第一部 第二章 二 坂木さんと少女の門出
PCを起動させて、メールをチェックしはじめるとすぐに日常に引き戻された。昨日食事をキャンセルした研究仲間にお詫びのメールを送った。もちろんは理由は書かなかった。書けるわけない。それから、解析用に作成した図をぱらぱらと眺めた。いいアイデアはまったく湧いてこなかった。疲れている証拠だった。疲れていないはずはなかった。
ふと、顔を上げると、店に入ってきた少女がわたしを発見したところだった。事務所で仲良さそうに話していた女性も続けて入ってきて、カウンターの方に会釈した。
「おじさん、わたしたちもここにすわっていい?」
少女は迷うことなく席まで来たが、一応許しを求めた。屈託のない顔だった。
「はるかちゃん、お仕事中みたいだし」
少し遅れてやってきた連れの女性が、後ろから少女の腕のところをひっぱりながらやんわりと戒めた。
「いや、別に構いませんよ」といいながら、女性を見上げた。
どきっとした。間近にみる彼女は美しかった。不思議な透明感があった。口紅をひいた程度なのだろうが、さきほどの印象とはまるで違っていた。急に大人びてみえた。爽やかな色気を感じた。心がざわついた。
「おじさん、なにしてたの」
少女が向かいの席に座りながら尋ねてきた。沢田さんからサカキさんと呼ばれていた女性も、すみませんという感じで軽く頭を下げながら、少女の横に腰を下ろした。
会釈する感じでちらっと見ると微笑みかけられ、年甲斐もなくドキドキした。自分が研究指導をしている大学院生よりもさらに歳は下だろう。わたしも男なので美人を見れば胸がときめくこともあるが、ある程度年齢がいってからは、少なくともこういう若い子からこんな感覚を受けたことはなかった。
「ああ、ちょっと仕事でもしようと思ったけど、なんか調子がいまいちだったから、ちょうど止めようと思ったところ」
「なぁんだ、じゃあ、ちょうどよかったね」
「うん、まあね」
「あの、わたし、さかきはるみといいます」
女性と呼ぶにはまだ少し幼く、少女というにはもうずいぶん大人っぽい。そんな感じだった。
「あ、どうも、さっき事務所にいらした」
何でもない振りをした。
「ええ、そうです」
「わたしは太田貴文といいます。えーと、はるかちゃんのお母さんの昔の友だちで」
「あ、それはお聞きしております」
若いのにずいぶん丁寧な言葉遣いをする人だと思った。
「ねえ、わたしがはるかで、おねえちゃんがはるみ。ふたりともハルなんだ」
少女にしては子供らしい自己主張で、話に割り込んできた。
「へえ、そうだね。姉妹みたいだ」
「でも、わたしは遥かなるはるかで、おねえちゃんは季節の春に美しいって字」
「ふーん。字は違うけどハル同士で仲良しなんだ?」
そうわたしが言うと、ふたりは横を向いて顔を見合わせると、にこっと笑った。顔立ちは違うけれど、ほんとうに歳の離れた姉妹みたいだった。
「おねえちゃんもわたしと同じで、お母さんもお父さんもいないの」
ちょっと驚いて、サカキさんを見た。吸い寄せられそうな瞳だった。
「ええ、そうなんです。わたしの場合、記憶喪失で、自分がどこの誰だかわからないんです。個人的な記憶がすっぽり抜け落ちていて。名前も保護されたときに付けてもらったものなんです」
サカキさんは他人事のように淡々と話した。今度は記憶喪失か。なんと答えていいものか、わからなかった。それでも森野さんの話に較べればずっと現実的だ。
「今は沢田さんのところでお仕事をされているんですか」
「あ、いえ、むしろお世話になっているといった方がよくて。でも、いろいろお手伝いをして、アルバイト代はいただいています」
「すみません、なんか余計なこと、聞いちゃったかな」
「いえ、全然、そんなことありません」
「あのね、おねえちゃんは高校生で、はるかの面倒も見てくれているの」
「えっ、高校生?」
「高校生といっても通信制の高校です。なにしろ正確な年齢も分からないものですから。数年前に保護されたときに一応中学卒業程度の学力はあったらしくて、事務所の三上さんの家にお世話になりながら、勉強していました。最近ようやくひとり暮らしを始めました」
「へえ、そうですか」そんなふうに苦労しているようには見えなかった。記憶喪失というのはそういうものなのだろうか。
「はるかもときどきおねえちゃんの部屋に遊びに行くんだ」と言って、少女はまるで発電でもするように足を前後にぶらぶらさせながら嬉しそうな顔でわたしを見た。
