第一部 第三章 二 プロポーズ
第一部 第三章 二 プロポーズ
「着きました。ここです」
ごく普通の、学生が住みそうな感じの質素なアパートだった。一階の端の部屋だった。
「あまりきれいじゃないかもしれないけど、どうぞ」
女性の一人暮らしの部屋に上がるのは、少々緊張する。中もこれまたごくありきたりの一Kだった。本当に必要なもの以外はなにもないという感じだった。薄暗いキッチンには、簡単な食器棚とわずかな食器、小さな冷蔵庫、ワゴンのような台があるだけだった。奥の部屋にはちゃぶ台とテレビ、小さな本棚、組み立て式の簡易的なクローゼットがあって、シングルベッドがやや場所を取っていた。そのくらいだった。ベッドの上はきれいに整えられていた。ちゃぶ台の上には図書館から借りてきた本が置いてあった。ジョン・アーヴィングの『熊を放つ』だった。その横に買ってきたケーキの箱とコーヒー用具の袋が置かれた。
「座布団もないですけど、適当に座ってください。いま、お茶を入れますね。あっ、そうか、太田さんにコーヒーを淹れてもらうんだった。じゃあ、お湯を沸かしますね。どのくらい湧かせばいいんだろう。あれ、わたし、なんでこんなあたふたしてるんだろう」
一度腰を下ろしたが、台所からあれやこれやサカキさんの声が聞こえるものだから、引き戸を開けて、台所に顔を覗かせた。
「すみません。コーヒーを淹れる準備がわからなくて」
サカキさんはさきほどまでの落ち着いた感じとはまったく違って、おろおろしたような動きだった。
「やかんはあれを使っていいの?」
流しのところにステンレスのやかんがあった。
「はい」
「そうだ、コーヒーのドリッパーは一度軽く洗った方がいいな。それからカップはどのくらいの大きさかな」
サカキさんは食器棚から、ムーミン・シリーズの絵が描かれたカップを二つ、「これです」と差し出した。
「ぼくはやかんに湯を沸かして、コーヒー豆を挽くから、サカキさん、あっ、はるみちゃんは、ケーキの用意をしてくれる?」
「はい、わかりました。ああ、でも、太田さんからコーヒーの淹れ方を教わろうと思ったのに」
「じゃあ、お湯を沸かしている間に、ふたりでケーキの用意をしよう」
「はい!」急に気持ちが立ち直ったようにサカキさんは元気な返事をした。
本を片付けて、テーブルを拭いて、皿を並べ、ケーキの箱を開けた。
「中身は分っていても、ケーキの箱を開けるときって、なんかわくわくしますよね」
サカキさんはいろいろな年齢が混在しているようだった。はるかちゃんのようだったりもするし、今のように高校生のようだったりもするし、時には二十代半ばのような落ち着きを見せるときもあった。
「太田さん、ケーキは半分ずつにしませんか。わたし、ケーキを切り分けるのは得意なんです」
「ああ、それは別に構わないけど」
サカキさんは包丁を持ってくると、箱の上でピースのケーキを器用に半分にした。ほとんど形は崩れなかった。そして倒れないようにうまく皿にケーキを移した。
「ほんとだ。じょうずだ」
台所でお湯が沸いたようだった。立ち上がって、台所に行くと、サカキさんもついてきた。
まずひととおり、コーヒーを淹れる順序を説明した。一杯分の量しか入らないミルにコーヒー豆を入れて、レバーを回した。挽いた豆はとりあえず小さい皿に移した。コーヒー豆の香ばしい匂いが台所に充満した。
「すごい、いい香り。わたしこれだけで酔っちゃいそう」とサカキさんは大仰にくらっとする振りをした。
二度目は自分にやらせてくれとサカキさんが言うので、ちょっと固いよと言って渡した。ほんとだと言いながら、サカキさんはおもしろそうに豆を挽いた。その間にわたしはドリッパーを軽く水洗いした。コーヒーも自分で淹れてみたいと言うので、説明を加えながらまずはわたしが一杯目を抽出した。サカキさんはわたしの説明したことをぶつぶつとつぶやきながら、ものすごく真剣な顔でコーヒーのドリップに向き合った。
その顔は明らかに知性のある顔だった。この娘はいったいどこから来たのだろうと思った。記憶をなくす前はどういう生活をしていたのだろう。ものすごく育ちがいい、といった感じでもなかったが、人間としての品はよかった。もっとも記憶喪失なのだから、どこからどこまでが以前から持ち合わせていた性質なのかはわからない。
