第一部 第三章 三 三上さん夫妻と天使ちゃん

 アラームの音に驚いて目を覚ますと、彼女は隣にいなかった。わたしはぐっすり寝てしまったらしい。八時を回っていたが、カーテンが閉まっていて、部屋の中は薄暗かった。台所から包丁でまな板を叩く音が聞こえてきた。下着だけ着けて、そっと台所を覗いた。

 Tシャツにショートパンツの後ろ姿が眩しく目に飛び込んだ。彼女は後ろを振り向いて、恥ずかしそうな顔で「おはよう」と言った。

 あまりの愛らしさに、近づいて後ろから抱き締めた。

「おはよう、はるみ」

 抱き締めたままキスをすると、沸き立ってきて、柄にもなく、我慢できなくなった。

「ああ、ちょっと、あなた」

 あなたなんて呼ばれたから、余計に高ぶってしまった。彼女はしばらくわたしの愛撫を受け入れていたが、どうにもならなく前にピシッと打ち切った。

「駄目よ。それはまたあとで。今日は三上さんのところに挨拶に行って、はるかちゃんのところにも行かなくちゃならないでしょう。シャワーを浴びてきて」

「ああ、そうだね。あまりに可愛くて、つい」

 彼女はチャーミングに笑った。嬉しそうで、優しくて、そして健康的な、そんな笑顔だった。

「ありがとう。でも、いまは駄目よ」

 優しくて厳しい、いい母親になりそうだった。あきらめてシャワーで汗を流した。頭を洗うと、さすがに浮ついていた気持ちも治まり、現実を取り戻した。今日もまた、忙しい一日になるのだ。

「もしかして、はるみは、ぜんぜん寝てないの?」

 身体を拭いて、腰にタオルを巻いてから浴室を出て、食卓に朝食を並べている彼女に話しかけた。もうカーテンは開けてあり、南向きらしい窓からは朝の光がわずかに差し込んでいた。清々しい朝だった。

「うん。目がさえて、眠れなかった」

「そう。大丈夫?」

「うん、平気。ぜんぜん、元気」

「三上さんには連絡した?」

「まだ。たかふみさんが一緒にいるときの方がいいと思って」

 昨晩抱き合ったときから、わたしは彼女を〝はるみ〟と呼び、彼女はわたしを〝たかふみさん〟と呼ぶようになっていた。

「じゃあ、朝ご飯を食べてからにしよう」

 昨晩脱いだ服は部屋の隅にきれいに畳まれていた。着替えはないから、それを着るしかない。

 トーストと、レタスとキュウリのサラダに目玉焼きという、ちゃんとした朝食が用意されていた。

「コーヒーを淹れましょうか?」

「いや、時間もないだろうし。紅茶はある?」

「あります。普通のティーバッグのなら」

「うん、それでいいよ」

 あらためて面と向かうと照れくさくて、お互いちょっとぎこちなかった。でもこんなに楽しい気分で食事をしたのは久し振り、というよりも、記憶する限りで最高の食事のような気がする。ふたりともしゃべらなかった。目が合うたびに、つい顔がほころんだ。

 朝食を終えて、はるみが三上さんに電話を掛けた。顔を寄せてわたしも聞いた。大事な話があるから太田さんと一緒に家に伺いたい、と告げた。わたしと一緒ということに三上さんは驚き、どういう話なのかと質問した。はるみは行ってから話すとしか答えなかった。


 三上さんの家は、都心方向に少し戻ったところにあった。途中、ユニクロで長袖のワイシャツとジャケットを買って着替えようと思ったが、試着してみると袖の長さがわたしには短くてあきらめた。近くにあったアウトドア系洋服屋を覗いたら仕事にも使えそうなちょうどいいジャケットが見つかり、シャツも購入して、一応は挨拶に行ける格好になった。デパートにも寄って地下の和菓子屋で手土産を買った。一気に婚約指輪も買いに行きたかったが、時間がなくてあきらめた。約束の十一時のちょっと前に、閑静な住宅街にある、二階建ての一軒家の前になんとか辿り着いた。相手の両親に結婚の了解をもらいに来た気分だった。そして実際、それに近いのだ。