ウェイトレスが注文を取りに来た。少女はホットココア、サカキさんはミルクティを注文した。無駄な会話はしなかったが、ふたりとも顔なじみらしいことはわかった。
「おねえちゃんは、お母さんから勉強を教えてもらってたんだよね。お母さんが入院してからは、ずっとはるかのお世話もしてくれたんだ。お母さんが死んじゃってからは、沢田さんが忙しくて家にいないときとか、泊まりに来てくれたりもして」
少女は母親のことを事も無げに話した。強い子であることは間違いないが、わたしと会ったことが少しは役に立ったのだろうか。昨晩初めて会ってから今朝ここに来るまでの間に少女の雰囲気はだいぶ変わったが、今はまた違う気分のようだった。サカキさんといると安心するのだろうか。サカキさんのバリアに守られているようにも感じられた。
「じゃあ、森野さんを直接知っているんだ」
「はい。木乃香さんが東京に落ち着いたのと、わたしが沢田さんの事務所に出入りするようになったのは、ちょうど同じくらいの時期だったんです。木乃香さんにはほんとうに親切にしていただきました。おねえさん、って呼んでいたんです、はるかちゃんがわたしを呼んでくれるみたいに」
おいしい水を甘いと感じるような、やわらかですっきりとした微笑だった。少女は満足げにサカキさんを見上げた。
小さな沈黙が訪れた。それぞれが置かれた状況の割には、われわれのテーブルにはほのぼのとした空気が漂っていた。もしここに森野さんも座っていたら、家族のように見えたかもしれない。朝の雲は秋の日差しに追い払われつつあるようで、街の景色はだんだんと明るくなってきていた。
ふたりの注文の品が運ばれてきたとき、思い付いて、ウェイトレスに豆の小売りをしているか尋ねた。マスターがやってきて、豆の種類と焙煎の度合いを説明してくれた。サカキさんも興味深そうに聞いていた。よく動く表情の豊かな瞳はじっと人を見つめる癖があるようだった。
「おじさんって、コーヒーばっかり飲んでるね」
豆を注文してマスターが行ってしまったあとで、少女があきれたような顔で言った。
「そうかな」
「昨日の夕飯でも飲んでたし、今朝も飲んでたし、ここでも飲んだんでしょう?」
「まあね。あ、それから昨晩、はるかちゃんが寝てしまったあとも飲んだな」
「ほらぁ。あんな苦いもの飲んでよく眠れるよね」
「飲んだことあるんだ?」
「うん。ちょっとだけ。でもあまりにまずくて吐き出したけど」
少女はその時を再現したように顔を思い切り歪ませて見せた。たぶん衝撃的にまずかったのだろう。
「コーヒーといっても、いろいろ種類があるんですね。わたしもちゃんとしたコーヒーは飲んだことないんですけど」
「それは残念。もし飲みたくなったら、この店で飲むといい。とってもおいしいから」
「へえ、そうですか。じゃあ、今度、試してみようかな」
少女の影響か、サカキさんも打ち解けてきたような口調になっていた。
それからまた小さな沈黙がやってきた。静かな、気持ちのいい時間だった。昨日の夕方からのことが嘘のようだった。波のない水面に小舟を浮かべて寝そべっているような感じだった。とはいえ、わたしを翻弄した張本人は目の前にいた。いや、だからこそ、嘘のようなのだ。それともサカキさんのせいだろうか。少女を見ていると、そういう気がしないでもなかった。
「太田さん、昨晩ははるかちゃんの面倒をみて大変だったんじゃないですか」と、サカキさんが朗らかに言った。沈黙を破るというよりは、ふわっと風が吹いたみたいだった。
「ちょっと、おねえちゃん、それじゃ、はるかがいつも全然いうこときかない子みたいじゃない」
少女が不満げにサカキさんに噛みついた。
「だって、いつも、ぜんぜんいうこときいてくれないじゃない」
「そうかなぁ」
「まあ、いつもじゃないか。でも、きかないときはきかないよね」
「そうだけど」小さな声になりながら、少女は渋々認めた。
ふたりの間には強い信頼関係があるらしく、そんなやりとりも見ていて心地よかった。
「いや、なかなかいい子にしてましたよ」
「ほらぁ」
少女は勝ち誇ったようにサカキさんを見上げた。そんな少女を見たら、ちょっとからかってみたくなった。
「ああ、でも、外で食事をしたら途中で寝ちゃって、家までおぶって帰るはめになって大変でした。かと思ったら、家に着けば、今度は目が覚めて、布団に入ってくれないし」