「そう、ゆっくり、豆と話をするような気持ちで」
「うまく、淹れられますように。あっ、ふくらんできた」
普通のやかんだからちょろちょろとは出しにくいにもかかわらず、とても丁寧にうまいことお湯を注いでいった。湯を吸い込んだコーヒーの粉がきれいに泡だって膨らんだ。
わたしの淹れたのをサカキさんが、サカキさんが淹れたのをわたしが飲むことにした。
「最初はミルクとか砂糖とか入れた方がいいと思うけど」
「でもせっかくだから、なにも入れずに飲んでみたいんです。なんか、大人っぽい感じだし」
奥の部屋に運び、ようやく二人とも落ち着いて座ることができた。
じゃあ、さっそく、いただきます、と言って、サカキさんはゆっくりとカップを口に運んだ。やけどに気をつけながら、そっとすすった。
「うわ、苦い。あれ、でも、ちょっと甘い。おもしろい」
「へえ、よくわかるね。そのくらいわかれば、もう、立派な大人だ」
「ちょっと太田さん、わたしのこと、子ども扱いしてません? もうとっくに大人ですから」
「わかってるよ。でも時々すごく子どもっぽいから、びっくりする」
意識することなくコーヒーを一口飲んだ。
「あれ、うまい。これ、サカキさんの、いや、はるみちゃんの淹れた方だよね。もしかするとぼくのよりおいしいかもね」
「えー、ほんとうですか。ちょっと、わたしにも飲ませて」
サカキさんは返事を待つことなく、わたしのカップを手にした。
「あっ、ほんとだ、ちょっと違う。こっちの方が、こくがある感じ。太田さん、こっちを飲んでみて」
自分のカップをサカキさんは差し出した。こういうことを全然気にしないのだろうか。こんなおじさんとカップを交換するなんて。
「あー、君の言うとおりだ。君の淹れた方が、おいしい。ちょっと悔しいけど」
「きっと太田さんの教え方がうまかったんですよ。わたしは太田さんに教えてもらったとおりに淹れただけですから」
わたしは力なく、ありがとう、と言った。それでもまあ味がそれほど大きくは変わらなかったことが慰めだった。サカキさんはカップが元通りになるようもう一度交換した。自分用とはるかちゃん用になっているらしかった。
「さあ、ケーキを食べましょうよ」
サカキさんは鼻歌でも歌いそうな感じで、フォークを手にして、チーズケーキを口に入れた。まだあどけなさの残る、そのしあわせそうな顔を見ていると、こっちまでしあわせな気持ちになれた。
「おいしい。チーズケーキとコーヒーってよく合うんですね」
「うん。チーズケーキじゃなくて、ただのチーズとコーヒーもかなりいけるよ」
「へえ、そうなんですか。チョコレートケーキの方は紅茶の方が合いそうかな」もう一つのケーキを口にしながら言った。
サカキさんにつられるようにして自分もケーキを一口食べたところで、自分がここに来た理由を思い出した。サカキさんの楽しそうな雰囲気に引きずられて、忘れかけていた。
「ところで、沢田さんの件だけどさ、録音したものを聞かせてもらえるかな」
「もちろんいいですけど、まず食べてからにしません。ちょっと、食べながらは聞きたくないんです」
わたしに対してではないはずだが、怒ったような、本当にいやそうな言い方だった。
「そうなの」それほどひどい内容なのだろうか。罵詈雑言の嵐とか、あるいは殺してやるとかなんとか。ここは素直に引き下がって、話題を変えた方がよさそうだった。
「引っ越して一か月じゃ、まだなかなか落ち着かないよね。あっ、そうか、はるかちゃんの施設が決まって、それからここを決めたのか」
「はい、そうです。それに認定試験に合格したのもその直前なんです。正確にはまだ三週間くらいかな。はるかちゃんと三上さんを除けば、太田さんが初めてのお客さんです」サカキさんは笑顔に戻った。
「へえ、そうなの」
できるだけ無関心を装って答えた。
あの子とサカキさんのつながりを思えば、サカキさんの男性関係は、もはや自分とまったく無関係とはいえない。だからといって、あれこれ詮索する立場でもない。でもそんなのは意識の戯言であって、心はサカキさんのことをもっと知りたがっていた。わたしはなんとかその気持ちを押し込めた。
