第一部 第三章 四 荒ぶる沢田さんの彼氏といびつで最高の家族

 午後二時前には駅に着いた。駅前の白っぽい敷石は秋の昼下がりの陽射しを受けて、眩しいほどだった。ロータリーにあるコーヒーショップに入った。わたしはコーヒーを、はるみはカフェオレを頼んだ。ネットで婚姻届に必要なものを調べ、明日は仕事を休んで、戸籍謄本を取りに行くことにした。とりあえずプロジェクトの会議も終わって、仕事も一段落していたので、二日休むことにして、大学の関係者にも休暇を取るとメールを入れた。はるみも三上さんに電話をして、二日間休みをもらうことにした。

 そこまでやってしまうと、気持ちをあの子のことに切り替えた。沢田さんはどういう反応を示すだろうか。まずは驚いて、そして困るだろう。なにしろ、森野さんの条件をクリアしているのだから、拒否する理由がない。あれこれ難癖をつけて引き延ばして、その間に手を打とうとするかもしれない。でも彼らが変なことをしようとしても、こちらには例の録音があるし、三上さんも味方になってくれるだろう。ただ沢田さんの後ろにいる後藤氏は相当身勝手なようだし、焦ってもいるようだった。だとしたら、何をするかわからない。早く決着をつけた方がよさそうだった。そういう点からも、早く婚姻届を出しておく必要がある。

 二時二十分を過ぎた頃、武田さんのものと思われるタクシーがロータリーに入ってきた。クラウンの個人タクシーなんて最もありふれているから遠目に区別できるはずもないのだが、そういう気がしたのだ。そしてそのクラウンはタクシー乗り場の車列には並ばず、少し離れたところに止まった。ドライバーが車から出てきた。やっぱり武田さんだった。

 店を出て、手をつないでタクシーの方に向かうと、武田さんはわたしたちにすぐに気付いて、頭を下げた。わたしたちも歩きながら、お辞儀を返した。

 わたしたちが辿り着くと、武田さんはもう一度小さく頭を下げ、「今日もいい天気ですね」とにこやかに言った。ごま塩色の口ひげが小さく動いて、「それから、昨日はつまらない話を聞いていただいて、ありがとうございました」と付け加えた。

 わたしたちのことを武田さんに言うべきか、少し迷った。まだ親にも伝えていないのだ。でも話しておこうと思った。

「実は、わたしたち、結婚することにしました」

 意外にも武田さんの驚きは小さく、顔をほころばせて、軽く頷いた。

「いや、そうですか、それはよかった、おめでとうございます。昨晩はそんな感じじゃなかったのに、手をつないで歩いてきたから、もしやと思いました。付き合ってもいなかったようなので、まさか結婚までとは思いませんでしたけど」

 わたしとはるみは顔を見合わせ、思わず笑顔になった。それから二人同時に頷いた。驚きが少ないのは、自分の経験もあるし、昨日は夫婦と間違えたくらいなのだから、武田さんから見ると自然な流れなのかもしれない。

 ちょっと躊躇してから、武田さんは再び口を開いた。

「昨日、家に帰って、女房に太田さんたちの話をしましてね。まあ、女房には辛いことを思い出させてしまうとは思ったんですがね。ああ、そうだ、まずは車にお乗りください」

 わたしたちが車に乗り込むと、念のためという感じで行き先を確認して車をスタートさせた。今日は乗ったときから、車内にはバロック音楽が低く流れていた。早速武田さんは話の続きを始めた。

「そうですか、結婚されますか。じゃあ、はるかちゃんも引き取れるわけですね」

「ええ、たぶん。これから後見人の方に会って、その話をする予定なんです」

「ほう、そうですか。いや、実は、女房に話したら、余計な話をしたんじゃないかって言われちゃいましてね。もし、お二人が付き合っていたりしたら、自分たちのろくでもない話をして、水を差すようなことになったんじゃないかって。たしかこれから相手を探すと言っていたので、大丈夫だとは思ったのですが、ちょっと気がかりで」

「いえ、そんなことはないです。あの子のことと同じで、むしろ、きっかけになったと言った方がいいかもしれません。ありがとうございました」

「そうですか? そう言っていただけると、わたしも枕を高くして眠ることができます」

 武田さんは前を見たまま、フロントウィンドウに向かって小さく頭を下げた。お天道様に対してなのか、わたしたちに対してなのかは、わからなかった。

 駅前の通りから街道に出たところで、また渋滞に引っかかった。しばらくの間、少し動いては止まるということを繰り返した。遠くに信号が見えると、流れが出始めた。昨日はそれどころではなくて気付かなかったが、反対車線の側に小規模なショッピングモールがあった。そこから、警備員の誘導で車がこちらの車線に入ってきていた。

「最近、こういうショッピングモールがそこら中にできてるでしょう。この道を戻った方にもひとつ大きいのがありましてね。それで、この辺りは、特に土日は込むようになっちゃったんですよ」と武田さんが解説してくれた。

「うわぁ、なんかあいつ危ないな」武田さんがつぶやいた。

「どうしたんですか」

「いや、わたしたちの車の後ろの方でね、この混んだ道で無理矢理追い越しを掛けて、割り込んでいるやつがいるんですよ。ありゃ、フォルクスワーゲンのトゥアレグってやつだな。これは、この車の後ろ辺りに入ってきそうだ」

 武田さんがそう言うのとほぼ同時に振り返ってみると、威嚇するようにヘッドライトを点灯した、紺色で幅広の高級SUVがクラウンの一台後ろの車のあとに強引に入り込もうとするのがちらっと見えた。すぐにこの先の歩行者信号の青が点滅し始め、その車はすぐさま後ろを飛び出すと、猛烈な加速でわたしたちの横を過ぎ、反対車線を信号まで一気に駆け抜け、先頭に止まっていた車の前に鼻先を突っ込んだようだった。抗議のクラクションが鳴り響いた。車道の信号が青に変わると猛然とダッシュして、すぐにわたしたちの視界から消えていった。