「ほらぁ」今度はサカキさんが少女の口調を真似していった。
少女は、余計なことをいって、という感じでわたしを睨みつけたが、もちろん敵意は含まれていなかった。でも目の奥が笑っていた。いたずらっ子の目だった。
「あああ、せっかく、はるか、おじさんのこどもにだったらなっーてもいいなって思ったのに」
「えっ?」
少女は、「おじさんのこどもだったらなぁ」と、わざと聞き違えそうな言い方した。覚悟をしていた分、沢田さんには動ずることなく対処できたが、いまは完全に油断していた。動揺を隠そうとしたが、少女はむしろわたしの反応を楽しんでいるようだった。
「ちょっと、はるかちゃん」と、サカキさんが少女を肘で突っついてたしなめた。サカキさんの頬がはっきりわかるほど桃色に染まっていた。事務所でわたしが少女の父親ではないかと噂されていたに違いなかった。そ知らぬ顔で少女は続けた。
「ねえ、おねえちゃん、知ってる?」
「えっ、なにを」
少女はサカキさんの方も向きながらも、様子を伺うようにちらっと横目でわたしを見た。
「太田さんね」
少女は興味を引きつけるように間を置いた。サカキさんは素直な性格らしく、まんまと術中にはまってしまったようで、真剣な表情で少女を見つめていた。今度は何を言うつもりだ。
「太田さんね、お母さんのこと好きになって告白したんだけど、即、振られたんだって」
「ゔっ」と、思わず漫画の吹き出しのような声が出てしまった。そりゃ、口止めはしていなかったけどあんまりじゃないか。少女にしてみれば仕返しのつもりなのだろう。
サカキさんは目を見張ってわたしの顔をまじまじと見た。急に視線を逸らすと、今度は耳まで赤くなっていった。昔の恋の漠然とした記憶でもよみがえったのだろうか。それにしても奇妙な反応だった。でもまあ、そういう年頃なのかもしれない。
「おねえちゃん、どうしたの」
「あ、ええ、別に、なんでもない。なんか、急に恥ずかしくなっちゃって」サカキさんは顔を伏せたまま答えた。
「えー、そこまでのはなしかな」
少女は納得がいかないようだった。わたしも理解しかねた。それはさておき少女に言っておかなければならないことがあった。
「ねえ、はるかちゃん」
突然わたしに真剣な声で話しかけられたためか、少女に緊張が走った。
「おじさんは、はるかちゃんだから、そのことを話したんだよ。別に誰にも言うなとはいわなかったけど、誰彼構わずしゃべっていいことじゃないと思うんだけど」
やんわりとはいえ、わたしから叱られたことに少女は少なからずショックを受けたようだった。
「うん、わたしもそう思います。ごめんなさい」
少し考えてから少女は素直に謝った。ちょっと落ち込んだみたいだが泣いたりはしなかった。わかってくれればいいと言うと少女は真面目な顔で首を縦に振った。逆にこれで沢田さんには話されずに済むだろう。
「おねえちゃんも、ほかの人にはいわないでね」
サカキさんは少女の言葉にうなずいた。わたしにもうなずいてみせたが、目は合わせなかった。
今度の沈黙は若干の気まずさはあったが、不快というわけでもなかった。少女はココアを飲みながら、機嫌を伺うようにわたしの方を時々見た。サカキさんは目を伏せたまま、時折紅茶をすすった。おかわりのコーヒーを頼むタイミングを逃してしまったわたしは、仕方なくグラスの水で喉を潤した。
わたしの言ったことをきちんとわかってくれたし、今日これから沢田さんの元を離れて施設に行くのだ。いつまでも落ち込んだままでいさせるのは可哀想だった。しばらくして少女と目が合ったとき、微笑みかけてみた。少女の瞳からすっと緊張が抜けていくのがわかった。少女の心とリンクしているみたいに、サカキさんが顔を上げた。柔らかな視線がわたしを捉えた。目を逸らさなかった。サカキさんの春の陽のようなまなざしに、思った以上に硬くなっていたらしいわたしの心と体から、無駄な力が抜けていくのがわかった。種から芽を出す植物のような気分だった。記憶喪失のせいなのか、あるいはもともと本人の持っている資質なのか、サカキさんは、少女のみならず、わたしのような大人までも寛いだ気分にする力を持っているらしかった。
それから沢田さんが迎えに来るまでの十分くらいの間、三人とも口を開かなかった。話をする必要を感じなかった。陽だまりで寝そべっているような、なんとも穏やかな時間で、ずっとこうしていたい気にさせられた。