サカキさんはケーキの最後の一口を食べ終えてしまうと、あきらめたように立ち上がった。空いた皿を下げて、手を洗って戻ってきた。本棚の引き出しから取り出したICレコーダーとイヤホンをわたしの前に置いた。
「これに入っています。ちょっと時間が長いですよ」
「どのくらい?」
「一時間半くらい」
サカキさんはちょっと不機嫌そうだった。
「そんなに長いんだ」
「でも、なんというか、聞かなくてもいい部分がほとんどで、でもところどころ必要な会話があるんです。わたしは聞きたくないから、イヤホンで聴いてください」と不愉快そうに言った。
それからサカキさんは「わたしはテレビでも観てようっと」と急に子どもっぽく言うと、本棚からテレビのリモコンを取って、スイッチを入れた。「そこでずっと座って聴くのも辛いでしょうから、こっちに来てベッドを背もたれにしたらどうですか。その方が楽ですよ」
サカキさんはちょっと避けて、わたしのためのスペースを空けてくれ、わたしのカップを自分の方に動かした。せっかく空けてくれたのに断るのも悪いし、確かに一時間半は長い。それにテレビを遮らないにせよ、わたしまで視界に入ることになる。自分にそう言い聞かせて、サカキさんの隣に座り直した。ICレコーダーにイヤホンをセットすると、サカキさんが念のためと再生や早送り・早戻しなどの方法を説明してくれた。このような状況で触れあわんばかり接近されると、どぎまぎしてしまう。そのことを察したのかどうか、サカキさんは用件を済ますと、さっと元の位置に戻った。
再生ボタンを押すと、いきなりあの子の声が耳に飛び込んできた。
----おねえちゃん、はやく。
----わかってるよ。すぐ行くから。これでよし、と。
どうやらサカキさんがレコーダーをセットしたところらしい。たぶん、音声に反応して録音するモードにしておいて、外出したのだろう。
それから、急に男の声に聞こえてきた。沢田さんと後藤氏が帰ってきたらしかった。
----今日のメシ、うまかったな。
----それほど高くなかったのにね。また今度行こうよ。
----ああ。ふう、今週は疲れたぜ。ところで、なあ、あの話はどうなってる?
----あの話って?
----今日はあのガキはいないんだよな。
----うん。サカキさんのところに行ってる。
----あの記憶喪失の子か。最近、あいつもだいぶ色気が出てきたよな。
----ちょっと、やめてよね。
----あんな青臭いのに手を出すかよ。それとも、嫉妬か? へへ。
----ばか。そんなわけないでしょう。
----あの話って、決まってるだろう。あのガキの財産の話だよ。外じゃ、誰に聞かれるかわかんないからな。
----また、その話。だから、そんなこと、無理だって言っているじゃない。弁護士のわたしがそんなことしたら、後見人の解任と損害賠償だけじゃ済まないんだから。知らなかったじゃ、済まないんだから。
----だから、それをなんとかしろって、言ってるんだよ。なんとか養子にできないのかよ。養子にしちまえば、問題ないんだろう?
----だから、無理だって。あの子にその気がないんだから。
----だったらよ、俺が無理にでも、うん、って言わせてやろうか。ガキなんだから、なんとでもなるだろう? ちょっと痛い目に遭わせてやれば、すぐに言うことを聞くさ。
----そんなことしたら、最近は虐待だ、なんだって、大変なんだから。それにあの子、そうとう強情だから、ちょっとやそっとじゃ、言うこと聞かないわよ。
----そうだとしてもよ、こっちはおとなだぜ。いくらでも手はあるだろうが。
----ほんと、お願い。もう、いい加減、あきらめてよ。お金なら、わたしが貸してるじゃない。
----だからよ、そんなはした金じゃ、駄目なんだよ。まとまった金が必要なんだよ。
しばらく、そんな胸くそ悪い話が続いた。男はなんとかしろと言い、女は無理だと拒んだ。それから男は急に態度を和らげ、優しい口調に変わった。女も急に甘い声になった。
----なあ、知華子。
----なぁに。
----愛してるよ。
----うん……あぁ、駄目。
----駄目ってことはないだろう?
----いや。ねえ、駄目。
----今日はガキもいないし、思いっきりできるんだろう?
