第一部 第一章 二 ひとつめの手紙

 あの日のあとしばらくはこんなことを幾度も想像した。森野さんがある日、赤ちゃんを抱いて、わたしの元を訪れるのだ。それはむしろ、楽しい想像だった。そしてふたりは、いや三人は、幸せに暮らしたとさ、という具合に。でもいまはまったく事情が違う。森野さんは死んで、その幼い娘が訪ねてきた。わたしとの間の子どもかもしれない娘が。大きく深呼吸をしてみたが、かえってめまいがして倒れそうだった。突然荒々しい渦にのみ込まれたような感じだった。でもわたしの中心は奇妙なほど静かだった。

「ねえ、さっき、辛くて我慢できなくなったからおじさんのところへ来たみたいなことを言っていたけど、なにがあったの? それと、ここに来る前はどこにいたの?」

 少女はわたしの目をじっと見た。ほとんど無表情だった。

 可能性のあることを知っていなければ似ているとは思わないだろうが、そういう目で見れば、口元なんかが自分に似ているように感じられた。それでもまだ否定する余地は残されていた。それが唯一心のよりどころだった。

 少女は小さい手を胸に当て、小さく息を吐き出したあと、大人びた冷静な声で言った。

「お母さんが死んで、しばらく弁護士の沢田さんというひとにお世話になっていました。でも、明日、施設に行くことになっています」

 沢田さん。森野さんの話に出てきた弁護士だ。夫からひどい暴力を受けた時、助けてくれた女性弁護士。そして元の夫が奧山で、その友達が遠藤さん。一〇年ほど前に一度聞いただけの話をよく憶えていたものだと我ながら感心した。いや、そんなことに感心している場合じゃない。

「施設に行くのが嫌なの?」

「そんなことないです。わたしが自分で行くといったの。だって、沢田さんにあまり迷惑をかけるといけないから。わたしがいると沢田さんは恋人と喧嘩になるから。沢田さんのことは嫌いじゃないけど、いつまでもお世話になっているわけにもいかないし」

 少なくとも沢田さんとうまくいっているのならば、施設なんかに行くのは嫌に決まっている。でもこの少女の性格ならば、たぶん自分が原因で喧嘩になることも苦痛なはずだ。無意識に少女の頭をそっと撫でた。少女はじっとしていた。「さてと」と言いながら立ち上がった。自分でもどうしようとしているのか、よくわかっていなかった。手にしていた封筒を思い出し、とりあえずそれを眺めた。

 手紙だとすると、結構な厚みだった。引き出しからペーパーナイフを取り出し、慎重に封を切った。便せん数枚と、厳重に封のされたもう一つの封筒が入っていた。

 便せんを取り出したものの、広げるのは怖かった。だが、読んでみないことには前に進めない。それに沢田さんのところを黙って出てきたのだろうから心配しているはずだ。連絡をしないわけにはいかない。でもその前にある程度事情を知っておく必要がある。

 勇気を奮って手紙を開くと、表書きと同じ藍色の文字がさざなみのように並んでいた。あいさつはごく短く、久し振りに友達に手紙を書いたようなわりと明るい調子だった。

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 太田貴文おおたたかふみさま


 お元気でいらっしゃることと思います。大変ご活躍なされているようですね。新聞で太田さんの研究が紹介されている記事を見つけ、わがことのようにうれしく思いました。切り抜いて、今でも大事にしまってあります。

 さて、この手紙をお読みになっているということは、私はもうこの世におらず、娘が太田さんを訪ねたということなのだと思います。

 あの日以来、お会いすることもなかったのに、突然私の娘が現れ、戸惑っていることと思います。そしてなぜ私に娘がいるのかと訝しんでおられるのではないかと思います。太田さんには、まったく何からお詫びしたらいいのかわからないほど、謝らなければならないことがたくさんあります。それから感謝しなければならないことがたくさんあります。

 この手紙を開く時点で、太田さんがもっとも気になっていることはおそらく、娘の遥(はるか)が誰の子か、ということではないかと思います。ただ、このことについては、簡単に説明できることではなく、最終的にきちんと説明できるかどうかさえわかりません。その経緯があまりに特殊であり、普通ではないからです。超自然的といってもいいかもしれません。ですから、妊娠の経緯などについては、一切誰にも話をしていません。頭がおかしいと思われるのがおちだからです。でも太田さんだけは、理解してくれると信じています。