外はもうすっかり晴れ上がっていた。少女とサカキさんが先に立ち、姉妹のような後ろ姿を少し遠くに眺めながら、迎えに来てくれた沢田さんと並んで歩いた。風もなく秋の日差しは穏やかで、完璧な土曜日の午後の天気と言ってよかった。丸の内や新宿といった大きなビジネス街ではないが、駅の周辺は会社が多いためか、昼過ぎになっても人通りはまばらだった。少女はサカキさんと手をつないで、スキップするように歩いていた。若い母親と娘のように見えなくもなかった。
「あの二人は本当に仲がいいんですね」
「ええ、歳は結構離れているのに、気が合うみたいで。木乃香が入院してからは、はるかちゃんのことではサカキさんにだいぶ助けられました。彼女、普段は無口なんですけど、はるかちゃんとだけは親友みたいにおしゃべりするんです。だから、はるかちゃんがいなくなって一番寂しくなるのは彼女かもしれないです」
わずかな時間を一緒に過ごしただけだが、そうであろうことはわたしにもよく分かった。
「はるかちゃんもさっき、随分面倒を見てもらったと言っていました。彼女、何か思い出したりする気配はないんですか」
「記憶喪失のこと、はるかちゃんが言っていました?」
「いえ、本人が」
「あら、そうですか、珍しい」
「普通は言わないんですか?」
「言うもなにも、初対面の人とはほとんど口を利かないものですから」
「へえ、そんな感じはまったくなかったですね」
「そんな子だから、太田さんが気まずい思いをされているのではないかとちょっと心配していました」
「いえ、全然。まあ、はるかちゃんがいましたし」
「でも、私が迎えに行ったときも何も会話がない感じでしたよね。ただ、その割には和やかな雰囲気だったから不思議に思ったんですけど」
「ぽつぽつと話はしましたし、退屈はしませんでしたよ」
退屈どころか気持ちのいい時間だったと言っても、信じてはもらえなさそうだった。沢田さんはほんの一瞬変わったものを見るような目でわたしを見たが、すぐにその気配を消した。自分で思い当たるところはないが、他人から見るとあの二人と共通する特殊な部分があるのかもしれない。
のんびりと五分ほど歩いて着いたのは、こぢんまりとした家庭的な雰囲気のイタリア料理店だった。ヨーロッパ風の白い塗り壁は手作り感に溢れており、若い夫婦二人で切り盛りしているらしい二十席ほどの店内は八割方埋まっていた。客はほとんどが女性だった。たぶん女性誌にでも紹介されたのだろう。男性客はデート中らしい二十代半ばくらいの男だけだった。ただでさえ父親の疑いをかけられた状態で女だけのテーブルに坐らなければならないのに、まさかそうはならないとは思うが、もし吊るし上げのようなことになったら、さらに不利な立場に追い込まれそうな状況だった。
先に着いた少女とサカキさんは、女性二人と一緒のテーブルに座っていた。一人は五十歳くらい、もう一人は二十代後半と思われた。四人掛けのテーブルに二人掛けのテーブルがくっつけてあったから、どうやらわたしを含めて六人で、事務所の全員というわけではないらしい。ほっとした。
中年の女性は三上さんというサカキさんの面倒を見ていた弁護士で、もうひとりは香取さんといった。ふたりとも立ち上がって名刺をくれた。手帳に一枚だけ入れてあった名刺を沢田さんに渡してしまったから、わたしの方は渡すものがなかった。たぶん沢田さんは、わたしが少女の父親ではないらしいことを話しておいてくれたとは思うが、若い方はまだ疑い続けているようで、冷ややかさが伝わってきた。三上さんも「いろいろとご迷惑をおかけしました」と少女のことで詫びてはいたが、視線がどこか厳しかった。まあ、それも仕方ない。
少女は奥の真ん中に座っていた。沢田さんを自分の前に指定し、「おじさんはここ」と自分の左の席を指し示した。サカキさんが向かいだった。
特に挨拶もなく、本当に少女を囲んでの食事会という感じだった。もう少し送別会らしいことをするのかと思っていた。少女の要望とはいえ、わたしという部外者がいたから、余計そうなったのかもしれない。三上さんも香取さんも無視するというほどではないが、わたしにはほとんど話しかけてこなかった。三上さんからどんな研究をしているのかという質問があったくらいだった。社交辞令的な感じで、さほど興味はなさそうだった。こちらとしてもその方がありがたかった。沢田さんが気を遣って、時折、以前わたしの家の沿線に住んでいたことがあったとか、どんなスポーツをしているかとか、問題のない話を振ってくれた。わたしは短く答えた。
