第一部 第二章 一 弁護士の沢田さん

「おじさん、起きて。遅れちゃうよ」

 からだを揺すられて、なんだか分からないままに目を開けると、女の子が呼びかけているのがぼんやりと見えた。

「えっ、いま、何時?」

 まだ見慣れぬ少女の顔に直ちに事情をのみ込み、あわてて起き上がった。

「八時半」

 少女はソファテーブルから落ちていた目覚まし時計を拾って、こちらに向けた。八時に目覚ましをセットしておいたのに、完全に寝過ごしていた。

「ありがとう。おじさん、寝坊した」

「でもまだ間に合うでしょう?」

 少女はもう服に着替えていた。

「ああ。沢田さんのところまでは一時間もかからないだろうから。起こしてくれて、助かった」

 朝の準備は時間のかかる方なのだ。特に今日のような寝不足の朝はひどかった。急いでトイレに行って、それからひげを剃り、顔を洗った。あいにくアイロンのかかったシャツは切らしていた。仕方なく、淡い緑色の長袖のVネックシャツを着た。

 空はぼんやりと曇っていたが、雨の気配はなかった。家を出てから、二人ともほとんど何も喋らなかった。少女にはどことなく緊張感が漂っていた。でも、それは沢田さんのところへ戻るからではないようだった。もしそうなら事務所に近づくに従って高まってもよさそうだが、うちを出てからずっとそんな感じだったからだ。

 わたしも考えなければならないことが多くあった。昨晩、いったいこんなことを誰が信じるのだと思いながら手紙を読み進めた。その割には、途中から妙に腑に落ちてしまって、完全にとはいわないまでも半分以上はそのまま受け入れてしまった。

 座敷わらしとか妖精とかいわれても、ぴんとこなかった。〝めのわらわ〟なんていう言葉に至っては手紙を読んで初めて知った。でも今朝になって思うと、以前どこかで聞いたことがあるような気がしていた。それでもまったく思い出すことはできなかった。できなかったけれど、どういうわけかその「めのわらわ」という音は、脳みその片隅にしっかりと刻み込まれているような、そんな奇妙な感覚があった。

 どういう存在であるにせよ、女の子に対するわたしの記憶と、手紙に書かれていることは、見事に一致していた。実体はある、突然現れたり、いなくなったりする。電話をしているときに、通信状態が悪くなったような奇妙な沈黙を感じた。それも、森野さんの説明と符合していた。全体としては、見事に筋道が立っていた。特殊で、普通ではなくて、超自然的で、確かにわたしにしか理解しようのない話だった。

 もちろん常識的にも考えてもみた。女の子の部分は森野さんの創作で、わたしは子どもはできないと嘘をつかれて、実は娘が生まれていた。それでも森野さんは父親については黙り通してきた。でもいざ死ぬとなったら、娘の父親であるわたしにすがってきた。その方がシンプルでわかりやすかった。そうだとしても、道義的にはわたしに責任はないだろう。沢田さんだってそう思うにちがいない。だまされたのは、わたしの方だ、と。ただしその場合はわたしが父親であるという事実――少なくとも沢田さんは事実と考えるだろう――が残る。

 科学者としては問題なのかもしれないが、文面どおりに受け取った方がわたしにはしっくりきた。たぶん、都合がいいからという理由ではない。これで誰かを説得できるわけでもないし、それに誰かに話してしまうわけにもいかない。少女には話してもいいということだが、どのように受け取るだろうか。娘の部分が括弧に入っていたのは、どうするかはわたしに任せるという意味なのだろう。

 手紙を読み終えたあとではだまされたという感覚は最早ほとんどなかった。わたしは単にスイッチを入れる役割を果たしたに過ぎない。それとともに少女の父親であるかもしれないという感覚も遠のいていた。

 ただ、もしそうだとすると、わたしの立場はややこしいものとなる。その場合、血は繋がっていることになるのだろうか。遺伝子はどうなのだろう。DNA検査をすればはっきりするのだろうか。もし生物学的につながりがないのだとしたら、不妊夫婦などに精子を提供する場合とくらべて、どちらが父親に近いのか。

 一方でこれは責任うんぬんだけで片付く問題でもないと思えた。森野さんの娘だけあって、賢くて、可愛くて、魅力的だった。孤児になったとしても、まっとうに育っていくだろうが、しあわせかどうかはまた別だ。すべてを乗り越えてしあわせになれるかもしれないし、あるいは一生消すことのできない影を背負って生きていくことになるかもしれない。