 戸惑いを隠せない顔の三上さんが玄関にわたしたちを迎えた。はるみとわたしの顔を交互に見ると、弁護士らしい、人の心の奥を見通すような目でわたしを見つめた。わたしたちの雰囲気から事情を察したのだろうか、ちょっとがっかりしたような、そんな気配が伝わって来た。それはそうだろう。わたしは、まだあの子の父親であることを認めない、ずるい男なのだから。

 築三十年ほどの家は、デザインの古さは隠せなかったが、建物はきちんとお金を掛けて建てられたものらしく、しっかりしていた。部屋から溢れ出したらしい書籍や書類のファイルや民芸品などが半ば無造作に置かれていたが、掃除が行き届いているのか、清潔に感じられた。書籍類の多い家に独特の古びた匂いがした。廊下を通って、わたしたちは居間に案内された。三上さんに促されて年季の入ったソファに、はるみと並んで座った。三上さんは「お茶の用意をするわね」と言って、一度部屋を出て行き、たぶんすでに用意してあったのだろう、二分ほどで戻ってきた。

「それで、はるみちゃん、どうしたの急に。大事な話って」

 三上さんは落ち着かない感じでソファに座ると、はす向かいに座るわたしをちらっと見ながら言った。

「わたし、太田さんと結婚します。それを三上さんに直接伝えたくて、こうして伺わせていただきました」

 三上さんはまんまるく目を見開いた。絶句する三上さんが口を開く前に、わたしが続けた。

「三上さんははるみさんの親代わりと伺っています。それで、お許しというのも変なのかもしれませんが、三上さんに結婚を承諾していただきたく、お願いに上がりました」

 弁護士らしい落ち着きを取り戻してはいたが、さすがにちょっと事情が飲み込めないようだった。

「あなたたち、きのう、初対面だったんじゃなかったの? そういう風に見えたけど」

「そうです」わたしが答えた。「きのう、沢田さんの事務所で初めて会いました」

「それで、いきなり、結婚って……いったい何を考えているの? お付き合いするとかいうのならともかく、いきなり結婚なんて」

「ええ、わたしも急な話とは思います。でも、お互いにほとんど一目惚れだったんです。それに、はるかちゃんのこともあります。わたしはあの子の父親になろうと思っています。あの子もそれを望んでくれています。でも結婚して、相手も自分を子どもにしたいと思ってくれたら、という条件を出されました。はるみさんはあの子の母親になってあげたいと思っていました。わたしもそれが一番いいと思っていました。そして、それとは別にわたしたちはお互いに好きになったんです」

「ちょっと待ってちょうだい。まだ状況がよくわからないの。太田さんと二人で話がしたいから、はるみちゃんはまだあなたの部屋がそのままになっているから、部屋にいてくれるかしら」

 はるみは頷いて静かに立ち上がると、見上げるわたしに微笑んだ。居間を出て行こうとしたとき、何かを思いついたような顔で振り返った。

「貴子おばさん、ひろむおじさんにお線香上げてもいい?」

「ああ、そうね、ありがとう」

 三上さんは振り向いて、小さく頷いた。

 はるみは笑みを残して、すぐ隣の部屋に入っていった。

 三上さんの顔からはるみに向けていた笑顔が潮のように引いていき、自然と真剣な面持ちになった。たぶん質問の構成を考えていたのだろう。ほんの僅かな間、自分の手を見てから、まっすぐにわたしを見つめた。