森野さんの話題は明らかに意図的に避けられていた。それだからかどうかはわからないが、仕事に関係する話が多かった。具体名は出さなかったが、どこそこの会社はいまだに女性社員の扱いがひどいとか、この間の離婚調停では夫が暴れ出して大変だったとか、そんな話だ。男としては居心地の悪い話ばかりだった。少女はそういう話に慣れているらしく、それなりに聞いているようだった。たまにわたしを見て、にこりとしてくれた。それだけでもずいぶん気持ちが安らいだ。少女なりに心配りをしてくれているのだ。サカキさんは本当に無口だった。話をしている人を見つめて小さく頷いたりはしていたが、ただの一言もしゃべらなかった。みんなそのことをごく自然なことと感じているようだった。
いささか微妙な雰囲気とはいえ、大人の対応というか、わたしに対する冷淡さもその程度で済んだから、食事を味わうことはできた。キノコ中心の旬の素材を生かした料理はイタリアンとしてはあっさりめで、いかにも女性に好まれそうだった。ようやくちゃんとした食事にありついたという感じだった。
幸い、三上さんと香取さんは午後から仕事があるからと、デザートのシャーベットを食べ終えると早々に帰って行った。少女との別れも「またね」という感じの淡々としたものだった。昨晩の電話の雰囲気から、少女が職場のアイドルかのように想像していたが、そういう感じでもないらしい。それに沢田さんが後見人なのだからこれからまったく会えなくなるわけでもない。
四人になると急に気が楽になった。沢田さんがコーヒーのおかわりを勧めてくれた。エスプレッソ一杯だけでは物足りなかったので、お願いした。少女がまたあきれたような顔でわたしを見た。
ようやくゆったりとした気分でコーヒーを飲んでいると、急に少女が、あらたまった様子で、前に座る沢田さんに話しかけた。
「あの、沢田さん」
「ん? なぁに?」
沢田さんは、言葉の優しい感じとは不釣り合いに眉をひそめ、訝しげな顔をした。でもすぐにうつむくと、デミタスカップをソーサーに音をさせず置いた。顔を上げると柔和な表情に戻っていた。その顔を見せたのはわずかな時間で、違和感を覚えたが、まあ、仕事のことでも考えていたのだろう。
「いままで、お母さんのことも含めて、いろいろとお世話になりました。ありがとうございました」
少女はそんなことには気付いてはいないように、はっきりとした、でも棒読みっぽい口調で感謝の気持ちを伝え、子供らしい仕草でぺこりと頭を下げた。事前にちゃんと言い回しを考えていたに違いなかった。
「ああ、そんなこと。いいのよ。わたしだって、あなたやあなたのお母さんにはずいぶん助けられたんだもの」
意外にも沢田さんは素っ気ない感じで答え、わたしをちらりと見ると、小さく咳払いをした。仕事柄、こういうことには慣れていて、ドライに対応するのかもしれない。
「さあ、そろそろ、行かなくちゃね。遅くなると、向こうの人にも悪いし。太田さんも、いろいろおつきあいさせてしまって、すみませんでした」
「いえ、わたしは全然」と形式的に答えたが、何か大事なことを聞き逃してしまったときのような、居心地の悪い引っかかりが残った。ふとサカキさんを見ると、横にいる沢田さんのことを見据えていた。その瞳はやけに無表情だった。
沢田さんは準備があるからと先に席を立った。サカキさんに十分ほどしてから店を出るように言った。食事代を払おうと思って後を追ってレジに行った。予想はしていたが受け取ってはくれなかった。沢田さんは、「大変お世話になりました。また何かありましたら連絡させていただきます。それではここで失礼します」と、儀礼的に言って丁寧なお辞儀をすると、ひとり事務所に戻って行った。
テーブルに戻ると、少女とサカキさんが笑顔で迎えてくれた。さきほどまでと同じテーブルとは思えなかった。
「おじさん、ちょっと緊張してたね」
腰を下ろすと、少女が生意気なことをいった。
「べつにそうでもないけど」
「ふぅん」少女はどうでもいいような疑いを含んだ感じで答えた。わたしとじゃれたいのだろう。
「さっき沢田さんが言っていたけど、サカキさんって本当に無口なんだ」
少女の狙いをかわすように、サカキさんに話を振った。