 だからといって、わたしにいったい何ができる。思い立って、あの晩かけたカザルスのホワイトハウス・コンサートのCDを引っ張り出してきて、手紙を読み直しながら聴いた。それが失敗だったのかもしれない。森野さんの踊ってくれた曲になると、あの晩の記憶が堰を切ったように溢れ出てきて止まらなくなった。

 森の麓の朽ち果てそうな公民館。静謐な夜。図書室での信じられないくらい楽しかったあのダンス。森野さんのなめらかな肌とぬくもり。シューマンの曲になると、泣くという意識のないまま自然と涙が流れ出てきた。どうしてだかわからない。森野さんが理由ではなかった。森野さんの死をわたしはまだリアルに感じることはできなかった。もう何も考えることはできなくなった。あきらめて、手紙を引き出しにしまって、毛布にくるまるようにしてソファに横になったのだった。


 土曜日にしては電車の接続がよくて、最寄りの駅には少し早めに着くことができた。簡単な朝食なら食べることはできそうだ。それでもさほど時間はなかったので、駅前にあったアメリカのコーヒーショップチェーンに入った。ここなら比較的ましな食べ物が置いてある。少女はオレンジジュースとミックスサンドを、わたしはカフェラテのショートとチキンのサンドウィッチを食べた。朝食ならフルーツジュースはいいらしかった。

 沢田さんの事務所は、駅から数分の古くも新しくもない比較的大きな雑居ビルの二階にあった。休日で人影もまばらな駅前の通りを歩いて行くと、ビルの前に沢田さんが立っていた。顔さえまだよく見えなかったが、少女が教えてくれた。よほど目がいいのか、あるいは雰囲気でわかるのだろう。われわれがさらに近づくと沢田さんが大きく手を振りながら少女の名前を呼んだ。少女が手を振って応えた。わたしが会釈すると向こうも黙礼で応じた。

 最後の横断歩道を渡り終えると、少女は走り出した。しゃがんで待つ沢田さんの前に一度立ち止まり、沢田さんが腕を広げると、それに呼応するように抱きついた。

「はるかちゃん、おかえり」

「ただいま、沢田さん。心配かけて、ごめんなさい」

「ほんとよ。でも何事もなくてよかった」

 わたしが追いつくと、沢田さんは立ち上がった。少女は振り向いて照れくさそうに笑った。すると沢田さんから二、三歩離れ、片脚立ちになって肘を横に張ったバレエのポーズをとると、くる、くる、と二度きれいに回った。そして両手を斜め下に広げ、片脚を後ろに引いたバレエ特有のお辞儀をした。呆気にとられているうちに、少女はビルの方へ駆け出し、赤いランドセルが中へ吸い込まれていった。沢田さんも驚いた顔で少女を目で追った。

 森野さんが話していたように、沢田さんはちょっときつい感じの美人だった。森野さんと初対面のときには、イケイケのイイ女という感じだったのだろう。やたらとお金をかけている風ではないがヘアスタイルや服装はトレンドをおさえていたし、体型もそれなりに維持しているらしかった。化粧も隙がない感じだった。ただ当時のトゲはもうだいぶ抜け落ちたようで、さすがに目の奥には鋭いものが潜んでいたが、物腰は柔らかだった。森野さんの話からすると年齢はわたしと同じくらいで、四〇代前半のはずだ。自分が年齢よりも若く見られるせいもあるが、沢田さんはわたしよりもずいぶん老けているように感じられた。それは肌の感じといった見た目ではなく、精神的疲労の蓄積のようなものだった。職業的な理由かもしれない。その場で当たり障りのない初対面の挨拶を交わし、それから中へ案内された。当然ながらわたしが父親であることを疑っているはずだが、そんなことはおくびにも出さずに、少女の面倒をみてくれた感謝の方を前面に出しているらしかった。

 ややくたびれたビル本体に較べて事務所はそれなりに現代的でさっぱりとしていた。こぎれいに片付けられた室内は白とピンクが基調で、女の城という感じだった。家具もゆったりとした配置で、事務所はそれなりに成功を収めているらしかった。

