第一部 第一章 一 遺児
帰国して二年ほどした、まだ残暑の厳しいある秋の日のことだった。研究プロジェクトの長いミーティングが午後七時前にようやく終わって携帯電話を見ると、マンションの管理人さんから留守番電話メッセージが残されていた。
管理人さんは留守番電話メッセージを残すことが苦手らしくはっきりしたことはわからないのだが、わたしを訪ねてきた子どもをわたしの部屋で待たせているというのだ。まったく身に覚えのない話だ。詳しくはメモに書いて、郵便受けに入れておくという。着信は午後五時半ころに一度あり、そして六時の着信にそのメッセージが残されていた。すぐに管理人室に電話をしてみたが、家庭の事情で定刻の午後六時には必ず帰らなければならない管理人さんはすでに不在だった。
意味不明のメッセージだし、何かの間違いのはずだが、研究者仲間と食事に行く予定をキャンセルして、急いで帰宅することにした。
郵便受けには、電気代の請求書やらダイレクトメールやらチラシやらの上に、きちんと封筒に入れられた管理人さんのメモが入っていた。
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太田様
携帯電話に連絡しましたが、電話に出られないということでしたので、失礼ながら、このメモに記します。
夕方になって、当管理人室をひとりの女の子が訪ねてきました。太田様の姪御さんということです。でも名前を聞いても、訪ねてきた理由を聞いてもうつむくばかりです。おおかた、お母さんとケンカでもしたのではないでしょうか。
わたしは太田様の親類関係に関してほとんど存じませんが、太田様のことをよくご存じのようですし(お仕事や勤務先などを知っていました)、賢そうなとても愛らしい子です。
ですが、ご承知のように私は勤務終了後すぐに帰宅せねばなりません。午後六時までは預かるつもりでおりますが、太田様のご帰宅時間はいつもそれほど早くないようですので、どうしようかと途方に暮れております。
もし六時までに帰宅されない場合、太田様のお部屋にお連れして、ご帰宅を待たせることになろうかと思います。女の子の方もそれで構わないと言っておりますので、事後承諾となってしまいますがご容赦下さいませ。
管理人
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訳が分からなかった。妹には子どもがいる。でも男の子だ。それにわたしをあまり好いてはおらず、わたしの家に来たことすら一度もない。わたしの子ども嫌いは相変わらずで、知っている子どもといえば、妹の子と友人の子供が何人かといったところだ。そのうちの誰かが訪ねてくるはずはなかった。
出張や観測などで一か月近く家を空けることもあったから、管理人さんには部屋の換気などいろいろとお願いすることもあったし、お土産くらいはちゃんと渡すようにしていた。だから住民の中ではたぶん親しくしていた方だし、管理人さんもわたしの部屋に入ることに抵抗はないのだろうが、それでも知らない子どもを住人の部屋に勝手に置いていくのはどうかと思う。でも、慎重で用心深い管理人さんが熟慮した結果なのだ。エレベーターが五階に到着するまでの間、誰かが仕組んだ悪い冗談――そんなことをしてくるような親しい同僚も友人もいないが――であることを願いながら、要領の得ないメモを読み返した。やっぱりなんのことかさっぱりわからなかった。
玄関は暗かった。でも、奥の部屋につながる扉の隙間から明かりが漏れていた。玄関の照明を点けると、端の方に小さな赤いスニーカーがきちんと揃えて置かれていた。
管理人さんのメッセージはやはり冗談ではなかった。もちろん冗談でこんなことをする人ではなかったし、誰かの冗談に乗るような人でもなかった。ちょっとずれてはいるが、すぎるくらいまじめな人なのだ。
恐る恐るダイニング・キッチンにつながるドアを開けると、ダイニングテーブルに一〇歳くらいの女の子が座っていた。テーブルにはノートが広げられていた。下を向いたまま何の反応も示さない。鉛筆を握ったまま、眠りこけていた。髪の毛が邪魔で、顔はよく見えなかった。
でもどうみてもわたしの知っている子ではなかった。なぜ、見ず知らずのわたしのところを訪ねてきたのだ。
管理人さんのメッセージにもう一度目を通してみる。
わたしはこの少女のことをまったく知らない。だが、相手がこちらを知らないというのはわたしの思い込みだった。少女はわたしを知っている。メッセージにそう書いてある。
あらためて少女を見た。こんな光景をいつか見たことがあった。
あの晩の図書室だった。だがあのときの女の子がわたしを訪ねてくるはずもない。それにもうあれから何年も経っているのだ。同じ女の子であるはずはなかった。でも久し振りに思い出したあの日は、わたしを少しリラックスさせた。懐かしく温かい感情がほのかに胸の辺りに広がった。
少女はだいぶ疲れているらしく、テーブルに近づいてもまったく起きる気配はなかった。無理に起こすのもかわいそうに思えるほどだった。ノートには何も書かれていなかった。でもよく見ると、濡れて乾いた紙が波を打ち、淡い影をつくっていた。管理人さんだって途方に暮れただろうが、わたしだって困り果てる。結論を保留にしたまま、ひとまず服を着替え、顔を洗った。