 エンジン音や排気音はさほど大きくはなかったが、車体が大きいせいか威圧されるような感じだった。はるみは怖かったらしく、わたしの手をぎゅっと握った。

「最近の車は、パワーもすごいし、車体もよくできているし、安全対策も進んじゃいるけど、あんな走り方じゃねえ」

 武田さんが嘆いた。ドライバーを職業としているだけに一層不愉快に感じるのだろう。

「たしかにあれはひどいですね。あの重そうな車体で、あの加速ってことは、そうとうパワーがあるんでしょうね」

「あれはたぶん、出たばかりの九〇〇万円くらいするハイブリッド版ですね。あんなの買うなら、もっとエコな運転をすりゃいいのに」

 その車が行ってしまったあとに信号を抜けると、渋滞も徐々に解消して、休日の郊外らしいゆったりとした流れでわたしたちは進んだ。

 採光園の敷地に入ろうとして驚いたのは、さきほどの乱暴な車と同じと思われる紺色のSUVが駐車スペースに止まっていたことだった。

「これ、たぶん、さっきのやつだな」武田さんが言った。

 あんな運転をする人間が、この施設の関係者か、あるいは子どもの親なのかもしれないと思うと、あの子のことが心配になった。武田さんが昨日忠告してくれたことが脳裏をよぎった。

「わたしは今日も休憩がてら、ちょっと中で話していきますので、帰りもよかったら使ってください」と武田さんが言ってくれた。

 こんにちわ、と中に入って声をかけると、あの子が駆け寄ってきた。

「太田さん! おねえちゃん!」

「やあ」

 少女は不安げな顔で、わたしたち二人をしゃがむように手で合図した。

「あのね、さっき沢田さんが来たんだけど、彼氏の人も一緒だった」

「えっ、後藤さんって人?」

 少女は無言で頷き、わたしとはるみは顔を見合わせた。どうやらあの車は後藤氏の運転だったらしい。

 職員室からイシカワさんがまるでわたしたちの担当であるかのようにやってきた。

「こんにちは。ところではるかちゃんのことなんですけど、ちょっと面倒なことになっているみたいです」イシカワさんは少女の肩を抱きながら言った。

「面倒って?」

「沢田さんの方もはるかちゃんを養女にしたいって言い出したみたいで」

「乾さんはわたしの話を沢田さんにしたんでしょうか」

 イシカワさんは首を横に振った。

「いいえ、違うみたいです。わたしもお茶を出しに行って聞いただけなので、詳しいことはわかりません。太田さんが見えたら、面談室に通すように言われていますので、どうぞ」

 不安そうな顔をしている少女に、わたしは「大丈夫だよ」と言った。はるみも「大丈夫、きっとうまくいくから」と微笑みかけた。

「はるかは沢田さんの子どもになんてなりたくない。太田さんとおねえちゃんの子どもがいい」

 わたしは少女を優しく抱き締めた。頼りないほど、細くてやわらかかった。この子を守ってやらなければ、と思った。

 

 ドアには面談中の札がかかっていて、ドア上部の窓はカーテンで塞がれていた。

 どんなことがあろうとも、絶対にはるかを守るんだ、と気合を入れ直してから、面談室の扉を開けた。

 部屋の空気はドライアイスのように硬かった。奥に乾さんが座っていて、向かって左手に沢田さんと男が並んでいた。乾さんはやや緊張した面持ちでわたしたちに笑いかけ、沢田さんは少し引きつった笑顔をわたしたちに向けた。

 男は、人によっては精悍と思うだろう適度に日焼けした整った顔立ちに、不敵な笑みを浮かべていた。高級そうなストライプの入った紺のスーツを着ていた。引き締まった体つきで、身長が一八〇センチを超えていそうなことは座っていてもわかった。ネクタイはしておらず、艶のある白いYシャツの首元には高そうなスカーフを巻いていた。〝ちょいワルおやじ〟とか呼ばれる今風のファッションだったが、鼻につくほどキザだった。

「どうぞ、そちらにおかけください」

 乾さんがわたしたちにそう言うと、沢田さんも男も顔を背け、それぞれに不愉快そうな表情を浮かべた。

「太田さんの方から話があるということは沢田さんたちにお伝えしてありますが、内容についてはまだお伝えしておりません」

「そうですか。ありがとうございます。わたし、太田貴文といいます。はるかちゃんの母親の古い友人です」

 男はスーツの内ポケットからメタルの名刺入れを出すと、無言で名刺をわたしの方に投げるように差し出した。

 〝司法書士 後藤岩生〟と書いてあった。

 司法書士という職名は知っているが、法律関係の書類を作成する職業という程度の知識しかなかった。

「わたしの方は名刺を切らしておりまして、失礼します。大学の研究所で研究員をしています」

「ほう、研究員。教授でもされているのかとおもいましたが」皮肉たっぷりの調子で後藤氏が言った。

「ええ、研究員です」

 明らかに後藤氏は喧嘩を売っているようだったが、わたしは受け流した。それにわたしは人に教えるよりも研究をする方がずっと好きなのだ。

「ところで、太田さん、お話というのはなにかしら。それに坂木さんまで一緒なんて」

 沢田さんは後藤氏の口を塞ぐように話を本題に変えた。沢田さんは冷静を装っているようだが、目が小さくせわしなく動いた。ついに養子にしようと動き出したところに、わたしたちより五分か十分ほど早くここに着いて、乾さんにわたしから話があると聞かされて、落ち着かない気持ちで待っていたに違いなかった。

「ええ。ところで、後藤さんはどういったご関係の方なんでしょうか」

 わたしは沢田さんから後藤氏へと視線を移しながら訊いた。訊くまでもないのだが、訊かないというのも不自然だろう。それに、沢田さんがあの子を子どもにしたいと言い出したからには、注意深く事に当たる必要がある。まずは向こうの出方を見極めなければならない。しかもろくでもない考えをもってここへ来たやつも一緒だ。車の運転の仕方で人格のすべてがわかるとは思わないが、少なくともあのような運転をする人間を信用はできない。思った以上に荒っぽい行動に出るかもしれない。