 薄日の射す窓際の応接セットに少女と髪の長い女性スタッフが座り、楽しそうにおしゃべりしていた。ソファもイタリアっぽいデザインの洒落たものだった。わたしに気がつくと、彼女は立ち上がってきれいなお辞儀をした。そのとき初めて顔が見えたが、瞳の印象的な、まだ大学生くらいの女性だった。今時の子らしく、すらりとしていた。職員ではなくボランティアとか研修生とかなのかもしれない。少女の方は座ったまま手を振っていた。そのせいで、わたしは会釈しながら手を振るという変な動きになってしまった。

「素敵な事務所ですね」

 決まり悪さを打ち消すために沢田さんに話しかけた。

「ありがとうございます」

 にこやかに沢田さんが答えた。

「今は女性からの相談を中心に扱っています。それでスタッフも全員女性です」

 わたしの無言の推測に答えるように付け足した。机の数からすると普段は六、七人のスタッフがいるようで、もしそれが全部女性だとすると、男にとっては結構な迫力かもしれない。わたしなど匂いだけでくらくらしてしまうだろう。それにおそらくわたしは全員から冷たい目で見られるだろうから、平日だったらすぐにでも退散したい気持ちになったに違いない。今日が休日で助かった。

「サカキさん、太田さんといつものところでお茶してくるから、はるかちゃんのこと、お願いね」と沢田さんは女性に告げ、「来ていただいて早々ですみませんけど、時間があまりないもので」と言って、慌ただしく自分のバッグを手に取るとわたしを外へと導いた。事務所にほど近い隠れ家的な造りの喫茶店に入った。休日のビジネス街のせいか店内は人もまばらで、クラッシック音楽が低く流れていた。新鮮なコーヒー豆の香りが脳をくすぐった。わたしにコーヒーでいいかと確認すると沢田さんはカウンター越しに二つ注文した。

「まずは連絡をいただいたこと、彼女の面倒をみていただいたこと、あらためてお礼を申し上げます」

 席に着くなり礼を言って、沢田さんは丁寧に頭を下げた。

「いえ、そんな。正直いって最初はおどろきましたけど。というよりも、マンションの管理人さんから連絡が入ったのですが、なんのことかわからなくて。で、あわてて家に帰ったら、森野さんの娘さんというじゃないですか。しかも森野さんが亡くなったなんて」

 わたしは自分が父親ではないと思われるように第三者的な言い方を心がけた。父親ではないという確信はまだなかったが、少なくとも自分に責任はないのだと言い聞かせた。ひどいやつだと思われようが、とにかく引き取るようなはめにはならないようにしなければいけない。いくら森野さんの娘で、まあ可愛いとはいえ、それとこれとは話は別だ。結婚さえしたいと思っていないのに、子供を、しかも現実的には血の繋がっていないと思われる子供を引き取るなんてありえない。今後の人生の障害になることは一〇〇パーセント間違いないのだから。

「ええ」

 沢田さんは静かに答えた。

「病名も分からず、なんだか祭りで買った風船がしぼんでいくみたいに。でも少なくともはるかちゃんが生まれてからはほんとうに幸せそうだったんですよ。死んでいくことも、まるでずっと前から覚悟ができていたみたいに静かに受け入れていました」

「そうですか。森野さんが死んでしまったなんて、わたしにはまだうまく想像できなくて」

 娘が産まれた時点で、森野さんはあの女の子の言ったことをすべて信じたのだろう。でも知っていたからといって、そう簡単に受け入れられるはずはなかった。その苦悩を他人には見せなかっただけのことだ。森野さんの性格を考えると、それも理解できた。

「突然のことですものね。最近会われていないのでしたらなおさらです。失礼ですけど、木乃香とはいつごろのお知り合いなのでしょうか」

 たぶんわたしと森野さんの関係を探る質問なのだろう。もちろんわたしが警戒していることを前提で質問しているはずだ。軽いジャブといったところか。少女がいなくなって、まっすぐわたしのところに来たのだから、疑わない方がおかしいだろう。

「そうですね、十数年前でしょうか。離婚が成立して少ししてからだったみたいです。まあ友だちといっても、実際につきあいがあったのは本当に短い期間で。そのあとわたしも海外に行ってしまったし。でもその間に、なんだか知らないですけど、やたらと身の上話を聞かされまして。だいたいわたしはそういう星の下に生まれたらしくて、みんな、自分のことを話したがるんです」

