくれるの?」と。

 耕太がやって来ていつものように美咲の食事を平らげてしまうとごろりとソファに横になった。

「ねえ、お子さん熱を出したんでしょ。いいの?」

 まずは当たり障りのない話題から振ってみる。

「ああ、大丈夫、大丈夫。お袋が来てくれたから」

 耕太がぶらぶらと手を振る。そしてふと顔が陰った。

「子供のことよりも粧子が問題なんだ……」

 粧子というのは耕太の妻の名前だ。

「奥さんが、どうかしたの?」

 いつもへらへらした脳天気な耕太らしくなかった。

「最近、いつも横になっててさ……家事もろくにしない。まああまりしない奴だったけど」

「体調悪いんじゃないの?」

 妻を心配する耕太に複雑な気持ちを抱きながらも美咲は言った。

「うん……病院に連れていった」

「どうだったの?」

 一瞬の間があった。

「うつ病って診断された」

 最近はよく知られた病名だった。気分障害の一種である。眠れない、食欲がない。何をしても楽しめない。そもそも何をするのにもやる気が出ない。そんな症状が一般的である。

「そう、大変、ね」

 他に言いようがなかった。

「おかげで最近、家にいるのが苦痛でさ。家中、陰鬱な空気なんだよな。部屋の中汚いし。出前とか弁当ばっかだし」

 あーあと大きなため息を零し耕太は言う。妻の容体よりも自分の生活の不自由さの方が耕太にとっては重要らしい。

(クズ……!)

 美咲は心の中でそう罵倒する。その反面チャンスではないかと思う自分がいた。耕太がこのまま妻に愛想を尽かせば、離婚もあり得るかもしれない。クズなのは自分も一緒なのかもしれない。いや、きっと一緒なのだろう。美咲もまた耕太に気付かれないようにため息を付いた。

「良くなると、いいわね」

 とりあえずありきたりの言葉で場を取り繕う。

「薬は飲んでいるみたいだけど、やたらテンション高いと思ったら、落ち込んでいるし……疲れるんだよなあ」

 耕太はソファの上で伸びをした。

「カウンセラーとかは?原因がわかれば治るかもよ」

「医者からは勧められているけど、嫌がっていてさ」

 原因、なんだろうなあと耕太は他人事のように言った。だが美咲はふと思う。

(もしかしたら……)

 妻の粧子は耕太の浮気に気付いているのではないだろうか。それがうつ病の原因になっているのではと思った。美咲から連絡を取らないようにしたり、外で食事をすることを避けたりと出来るだけ上手く隠していたつもりだが。いい加減な耕太のことだ、どこかでうっかりボロを出した可能性は否定出来ない。

 だが肝心の耕太はそんなこと露ほどに思っていないようだ。

「専業主婦だし、仕事のストレスってわけないし……なんだろうなあ」

 美咲が好きになった相手はこんなろくでなしだった。


 耕太は妻がうつ病になってから更に美咲の家に入り浸るようになった。最近では美咲の家から出社しているほどだ。いつの間にか着替え一式が美咲の家に揃えられていた。傍からみると夫婦のようだなと美咲は思って苦笑する。

「ねえ、奥さんと子供放っておいていいの?」

 美咲がそう訊けば。

「お袋が家に来てくれているから大丈夫だよ」

 そんな答えが返ってくる。

「最近、毎日のようだけど、なんて言って誤魔化しているの?」

「忙しいから会社に寝泊まりしてるとか、ビジネスホテルに泊まっているって言ってある」

 バレるのも時間の問題だなと美咲は思った。もうバレているかもしれないが。


 相変わらずソファでごろごろしている耕太をほっといて、美咲は庭に出た。薔薇を摘むためである。まだ少し開きかけの赤い薔薇を二本植木鋏で切った。二本の薔薇の花言葉は「この世界に二人だけ」馬鹿馬鹿しい花言葉だ。二人だけならこんなに思い悩むことなんてないのに。そして流し場に行くと、いつものように薔薇の棘を取り去る作業に没頭する。