「そんなことは、君には関係ないだろう」

 後藤岩生はわずかに身体を後ろに反らしてわたしを睨みつけながら、見下した調子で言った。

「いえ、関係があります。これから森野遥に関することで、沢田さんに大事な話、相談をしようと思っています。もし関係のない方でしたら、席を外していただきたいと思います」

「だったら、その女はなんだ。坂木だっけ? そいつだって関係ないだろう」

「いえ、あります。わたしたち、結婚するんです」

 沢田さんは言葉を失って、見開いた目でわたしたちを交互に見た。

「ほう、おもしろいね。その記憶喪失の女と結婚ね」

 後藤氏は意表を突かれ、勢いを殺がれた感じだった。

 乾さんはおめでとうという感じで、こっそりと笑いかけてくれた。

「ちょっと、待って。太田さん、坂木さんと結婚って、どういうこと? 昨日初めて会ったんじゃないの?」

 沢田さんは早口で言った。三上さんも同じようなことを言ったが、沢田さんの場合は、だまし討ちを食ったような、そんな怒りを含んだ感じだった。右の目尻がぴくぴくと動いた。

「ええ、そうです」わたしは平然と答えた。「もう三上さんにも挨拶して、許しもいただいてきました」

「そんな……」沢田さんは二の句が継げないようだった。

 沢田さんはたぶん直感的にこの結婚の意味を理解し、あの子とはるみの関係、自分と三上さんの関係、そしてあの子とわたしの妙な〝近さ〟を考えて、外堀を埋められてしまったような気はしているはずだった。状況を把握できないらしい後藤氏は、説明しろというように沢田さんの太ももを手のひらで二度叩いたが、沢田さんは無言のまま、首を横に振った。

「あんたたちの結婚と、あのガ……、いや、あの子どもとなんの関係があるんだ」

 答えない沢田さんに痺れを切らしたように後藤氏が言った。

「それに関しては、わたしの方からご説明しましょうか?」

 乾さんが場を落ち着かせる感じで、わたしに目配せしながら、乾さんらしいゆったりとした口調で言った。

 第三者的な立場から伝えてもらった方が、沢田さんたちも冷静に聞けるのではないかと思い、お願いした。

「きのう、太田さんと坂木さんがはるかちゃんをここに連れてきてくださいました。それは、はるかちゃんがここの子供になるためです。太田さんとはるかちゃんは会って間もないということでした。お母さんの友人であることも関係しているのかもしれませんが、とても親密に見えました。当初、太田さんははるかちゃんを引き取ろうという気はまったくなかったようです」

「おい、ちょっと待て、ください。引き取るって、どういうことですか」

 後藤氏は、乾さんに対しては、少しは丁寧な言葉遣いをする気はあるらしかった。

「まあまあ、後藤さん、落ち着いてくださいな」乾さんが遮った。「最後まで話をお聞きください」

「面倒なことはいいですから、まず、結論から言ってください」

「わかりました。きのう、太田さんから、はるかちゃんを養子にしたいとの申し出を受けました」

「なんだって? だったら、わたしたちの方はどうなるんですか? こういうのは早い者勝ちなんですかね?」

「いえいえ、そういうことではありませんよ。そうですね、そのことを太田さんたちにお話ししておく必要がありますね」

 乾さんは後藤氏を落ち着かせるようにそっちを向いて頷いて、それからわたしを見てもう一度頷いた。

「さきほど、はるかちゃんの未成年後見人である沢田さんから、はるかちゃんを養子にしたいとの申し出を受けました。はるかちゃんの場合、お母さんの遺言で、本人が相手を気に入って、相手もはるかちゃんを気に入ってくれた場合には、養子にしてもらってもいいということでしたね」

 乾さんが確認を求めると、沢田さんは困ったような顔を隠すように一瞬天井の方に視線をやり、それから乾さんの方を見た。わたしとは目を合わせなかった。そのことをわたしに伝えなかったことはあえて追求しなかった。

「はい、そうです」と、少し間を置いて、沢田さんが答えた。

「お願いしておきました遺言状は持ってきていただけましたか」

「ええ」沢田さんはもったりとした動作でバッグから封筒を取り出し、仕方ないという感じで乾さんに差し出した。

 乾さんは遺言状と書かれた封筒から大切そうに中身を取り出し、丁寧に紙を開いた。〝遺言状〟という森野さんの字を見ると、切なくなった。

「養子縁組について。娘の遥が親になってもらいたいという人が現れた場合に限り、先方も同意してくれれば、養子縁組を行う。そう書いてあります」

 沢田さんは乾さんと目が合うと、怯えたような感じで小さく頷いた。後藤は小さく貧乏揺すりをしながら睨むようにわたしを見た。

「昨晩、入園時の面接も兼ねて、はるかちゃんに、親になってもらいたい人がいるかどうか聞いてみました。はるかちゃんは、太田さんに父親になってもらいたいと思っていると言い、本人にもそう伝えたと言いました。そして、太田さんも自分の父親になりたいと言ってくれた、と言っていました。太田さんからも直接、はるかちゃんの父親になりたいということは聞いています」

 乾さんが説明している間に、後藤氏の顔は徐々に青ざめていき、それからだんだんと血が上って赤くなっていった。人間の顔色がこれほど急激に変化するのを初めて見た。ちょっと怖くなるほどだった。

「おい、知華子。いったいどういうことなんだ」

 後藤氏は小さい声で言ってはいたが、こっちにも聞こえてきた。

「しらないわよ。わたしだって、いま、初めて知ったんだから」

 沢田さんは無表情を保っているようだったが、泣きそうな顔でもあった。

「ところで、後藤さんはこの件にどのように関与されているのでしょうか」乾さんは素朴な疑問といった感じで問いかけた。

「わたし? わたしですか? わたしは知華子、沢田の恋人で、いえ、もう付き合いも長いですから、内縁の夫と言ってもいいぐらいです。ですから、沢田が森野遥を子どもにするということは、わたしにも大いに関係があるわけです」