「はい」サカキさんは笑って答えた。
「でも喫茶店ではそんなふうには見えなかったけど」
「そうでした?」
本人は別に疑問を感じていないらしい。
「ねえ、おじさんは独身でしょう? 離婚したの? 彼女もいないみたいだし、好きな人とかいないの?」
少女がまた割り込んできた。
「独身だし、結婚したことはないから離婚もしていないし、今は彼女も好きな人もいない」
「じゃあ、フリーなんだ」
「そう、フリー。よくそんな言葉、知っているね」
「うん。学校でも使うもん」
「へえ」
「どうして結婚しないの?」
「うーん、結婚したいと思えるほどの人とは出会っていないから。いや、今まで付き合った中で結婚したいとまで思える人がいなかった、というほうが近いかな。そもそも結婚する気もあまりない」
「お母さんは?」
「そうだな」どういう風に答えたら、正確に伝わるだろう。「そうだな、たぶんお母さんが付き合ってくれていたら、結婚したくなったと思う」
「ふぅん」少女はこちらをちらっとだけ見て、言葉を噛みしめるような真面目な顔で考え込んだ。サカキさんは微笑ましいものを見るように、少女とわたしを交互に見ていた。
「あっ、そうだ。おじさんの携帯の番号を教えてよ」
突然思いついたように少女が言った。
「ああ、いいけど」
わたしはバッグから手帳を取り出し、名前と番号を書いて、そのページを切り取ると、少女に渡した。
「ありがとう」
「あの、わたしにも教えてもらえますか?」
「ええ、もちろんいいですよ」
サカキさんは小さいバッグから携帯を取りだし、わたしの方に差し出した。赤外線で交換するということらしい。仕事柄、コンピューターの扱いは苦手ではないものの、携帯電話の扱いは得意ではなかった。高校生が目にもとまらぬ速さで携帯のメールを入力しているのを見ると、頭がくらくらしてくる。おたおたしていると少女が助け船を出してくれた。
「おねえちゃんから電話してもらえば」そう言って少女はサカキさんにさきほどの紙切れを渡した。
「じゃあ、かけますね」
サカキさんからの着信が入った。
「サカキさんの名字はどんな字?」
「坂道のサカに、樹木のモクです」
坂木春美と入力した。結局、身体の仕組みがアナログ世代なのだ。
「そうだ、ついでに、おねえちゃんにメルアドも教えといて」
「ああ」サカキさんから紙切れを受け取ると、携帯のメールアドレスを書き込んだ。紙切れをサカキさんに戻した。素早い指の動きで入力して、すぐにメールを送ってくれた。空メールかと思いきや、〝太田さんと話をしたら、とっても楽しかった!〟と書いてあった。えっ、と思ってサカキさんを見たが、知らん顔で、少女と目を見合わせて、笑っていた。
そんなことをしているうちに十分はあっという間に過ぎた。名残惜しい気もしたが、少女とサカキさんとは、事務所のある駅前通りに出たところで別れようと思っていた。でも、店を出ると少女に手をつながれてしまって、タイミングを失った。少女のもう一方の手はサカキさんとつながれていた。この際、もう少しくらい付き合ってあげてもいいだろう。われわれ三人は連れ立って、ゆっくりとした足取りで事務所に向かった。少女はわたしやサカキさんを見上げては、嬉しそうな笑顔を見せた。そんな顔を見せられたら、わたしだって嬉しい気持ちになってしまう。知らない人が後ろから見たら、家族連れと勘違いするかもしれない。もし知り合いに見られでもしたら、それはそれで誤解を生むような顔をわたしはしているに違いなかった。
結局、事務所の建物の前まで来てしまった。そこでわたしはようやく少女に声をかけて、歩を緩めた。
「僕はここで失礼するよ」
少女は立ち止まって、無表情にわたしを見上げた。でも再び前を向くと、何も言わずに歩き始めた。もちろん手はぎゅっと握られていたから、わたしも足を運ばざるを得ない。ふとサカキさんを見ると、私の方を向いて微笑んでいた。沢田さんとは一度別れの挨拶をしたのに気まずいが、まあこの際、駅まで見送ることにしよう。
手を離してもらえないまま事務所に戻ると、沢田さんは窓の近くに立ち、なにやら切迫した感じで電話で話していた。目の端でわたしたちを捉えたが、すぐに視線をはずした。電気は点いておらず、入り口付近は薄暗かった。
「だから、まず落ち着いて。ご主人の命は無事なのね。そう。分かりましたから。すぐにそちらに行きますから、落ち着いて」