「まず、いくつかこちらから質問させていただきたいのですけれど、よろしいかしら」

「ええ、どうぞ」

「あなたは、一昨日の夜、森野木乃香さんの娘、森野遥ちゃんに、初めて会ったのよね」

「はい、そうです」

「父親になろうと思っているということは、実の父親ではないということなのよね」

「それについては、他の人に言わないと約束していただけますか?」

「そうね、場合によっては」

「これは森野木乃香さんの名誉にも関わることなのでできればお願いします。でも話してしまうかどうかは三上さんにお任せします。それでどうでしょう」

「わかりました」

 三上さんは納得したように、わたしの目を見て頷いた。

「実の父親かどうかわからない、というのがほんとうのところです。森野さんとは一度だけ関係を持ったことがあります。だから可能性はあります。時期もだいたい一致します。でもわたしは違うと感じます。一昨日、あの子がわたしを突然訪ねてきたときは自分が父親でないことを祈っていました。でも今となっては、実の父親であった方がずっとすっきりしますし、うれしくもあります」

 森野さんとのことをこんなにいろいろな人に話すことになるとは思ってもみなかった。

「そう……そうだったの。普通に考えれば、はるかちゃんがあのタイミングであなたのところへ行ったということは、どう考えてもあなたが父親である可能性が高いわけだから、引き取ったり認めないにしてもせめて誠意くらい見せなさいよ、って思ってたわ。それが、自分はまったく無関係です、みたいな顔をしてたから、誠実そうな顔をして嫌な男だと思ってた。そうだったのね。まあ、それならあなたの態度も少しは納得できるわ。可能性がある上に、自分の子供ではないと感じていたなら、仕方ないかもしれないわね。それにしても人生って皮肉なものよね」三上さんは噛みしめるように言って、小さく笑みを浮かべた。「そうだ、そういうことなら、DNA鑑定でもしてみたらどうかしら」

 DNA鑑定についてはネットで調べようと思っていたが、すっかり忘れていた。それにそんな時間もなかった。

「DNA鑑定というのは、どのように調べて、どういう形で結果が出るものなのでしょうか」

「基本的には遺伝子の一部を使って、その一致している割合を調べて、確率で出されます。父子鑑定の場合、母親のDNAのサンプルもあればより精度が高くなるようです。太田さんは研究者なので、統計学もわたしよりご存知かもしれないですけど、確率を計算したうえで統計の検定という手法を使ってその確率が妥当なものか判断するそうです。だから、非常にはっきりする場合もあれば、微妙なケースというのもあるようです」

「やっぱりそうなんですか」

 統計の確率は、サイコロとか工業製品とか均質化を目指したものであれば精度は高いが、不均一であったり、サンプルが少なかったり、未知のものが多く存在するような状況では、とたんに扱いがデリケートになる。そのためにいろいろな検定方法も確立されているが、その選び方によって答えも変わってくる。DNA鑑定についてはもちろん学術的にはその手法はある程度確立されているのだろうが、おそらくはまだ発展段階であり、場合によってはかならずしも信頼できるものではないと予想された。ましてや、今回の特殊なケースではどのような判断がなされるか予想は難しかった。それに、あの子に関しては、DNA鑑定のような科学的手法は馴染まないような気もした。

「昨日、乾さん、はるかちゃんの入った採光園の園長の乾さんにも勧められましたが、どうしようか迷っています。あの子もわたしが実の父親であることを求めてはいないようですし、はっきりさせることが果たして、いいのかどうか」

「そうね、難しい問題ね。でもはるかちゃんは、本当に実の父親が誰かを知りたくはないのかしら。父親はいないと母親から言い聞かされてきたみたいだけど」

「うーん、どうなんでしょう。わたしにもまだ本音はわかりません。もう少しあの子が大きくなってから、本人と相談して考えてみるというのも手かもしれませんね」

「そうね、そうしたらいいわ。それがいい。どっちにしても、あなたが本物の父親になってあげればいいだけの話だから」

「はい」

 いろいろと厳しく追及されるのかと思っていたら、なんだか人生相談の様相を呈してきた。

「それから、はるみちゃんのことだけど、あの子が記憶喪失であることはご存知よね」

「はい。個人的な記憶がすっぽり抜け落ちていると本人から聞きました」

 三上さんはわたしの言葉に頷くと、温かい懐かしさを覚えたような目でわたしを見た。

「あの子がね、たぶん十四、五歳くらいのときに、神社の境内で倒れているのを神社の人に発見されたの。倒れていたから土で汚れてはいたけれど、傷ひとつなかったそうよ。ちょうど梅の花が終わって、桜の季節になる前の時期でね。あの子の名前はそこの神主さんがつけてくれたものなの。だからちょっと古風な名前でしょう?」