「そうですか。それはそういうことになりますわね」

「あの子は沢田が母親も含めてずっと面倒を見てきているんですよ。こうして母親から未成年後見人にも指名されて。それが、この男がまるで横からかっさらうように養子にするなんて、とてもじゃないけど、受け入れられませんよ」

 後藤氏はいくらか冷静さを取り戻したようだった。横柄な態度も影を潜めていた。

「どうなんでしょう、沢田さん。はるかちゃんは沢田さんに親になってもらいたいと言ったことはあるんでしょうか」乾さんはいたわるように沢田さんに話しかけた。

 沢田さんは青ざめたままだった。後藤氏の様子を伺うように、ちらっと視線を横に動かした。弁護士ではなく、ひとりの女の顔のようだった。それからおもむろに口を開いた。

「いえ、ありません。ありませんけど、たぶんそれは、わたしにこれ以上迷惑を掛けたくないという、あの子の気持ちなのだと思います。母親の森野木乃香さんの生前、わたしははるかちゃんを引き取りたいと申し入れたことがありましたが、わたしの気持ちは受け入れてはもらえませんでした。それもやっぱりわたしにそれ以上迷惑を掛けたくないという、彼女の気持ちの表れだったのだと思っています。そういう母娘なんです。彼女が夫から暴力を受けてから、わたしがしばらく自宅に住まわせたり、付き合いが長いんです。妹のように思っていたんです。はるかちゃんだって、赤ちゃんの時から知っているし。だからきっと母親からこれ以上わたしに迷惑を掛けてはいけないと言い聞かされているんです」

 気持ちを奮い立たせるようにして沢田さんは話した。

「そうですか。では、本人にもう一度、わたしから聞いてみましょう」沢田さんを気遣うように乾さんが優しく言った。「それから、夫婦で養子縁組される場合、配偶者の同意も必要となります。太田さんの場合はまだ結婚されていませんが、結婚を前提に引き取るということなので、坂木さんははるかちゃんを養女にすることに同意するということでよろしいでしょうか」

「はい、もちろん。わたし、はるかちゃんのお母さんになってあげたいんです」

「はい、わかりました」乾さんの顔から、微笑ましい光景を見たときのような笑みがこぼれた。

「では、後藤さん。後藤さんは沢田さんの内縁の夫ということですので、同じようにお聞きします。はるかちゃんを養女にすることに同意するということでよろしいでしょうか」

 乾さんが後藤氏にそう質問したとき、沢田さんの表情が微妙に揺れた。

「ええ、もちろん」後藤氏は厳めしい顔つきで答えた。

「わかりました。では、それぞれご夫婦という前提で、はるかちゃんにもう一度聞いてみることにします。それでよろしいですね」

「ちょっと待ってください」沢田さんが異議を唱えた。

「なんでしょう、沢田さん」

「この人は、恋人ではありますが、内縁の夫という関係ではないんです。ですから、はるかちゃんを養女にするとしたら、わたしひとりで引き取ることになります。もちろん、必要な要件が整うよう、人の手配をします」

 後藤氏が何か言おうとしたが、沢田さんが目に物言わせて黙らせた。後藤氏は面白くなさそうな顔をしたが、自分が夫ということになるとかえって不利になることがわかったようだった。

「それでよろしいですか、後藤さん」

「ええ、そうですね。そうです、そういうことになります」後藤氏は苦い顔で言った。

「では、別の部屋でわたしからはるかちゃんにもう一度聞いてみます。少々お待ちください」

 乾さんがそう言って立ち上がりかけたところで、今度は後藤氏が「ちょっと待ってください」と制止した。

「乾さん、どうもあなたはその太田さんとやらの肩を持っているように見える。別の部屋で聞かれて、変に誘導でもされたんじゃ、困る、困ります。沢田も立ち会いで、というわけにはいきませんか。いや、もちろん、太田さんも一緒で構いません」

 乾さんには珍しくあきれたようなため息を小さく吐いた。

「お気持ちはわかりますけど、もう少しわたくしどもを信用していただかないと。わたしはどちらかの味方に立つということはございません。子どもの立場に立つだけです。それに、お二人が同席していたら、あの子だって、自分の気持ちを正直に言えないとは思いませんか。ここには警察の取調室みたいに別の部屋があるわけではありません。もしどうしてもとおっしゃるのでしたら、ビデオに録るか、録音でもしますけど」

「いえ、結構です。乾さんにお任せします」沢田さんは後藤氏を遮るように早口でぴしゃっと言った。

 おい、とでもいうように後藤氏は沢田さんの肩を掴んだが、沢田さんは肩を動かして手を振り払った。後藤氏は、チッと小さく舌打ちした。

 乾さんはそのまま立ち上がって、ではしばらくお待ちください、と穏やかに言って、部屋を出て行った。

 重く気詰まりな沈黙が部屋に残った。部屋の外からは、子どもたちの笑い声や泣き声、叫び声が時折聞こえてきた。別の世界の出来事のようだった。

 沢田さんは深刻な顔をしてテーブルに置いた自分の手を見つめていた。後藤氏はいらいらした様子で、ときどきわたしを鬱陶しそうに睨んだ。

 わたしとはるみは落ち着いた気持ちで、乾さんが戻ってくるのを待った。話もしないし、手を握ったりもしてはいないが、はるみの心の状態がはっきりとわかった。たぶん、はるみの方もそう感じているはずだった。

 わたしたちはつながっていた。

 五分ほどして、乾さんが戻ってきた。裁判官のように厳粛な顔をしていた。ゆったりとした動作で元の席についた。後藤氏の目は疑わしいものを見るように乾さんの動きを追った。沢田さんはまるで重い有罪判決を覚悟した被告のようだった。