 もし経緯を知る必要がないとお感じになるのであれば、もう一つの手紙はお読みにならないでください。そして、誰にも読まれないよう処分していだだけるとありがたく存じます。

 娘には太田さんのことを、つきあいは短かったけれど私のことをとてもよく理解してくれた仲の良い友だちと話してあります。娘は、私が死んだあと、しばらくは親しくしていただいた弁護士の方に面倒を見てもらい、その後どこかの施設に預けられることになっています。

 もしもこれで最後になるのであれば、これだけはいわせてください。

 あのとき以来、私はあらゆることをふっきることができ、とても充実した人生を送ることができました。太田さんが話を聞いてくれ、励ましてくれたおかげです。

 心から感謝しています。ほんとうにありがとうございました。


                           森野木乃香  

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 感謝の気持ちが痛いほど伝わってきて、思わず目頭が熱くなった。

 でもいまはそんな感傷に浸っている場合ではない。

 気を取り直して、その謎めいた手紙にもう一度目を走らせた。はるかという名は、森野さんの名前から勝手に春香かと思っていたが、こっちの字だったのか。いや、違う。そんなことじゃない。それより、父親が誰かを簡単に説明できないというのはどういうことだ? 超自然的? 妊娠の経緯を話すと、頭がおかしいと思われる? だいたい妊娠の経緯という表現自体が不自然ではないか。わたしの精子を人工授精に使って、別の女性に着床したとか? でもそれなら超自然的ではない。単なる科学技術だ。

 内容はともかく、筋道は立っていた。森野さんの頭がおかしくないことは明らかだった。

 いずれにせよ、わたしが何らかの形でかかわっていそうな気はする。でなければ、娘をわたしのところへ寄越したりはしないだろう。かといって、わたしが父親であるという書き方でもないような気がする。しかし、父親である可能性が完全に否定されたわけでもない。まさかほんとうに、わずかな可能性に託して手当たり次第いろいろな男と試してみたのだろうか? それで本当に父親が誰だか分からないとか? もしそうだとしたら、超自然的なんて表現をするだろうか?

 少なくとも今のところは、少女の父親が誰であるかは誰も知らない。手紙を信じるなら、それは確かなようだ。もう一つの手紙を読んだら、何が起こるのだろうか。知りたくもないのに読んだら、煙が出てきて、おじいさんになってしまうとか? 大きくため息をつきながら便せんを元のようにたたみ、封筒に戻した。

「はるかちゃんといったね」

 わたしは膝をついて、また少女の視線の高さに戻ってから話しかけた。

「はい」

 少女はまだ少し怖がっているようだった。

「沢田さんの電話番号は知っている?」

「はい」

 今度は少しはっきりと答えた。隠すつもりはないらしく、少女はランドセルから名刺を取り出した。〝沢田法律事務所 代表弁護士 沢田知華子さわだちかこ〟とあった。印刷された事務所の番号とは別に、携帯の番号が手書きしてあった。

 まだ少女がここへ来た理由を聞いていないことを思い出し、「ところで、はるかちゃんは、どうしておじさんのところに来たんだっけ」と、訊いた。

 少女はわたしの目を見据えたあと、うつむいてしばらく黙り込んだ。そして、床を見たまま、「わかんない」とつぶやくように言って、顔を上げた。不安に満ちた目をしていた。

「わからないけど、おじさんのところにきたの?」

 口では答えずに小さく頷いた。そのまま顔を上げなかった。少女の若く輝く髪を見つめ、それから夜を映す黒い窓を眺めた。どちらにも答えは書かれていなかった。

 気がつくと、わたしの膝の前に水滴がぽたぽたと落ち、小さな水たまりをつくっていた。少女は、声を漏らさず、泣いていた。反射的に、そっと抱きしめた。乳臭いというのか、こども特有の匂いがした。ずいぶん我慢していたのだろう。絞るように小さく声を漏らし、身体を震わせて泣いた。久し振りに誰かの体温を感じた。肩に温かい水滴が沁みてきた。しばらくするとようやく落ち着いてきたらしく、震えの周期が長くなり、やがて収束した。まるであの晩の森野さんみたいだった。