 沢田さんはなんとなく納得できるといったように微笑んだが、すぐに真顔に戻った。

「離婚協議はわたしがやりましたから、離婚が成立するまでは頻繁に連絡を取っていたんです。でも、そのあと、ひとりでいろいろ考えたいと言って急に姿を消してしまったんです。ときどき、元気にやっていると手紙をくれましたが、転居する直前に送っていたみたいで、一方的で。あとで知ったんですが、別れた夫が今でいうストーカー行為をしていて、それに怯えて逃げ回っていたらしいです。相談してくれれば手の打ちようがあったんですけど、こちらからは連絡が取れない状態でした。探しようがないわけではありませんでしたが、ちょうどわたしも独立して事務所を立ち上げたところでそれで手一杯で。それに手紙からはあの子も探してほしくない様子でした」

 コーヒーが運ばれてきた。店の雰囲気から予想していたとおりの手抜きのないちゃんとしたコーヒーだった。

「コーヒー、お好きなんですね」

「ああ、ええ。ここ、おいしいですね」

「よかった。なんとなく太田さんはコーヒーがお好きそうだったので、お口に合うかと思って」

「どうしてわかるんですか?」

 無意識に満足そうな顔をしていたらしい。コーヒーの味と香りで思わず気を抜いてしまったらしい。気をつけないと。

「仕事柄か、つい人の行動を観察しちゃうんですよ。店に入ったときに、厳しい目でチェックしていたようだったので」

「そんなこと、してました?」

 沢田さんはちょっと面白そうに笑いながら頷いた。嫌な感じはしなかった。

「あの子は、どうも執拗なタイプの男性に好かれやすいらしくて、逃げた先でも、そういう目にあったらしいです。しかも相手は警察官で。どうにかうまくやりすごしたらしいですけど」

 手紙にも警官に言い寄られて困ったみたいなことが記されていた。あの翌朝、わたしが落雷で公民館から焼け出されたとき、心配してまっさきに駆けつけてくれた公民館の山田さんも、あの警官が森野さんに惚れているみたいなことを言っていた。それでわたしは火事について交番でいろいろと訊かれたとき、森野さんには公民館を紹介してもらっただけでほとんど無関係であるという振りをしなければならなかったのだ。

「話が少し逸れましたが、太田さんが木乃香と知り合ったのは、ちょうど木乃香がたびたび所在不明になっていた頃みたいですね。あの子がどこにいたときだろう」

 沢田さんはまるで自問するかのようにつぶやいた。さりげなく少女の父親としての可能性を探っているのかもしれなかった。だからといって無視するのも不自然だった。わたしは岩山市というあの地方都市の名前を告げた。

「あら、じゃあちょうどその警官に言い寄られていたころだわ」

「そうなんですか? わたしはそんな話は全然知りませんでした」

 正確には昨晩まではほとんど知らなかった、だ。

「ところで、木乃香からはどんな話を聞かれました? もし差し支えなければお聞かせいただけますか」

「彼女の生い立ちとか、どんな恋をしたとか、父親の会社の浮き沈みとか、まああとはその元の夫にひどいことをされたとか、そんなことですけど」

「そのころ、誰かと付き合っていたとか、そういうことはご存知ではありませんか」

「つまり、はるかちゃんの父親が誰かわかっていないんですか」

「ええ、そうなんです。はるかちゃんから聞きました?」

「いえ、まったく。ただ、母親が亡くなって、沢田さんが面倒をみているというし、父親の話が全然出ないので、気になっていたんです。それと、彼女、元の夫から受けた暴力が原因で子供ができない身体だといっていたものですから」

「そんなことまで話していましたか」

 沢田さんは意識を消したような目で、二、三秒ほどわたしの目を見つめた。

「一度だけ妊娠したことがあって、その最中に夫から暴行を受けて流産してしまったんです。そしてその後の検査で婦人科系の病気が見つかって。だからそのときが最後のチャンスだった、と医者から言われたそうなんです。男の人には、その辺のことは詳しくは話しにくかったのかもしれませんね。そういう風に聞いていたから、赤ちゃんを抱いてふらりと現れたときには、わたしも驚きました。まさか、どこから連れ去ってきたんじゃないかって。でもあの通り、成長したあの子は木乃香によーく似てる」