----ねえ、だめよ、いや。あんっ。
サカキさんが嫌がっていたのは、これだったのか。こんな露骨な情事の声は聞きたくなくて当たり前だった。でも、それでもサカキさんが聞き続けなければならなかった理由もすぐにわかった。
----なあ、知華子、頼むよ。
----だから、駄目、そのことは無理よ。ああ。
----お願いだよ。困るんだよ、俺だって。なあ。
----ああ、いや。ねえ、無理。ほんと。
----このままだと、お前とこうして会えなくなっちゃうかもしれないんだよ。こんな風にしてやれなくなっちゃうかもしれないんだよ。
----あんっ。いやっ。あ、いい。ああ、でも駄目。無理。
----ほんと、やばいんだって。いいのか、俺がいなくなっても。
----ああ、駄目。それも、いや。
----じゃあ、なんとかしてくれよ。急いでるんだよ。
サカキさんの方をちらっと見ると、テレビのバラエティ番組を観て、笑っていた。わたしの視線には反応を示さなかった。気付かないふりをしているらしかった。
拝み倒すような男の言葉と、女の短い拒否の言葉と嬌声が延々と続いた。その後も男の口説き文句は引き続き聞き取れたが、女の方は徐々に論理性を失い、妖艶な短い叫び声へと変わっていった。聞くのは辛かっただろうと思った。男のわたしでさえ、知り合いのこういう声を聞くのは、あまり気持ちのいいものではなかった。途中から速度を速めて聞こうとしたが、気分が悪くなりそうなので元に戻した。
半分以上聞いたところで一時停止ボタンを押し、イヤホンを外しながら大きくひとつため息をついた。サカキさんがほぼ同時にこっちを見た。
「まだ、全部、聞いてないですよね」
「はるみちゃんが聞きたくないって言った意味がよくわかったよ」
「でも、わたしは我慢して、最後まで聞きました」うつむき加減で、怒ったような、むかついたような顔をしてサカキさんは言った。
「最後まで聞き通したはるみちゃんには悪いけど、このあとも聞く必要はあるのかな。まだ五十分くらいまでしか聞いていないんだけど」
サカキさんはキッとわたしを睨んだ。やり場のない怒りのようなものだろうと思った。
わたしの方にも言い分はあった。もう九時を過ぎていた。最後まで聞いたら、十時になってしまう。あまり長居するのはよくないという思いがあった。
「わかってくれればいいです。ほんと、つらかったんだから。でも、はるかちゃんのためを思って、一生懸命聞いたんです」
「うん。えらいよ、はるみちゃんは。あの子のことを本当に思ってくれているんだね」
サカキさんは泣き出しそうな目でこくりと頷いた。
「じゃあ、ぼくも頑張って最後まで聞くとするか」
「いいです。時間の無駄です。一時間二三分くらいから聞いてください」
ずいぶんと具体的な数字だった。せめて少しでも多く聞こうと一時間二十分から再生を始めた。女の、びっくりするような大きな声が耳に飛び込んできた。佳境にさしかかっているようだった。生々しい、肉欲の音まではっきりとわかった。
見えているわけでもないのに目のやり場に困って、目を閉じた。
----あーーん、いい、いい。
----知華子、俺もいいよ、最高だ。最高だよ、知華子!
----あ、あ、あ、ねえ、もうわたし駄目。
----ああ、知華子、愛してるよ。
----イワオ、わたしも好きっ! すごく、いい!
----なあ、だから、いいだろう?
----あん、なにがぁ?
----あのガキのことだよ。
----いや、無理。できない。あん。ああ、どうしたの、やめないで。ねえ!
----おまえが、うんと言わなきゃ、これで終わりだ。
----ああ、お願い! 意地悪いわないで。続けて。ああ、そう、いい。すごい。
どうやら男は頂点に向かおうとする女を使って、合意させようとしているらしかった。会話は途切れ、女の切ない喘ぎだけが続いた。しかし女がもう少しというところで、男は再び動きを止めたようだった。
----ああ、どうしたの。ねえ、もうちょっとなのに。
----どうするんだ、やるのか、やらないのか。
----ねえ、無理よ。そんなこと言わないで。ああ。ああ、いい。おお。ああ、ねえ、続けてよ、お願いだから。
----うん、って言ってくれたら、最後までしてやるよ。
----駄目。ああ、いい。うう、駄目。無理。あん。
そういう半ば一方的な駆け引きが続いた。やがて女の声はいよいよ切羽詰まったものとなっていった。
----ああ、イワオ、わかったから、お願い。
----じゃあ、やってくれるな。はっきりと答えろ。
----わかりました。やります。やりますから、お願い。
----そうか。よし、約束だぞ。
----ああ。約束します……ああっ!