 頃合いを見計らって、わたしは腕の中の少女に言った。

「もし、はるかちゃんがいやだったら、今日は沢田さんのところに電話はしない。今晩はここに泊まって、明日電話しよう」

 言いながら、自分は何を言っているのかと思った。

 でも、少女は思っているよりもずっとしっかりしているようだった。少女はわたしから離れた。赤い目でわたしをじっと見た。そして涙まじりの声で言った。

「電話して下さい、沢田さんが心配するから。でも、自分じゃ話しにくいから、おじさんにお願いしてもいいですか?」

「うん。もちろん、いいよ」

 わたしは涙をぬぐう少女の肩をそっと叩いた。

 簡単に引き受けてしまったが、わたしが電話をして変に思わないだろうか。父親だと疑われないだろうか? 相手は弁護士だ。疑わないはずはない。でもとにかく今のところはただの友だちで通すしかない。

 とりあえず事務所に電話をしてみることにした。一度目は番号を押し間違え、二度目は話し中だった。それから一分ほど待ってかけ直すとつながった。呼び鈴が一回鳴っただけですぐに相手が電話を取った。

「はい、沢田法律事務所」

 頭の中でシミュレーションをしておいたのだが、女性の切迫した鋭い言い方にひるみ、言葉に詰まった。相変わらず、わたしはわたしだった。こういうところは、初めて河村教授に電話をしたあのころからまるで変わらない。人間というのは成長する部分とそうでない部分があるのかもしれない。

「わ、わたし、オオタといいますが、沢田さんはいらっしゃいますか?」

「どういったご用件でしょう?」

 さらに苛立ちが募ったような感じだった。

「えー、あの、わたしは森野さん、森野木乃香さんの古い友人で……」

 そこまでしどろもどろで言うと、まるで一片の雪があたたかい手のひらに舞い降りたように、張り詰めた空気が急に和らぐのが電話越しに感じられた。

「あ、そうなんですか? すぐに沢田に代わります。お待ちください」

 通話口を手で押さえ、小さくため息を吐いた。

「お電話代わりました、沢田です」

 最初の女性よりもずっと落ち着いた声だった。

「わたし、オオタといいまして、森野木乃香さんの古い友人です。実は娘のはるかちゃんが突然わたしのところを訪ねてきまして」

 今度はわたしも少しは落ち着いて話すことができた。

「はるかちゃん、はるかちゃんがそこにいるんですか?」

「はい」

「あーー、よかったー。よかった」

 涙声に変わっていくのがわかった。それから沢田さんが少女の無事を周りの人に告げ、歓声が小さく漏れ聞こえてきた。

「失礼しました。なにはともあれ、ご連絡いただき、ありがとうございます。ほっとしました」

 沢田さんは落ち着いた声に戻っていた。

 森野さんから最初に話を聞いたときの印象が強く、いじわるで冷たい感じの女性を想像していた。弁護士らしく話し方はクールでかちっとしていたが、響いてくる感じはどこか温かみのあるものだった。考えてみれば、夫から暴力を受けた森野さんを手元に保護したり、残された娘の面倒まで見ているのだ。いくらかビジネスの側面はあったにせよ、冷酷な人間であるはずはなかった。

「いまからすぐ迎えに行きます。お住まいはどちらですか」

「ちょっと待ってください。本人も分からないみたいですけど、何か理由があってわたしのところにきたみたいなんです。そちらで何かあったということではなく、ただ漠然とした不安とか、そんなのみたいで。なんでも明日施設に預けられるとか」

「ええ、そうなんです。私ももう少し自分のところにいたらどうかと説得してはみたんですが、木乃香に似て強情っ張りで。何かはるかちゃんを傷つけるようなことをしてしまったのかと気になっていたんです」

「いえ、どうもそういうことではないみたいですよ」

 沢田さんを気遣ってのこととはもちろん言えなかった。

「はるかちゃんに代わっていただけますか」

「それが、自分ではかけにくいからとわたしが代わりにかけたんです。急にいなくなって沢田さんに悪かったと思っているみたいで」

 何か腕が重くなったように感じたと思ったら、少女が肘のところを遠慮がちに引っ張っていた。

「ちょっと、すみません」

 電話に出たいのかと訊くと、はっきりとうなずいた。

「本人が話したいそうです」と、沢田さんに告げ、少女に電話を渡した。

「もしもし、はるかです」

 それからしばらく先方が話を続けているらしく、少女は大人しく聞いていた。ときどき、「うん」とか「ごめんなさい」とだけ口にした。たぶん、どうしていなくなったのかとか、心配したとか、言われているのだろう。

 沢田さんがひととおり質問と意見を言い終わったらしく、ようやく少女が口を開いた。

「ごめんなさい。でも自分でもわからなかったの。さっき、太田さんにも訊かれた。それで考えたら、どうしても今日のうちに、太田さんに会っておかなきゃいけないと思ったみたい、直感的? っていうの?