「特に笑顔が似ていると思いました」

 沢田さんの顔がほころんだ。

「そうですよね。まるで生き写し。だから、あの子が木乃香の娘であることは調べるまでもなく明らかだと思うんです」

「わたしもそう思います」

「でも、木乃香は父親に関しては一切何も言わなかったんです。そのころには奧山君、あ、奧山というのは木乃香の元夫で私の大学の同窓生なんです。それで、元夫による付け回しの件もすっかり片付いていたはずなのに、その後もまたいろいろなところを転々として、ときどき顔を出すということを繰り返していました。来たときに面と向かって訊いてみたことがあったのですけど、『父親はいない』としか言わないのです。あの子が元気な間はまだそれでもよかった。でも、娘を残して死んでいくとなると話は変わってきます。いよいよ死期が近づいてきたころ、病床の木乃香にもう一度だけと思って訊いてみました。でも答えは同じでした。わたしを信用していないわけではない、本当に父親はいないのだ、と言いました。それ以上、わたしは訊けませんでした。それがあの子の選択なのですから。世を忍ぶような関係だったのかとか、予期せぬ妊娠で相手に迷惑をかけないためなのかとか、それとも誰かに無理矢理されてできてしまったのかとか、あるいは海外で代理母とドナー精子で出産したのかとか、いろいろ想像はしてみました。でも、どれもピンと来なくて」

「神様から授かったとか?」

 できるだけ冗談っぽく聞こえないようにまじめな顔をつくって言った。真意を測りかねたように沢田さんはわたしの目を覗き込むと、ふっと息を抜くように笑った。

「そうね、そう考えたら楽かもしれませんね。それに、あの子にはどこかそんな雰囲気がある」

 それから少し迷ったように間を置いた。

「木乃香が父親を明らかにしないということは、たとえ分かったところでその人にはるかちゃんを引き取ってもらうわけにはいきません。わたしが引き取ることも考えましたが、木乃香に断られました。わたしに迷惑をかけたくないと思ったのでしょう。その代わりに後見人になってくれと頼まれました。もちろん最低限そのくらいのことはするつもりでした。でも、ほかの里親に委ねることも拒否していました。それも理由は言いませんでした。はるかちゃんにはひとりで生きるようにさせてくれと。残していく娘にずいぶんと厳しい要求をするなと思いました」

 森野さんの頑なさに手を焼き、無力ささえ感じていたらしい。沢田さんの表情と声からは徒労感が伝わってきた。沢田さんも大変だったんだろうなと思う一方、たとえ万が一自分が父親であったとしても沢田さんは少女を押し付けるつもりはないらしいことにわたしは安堵していた。

「それで孤児院に入ることに」

「ええ。今は孤児院ではなく、児童養護施設というんです。最近は孤児よりも虐待された子や育児放棄された子の方がずっと多いんです。ただ、はるかちゃんの入るところは、昔ながらの孤児院に近いところです。木乃香の希望で、はるかちゃんに自分で選んでもらいました。選んだ施設に空きがでて、入れることになったんです。ボランティアによるバレエ教室があって、それが気に入ったみたいです。ちょっとした稽古場もあるんです」

「そういえば、さっき上手にくるっと回っていましたね」

「実は母親が死んでからあの子が踊るところを、わたしもさっき初めて見たんです、人が見ていないところでは練習していたみたいです。ある日家に帰ったら、あの子が花瓶を壊したと謝ってきて、どうしたのかと聞いたら、家の中で運動してぶつけたといっていました。腕を広げてくるくると回っていたら目が回ってふらついたと。あの子はクールな顔はしていましたが、嘘をついていることはすぐに分かりました。木乃香から踊りを教わっていたことは知っていましたし、木乃香の生前には何度か練習をしているところを見たことがありましたから、きっと踊っていたのだろうと思いました。そういう子なら目が回ったりはしないだろうし。でも、時期も時期だけにそれ以上追求はしませんでしたけど」

「そうなんですか。じゃあ、わたしは貴重な一瞬を目撃したわけだ」

 沢田さんはくすりと笑った。

「なんか、太田さんって、ユーモアがありますね。癒し系というか。失礼、悪い意味ではないですよ。どうして木乃香がはるかちゃんに寂しくなったら太田さんのところに行くようにいったのか、なんとなくわかりました。初めは当然、太田さんが父親なのではないかと疑いましたけど」

 恐れていたことを言われたが、わたしは平然としていた。一通目の手紙しか読んでいなかったら、こういうわけにはいかなかっただろう。

「今は疑っていないんですか? わたしが森野さんと付き合いのあった時期とはるかちゃんを宿した時期は重なる可能性はあるし」墓穴を掘るようなことかもしれないが、口を滑らせたわけではなかった。そう言ってみたくなったのだ。