「あらためて森野遥ちゃんから本人の気持ちを聞いてきました。太田さんと坂木さんの子どもになりたいそうです」

 乾さんは端的に結果を告げた。

「それはおかしい。そんなはずない」

 腰を浮かせる勢いで、後藤氏が食って掛かった。沢田さんはほとんど無表情だったが、わずかに唇の端に薄笑いを浮かべたようにも見えた。

「いえ、はっきりとそう言っていました。もっと言いますと、沢田さんの子どもにはなりたくないとも言っていました」

 引導を渡すようなことを乾さんにしてはずいぶんとはっきり言った。その顔は厳粛なままだったが、少し悲しげに見えた。

「それは違う」後藤氏はまだあきらめきれないようだったが、すでに言葉からは力が失われていた。

「いえ、違わないわ」何かに耐えるような表情で沢田さんは言い放った。「そんなことはわかってたの。まさか太田さんからそんな申し出がされるとは思っていなかったけど、それとは関係ない」

「おい、知華子、そんな簡単にあきらめるなよ」なだめるように後藤氏は言って、沢田さんの手を取った。沢田さんは握り返すこともなく、ただ力なく後藤氏に手を預けているだけだった。

「ああ、そうだ」後藤氏の顔に急に生気が戻った。「お前、未成年後見人なんだから、そいつらが家裁に養子縁組の申立てをしても、拒否すればいいだけの話じゃないか」

 それに対して沢田さんは何の反応も示さなかった。うつろな目でテーブルを見ていた。乾さんも黙って推移を見守っていた。

「おい、知華子、しっかりしろ。俺たちの将来がかかった話なんだぞ」

「わたしたちの将来?」

 沢田さんは亡霊のような顔を上げ、冷ややかな目で後藤氏を見た。

「そうだ、俺たちの将来だ」

「そんなものないわ」

「おい、何を言っているんだ。そのためにこうして、はるかを養子にしようと頑張っているんじゃないか」

 あの子を後藤氏に〝はるか〟と呼び捨てにされると、虫酸が走った。

「いい加減にしてもらえませんか」

 もう黙っていられなくなった。

「なにぃ?」後藤氏はわたしを睨んだ。

「どうしてあの子をそんなに養子にしたいんですか」

「えっ? どうして? そりゃ、なんだ、可愛いと思っているからだよ。お前なんかより、ずっと長いこと、あいつを知っているんだよ。情が湧いてきたんだよ。昨日今日会ったばかりのお前とはわけが違うんだ」後藤氏はまるで自分自身を説得しているかのように、嘘を並べ立てた。この部屋の誰もが知っていることだった。「お前たちこそ何だ。急に現れて、養子にしたいなんて、何が狙いだ」

「もういいじゃない」

 沢田さんがあわてて口を挟んだ。後藤氏が余計なことを口走らないか心配だったのかもしれない。

「よくない。こんな泥棒みたいな真似をされて、黙っていられるわけないだろう」

「わたしもあの子はこの二人にお願いした方が幸せになると思う」沢田さんは後藤氏を黙らせるようにきっぱりと言った。「いえ、この二人こそがあの子を幸せにしてあげられる」

「おい、お前までそんなこと……」

 後藤氏の血の気の引いた顔に、また血が上ってきたようだった。

「わかったよ。わかった。それならそれで、俺にも考えがある」

 怒鳴りそうになるのをかろうじて抑えた後藤氏はいらついた顔で立ち上がると、乱暴にドアを閉めて、部屋を出て行った。

 沢田さんはわたしを見て、悲しげな顔で微笑んだ。

「よろしいんですか」乾さんが後藤氏を行ったままにしている沢田さんに話しかけた。

「ええ」沢田さんは力なく乾さんを見ると、かろうじてそう答えた。

「それでは、最終的には家庭裁判所で判断されますが、はるかちゃんは太田さんと養子縁組することで話を進めさせていただきます。それでよろしいですね」

 乾さんは、わたしを見て、はるみを見て、最後に沢田さんを見た。わたしたちはそれぞれ無言で同意した。

 沢田さんがゆっくりと顔を上げ、口を開いた。

「太田さん、ひとつ聞いていいかしら」

「ええ。なんでしょう」

「どうして急にあの子を引き取ろうと思ったの? 昨日はなんだかできるだけこの件とは関わりたくないという風に感じられたんだけど」

 そのとき、ノックもされず突然ドアが開いた。あの子よりも少し歳が上とおぼしき女の子が飛び込んできた。

「園長先生、大変です。背の高いスーツの人が怖い顔ではるかちゃんを探し回ってる」

 乾さんが血相を変えて立ち上がった。同時にわたしもはるみも立ち上がっていた。沢田さんだけが生気のない強張った表情を浮かべて座ったままでいた。

「はるかはどこ?」わたしはその子に飛びつくようにして訊いた。

「わかりません。でもたぶんイシカワ先生と一緒」

 わたしとはるみ、そして乾さんは部屋を飛び出した。

 二階の方から、「森野遥はどこだ」と後藤の声が聞こえてきた。それから「おい、やめろ。あんた、なんなんだ。なにをしている」と別の男の声が聞こえてきた。男の子の泣き声も聞こえてきた。

「はるか!」とわたしが叫び、「はるかちゃん!」とはるみが呼んだ。

 乾さんはもっと落ち着いた様子で、「イシカワ先生はどこかしら」と大きな声で呼んだ。

 わたしは階段を上がろうとした。ついてこようとしたはるみに、「はるみ、君は一階を探せ」と言った。彼女は無言で頷いた。その時、「園長、ここです」というイシカワさんのらしき抑えた声が聞こえてきた。園長室からイシカワさんが顔を覗かせていた。それから、手でオーケーのサインを出した。どうやら園長室にあの子をかくまってくれているらしい。乾さんは小走りに園長室に向かい、イシカワさんに何か指示を出したようだった。それからはるみを指さして、手招きした。はるみが走って行くと、園長室に押し込んだ。わたしはそれを見届けると、二階に駆け上がった。

 二階では後藤と男性職員がもみ合いになっていた。後藤が両手で男性職員の首元を掴み、壁に押しつけていた。男性職員がそれに抵抗している形だった。

「おい、後藤、やめろ」

 そう叫びながら、二人に向かって走った。後藤がわたしを睨んだ。怯まず、突っ込んでいった。至近距離まで来たとき、後藤がにやりとした。後藤の腕が動いたと思った次の瞬間、わたしの腹に後藤の拳が突き刺さっていた。直前に辛うじて腹筋に力を入れることはできたが、それを嘲笑うかのように拳の力が内蔵に食い込んだ。わたしは後ろに数歩よろけて、尻餅をついた。ただその隙を突いて、男性職員が逆襲に転じた。後藤氏の左手首を掴むと、捻り上げて、後藤の動きを封じた。どうやら合気道か何かの心得があるらしかった。