 三上さんはそう言って、にこりとした。わたしと同じではるみにすごく合っていると思っているのかもしれない。

「しばらくその神社の人たちが面倒を見ていて、はるかちゃんが入ったような施設に預けることになっていたらしいんだけど、たまたまその神社に参拝に行ったときにその話を聞いて、わたしたち家族で引き取ることにしたの。いまだにそのときどうしてそういうことになったのか、よくわからないんだけど、夫もわたしもそうしなきゃいけないような気がしたのよ。二人の子供たちは、娘は結婚してもう子供もいたし、息子は大学生だったし、いまさら養女なんて、って微妙な感じだったけどね」

 三上さんはずいぶん遠い昔を語るようだった。この数年の間に亡くなったらしい、夫のことを思ったのかもしれない。

「そうなんですか。会って間もない上に、昨日ははるかちゃんのことで手一杯で、詳しい話を聞く時間もありませんでしたから、そういう話はまったく知らないんです」

「そんな状況で、結婚まで決めちゃっていいの? 少しはお付き合いしてからでも遅くないんじゃないの? わたしは反対をするつもりはないの。あなたの人柄もだいぶわかったし。それにはるみちゃんのあんな顔は初めて見たわ。でもちょっと特殊な事情でしょう? もう少し知り合ってからでもいいんじゃないのかしら。結婚してみたけれど、駄目だったというのじゃ、あの子も可哀想だし」

「大丈夫です。それはありません」きっぱりと言い切った。本当に自信があった。生まれてから一度も感じたことのないような、力強い自信だった。

「ずいぶん自信たっぷりなのね。それはお互いに一目惚れというのはすごいことだけど、少し冷めてきたら、いろいろと欠点だって見えてくるものよね。まあ、太田さんもそれほどお若いわけではないようですから、わたしが言うようなことではないかもしれませんけど。失礼ですけど、今、おいくつなのかしら」

「四三歳です」

 三上さんは疑問を引きずったような顔で驚いた。

「あら、そんなにいっているの。まだ三〇代半ばかと思ってた。そう。じゃあ、ずいぶん歳が離れているのね。逆にそういう意味では安心ね。まあちょっと離れ過ぎかもしれないけど」

「自分でも頭ではそう思いますけど、一緒にいるとそんなことまったく気にならないんです」

「くどいようだけど、ほんとうにいいのかしら? あの子がどういう家で生まれて、どういう育ち方をしてきたのかもまったくわからないのよ? もちろん、どういう理由で記憶喪失になったのかも。仕事柄コネもあったから警察でもいろいろ調べてもらったんだけど、ほんと、不思議なくらい手掛かりがなくてね。で、わたしが身元引受人になって家庭裁判所に就籍許可を申し立てて、仮の戸籍をもらったの。養女にしようとも思ったし、子供たちももう反対はしなかったけど、本人がそれを望まなかったのよ。理由は言わないから、わからないんだけど」

「どういうわけか、そんなことどうでもよく思えるんです。彼女がそこにいる。それだけでいいんです」

「あらあら。ほんとうに好きになっちゃったのね。うらやましいくらい。あの子もそこまで思ってもらえるなら、しあわせね。記憶喪失のせいか、今までそういう話は全然なくてね。もう独立しちゃって家にはいないけど、息子とはしばらくしたらある程度は話をするようになったけど、ほかは、ほら、あの子、全然しゃべらないじゃない? 初対面の人とか、顔見知りになっても話さない人とはほとんど話さないし、これから先がちょっと心配だったの。わたしたち家族も含めて、誰にも心を許さない感じだったわ。そのくせ、一人暮らしを始めたいというし。木乃香ちゃんとはるかちゃんだけはちょっと違う感じだったかな。特にはるかちゃんとは親友みたいだったわね。太田さんとは、最初から話をしたのね?」