女の上り詰めていく悲鳴のような千切れた声と男の荒い息づかい、そして激しく情炎のぶつかり合う音が響き渡った。女と男がほぼ同時に頂点に達すると、そこで音声は一度途切れたようだった。あとはもぞもぞと身体を動かす音やグラスをテーブルに置くような音が断続的に入っていた。一時間二九分三二秒で録音は終了した。
わたしは目を開け、もう一度大きくため息をついた。気がつくとサカキさんはわたしにずっと視線を注いでいたらしかった。わたしが振り向いても、表情ひとつ変えなかった。生物でも観察するような目でじっと見つめていた。
イヤホンを外したものの、なんと言ったらいいのか、思いあぐねた。
「終わったよ」
そんな言葉しか、出てこなかった。
サカキさんの表情がわずかに緩んだ。
「どうですか、なにか役に立ちそうですか」
「そうだね、少なくともあの子を無理に養女にしようとしたり、財産を勝手に使おうとしたりしたときの証拠にはなりそうだ。つまり、これで沢田さんたちの暴走を防ぐことのできる可能性は高い。こっそり録ったものだし、中身も中身だから、使い方は気をつけないといけないけどね」
「よかった。ばれたらまずいし、レコーダーをセットするのだって大変だったんですから。それにうまく録音されるかもわからなかったし」
「わざわざそのためにICレコーダーを買ったの?」
「いえ。はるかちゃんと音楽の練習をするから、いらないテープレコーダーかなにかないか、三上さんに聞いたら、古いのをくれました」
「そうなんだ。よく頑張ったね。聞くのも、かなりつらかったよね」
サカキさんの表情が揺れた。「うっ」と小さく声を漏らした。大きな目から涙が堰を切ったようにこぼれ出た。あっという間に頬を伝った。落ちた滴は、膝を抱えるように座っているサカキさんのスカートを濡らした。
明らかに泣いていた。
少し迷ったが、わたしは身体をサカキさんに寄せた。ただ微妙な距離は残した。そしてそっと肩を抱いた。
わずかに身体が震えていた。サカキさんは姿勢を崩さなかった。顔を上げたまま、涙が落ちるに任せていた。
しばらくすると、我慢できなくなったのか、崩れ落ちるように顔をわたしの肩に預けてきた。昼間に事務所であの子が泣いたときにサカキさんがしてやったように、わたしもサカキさんの後頭部にそっと手をあてた。
うわごとのようにサカキさんが何かを言い始めた。しゃくり上げながら言うものだから、よく聞き取れなかった。
「わたしが……お母さん……」
母親の記憶でも取り戻したのかと思った。
「なに? お母さんがどうしたの?」
「太田さん、わたしがはるかちゃんのお母さんになれませんか」
わたしが話しかけると少し落ち着いたのか、ようやくサカキさんの言っていることがわかった。
「わたしがはるかちゃんのお母さんになれませんか」
聞き返す前に、サカキさんは繰り返した。
「ぼくも、君があの子の母親になれれば一番いいと思ってた」
サカキさんは顔を上げた。泣き濡れたその美しい顔は、わたしのすぐ目の前にあった。髪の毛が頬に張り付いていた。わたしを見つめる、吸い込まれそうな濡れた瞳は、何か必死な気持ちを表しているようだった。
「違うの」
「違う? 違うって、なにが」
「そうじゃないの」
言いたいことがわからなかった。
「だから、太田さんがお父さんで、わたしがお母さんではだめですか」
「えっ?」
意味がわからなかった。
「わたしと結婚してください」
「ええっ?」
まさか言葉どおりの意味だったとは。
「ちょっと待って、はるみちゃん。自分で言っていることがわかってる?」
冷静になってもらおうと思い、サカキさんの両肩に手を置いて、彼女の身体を少し起こした。
「わかってます」
「君があの子の母親になってあげたいという気持ちはわかる。それにあの子にとっても、ぼくも本当はそれが一番いいと思う。でも君はまだ若い。気持ちはわかるけど、あの子のためにそこまで自分の人生を犠牲にすることはない。ぼくが何とかするから、もしできるなら君はそれをサポートしてくれればいい」
「違うの。そうじゃないの」
「ぼくにはそうとしか思えないけど」
サカキさんは思い詰めたような顔をしていた。何か言いたそうにピンク色の唇が小さく動いた。でも何も言わなかった。わたしから離れ、元のようにベッドを背に座り直した。そして、小さくため息をついた。
テレビでは、どこかの国を訪ねているレポーターがその場所にまつわるクイズを出していた。サカキさんは手を伸ばしてリモコンを取ると、テレビのスイッチを切った。
雑音がなくなると、妙に落ち着かない気持ちになった。蛍光灯の光が不自然なほど明るく感じられた。
「きょう」
それだけ言って、サカキさんは再び口を閉ざした。
今日。今日はわたしにとってずいぶん特別な日だった。一生忘れられないだろう。あの晩と匹敵するほどの日だ。そしてあの晩とは見えない時間の線でつながっていた。