わたしたちは邪魔にならないよう、事務所の中に少し入ったところで、息を潜めて、電話が終わるのを待った。少女が施設に行くのは中止になりそうな気配だった。少女の、わたしの手を握る力が強くなった。
電話は一分とかからずに終わった。沢田さんはこちらを見ることもなく急いで自分のらしき部屋に入ると、二分ほどしてバッグとコートを手に出てきて、その部屋の扉に鍵をかけた。その間、われわれは運命共同体のように手をつないだまま、ひとかたまりになってじっとしていた。
「はるかちゃん、ごめん。事件が起きた。今日は行けない」
部屋を出てきた沢田さんは、持ち物を確認しながら少女をちょっとだけ見て、端的に告げた。スーツの襟には弁護士バッジが着けられていた。
「沢田さん、わたし、今日行きたいの」
少女は怯むことなく、主張した。また少女の手に力が入った。手のひらが汗ばんでいた。
「おねがい。わがまま言わないで」
苛立ちを押し隠すように、沢田さんが言った。バッグとコートを誰かの机の上に置いた。
「だって、サカキさんだけじゃ無理でしょう」
「太田さんもいるもん」
沢田さんは冷静な目でわたしを一瞥し、それからきつい目で少女を見た。少女も負けずに、沢田さんを睨んでいるようだった。今日どうしても行かなければならない理由は分からないが、少女の思いが手のひらを通して伝わってきた。
「無理言わないの」
あきれたように鼻から短く息を吐き、沢田さんは取り合わない感じだった。
「わたしだったら、構いませんよ」
自分でもほとんど意識せずに、そう言っていた。口が勝手に動いてしまったという感じだった。見上げる少女と目が合った。
「いえ、そこまで迷惑をおかけするわけにはいきませんから」
沢田さんの口調は早口できっぱりとしていた。表情には出ていなかったが、言葉の中身と裏腹にむしろわたしの申し出が迷惑そうな雰囲気だった。
そういう沢田さんの雰囲気に反感を抱いた。
「迷惑ということはありません。差し出がましいかもしれませんが、はるかちゃんが独り立ちするのですから、本人の気持ちを尊重してあげてはいかがでしょうか」
自分でも驚くくらい、はっきりとした言い方だった。握り直すように少女の手が動いた。少女の視線を感じた。
沢田さんは腕時計をちらっと見て、あきらめたように小さくため息をついた。「じゃあ、そうしてください」と、怒りを押し殺した声で投げ捨てるように言った。昨日知り合ったばかりのわたしが何を言っているのだという気持ちなのかもしれない。「時間がないので、行かせてもらいます。施設にはのちほど電話を入れておきます。サカキさん、あとはお願いするわ」
「はい」サカキさんは落ち着き払っていて、笑みさえ浮かべていた。「戸締まりはわたしがしておきます」
まるでサカキさんの返事が合図になったみたいに、そのときになって少女は握っていた手をようやく離した。
沢田さんはそっぽを向いたまま、「お願いするわ」とぶっきらぼうに答え、向き直るとわたしやサカキさんを無視するようにして近づいてきて、少女の前で顔を突き合わせるように中腰になった。少なくとも表情は平静を保っていた。そして、「明日、挨拶に行くから」と優しい声で言い、少女の頭を撫でた。
少女は何も答えなかった。うつむき気味で顔はよく見えなかった。
あきらめたような顔で沢田さんは立ち上がると、元いた場所に戻って、バッグから財布を取り出した。サカキさんを呼び、必要な費用を渡したようだった。作り笑顔でわたしに軽く会釈をすると、足早に事務所を出て行った。
わたしたち三人だけになると、休日のオフィス特有の、生気のない静けさに包まれた。ブラインドの隙間からは陽が降り注いでいた。しんとする中、少女が鼻から間欠的に息を吸い込む音が何度か聞こえ、それはすぐにすすり泣きへと変わった。少女は身を翻しサカキさんにすがりついた。サカキさんは抱き寄せるように少女の後頭部にそっと手を置いた。
昨日とは違って一分もしないうちに泣き止んだ。沢田さんに対抗しようとして張っていた気が緩んだだけなのだろう。少女はうずめていた顔を離してサカキさんを見上げ、子供らしい甘えたような顔で笑った。サカキさんは母親のような慈しみに溢れた目で少女を見つめた。アンリ・カルティエ=ブレッソンならこの構図を、〝決定的瞬間〟として撮ったに違いない。もし沢田さんではなくサカキさんに直接面倒を見てもらっていたのなら、少女も施設には絶対に行きたくないと思ったはずだ。でもそれは無理なことだった。