「痛ててて、おい、やめろ、腕が折れる」

 男性職員は後藤の言葉を無視して、そのままの態勢で後藤を床に押しつけた。わたしは何か叫ぼうと思ったが、呼吸が苦しくて、声が出なかった。

「ちょっと、あなた、なにか縛るものを持ってきてください」

 男性職員にそう頼まれたものの返事ができなかった。仕方なく手を挙げてわかったと合図して、這いつくばるようにして階段にたどり着き、手摺にもたれながらふらつく足取りで下に降りた。階段を下り切るとようやくまともに呼吸ができるようになった。子供たちをどこかに避難させたのだろうか、職員さえも見当たらなかった。

「誰か、ヒモかテープか縛るものをお願いします。二階の廊下で職員さんが後藤を押さえ込んでいます」

 腹をさすりながら、頑張って大きな声を上げた。乾さんが職員室から顔を出し、すぐにガムテープを持ってきてくれた。そして、二人で二階に上がった。

 男性職員は依然として後藤を床にうつぶせにしたまま、後ろ手に押さえ込んでいた。

「まず、足を固定してください」と職員が言った。

「おい、ばか、やめろ。暴れないから、やめろ。このスーツは三十万以上もしたんだぞ」

 わたしと乾さんは後藤を無視して、わたしが後藤の脚を押さえ、乾さんが足首のところにガムテープをぐるぐる巻きにした。一応、スラックスと靴下をずらして皮膚に直接巻き付けていた。それから今度は男性職員とわたしが協力して後藤の両腕を後ろに押さえると、乾さんが手首のところをガムテープで何重にも巻いた。ちゃんとスーツと高そうな腕時計は避けていた。そんなことであとから文句を言われてはたまらないと思ったのだろう。そうして男性職員はようやく後藤の背中から立ち上がった。

「畜生、ふざけやがって。ここまでしないでもいいだろうが」後藤は床に這いつくばったまま、わたしたちを睨みつけた。

「ふざけたことをしたのはあなたなのだから、しばらくそうして頭を冷やしてください。警察を呼ぼうと思いましたが、沢田さんにお願いされて、それはやめましたから」

「くっ、知華子のやつ」後藤がつぶやいた。

 どこからか様子を見ていたのか、もう安全と思ったらしい子どもたちが集まってきた。

「ほらほら、あなたたち。駄目よ。みんな、食堂で待ってらっしゃい」乾さんが子どもたちに言いつけた。

「はぁーい」と七人ほどの子どもたちが興味深そうに後藤を見下ろしながら、つまらなそうにトーンを下げながら言って、階下に降りていった。

 それと入れ替わるようにして、沢田さんがゆっくりとした足取りでやってきた。

「おい、もういいだろう。いい加減、足の方だけでもほどいてくれ」後藤の口調は少し弱くなっていた。

 乾さんは何も答えず、足首のガムテープを勢いよく剥いでいった。

「いててて、もうちょっと、丁寧にやってくれよ」

 すね毛が抜けて痛いらしく、後藤は小さく悲鳴を上げた。

 尺取り虫のように身体を動かして、後藤は自力で立ち上がった。誰も手を貸そうとはしなかった。後藤は乱れて皺の寄ってしまったご自慢のスーツを直したいようだったが、自分の腕が不自由なままであることにあらためて気付いたようで、悔しそうな表情を浮かべた。

 そんな後藤の前に、感情の消えた表情の沢田さんが無言で立った。そして胸を強く押して壁に押しやった。後藤は「おい」とだけ言った。沢田さんは大きくテイクバックを取ると、思いっきり後藤の頬を平手打ちした。後藤は腕でガードしようとしたらしく肩が動いたが、その時になって再度自分の腕が使えないことに気付いたらしく、身体で避けることもできず、手遅れだった。まともに平手を食らった。もしかすると、途中で避けることをあきらめ、沢田さんから罰を受けるのを選んだのかもしれない。

「岩生、いい加減にして。もう終わりよ」

「おい、終わりって、どういうことだよ、知華子」

 遺産の話が終わりなのか、ふたりの間が終わりなのか、確かに判別はしにくかった。普通に考えれば、あるいは沢田さんの一連の行動を見ると、男女関係の終わりを意味しているように見えたが、後藤が判断できないということは違うのかもしれない。付き合いの長いふたりにしかわからない、微妙な距離感があるはずだった。

 沢田さんは後藤を無視して、わたしたちの方に向き直ると、「どうもご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」と深々と頭を下げた。ようやく頭を上げると、「お二人ともお怪我はありませんか」と訊いた。涙こそ流していなかったが、目は充血していた。

 男性職員が「わたしは首のところを掴まれただけですけど、そちらがおなかを思い切り拳で殴られました」と答えた。

「本当ですか? 太田さん、大丈夫でしょうか。病院に行きましょう」

 眉間に皺を寄せた沢田さんは本気でそう言っているようだった。

「大丈夫だと思います。いえ、大丈夫です」

 正直なところまだ鈍い痛みは残っていたが、そう答えた。

「でも念のため、病院で調べられた方がいいと思います。この男、アマチュアですけどボクシングをやっていたし、今も〝カラダだけ〟はちゃんと鍛えていますから」

 どうりで強いパンチのはずだ。わたしとて多少の腹筋運動はやっているが、ほとんど美容というかメタボ対策で、鍛えているというほどではなかったから、どれほど防ぐことができたか自信はなかった。ただかつてテニスをやっていたせいか反射神経だけはよく、おそらくは身体も若干は逃げることができたから、深刻なダメージを受けているとは思えなかった。