台所に戻ると、女の子は目を覚ましていた。気の毒になるくらい緊張して座っていた。女の子はぎくしゃくした動きであわてて立ち上がり、ぺこりとお辞儀をした。失礼のないよう懸命に振る舞っているようだった。その顔はどこかで見たことのある気がしたが、それが誰だかは思い出せなかった。
「お留守の時に勝手にお邪魔して、申し訳ありませんでした」
とても一〇歳くらいの子どもとは思えないひどく大人びた口調だった。こちらをまっすぐにみつめるふたつの瞳には、申し訳ないという気持ちと怯えみたいなものが浮かんでいた。
名前を訊こうと思ってわたしが息を吸い込もうとしたとき、少女が自ら名乗った。
「はじめまして。もりのはるかともうします」
「え? もりの?」
「はい。
「え? 森野さんの娘さん?」
「はい。母は半年ほど前に病気で亡くなりました」
「え? 亡くなった? 森野さんが?」
「はい」
半年前に森野さんが死んだ。そしてその娘がわたしを訪ねて来た。え? 娘? あれは、何年前のことだ? 一〇年か? 一一年か? だけど森野さんは妊娠できない身体だと言っていたではないか。あれは嘘だったのか? そうだったかもしれないし、そうではなかったのかもしれない。わたしが信じたという事実があるだけだ。いや、待てよ。娘がいるということは、子供を産んだということじゃないか! 亡くなって半年も経っているとはいえ、わたしを訪ねてきたということはまさかそういうことか? あのあとすぐならまだしも、いまごろになって、しかも森野さん抜きで? いや、いや、こういうことだって考えられる。同じ時期に別の男としたとか、それともあのあと手当たり次第にやって、誰が父親かわからないとか? それでわたしのところに来るまでに半年もかかったとか?
でもそんなふうに森野さんの人格を無理にねじ曲げてみたところで、子供が生まれている以上、わたしが父親の可能性の中に含まれていることは否定しようがなかった。しかも残された娘が、このわたしを訪ねてきたのだ。
だがいずれにしても困る。森野さんがいるならまだしも、娘だけなんて。
少女は怯えたような表情のまま、わたしを見上げていた。わたしもまた、恐れおののいたような表情をしているに違いなかった。
子どもと話をするときは目線を同じ高さにした方がいいと知り合いの幼稚園の先生に聞いたことを思いだし、少女の前にしゃがんでみた。膝が震えていた。笑顔を作ってはみたが、かえって怖がらせたかもしれない。
「あの、おじさんは、お母さんのお友達ですか?」
それでも少女はわずかに緊張が解けたらしく、すこしだけ子どもらしい言い方になった。近くで見ると、もうほとんど忘れてしまった森野さんの笑顔がぼんやりと思い出された。
「うん。そう。ともだち。もうずいぶん会っていないけどね」
いきなり、お父さんとか呼ばれたらどうしようかと思っていたが、おじさんということはわたしの考え過ぎだったのか。でも単に森野さんが娘に父親のことを伝えていない可能性だって考えられる。
「お母さんが、もしどうしても辛くて我慢ができなくなったらおじさんのところに行ってみなさいといって、住所なんかを教えてくれました」
「そう」と言って、わたしはつばを飲んだ。森野さんが、娘に、わたしを、頼りにしろ、と言った。わたしは一層不安になった。それにしてもなぜ住所まで知っているのか。
でも、辛くて我慢できなくなったというのはどういうことだろう。母親が死んでいまどういう状況に置かれているのだろう。どこかから逃げ出してきたのだろうか。意外にも、思いやりのある考えが浮かんでは消えた。
「いつ、そういう風にいわれたの?」
「お母さんが死ぬ少し前」
そう言うと少女は、テーブルの横に置いてあった赤いランドセルから、まるでガラスの板でも扱うように慎重に封筒を取り出し、「もしおじさんに会ったら、この手紙を渡すようにいわれました」と差し出した。震えを抑えられない手で、高級な和紙の封筒を受け取った。うまくつかめず、あやうく落としそうになった。少女は不思議そうな目でわたしを見ていた。表にはわたしの名前、裏には森野木乃香と、見覚えのある丁寧な字が、濃い藍色のインクで記されていた。それでも、懐かしさを覚えるより、一体何が書いてあるのだろうという恐怖が先に立った。
「それから、もしおじさんにこれを渡さなくても、読んではいけないといわれました。それからこの手紙のことはだれにもしゃべってはいけないともいわれました」
すぐ目の前にある少女の顔を改めて見た。それでも森野さんの顔をはっきりと思い出すことはできなかった。
一二時間。それが森野さんとわたしが共有した時間だ。あの夜、わたしは森野さんに出逢い、森野さんの半生を聞き、踊り、そして寝た。あのわずかな間にわたしは森野さんを愛し、願いは叶わなかったけれど一緒に生きていきたいと思ったのだ。あの時間は普通の時間ではなかった。あれほどの濃密な時間が二度とわたしの人生に訪れることはないだろう。そう、本当に特別な時間だったのだ。それでもあの夜はあまりに遠かった。シルエットとか感触とかはリアルに覚えているにも関わらず、森野さんの顔はぼんやりとしたイメージしか思い出せなかった。だから突然訪ねてきた娘にいきなり森野さんの死を告げられても、まるで実感は湧いてこなかった。
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