「ええ。わたしは、そう言う意味では、別に何も感じませんでした。ごく普通に、名前を言って、何をしているかとか、話をしましたから。まあ、どちらかというと物静かなタイプだとは思いましたけど」

「それはあの子にしたらものすごいおしゃべりな状態だわ。ここにいたときも、普段は必要最低限のことくらいしか話さなくて。誰かの誕生日祝いとか、遊園地や海に行ったりしても、子どもらしく興奮したりすることもなくてね。まあもちろん普通に笑ったりはしたけど」

「キャンプは?」

 行っていないことを承知で、あえて聞いてみた。

「ああ、うちはキャンプに行く習慣がなくてね、一度も行ったことないわね。はるみちゃん、キャンプに行きたいって?」

「ええ。今度、はるかちゃんと三人で行こうって言ったら、子どもみたいに喜んでました」

「わかった」三上さんはそう強く言って、右手を差し出した。「はるみちゃんをお願いするわ。しあわせにしてあげてね」

「はい」

 どういうわけか、はるみのその反応が三上さんの気持ちを決定づけた結果になった。三上さんはわたしの右手を女性とは思えないほどの力で握った。面接試験に合格したような気分だった。

「ところで、はるみさんがさっきお線香を上げたいと言っていたおじさんというのは?」

「夫よ。一年半ほど前に亡くなったの」

「わたしもお線香を上げさせていただいてよろしいでしょうか」

「ありがとう。そうね、じゃあ、はるみちゃんと婚約の報告をしてもらえるかしら? きっと、あの人も喜ぶわ」

 三上さんは廊下に出ると、階段の下から、「はるみちゃん、もう終わったから、降りてらっしゃい」と叫んだ。「はぁい」とちょっと子どもっぽい声が返ってきた。はるみがこの家にいた頃の情景を見たような気がした。


 先を急ぎたい気持ちもあったが、三上さんがお昼ご飯を食べていきなさいと寿司の出前を取ってくれた。出前が届く間に、あの子にふたりのことを報告しておこうと、採光園に電話をかけた。朝とは逆に、今度ははるみが顔を寄せて、一緒に聞いた。

 イシカワさんが出たから、話は早かった。

「はるかちゃーん、太田さんから電話よー」

 受話器を押さえていないらしく、イシカワさんの声も子どもたちが遊んでいる楽しげな声も全部聞こえてきた。遠くで「はぁい」とあの子の声がした。誰かの言い方に似ていると思ったら、さきほどのはるみの言い方にそっくりだった。