「頭で考えれば、まだ可能性としては残ってはいます。それにあの子もなついているみたいですし。珍しいんですよ、あの子が大人の男性にああいうふうになつくのは。それでも、違うと感じるのです。それにもう、父親の件を追求するのはやめました。本人たちも望んでいないし」

「はるかちゃんも?」沢田さんから父親であることをもっと追求され、下手をすれば押し付けられかねないと考え、最終的には対決みたいなことになるかもしれないという気持ちでこの場に臨んでいたのだ。そうやって否定されてしまうとかえって拍子抜けして、物足りなくさえ感じた。

「ええ。それに誕生日もはっきりしないんです。だから、その線から辿ることも難しい」

「え? どういうことですか」

「木乃香がいうには、医者にも行かず自分で出産して、しばらく届けをしなかったということです。どこかの山小屋で出産したそうです。山小屋ですよ? 出産時は名も知らぬ人に助けてもらったといっていました。それで届け出るのが遅れたそうです。だから日にちもよくわからなかったと。不自然な話ですよね。念願の子供なのにまるで死ぬ気でいたみたい。でも本人は至ってまじめなんです。頭がおかしいかというと、それ以外のことでは全然そんなことはないし。父親を隠すことが目的かと思いましたが、それにしては話がちょっと行き過ぎだし、わたしには理解することも、信じることもできませんでした。正直、この件については少々疲れました」

 わたしにはだいたいのことがすぐに想像できた。懐妊の仕方が特殊なら、きっと出産の仕方も特別なのに違いなかった。できれば沢田さんに解説してあげたかったが、もちろんいろいろな意味でそれはできなかった。そしてもはやわたしは、森野さんの手紙を完全に信じているらしかった。

「ひとりで生きていく、か。ちょっと無責任な言い方かもしれないですけど、はるかちゃんならそれでもきっとまっとうに生きていくと思いますよ。沢田さんという強力な後見人もいるわけですし。それに親子ともども変わり者みたいですから、普通の人の子供になってしあわせになれるかというと、かならずしもそうとは思えないんです」

 昨晩から考え続けてきたことを口にしてみた。

「そうか、そういう考え方もできるか」沢田さんは、わたしの考えを吟味するように五秒ほどして、独り言のように言った。「発想の転換というか、太田さんは独特の物事の見方ができる方なんですね。それとも自然科学系の研究者は皆さんそういうものなのでしょうか」

「どうでしょう? 自分ではそんなこと思ったこともありませんけど。でもまあ、研究の世界ではある程度必要な要素かもしれませんね」

 少なくともこの場合はわたしが自分しか知らない事情を知っているから、乱暴に聞こえるような意見を自信を持っていうことができただけだ。

「もう昨日のように突然訪問するようなことはしないよう、はるかちゃんにはよく言い聞かせておきます。余計な誤解を招きかねないですから」

「いえ、まあ、独り身ですし、幸か不幸か今は付き合っている女性もいないですから」

 沢田さんは本当かしらというように首をかしげた。軽く疑問を呈するのが礼儀と思ったのかもしれない。

「事情も分かったことですし、もうそういう心配もありません。もちろん事前に連絡をもらえるに越したことはないですが」

「もし太田さんがお嫌でなければ、今後もはるかちゃんのことで相談させていただけないでしょうか。なんかわたしなんかよりずっと木乃香やはるかちゃんのことを理解されているみたいですし」

「そうですか? そんなこともないと思いますけど。でももしわたしでお役に立てるのであれば、全然構いませんよ」

 本当は将来的にはまずいのかもしれないが、乗りかかった船だった。それに森野さんもずいぶんと無理難題を沢田さんに押しつけたなという思いもあった。調べたり考えたりしてどうこうなる問題なら沢田さんは十分に対処できるだろうが、これはそういう種類の問題ではなかった。

「よかった。ご迷惑かとは思いますが、よろしくおねがいします」と、沢田さんは言って深く頭を下げた。難題に翻弄されてきたことに対する同情とそれになんとか対処しようとしてきた努力に敬意を表して、同じくらい深くお辞儀を返した。

 顔を上げかけたとき、少女がなぜさきほど踊ってみせたのかが突然わかった。あれはたぶんわたしへのお礼だったのだ。森野さんがお礼に踊ってくれたと、昨晩少女に話したことを今になって思い出した。自然と笑みが浮かんだ。沢田さんがその表情をどのように受け取ったのかはわからなかったが、わたしを見て安心したように微笑んだ。心強いと感じてくれたのかもしれなかった。