「何、作ってるの?」

 美咲がキッチンに立っているので何か料理をしていると思ったのだろう。寝そべっていた耕太が背後に立っていた。

「薔薇?」

 見ればわかるだろうに。美咲は答えない。

「薔薇好きなの?」

 むしろ嫌いだ。母の愛を一身に受けていた薔薇なんか大嫌いだ。

「薔薇で何を作るの?というか、食えるの?」

 馬鹿じゃないのと思いながら、美咲は耕太を無視して棘を取り続ける。

「そういや、ネットで見たことあるんだけど薔薇のサラダとかあるらしいね」

 本当に馬鹿なんじゃないのと美咲は思い「あのねえ」とさすがに文句を言おうとした時だった。スマホの着信音が響いた。美咲のものじゃない。耕太のスマホだった。

「あー、なんだよ」

 面倒臭そうに頭をぽりぽりかきなから耕太はリビングへ向かいスマホを取り上げる。

「はい……お袋?え、粧子が?わかった……今行くよ」

 耕太は通話を切った。

「どうしたの?奥さんになにかあったの?」

 美咲もさすがに薔薇を流し場に置いてキッチンから出た。

「それが……」

 耕太が顔を上げた。少しばかり青褪めている。

「粧子が車に跳ねられた」

「え?」

「発作みたいに錯乱状態になって……外に飛び出して」

「だ、大丈夫なの?」

「引っかけられた程度だから、命とかに関わるような怪我じゃないらしいけど」

 耕太は俯いた。

「じゃあ、早く病院に行かないと」

「ああ、そうするよ」

 耕太は上着を羽織ると玄関へと向かった。

「何だってこんなことにっ……」

 耕太は吐き捨てるように言った。そこにはただ自分が何故こんな理不尽な面倒ごとを背負わなければならないのだという苛立ちだけがあった。

 美咲は耕太を見送るとキッチンへ戻り、中途半端に棘が抜かれた薔薇を生ごみ用のバケツにそれを捨てたのだった。


 しばらく耕太から連絡はなかった。何度か美咲の方から連絡取ろうとしたが、出来なかった。何度もメールを書いては消した。奥さんがあんな状態ならメールを送ってもバレることはないだろうとは思ったが、やはりどうしても出来なかった。もうこのまま自然消滅かもしれない。

(もしかしたら、それが一番いいのかも……)

 そう考えるようにまでなっていた矢先に耕太から連絡があった。

『会って、話がしたい。大丈夫だろか?』

 耕太が美咲の都合を訊いてきたのは初めてのことだった。


 美咲の家に耕太がやって来た時は驚いた。まるで別人のようにやつれ切っていたからだ。耕太は手を組んで俯き、ソファに深く腰掛けていた。そんな耕太に珈琲を淹れてやりながら、美咲は尋ねる。

「その、大丈夫?」

「……なあ、美咲」

「なあに?」

 耕太は顔を上げた。焦燥の色が強く、目は落ち窪んでいた。

「結婚しないか?」

「え?」

 それは突然のプロポーズだった。『結婚』の二文字を耕太が口にしたのは初めてのことだ。

「あの、でも奥さんのこと……どうするの?」

 狼狽しているのが自分でもわかった。嬉しさよりも当惑していた。

「勿論、離婚する」

 耕太がはっきりとそう言ったが美咲は何を言っているのかわからなかった。三年離婚の気配すら見せなかった男なのに。

「もう、限界だ……今彼女は精神科に入院いる。会話も成立しない状態だ。息子も学校を休んで引きこもっている」

 耕太は疲労に満ちたため息を付いた。耕太は家族を捨てようとしているのだ。自分にとって都合の悪くなった家族を。不要になった家族を。もう家族は耕太にとって邪魔なものでしかないのだ。そして、美咲を選ぼうとしている。いや、違う。選ぶのではない。美咲は単なる逃げ場だ。自分にとって都合のいい存在の元に逃げようとしている。

「今日は帰ってくれない?」

 美咲は静かな声で言った。

「え?美咲の傍でゆっくりしたいんだ。俺に離婚して欲しいと言ったじゃないか?嬉しくないのか」

 確かに言った。『離婚して欲しいと』でもこんな形を望んだわけじゃない。

「ごめんなさい、突然のことで少し考えたいの」

 そう美咲が言うと耕太は仕方なしに立ち上がった。

「わかった、今日は帰るよ」

 美咲は玄関まで見送った。

「ねえ、耕太」

「なんだい?」

「ここにいつも薔薇を飾っていたの気付いていた?」

 耕太は不思議そうな顔をした。

「ああ、それぐらいは気付ていたさ。薔薇、好きなんだな」

「いいえ、私は薔薇が大嫌い」

 そう答えると耕太は呆気に取られる。

「じゃあ、どうして飾っているんだ」

 美咲はその問いに答えなかった。


 耕太が帰ると美咲は花瓶に活けた薔薇を見つめた。彼が妻と離婚して欲しかったのは事実だ。そして自分を選んで欲しかった。だが自分は彼にとって単なる保険だったのだ。


 自分はこの棘のない薔薇そのものだった。


 いつでも傷つくことなく、安心して掴み取れる薔薇。そして母はその真逆で棘のある薔薇だった。美咲は心底が母は妬ましく羨ましいと思った。母の愛した男は傷だらけになることを知って棘のある薔薇を摘むように母を選んだ。

 それに比べて自分はどうだろうか。男にとって、ただの都合の良い棘のない薔薇。薔薇は棘があるからこそ美しいのだ。棘のない薔薇など、なんの魅力もない。美咲は今更のようにその事実に気付いた。

 あの男、耕太が美咲を助けてくれることを淡い期待をずっと抱いていた。母への憎悪、母が愛した薔薇への憎悪から救ってくれるのではないかと、それは愚かな幻想だった。美咲の無様な願望だった。

 美咲は花瓶から薔薇を掴み取ると、その薔薇を握り潰した。薔薇の花弁はバラバラになり、床に血飛沫のように舞い落ちた。美咲は更にその花弁を足で踏みにじった。何度も、何度も、何度も。


 その後何度も耕太からメールや電話が入ったが、美咲が出ることはなかった。耕太が来た時は居留守を使った。

 美咲は庭で育てた薔薇を一本の残らず抜いて、焼き払った。なんの感慨もなかった。むしろ凪のように穏やかな気持ちだった。近いうちにこの家を売って引っ越すつもりだった。新天地で美咲は咲いてみせようと思った。薔薇のように鑑賞の為に品種改良を重ねた花でなく、道端に咲く野の花のように。


 美しくなくてもいい。踏まれても踏まれても逞しく咲くそんな花のように咲いてみせよう。





 







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