「もしもし、太田さん? どうしたの、今日、来るんでしょう?」

「うん。その前に知らせておきたいことがあって」

「おねえちゃんとうまくいったの?」

「えっ?」

 そうだ、この子ははるみがわたしのことを好きになったことを知っていたんだ。それにわたしがはるみを気に入っていることもお見通しだったんだ。

「当たりだ。はるみと、サカキさんと結婚することにした」

「へぇー、もう、名前で呼ぶようになったんだ。よかったね。おめでとう」

 結婚のことよりも呼び方に注目するとは意外だった。

「なんだ、もうちょっと、喜んでくれるのかと思ってた」

「うれしいよ、とっても。だって最高の組み合わせだもん。太田さんがお父さんで、おねえちゃんがお母さんなんて。うまくいくように祈ってたんだから」

 確かに嬉しそうではあるが、まるでいつかはこうなるとすでにわかっていたかのような口振りだった。

「そうか、君が応援してくれてたから、うまくいったのか」

「それもあるかもしれないけど、太田さんも、おねえちゃんも、ふたりとも頑張ったんでしょう? どっちからプロポーズしたの?」

「最初ははるみで、次はぼく、かな」

「ふぅん。でもまさか、こんなにすぐにとは思わなかったな。ふたりとも勇気あるなぁ。普通、告白するのだって、そんなにすぐはできないのに」

「はるかちゃん、告白したことあるの?」

「わたしはないけど、ともだちとか」

「へえ、そうか。そうだ、乾さんはいる?」

「園長先生は午前中はお出かけ。午後には戻って来るみたいよ。ふたりのことは、はるかから伝えておくから」

「そうだね、じゃあ、頼むよ」

「うん。じゃあ、また、あとでね。そうだ、昨日、カートっていうんだっけ? 荷物を運んだやつ、忘れていったでしょう」

「そうか、すっかり忘れてた」

「でもあれ、沢田さんのだし、まあいいかもね」

「そうだね。今日、そっちに行くしね」

「うん。じゃあ、あとでね」

「うん。あとで」

 そのあと、武田さんに電話を掛けて、駅に二時半でお願いした。二つ返事で引き受けてくれた。

 寿司を食べている間、結婚式はどうするのかとか、新居はどうするのかとか、三上さんから現実的な質問がいくつも飛んで来た。親代わりだから気になるのだろう。まだ何も考えていなかった。わたしは今日からでも一緒に住みたいと思っていると言った。はるみも同じ気持ちだった。一瞬たりとも離れていたくない気分だった。あの子をいつ引き取れるかはわからないが、とりあえずはわたしの家に住むのが妥当だろうということになった。

 昨日の今日だから自分の親にもまだ話していない、とわたしは言った。そんなことさえすっかり忘れていたのだ。もう親にあれこれ言われる歳でもないから、決めたことは問題ないとしても、事情が事情だけにうまく話をしなければならない。三上さんは、親御さんは驚くに違いないけれど、会えば二人のことは気に入ってくれるはずよ、と言ってくれた。

 それから三上さんは自分たち夫婦の物語を話し始めた。

「わたしたち、学生結婚だったのよ。法学部の同級生だった。あなたたちと違って、お互い一目惚れというわけではなかったけど、一年生の最初の試験週間が終わって、つきあい始めたの。三か月ほど友だちとして接して、どことなくお互いに惹かれ合ったのね。そして、三年生のときに結婚したの。もちろん両方の親とも猛反対だったけど、先に籍を入れちゃっていたから、もう手遅れ。まあ、反対されたのは時期だけだったんだけどね」

 それから、三上さんは司法の道を目指し、夫の方は一般企業に就職した。四年生の時にはもう長女を身ごもっていた。卒業後すぐに子供が生まれた。それでも三上さんはその二年後には司法試験に合格した。いつも手をつないで歩くような、仲のいい、友だちのような夫婦だったそうだ。夫はもともと身体が強くなく、仕事で身体を壊した。会社を辞めて、法学者の道をあらためて目指すことにした。密かにそういう希望があったのだが、三上さんの司法試験を優先させて、自分は企業への就職を選んでいたのだ。その時点で長男も生まれていたが、三上さんはすでに弁護士としてそれなりの稼ぎがあったから、お金の心配はさほどなく、夫は大学院に進み、少し遅れて始めた学者の道を順調に歩んだ。子供にも恵まれ、お互いにやりたい仕事に就き、四十代ですでに孫の顔も見て、満ち足りた人生を過ごしていた。夫が再び体調を崩し、がんとわかったときにはもうほとんど手遅れとなっていた。