「今日が、どうかしたの?」
それきりサカキさんが口を開かないので、我慢できなくなった。
サカキさんはわたしの方を見て、無理に作ったような笑みを浮かべた。
「今日、初めて、太田さんと、お会いしました」ゆっくりとした口調で、まるでひとつひとつの言葉が重要な意味でも持つかのようにサカキさんは言った。日本語を習っている外国人のようでもあった。
「うん、そうだね」
そしてまたサカキさんは黙り込んだ。軽く膝を抱えるようにして、テレビを観ているかのように、ぼんやりと前を見ていた。
サカキさんの視線を辿ってみると、電源の入っていない液晶テレビの黒い画面に、サカキさんとわたしが映り込んでいた。わたしもまたサカキさんと同じように膝を抱えて座っていた。
「初めて」サカキさんが再び口を開いた。「木乃香さんと、はるかちゃんと、会ったときと、同じような感じがしました。そして、それとはまた、ちょっと違った感じもしました」
「へえ。どんな感じ?」
サカキさんはすぐには答えなかった。その代わりのように、テレビの中のサカキさんが笑ったように見えた。
画面の中でサカキさんと視線が合った。短いような、長いような、時間が過ぎた。たぶんせいぜい一、二分だと思う。
「ちょっと懐かしいような感じ」
「それは森野さんたちと会ったときのこと?」
「はい」
「記憶喪失となにか関係しているのかな?」
「わかりません。なにしろ記憶喪失ですから」
「それはそうだ」
テレビの中のわたしたちは小さく笑っていた。
「それと、太田さんと会ったときには」
サカキさんはそこで一度言葉を切った。笑みは消えていた。
「うん」
「最初は同じような懐かしい感じがしました。あいさつしたときに目が合いましたよね。そのとき、一瞬、胸を締め付けられるような感じがしました」
「胸を締め付けられる?」
「はい。なんか、びっくりするような感じ」
「へえ。それってどんな感じなんだろう」
「わたしにもどういうことかよくわかりませんでした。記憶にある限りでは初めての感覚でした」
「ふぅん。よくわかんないな。まさか、一目惚れとかないだろうし。病気とか?」
「そうみたいです」
「えっ? そうみたいって、どこか悪いの」
「違います」
「そうだよね。はるみちゃんは肌もぴちぴちだし、あの食べっぷりを見てても、とても病気とは思えない。あっ、変な意味じゃなくてさ」
サカキさんは、ふっ、と抜けるように笑った。顔を向けてサカキさんを直接見ると、その横顔はずいぶん大人っぽく感じられた。
「太田さんが沢田さんと出掛けたあとで、そのことをはるかちゃんに話したんです。これってなんだろう、って」
「そしたら?」
「はるかちゃんは、きっとそれは恋だ、って言いました」
思わず、吹き出してしまった。
「あの子も大人っぽいことを言うけど、中身はやっぱりまだ子どもなんだな」
「そうじゃないんです」
「そうじゃないって?」
言葉を額面通りに受け取れば、わたしのことを見て、胸を締め付けられるような感じがしたのは恋のせいだ、と言っていることになるが、でもどう考えてもそれはないだろう。
ところが、サカキさんはため息をついて、わたしをちらっと見た。だからといって、まさかな。もしかすると記憶に繋がりそうなものをわたしに感じたのだろうか。わたしが何かを知っているかもしれないと。そうだ、その方がぴったりくる。観測や出張やオートバイのツーリングなんかで日本全国津々浦々、いろいろなところに行ったことがあるから、わたしの方がまったく憶えていないにしても、わたしとどこかで会ったことがあるとか、そういう可能性だってなくもない。普段は目立つような容姿ではないが、旅に出た時は結構いろいろな人に話しかけられたりもしたし。それに、確率的にどうこういうことはできないが、かなりの回数、思いがけない場所で昔の知り合いやらなんやらに会ったことがある。でも、大抵の場合はわたしの方が見つけるということは、単にわたしがよく気付くというだけなのかもしれない。
「太田さんは、わたしのことを初めて見たとき、どんな感じがしましたか」
「ぼくが? そうだな、いまどきのコらしくすらっとしているなとか、瞳が印象的だなとか、大学生なのかなとか、そんなことかな」
「そうか、そういう見た目のことだけか」
サカキさんの表情は露骨にがっかりしたものだった。
「いや、でもね、ほら、喫茶店で三人で話していたとき、そうだ、ぼくがはるかちゃんに森野さんに振られたことをやたらと話さないでくれと言って、そのあと沈黙が続いたよね。そのあとで、はるみちゃんと目が合ったとき、なんだか春のひなたぼっこみたいに、身体から無駄な力がすぅーと抜けていくような気がした。まあ、第一印象というわけじゃないけど」