「だって、施設に行ったら会えなくなるかもしれないし、そうこうしてたらおじさんだって引っ越ししていなくなっちゃうかもしれないし。

「死ぬ少し前にお母さんが言っていたの。ちょっとしたきっかけがあって、太田さんにお母さんのことをいっぱい話したことがあるからって。どうしても寂しくなったりしたら、太田さんに会ってごらん、って。沢田さんには言ったことなかったけど。

「違うの。いま寂しいとか、施設に行くのがいやとか、そういうことじゃないの。さっきもいったけど、どうしても今日太田さんに会った方がいいって思ったの。ううん、思ったのと違う、よくわかんない。

「うん。ごめんね、心配かけて。あの、それで、もし太田さんがいいっていったら、今日、ここに泊まってもいい?」

 そういうと少女は振り向いた。わたしは思わずうなずいていた。一瞬だが少女の顔があどけなく輝いた。

「うん、太田さんはいいって。だから、お願いします。ほんと? ありがとう。うん、太田さんに代わる」

 少女が携帯を差し出した。さきほどは成り行きで泊まっていけばいいと言ってしまったが、いざそうなると困ったなという思いが強かった。気持ちを悟られないようにして受け取った。

 しかしいずれにせよ、もう一つの手紙をどうするかも決めかねていた。読まずに少女を返してしまえば、後悔するかもしれない。読むべきだろうという気持ちが勝ってはいた。だからといって、読まずに済ますことも可能な手紙を、人生を一変させうるかもしれないあのもうひとつの手紙を、あえて読む決心は未だについていなかった。

「代わりました」

「ほんとうによろしいのですか?」

「ええ。わたしのほうでもそうしてもらおうかなと思っていました。詳しい事情は知りませんが、なんだか、わたしにもしてあげられることがあるみたいですし。それに独り身なので、別に気を遣うこともないですし」

「そうですか。では、ご迷惑をおかけしますが、お願いします」

 沢田さんの声はどこか寂しげだった。沢田さんに自分の子供がいるのかどうかはわからないが、いままで面倒を見てきたのに、別れの前夜になって、突然見知らぬ人間のところに泊まると言われては、普通がっかりするだろう。

「明日は何時頃、そちらに伺ったらよろしいでしょうか」

「午前一〇時にお願いできますか。一一時に来客があって、午後いちには事務所を出て、施設の方へ行かなければいけないものですから」

「わかりました。では一〇時に伺います」

 電話を切ろうとしたとき、沢田さんが言った。

「明日いらしたとき、太田さんとふたりだけで少しお話しさせていただきたいのですが、お時間はございますか」

「ええ、大丈夫です。わたしは休みですから」

 とりあえず今の段階であれやこれや訊かれずに済んだのは助かった。住所と連絡先を沢田さんに伝えた。

「ありがとうございます。では、彼女のことをよろしくお願いします。おやすみなさい」

「おやすみなさい」

 そうして静かに通話は終わった。

 少女はにこりとしてわたしを見上げた。無意識に少女の前にしゃがんだ。まじまじとその顔を見た。そしてようやく森野さんの顔をはっきりと思い出した。遠いあの日に吸い込まれていくようだった。

「お母さんの写真は持っている?」

 思わず訊いていた。

「はい」と、笑顔で答え、少女はふたたびランドセルを開けて、ちょっとはにかみながら大切そうに写真フレームをわたしに渡した。

 キャビネサイズの写真の中で、森野さんと少女が手をつないで立ち、わたしに笑いかけていた。少女はまだ一歳かそこらでようやく歩き始めたというくらいだった。だからたぶん、森野さんもあの日とほとんど変わっていないはずだった。伸びやかなスタイルは記憶のとおりで、笑顔は記憶よりずっと素敵だった。感慨深く写真を眺めていると目の前で少女のお腹が鳴った。追いかけるようにしてわたしのお腹が鳴った。少女が控えめに小さく笑った。わたしも少しだけ声を上げて笑った。


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