「はるみちゃんを引き取ったときにはすでにあと半年、もって一年の命と言われていたの。そんなときに、って、子供たちや周りからも言われたけど、わたしも夫も、引き取ることで最初から意見が一致したの。普段は、いい意味で議論が絶えなかったんだけどね。夫は延命治療を嫌がってね。ずっと家で仕事をしていた。医者からも、無理をしたらさらに命を削ることになるって言われていたのに。でもどうしてもやり遂げておきたい仕事があったから、命と引き替えのつもりで取り組んでいたわ。どうせ死ぬなら、ちゃんと生きて死にたい、ってね。だから、あのときに神社にお参りに行ったときも、これが最後のお参りになるかもしれないと思っていた。そういう覚悟でいたの。そこの宮司さんとは前から懇意にしていてね。それで、法律家であるわたしたちに、はるみちゃんのことを相談してきたの。この子のためにどうしたら一番いいだろうか、って。そして、わたしたちの前に連れてきたの。そのとき、夫と目が合ってね。口に出さなくても、お互いに考えていることがわかったわ。そうね、先に夫が、うちで引き取らせてもらえないか、って言ったの。同じことを言おうとしていたわたしも頷いた。身元不明ということで手続きはちょっと大変だったけど、まあこっちはその辺のプロだし、そういうことになったの。引き取ってからは中学に通わせようと思ったけど、この子はどうしても嫌だって言うの。記憶喪失の子に無理強いもできないから、家で勉強させたわ。全然そんなつもりはなかったんだけど、はるみちゃんは夫の仕事を手伝ったり、看病をしてくれた。手伝うといっても、まだ十四、五歳くらいだから難しいことはできないけど、夫から頼まれて、図書館に行って、本を借りたり、資料のコピーをしてきたり。本当に助かったわ。それにはるみちゃんが家にいてくれたから、わたしも仕事に集中できたし。それまでは、夫が倒れていやしないかって、いつも心配でたまらなかったの。仕事中は無理矢理意識の隅に追いやっていたけど。夫は夫で、はるみちゃんに勉強を教えたりして、いい気分転換にもなっていたみたい」

 はるみは自分の話を静かな顔で聞いていた。三上さんはうっすらと涙の浮かんだ目ではるみを見つめて、小さく頷いた。はるみへの感謝の気持ちがわたしにも伝わってきた。

「夫の病気がよくなることはなかったけど、医者の予想をはるかに超えて、生きたわ。もって一年と言われていたのに、三年半よ! はるみちゃんのおかげだとわたしたちは思っているの。痛みと闘いながらだったけど、夫の仕事はそれまでとはくらべものにならないくらい進んだし、最後までやり通すことができたわ。夫とふたりだけのときは、はるみちゃんのこと、天使ちゃんって言っていたな。だってまるで天から降ってきたようにわたしたちの前に現れて、奇跡を起こしてくれたようなものだもの。よく子どものことを神様からの授かり物っていうけど、はるみちゃんの場合はちょっと違う意味でそういう感じ。神社で倒れていたっていうのも、余計にそう感じさせちゃうわよね」

 自分の言ったことがおかしいかのように三上さんは笑った。真顔に戻ると、今度はわたしを直視した。

「だから、はるみちゃんはわたしたちにとってほんとうの子どもか、それ以上に感じるの。そんなこと、子どもたちの前じゃ言えないけどね。だから、大切にしてあげてね。お願いよ」


 三上さんに別れを告げ、駅に向かって歩き始めると、わたしははるみの白くて繊細な手を握った。彼女は清らかな顔でわたしを見た。秋の柔らかな日差しを浴びた彼女に、昨日の夜とも今朝ともまた違った美しさを感じた。三上さんからいろいろと話を聞くことができてよかったと思った。

「ぼくたちもずっと手をつないで歩くような、そんな夫婦でいよう」

「はい」はるみは嬉しそうに、年齢相応の元気な声で答えてくれた。

 昨日と同じように快速電車に乗った。混み具合も同じだった。天気も同じようによかった。でも何もかもが昨日とは違って感じられた。人々はみな幸せそうに見えた。宇宙を支えるような碧い空に、真っ白な雲が気持ちよさそうに浮かんでいた。このまま電車の速度に乗って空に放たれたら、飛ぶことができそうな気分だった。気持ちは軽く、そしてずっしりと満たされていた。



【次回、第一部 第三章 四 沢田さんの彼氏】毎週木曜日更新

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る