「ええ、大丈夫だと思います」とわたしは腹をさすりながら繰り返した。

「そうですか? でももしなにか異常がありましたら、すぐに病院に行ってください。治療費はこちらで持ちますから」

「はい、わかりました」ボクサーに殴られるのは初めてだったし、そこまで言われるとちょっと心配になったが、でもまあ本当に大丈夫だろう。

「おい、知華子、腕をほどいてくれ」

 沢田さんは後藤に顔だけ向けると、次に乾さんの方を向いて、「ガムテープを貸していただけますか」と言った。乾さんはすぐに差し出した。

 沢田さんはガムテープを適当な長さに切ると、後藤に近づいて、素早く口を塞ぐように貼り付けた。

「んー、んー」と後藤は言ったが、もちろんなんと言っているかはわからなかった。

 それからさらに沢田さんは手首の周辺にガムテープを巻き付けた。乾さんのような容赦はなかった。手首の上から手の甲までこれでもかとガムテープを巻いていった。もちろんスーツの袖も腕時計もそのなかに隠されていった。その間後藤はずっと「んー、んー」と唸っていたが、やっぱりなんと言っているかはわからなかった。ほとんど一巻きあったガムテープはあっという間に半分近くまで減っていた。それでも沢田さんは怒りが収まらないらしく、今度は上半身全体にもテープを巻き始めた。初めは沢田さんを睨んでいた後藤の目も、やがてあきらめと哀しみを含んだものに変わっていった。最終的に後藤は上半身をガムテープで巻かれたミイラのようになっていた。

 後藤はまるで犯人が警察に連行されるみたいに、沢田さんに後ろから押し導かれるように階段を下りた。少し離れた廊下の角から子どもたちが覗いて、「なんだ、あれ、ミイラみたい」とわたしの思ったのと同じような感想を言って、くすくす笑った。それから後藤は、子どものように沢田さんに靴を履かせてもらい、沢田さんに付き添われて建物から出て行った。

 沢田さんは後藤のスラックスのポケットから車の鍵を取り出すと、ガムテープ巻きの状態で後藤を車の後部座席に押し込んだ。一応ちゃんと座らせて、シートベルトも掛けたらしかった。わたしたちは玄関の中からそれを見守っていた。乾さんが面談室から沢田さんのバッグを持ってきた。それを見て、わたしはカートのことを思い出した。玄関に置いたままになっていた。

「今日の件については、またあらためて連絡します」沢田さんが玄関に戻ってきて乾さんに言った。それからわたしに向かって、「どうもすみませんでした。はるかちゃんのこと、お願いします」と言って、お辞儀をした。わたしも頭を下げた。沢田さんは平静さを保っているようだったが、その瞳をのぞき込むと痛々しさが伝わってきた。こんなときになんだとは思ったが、わたしは「これ、昨日使わせていただいた……」とつぶやきながら、沢田さんにカートを差し出した。沢田さんは目を伏せて、小さく頷いた。

 空のカートを引きながら、ゆっくりとした足取りで沢田さんは車に戻った。後ろ姿を見る限りでは、まだ十分に〝イイ女〟を保っているように見えた。でもヒールの足元はどことなく頼りなげに見えた。カートをリアゲートのゴルフバッグの上に投げ込んでから運転席に乗り込むと、シートやミラーを調整してから、ゆっくりと車を動かして、慎重な運転で採光園の門を出て行った。

 車がいなくなってしまったのを見計らったように、子どもたちが玄関に集まってきた。たぶん食堂の窓から観察していたのだろう。はるみとはるかとイシカワさんも園長室から出て来ていた。

 わたしは子どもたちをかき分け、はるみとはるかに走り寄った。

「よかった、無事で。何もなかったんだね」

「うん。園長先生と話したあと、職員室でイシカワ先生と話をしていたら、後藤さんがわたしの名前を呼んで騒いでいたから、すぐにイシカワ先生が園長室に連れて行って、ドアに鍵を掛けてくれたの」

「そうか」

 わたしは傍にいたイシカワさんを見上げて、それから立ち上がると、深く頭を下げ、礼を言った。イシカワさんは礼には及ばないという感じで両方の手のひらをわたしに向けて小さく動かした。

「はるかちゃんはわたしたちの子どもでもありますから」とイシカワさんは言った。

 わたしはもう一度イシカワさんに頭を下げ、それからしゃがんではるかを抱き締めた。はるみは少しだけ距離を置いて、わたしとはるかのそれぞれの肩に手を置いた。

「沢田さんも納得してくれたみたいだし、あとは手続きをするだけだ」

「うん。太田さん、ありがとう。でもそのまえにちゃんと結婚してね」

「ああ、わかってる。言われなくても、そのつもりだ」

「でも、そんなにアツアツだと、わたしは邪魔かなぁ」

 はるかのやつはこんなときでもこまっしゃくれていた。でも、それがこの子なのだ。

「馬鹿言うな。そんなわけないだろう。三人でひとつだ」

 心に光が宿ったような、そんな思いでわたしは言った。

 はるみははるかの頭を撫でた。その力はちょっと強めで、小生意気なという感じと、ありがとうという感じが入り交じっているようだった。それからはるみはわたしを見て微笑んだ。いろいろな喜びがミックスしたような、きらきらとした複雑な色の瞳だった。

 はるかはわたしに身体を預けるようにして、「うん」と小さく言って、肩に顎をのせたまま頷いた。

 誰かひとりが拍手すると、それにつられるようにぱらぱらと拍手が起こった。いつの間にか、わたしたちは採光園のみんなに囲まれていた。見回すと、不満そうな顔や複雑な表情をした子どももいた。そうだ、ここはそういう場所だった。この子の幸せは何人かの子どもたちに微妙な感情を抱かせたに違いなかった。ホワイトハウスで演奏を終えたときのカザルスというわけにはいかないようだった。

 立ち上がって、「みなさん、大変お騒がせしました」といくつかの人のかたまりに向かって頭を下げた。それ以上、なんと言っていいかわからなかった。

「みんな、大丈夫だったわね。よし、だったら、それぞれ自分のしていたことに戻って。さっきのことについてはあとでゆっくり説明するから」乾さんが事の終了を宣言するように子どもたちに言った。