サカキさんは前を向いたままにこっとして、ほんの一瞬だけ、わたしの方を振り向いた。作り笑顔なのか、ほんものの笑顔なのか、わからなかった。好意的なまなざしであることだけはわかった。考えれば考えるほど、そのまま受け取るのが正しい気がするが、そんなありえないことがあるわけない。もちろんこのまま抱き締めてしまいたい気持ちはやまやまだが、そんなことをしたら大声を上げられるのが関の山だ。
サカキさんはまたしばらく黙り込んだ。
突如、甲高い暴力的な音が、秋の夜の穏やかな空気を引き裂いた。どこかの角を曲がってきたのだろうか、違法な排気管に取り替えているらしい大型スクーターのけたたましい排気音だった。
その音に驚いたように、サカキさんは身をすくめた。そして助けを求めるようにわたしに身を寄せてきた。
「わたし、ああいう音、こわいの」
サカキさんはそう言って、わたしの左腕を両手で掴んだ。震えるほどではなかったが、ほんとうに怯えている感じだった。
スクーターが通り過ぎてしまうと、余計に静かになったように感じられた。
サカキさんはそのまま動かなかった。
「こうしていると、すごく安心する」
そう言われてしまうと、わたしも動きにくかった。昼間感じたような、サカキさんのいい匂いに包まれる感じはなかった。そういえば、さっき泣いたときもそうだった。そういう匂いはしなかった。しばらく一緒にいて、鼻が慣れてしまったのかもしれない。
サカキさんはいつまでもそうしていた。わたしはそろそろ時間が気になっていた。さりげなく手首を動かして腕時計を見た。もう十時を回っていた。
けれども、どうしても腰を上げる気持ちにはならなかった。もう少しサカキさんの話を聞いた方がいいと思ったのもある。でも、もう少しサカキさんとこうして一緒にいたいという気持ちの方がそれよりもずっと強かった。何を考えているのかと自分を戒めてみたが、わたしの気持ちはまったく動じなかった。
サカキさんが静かに口を開いた。
「沢田さんとはるかちゃんが言い争った後で、伝言ゲームみたいなことをしましたよね。覚えてます?」
「ああ、うん」
「あのとき、はるかちゃんは、なんて言ったと思います?」
「ぼくのことを好きだと言ってくれたんだよね」
「違うんです。太田さんのことを好きだと言っていたのは、はるかちゃんが太田さんたちより一足先に事務所に来たときなんです」
「ああ、そうなんだ」
「あのときは、太田さんってやっぱりはるかの気持ちをわかってくれる人だ、と言っていたんです」
「へえ、そうか」
いま、あらためて、あの子のそういう気持ちを聞くと、嬉しくなったし、自信にもなった。
「あのときに太田さんに伝えたのは、わたしの気持ちです」
口振りはさりげなかったが、サカキさんの、わたしの腕を握る力が強くなった。
「えっ?」
疑問の声を上げたつもりだったが、サカキさんは答えてはくれなかった。
あのとき、サカキさんは、太田さんのこと好き、と囁いた。それが自分の気持ち? そんな、まさか。だって、まだあの時点では、会って、二、三時間しか経っていないよな。いまだってまだ半日くらいだ。それが、好きって、一体どういう意味だ。普通に考えれば、あの子にも親切にしてくれたし、人間として好きだということだろう。そうだよな。だったらこのシチュエーションは何だ。これは、女の子が好きな男に愛を告白している状況と非常によく一致しているじゃないか。たしかにサカキさんはわたしと一緒にいて、楽しそうではあった。こうして初めてのお客さんとしてわたしを部屋に上げてくれた。おそらく告白であることは九五%の確率で統計的には有意だろう。でも、まさか。だって、記憶喪失だろう。記憶喪失の場合、どうやって恋愛感情を抱くんだ? いろいろと経験が積み重なって初めて恋愛ができるようになるんじゃないのか? そりゃ、サカキさんだって、記憶を持って何年か経つのだろうから、いくらかそういうこともあるだろう。子どもだって、幼稚園くらいになれば、誰ちゃんが好きとか、恋愛感情みたいなものを持つこともある。だったら、そういう程度の感情なのか? でも一方でサカキさんは、精神的には普通の二十歳以上に成熟しているようにわたしには思える。そのギャップはどう考えればいいんだ? それに親子ほども歳だって違う。しかしそれだって武田さんの例をさっき聞かされたばかりだ。けれどあれは悲しい結末の話だった。でもサカキさんは、わたしと武田さんは違うし、あの子と武田さんの息子とも違うと言っていた。たしかに違う。
そんなことが、頭の中をぐるぐると駆け巡った。混乱していた。混乱はしていたが、自分がサカキさんに対して恋愛感情を持っていることは間違いなかった。それは否定しようがない。でもそれとサカキさんがわたしを好きだというのは話が別だ。どう違うんだ? 違うことがあるとすれば、それは彼女が記憶喪失ということだけだ。