 騙しているわけではないにせよ、事実を偽ったり、隠したりしていることは否定できない。信頼してもらったようでいささか心苦しいが、嘘も方便と思うしかなかった。正直に森野さんと一晩を共にしたことを告げれば、少女がなぜわたしのところに来たのか理解は深まるだろうが、薄まりかけている疑いは間違いなく一気に深まるだろうし、バカみたいにそこまで親切にする必要はないだろう。それに森野さんの語る「真実」を知らせたところで信じてはもらえないだろうし、教えてしまうわけにもいかないのだから。

 少女には話してしまったが、森野さんを好きになって振られたことはどうだろう。きわめてプライベートなことであるし、それをあえて沢田さんに話す必要はないはずだ。少女が喋ってしまうことがあるかもしれないが、そうなったとしてもちょっとバツが悪い程度のことだ。今になって思うと、少女にそのことを話したのは、何もなかったことを示すということよりも、少女が親しみを持ってくれると感じたからなのだろうか。いや、たぶん単に結果的にそうなっただけだろう。

「どうかされました?」

「えっ、いえ、べつに」

「なにか考え込まれてましたから」

 ついいつもの癖で思考に入り込んでしまったようだった。

「いや、沢田さんも森野さんにはずいぶんと振り回されて大変だったのだろうな、と」

「そうですねぇ、特に木乃香が死んでしまうと分かってからは」

 一瞬顔をかすかに歪ませたが、沢田さんは無理に笑顔をつくってみせた。

「でも、木乃香からはものすごく多くのものをもらったんです。あの子と初めて会ったころの自分を振り返ってみると、慚愧の念に堪えないのです。弁護士の資格を取って、有名企業が主なクライアントの大きな事務所に入りました。そこではより大きな報酬を得ることがすべてでした。他人を見下して、弱い人間を足蹴にしても、痛みも感じませんでした。結婚パーティで花嫁の木乃香と初対面のときも、イモ娘みたいな、露骨に失礼な言い方をしてしまったんです。ある種の嫉妬だったのかもしれません。わたしにはない何かを持っていることを感じたのだと思います。どこか強く惹かれるところがあったんです。フレンドリーで繊細でまっすぐで。そう、あの子の笑顔の源泉のようなもの。夫の奧山君のことはよく知っていたから、この子、大丈夫かな、と感じたんです。彼、女性に対してちょっと異常な執着みたいのがあったから。それで、冗談半分の軽い気持ちで、名刺を渡したんです。困ったら、相談にのると。そんなことすっかり忘れてしまっていましたけど、ご丁寧に自宅の電話番号まで書いて。どうしてですかね。あの頃のわたしとしてはちょっと信じられないんですけど。きっとどこかで今のままでは駄目だというのがあったのだと思います」

 沢田さんは突然、ハッと何かに気づいたような顔をした。

「やだ、わたしまで太田さんに語っちゃってる」

 沢田さんは見た目とはアンバランスに、かすかにはにかんだ。

「わかりますよ。森野さんって、人の心の鎧を脱がせてしまうようなところがありましたから。わたしが森野さんの話を聞いてあげるみたいな形でしたけど、その間、わたしも自分の中の苦い過去みたいなのがどんどん中和されていくような感じでした」

「木乃香も太田さんみたいな方と結婚していればよかったのに」

「いえ、森野さんにも選ぶ権利があります」

 沢田さんから笑みがこぼれた。

「太田さんとお会いできてよかったです。このところずっと滅入っていたんですけど、なんだか急に心が楽になりました」

「そういっていただけるとうれしいです。でもまあ、わたしは別に何をしたというわけでもないので」

 苦笑いする沢田さんの携帯電話に着信があった。

「失礼。はい。わかりました。え? ああ、それは聞いてみます。じゃあ、もう少ししてから戻ります」

 確認するように画面を見て、電話を切った。短く簡潔な電話だった。

「すみません。お客さんが来たと連絡が入りました。まだ約束の時間までは少々ありますので、もう少しだけ話をさせていただいてもよろしいでしょうか」

「もちろんです」

「今の事務所が女性の相談を中心に運営していることとさきほど申し上げました。太田さんには察しがついているかもしれませんが、木乃香が暴力を受けた後しばらく自宅で保護したり、その離婚に関わったりするうちに、仕事に対する考えが意識の中ではっきりと変わっていったのです。事件そのものよりも彼女という人間の影響だったと思うのです。具体的にどんな影響かを言葉にするのは難しいのですが、少しでも人間性のある仕事をしたいと思うようになっていったんです。陳腐な言い回しかもしれませんが、誰かの欲望を満足させるよりも誰かをしあわせにするような、そういう仕事をするべきだと思ったのです。そして、だんだんと今のような形に落ち着いていきました。結局、わたしはそれで救われたと思っています」