それから少女は甘え顔のままわたしの方を向き、手を差し出した。輪に加わってほしいらしかった。少し躊躇した後で少女の手をそっと握った。相変わらず小さくてやわらかかった。少女の頬に当てられていたサカキさんの白い手が羽毛が舞うようにゆっくりと動き、わたしの手の甲を包み込むように重なった。さらっとした手のひらの感触が快かった。まるでふたりの仲間として正式に認められ、迎え入れられたような感じだった。
三十秒くらいそうしていただろうか。サカキさんはわたしと見交わすと、ふっと微笑んで、「わたしたちも行きましょう」と言った。サカキさんの手が離れ、わたしも少女の手を離した。少女はわたしを見て、にこりとした。言葉にならない感謝の笑顔に思えた。
少女の荷物は会議室のテーブルの上に置いてあった。ランドセルと手提げ袋はともかく、少女が隠れることができそうなダッフルバッグと大きめのプラスチックのコンテナボックスが一個あった。ダッフルバッグは思ったほど重くなかったが、ボックスは結構な重さだった。これは確かにサカキさん一人では無理だった。事務手続きとか挨拶のことではなく、単に物理的な問題だったらしい。
「すごい荷物だね。宅配便で送ればいいのに」今度はわたしがあきれる番だった。
「だって大事なものばっかりなんだもん」少女は真剣な口調で言った。
「木乃香さんに買ってもらった服とかぬいぐるみとか本なんです。手元から離れるのが不安なんです。ね?」サカキさんがフォローした。
「うん」少女はわたしに向かって頷いた。
「そうか。じゃあ、しょうがないな」
わたしがそう言うと、少女がサカキさんを手招きして、耳元で何か言った。サカキさんは目をくりっと動かして頷くと、いたずらっ子のように笑った。そういう顔も可愛かった。少女もわたしを見て、にやりとした。
「ん? なんだよ」仲間はずれにされたようでちょっとだけ面白くなかった。
するとサカキさんが近づいてきて、「じゃあ、太田さん、耳を貸して」と言った。そんなことを突然サカキさんから言われて戸惑った。でも拒否するわけにもいかない。どうか耳垢とか付いてませんようにと祈りながら、サカキさんに耳を向けた。サカキさんは少女と同じように、耳のところに手で囲いを作って顔を近づけた。焦らすように少し間を置いた。吐息を感じた。とてもいい匂いがした。
「太田さんのこと、好き」サカキさんは情感たっぷりに囁いた。
「えっ?」わたしは単純に驚いた。
「って、はるかちゃんが言っていました」と、そこは少女にも聞こえるように言った。
声には出さなかったが、なぁんだ、と思った。そんなはずあるわけない。その雰囲気につい誤解してしまった。サカキさんも人が悪い。でもこうして親しさを示してくれることは嬉しかった。少女とサカキさんは声を抑えて笑い合ったが、腹も立たなかった。ただ楽しいから笑っている感じだった。それにこんな風に笑えるのは少女にとっていいことのはずだ。
「だけど、これを歩いて持って行くのは、ちょっと大変そうだな」ふたりの笑いが落ち着いたころ、わたしはつぶやくように言った。
「それなら、そこに運ぶ道具があります」サカキさんは笑いの余韻を残したまま、扉の横を指した。スーツケースなんかを運ぶキャリーカートが用意してあった。
何も言わずカートにコンテナボックスを載せ、その上にダッフルバッグを縦にして置いて、ゴムのコードで固定しようとした。サカキさんがバッグを押さえてくれたが、さほど長くないコード一本では両方を固定するのは難しそうだった。コンテナボックスだけをカートで運ぶことにした。ダッフルバッグは肩にかけていくしかない。
作業をしながら施設の場所をサカキさんに聞くと、東京の郊外にある都市の名を言った。
「ここからだと、電車で一時間くらいかな」とわたしが訊くと、「そのくらいです。駅からは遠いので向こうではタクシーに乗ることにしていました」と、サカキさんが言った。
もう二時を回っていた。わたしが荷物を事務所の外に運び、サカキさんが戸締まりを確認して事務所のドアに鍵をかけた。われわれは少女の門出に向けて出発した。
【次回、第一部 第二章 三 タクシードライバーの忠告】毎週木曜日更新
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