そのまま時間が過ぎた。五分か、十分か。こういうときの時の流れというのはどうしてこうもあいまいなのだろう。
わたしがサカキさんを好きになってはいけないのだろうか。そんなことはなかった。もしサカキさんがほんとうにわたしのことを男性として好いてくれているのであれば、別になんの障害もなかった。気になるとすれば、世間の目くらいだった。一番恐れているのは、自分がどこかで大きな勘違いしているのではないか、ということだった。サカキさんのことが好きだから、魅力的に感じているから、偏った目で見て、現実を思い違いをしてしまっているのではないか、ということだった。
あの子のこととか、記憶喪失とか、会ったばかりとか、普通ではない状況ではある。でも、好きだとか、さらには結婚してくれとまでと言われたのだ。いや、でもそういう状況だからこそ、サカキさんの心が乱れているということも考えられる。いや、違う。そうじゃない。単にわたし自身がうろたえているだけだ。
中華料理店でわたしの結婚について話したとき、サカキさんは、やる気と勇気、それに身の回りに落ちているのに気付いていないだけと言った。あれは、サカキさん本人のことだったのか。
だとすると、足りないのは勇気だけだった。けれども、わたしの理性はその論理的な帰結を強烈に否定していた。そんなこと、あるわけない、と。
ふと、サカキさんの方を見た。ちょうどサカキさんも顔を上げ、わたしを見た。目が合った。山の中でひっそりと水を湛える泉のような美しい瞳だった。春の陽射しに誘われて種から芽が出るように、何かが、理性の固い殻を突き破って、わたしの胸の中から飛び出してきた。穏やかに、でも力強く。
「なんか」言葉が自然と口をついて出てきた。「歳も離れているし会ったばかりで不思議なんだけど、ぼくもはるみちゃんといると、落ち着くというか、とてもリラックスできる。自分が自分でいていいという気持ちになれる」
サカキさんはふた呼吸くらいしてから、ごく自然に、可愛らしく微笑んだ。それから、ちょっと困ったように目を逸らして、わたしから手を離した。床に手をついて、少しだけわたしの方に腰をずらした。でもまだ肩が触れ合うほどではなかった。
「わたしも」サカキさんは足元を見ながら静かに言った。子供が先行きに不安を感じているような横顔だった。
わたしは思い切って、膝に置かれていたサカキさんの手をそっと握った。サカキさんは目を上げ、わたしを見た。もう片方の手をわたしの手に重ねた。情けないが、そうしてもらってようやく勇気が湧いた。
「ぼくも君が好きだ。あの子とは関係なく、君が好きだ」
サカキさんはわずかに微笑みながら、少しだけ首を傾げた。
「ぼくと結婚してほしい」
本当はもっといろいろ言うつもりだったのだが、口から出てきたのは、そういうシンプルな言葉だけだった。
「はい」
サカキさんは真顔だったが、瞳の奥は微笑んでいるようだった。
なんだか、もうずっと長いこと一緒にいるような気がした。たまらなく愛おしかった。
ゆっくりと顔を近づけて、キスをした。初々しいキスだった。
抱き締めると、もう離すことはできなかった。彼女も抱きついてきた。
まるで無人島にでもいるみたいに、自然な気持ちだった。
あれから何の音も聞こえなかった。聞こえるのは、サカキさんと自分の、声と息づかい、身の回りの音だけだった。
原始に戻ったように、自然に服を脱ぎ、裸で抱き合った。そして結ばれた。神様に祝福されているような気がした。
終わってからも、静かに、ずっと抱き合っていた。ただそこに彼女がいることがうれしかった。ようやく自分自身を見つけた。そんな気がした。
しばらくして――たぶん何時間かして――少しだけ、現実に戻った。わたしは口を開いた。
「あの子にはもちろん、三上さんにも報告しないといけないね」
「はい」サカキさんの声はかすれていた。「わたしにとっては親みたいなものですから。今でも後見人になってもらっているんです。このアパートも、三上さんが保証人になってくれています」
「じゃあ、さっそく明日連絡を取って、挨拶に行こう」
「はい」
いったい今何時なのかわからなかった。まだ夜は明けていなかった。そしてまた現実を離れた。
それからたぶん一時間ほどして、新聞配達のカブの音が聞こえてきた。牧歌的なエンジンの音、ブレーキを引きずる音、カシャッとスタンドを掛ける音、パタンとスタンドを上げる音、ブゥーンというアクセルを開けたエンジンの音。五時くらいなのだろう。とうとう現実に引き戻されてしまったようだった。朝の八時に携帯のアラームをセットした。引きずり込まれるように、眠りに落ちた。
【次回、第一部 第三章 三 三上さん夫妻】毎週木曜日更新
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