「救われた?」

「ええ。たぶんあのまま最初の事務所にいたら人間として駄目になっていました。裁判に勝てばそれはそれでもちろん嬉しいんですけど、どこか満たされないんです。そしてその空虚さが自分の中に年を追うごとに広がっていくのを感じていました。どんどん増えていく預金残高が空虚さのバロメーターでした。でもまあそのおかげで独立することはできました。今は相談に来てくださる方が少しでもいい方向に行ってくれれば、それだけでうれしく思えるのです」

 よかったですねと答えるのは偉そうだし、そうですかと受けるのは関心がないと思われそうだった。森野さんの影響についてはなんとなく理解できたから、無言のまま、はっきりと頷いた。

「あの、太田さん、今日はまだお時間はございますか」

「ええ。特になにも予定はありません」

「でしたら、のちほどお昼ご飯を一緒にいかがでしょう。はるかちゃんがどうしてもと言っているらしいんです。ほんとうは昨晩ちょっとした送別会みたいなことをしようと思っていたのですが、できなかったのでその代わりにお昼に食事会をしようと考えてまして」

 事務所の全員が来たとしたら女ばかりでかなり気詰まりだろうが、断るわけにもいかないだろう。

「もちろん、よろこんで」

「ありがとうございます。わたしはそろそろもどらなければいけないのですが、太田さんはどうなさいます? ランチは十二時半に予約してあります。事務所でお待ちいただいてもいいですし、それともここにいらっしゃいますか? マスターには待たせてもらうと一声かけておきますから」

「どうしようかな。じゃあ、ここで待っています」

 バッグには文庫本とノートパソコンが入れてあったから、時間をつぶすには困らない。それにひとりでいた方が気が楽だ。時間になったら迎えに来ると言って、沢田さんは事務所に戻っていった。

 沢田さんがいなくなると、ほっとした気分で、カップに少し残っていたコーヒーを飲み干した。冷めてもなお味わい深かった。

 とりあえずメールでもチェックしようかと、パソコンをバッグから取り出し、カップを脇によけてテーブルに置いた。邪魔になっていると思ったのか、マスターがカップを下げにやってきた。

「とてもおいしかったです」そう伝えてしかるべき味だった。久し振りに当たりのコーヒーだった。

「ありがとうございます」

 カウンターの中でのシリアスな顔が嘘のようにほころんだ。常連の沢田さんの連れということもあるのだろうが、意外にも人なつこい気さくな人のようだった。

「最近のパソコンはずいぶん薄いんですね」

「ええ、おかげでだいぶ楽になりました。わたしは持ち歩くことが多いもので、できるだけ軽くて薄いやつを選んでいるんです」

「ほう、重さはどのくらいなんでしょう」

「これだと一キロをちょっと切る、ってところですね」

「へえ、そんなに軽いんですか。たしか、うちのは三キロくらいはあったな。まあもう一回り画面は大きかったと思いますけど。あ、すみません、お邪魔しました。どうぞごゆっくり」

 たぶんマスターは沢田さんから言われていたので、気を遣ってくれたのだろう。それでも長居することにはかわりないのでおかわりをしようかと思ったが、立て続けに飲むことになるので、もう少ししてから頼もうと思い直した。

 そういえば、あの当時使っていたノートパソコンは今使っているのよりも画面サイズも小さくて、まだ白黒液晶で、やたら重くて、しかもバッテリーもすぐに切れてしまうような代物だった。それでも持ち運び可能なだけずいぶんと助かったものだった。時代は変わった。あの日は、重いパソコンに加えて、大きなACアダプターに延長コード、それにテープレコーダーまで持って行ったんだ。携帯電話もまだそれほど一般的ではなかった。あんな山の中では今でも通じるかどうかあやしいけれど、もしあのとき携帯でタクシーを呼ぶことができたなら、ああいうことになってはいなかったのだろうか。どうだろう。でも結局は、過程に多少の違いはあれ、たぶん同じようなことになっていたんじゃないだろうか。わたしにはそう思えてならなかった。



【次回、第一部 第二章 二 坂木さんと少女の門出】毎週木曜日更新

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