 一人の女の子がはるかに歩み寄って、「はるかちゃん、危なかったね。でも、よかったね」と言った。それをきっかけにして、輪はほどけ、子どもたちがはるかに寄ってきては、「怖かったね」とか「よかった」とか言い、あるいは何もいわず手を取ったり、ちょっと年長の子は頭を撫でたりして、散っていった。それぞれに困難な人生を抱えているはずだが、武田さんの言っていたとおり、ここにはいじめをしそうな子はいないようだった。

 子どもたちがいなくなったあとで、その武田さんが、のんびりとした感じで玄関から入ってきた。

「例の車はもう帰ったようですね」

 どうやら何も知らないらしかった。乾さんがさきほどの出来事をかいつまんで話した。

「えっ、そんなことが起きていたとはまったく気付きませんでした。車ですっかり寝込んでしまって。こう見えても柔道二段ですから、そんなやつ、投げ飛ばしてやったのに」

 武田さんがいたらかえってもっと荒っぽいことになったかもしれないと思わず苦笑いした。

「太田さん、坂木さん。それでははるかちゃんを交えて、今後のことを打ち合せしましょうか」乾さんが声をかけてきた。

 今度は園長室に通された。はるかを真ん中にソファに座った。

「はるかちゃん、あとは家庭裁判所というところに太田さんがあなたを子どもにしたいと申請して、それで認められれば、太田さんと養子縁組されて、親子になります」乾さんが説明した。

「はい。でもその前にこの二人が結婚しないとね」

 はるかはそう言って、わたしの左手とはるみの右手を取り、自分の脚の上で重ね合わせると、顔を上げてわたしたちふたりを交互に見た。その表情は真面目なものだった。わたしたちははるかを見て、それから互いを見た。笑顔にはならず、気の引き締まる思いだった。それははるみも同じようで、真剣な顔だった。乾さんだけが微笑んでいた。

 それからはるかが手を握りしめながらわたしたちを引き寄せると、「わたし、兄弟が欲しい。弟でも妹でもいいから。あんまり時間が経つと歳が離れ過ぎちゃうから、早めに。ね、お願い」と言った。

 わたしたちはまた顔を見合わせ、今度は笑みがこぼれた。昨晩は、そういうことは一切考えなかった。欲望のままというのとは違うが、ほんとうに自然な流れだった。もしかするとこの子のことだから気を遣って言ってくれているのかもしれないが、それでも出来てしまっている可能性を考えると少しは気が楽だ。

「うふふ、そうね」と乾さんが笑った。「お二人はいつ入籍するご予定かしら」

「早ければ、明日にでもしようと思っています」

「そうですか。では、こちらの手続きも早急に進めましょう。沢田さんもあんなことになっちゃいましたけど、あの人のことだからすぐに連絡をくれると思います」

「ええ」

「はるかちゃんはどうする? 手続きが済む前でも一緒に暮らすことはできるけど。太田さんたちはそれについてどうお考えかしら」乾さんが聞いた。

「わたしの方は一日でも早く一緒に暮らし始めたいと思っています」

「わたしも」とはるみが言った。

「はるかは、わたしは、ちゃんと親子になってからでいいです。せっかくここでも友だちができたし、乾さんが迷惑でなければ、もう少しここで暮らしたいです」

「まあ、迷惑なんて。そんなこと言ってもらえると、わたしも嬉しいわ。たぶん早ければ一か月、遅くても二か月くらいで決まると思うので、しばらくは土日だけ太田さんたちと一緒に過ごすというのはどうかしら」

「はい、それでいいです」とはるかが答え、わたしたちも顔を見合わせたあと、同意した。

 もしかすると、これもまたわたしたちに対するこの子なりの気遣いなのかもしれなかった。なにしろ、信じられないことだが、わたしとはるみはまだほんの一日くらいしか一緒に過ごしていないのだ。何が信じられないって、もっとずっと長く一緒にいるような気がしているからだ。喫茶店の時点から計算して、せいぜいまだ三十時間だった。でもその間はずっと一緒だった。お茶を飲み、お昼ご飯を食べ、この子をここに連れてきて、武田さんのタクシーに乗って、夕飯を食べて、はるみの部屋に行って、コーヒーを淹れてケーキを食べて、一緒に寝て、朝食を取り、買い物をして三上さんの家に行って、それからまたここに来た。そして今はもう何年も一緒にいるような感じだった。まるでもう自分の一部のようだった。はるみがいないなんてことは考えられないほどだった。はるみがいなかった一昨日までの方が嘘のようだった。

 そして、この子がいた。三上さん夫婦ははるみのことを天使のようだと考えていたが、わたしにとってはこの子が天使のような存在なのだ。

 森野さんの手紙では、あの公民館の女の子は、人間ではないもの、村の人たちは、座敷わらしとか森の妖精とか呼んでいたというようなことが、書いてあった。一方で、この子はあの女の子とはまったく違う、普通の人間だとも書いてあった。わたしもこの子は、生まれ方はともかく、普通の人間の子だと思う。突然消えていなくなったり、突然現れたりはしない。人の心をある程度見抜く力はあるが、それは人間としての優れた能力であり、何もかもお見通しというわけでもない。でもやっぱり天使と思えた。あるいは恋のキューピッドか。

 座敷わらしが居着いた家は繁栄して、いなくなると衰退するという話を聞いたことがある。それとはちょっと違うが、この子はわたしに幸せをもたらしてくれたような気がする。

 与えた者は何かを得る。森野さんの手紙にはそう書いてあった。それを読んだときは、あの後いい論文を書くことができて、ドイツに招かれたことかと思った。でももしかすると、そのことではなく、今この二人とこうして一緒にいることなのかもしれない。端から見ると歪な家族なのかもしれないが、わたしにとっては最高の家族なのだ。なんというか、思いもしなかったような、いや、想像を絶するような、完璧なフィット感だった。


【次回から第二部を開始!】毎週木曜日更新




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