浴室に近づくにつれ、水の音は大きくなる。様一がシャワーを浴びている音だ。

 リビングで食事を終えた天使あつかは様一のやったように食器を水に浸してから浴室に向かう。

 洗面所の戸を無遠慮に開き、シャワーの音が耳を刺激する中、一つ深呼吸をする。意を決するように胸の前で右手で十字を切る。


「お見守り下さい、神様」


 そう呟いて、天使あつかは衣服を纏ったまま脱衣スペースを横断して浴室の戸に左手を添えた。軽く力を込めれば簡単に開く構造になっていて、上下の通気口で熱気を室内に溜めすぎないようになっている。

 軽く戸を押して浴室の戸を開くと、そこで見えたのはシャワーを浴びている様一の姿である。突然侵入してきた外気が様一の身体を縫うことで振り返って天使あつかがいることを確認した。


「な、なにしてんだ。お前……」

「お話の途中でしたので、続きをお伝えしに来ました」

「後でもいいだろ、シャワー中だぞ」


 十字を切った後で固定されていた右手を突き出して、様一の右頬を傷つけた。

 切り傷から少しだけ血が流れ出ることでやっと切られたことを知った様一は恐れ慄いて後退りした。持っていたシャワーヘッドを落として、陰部が丸見えになっていることを気にかけていない。ただ身に危険が訪れたことを理解した。


「部屋を血で汚すのは気が引けたので」


 あらゆる体液で様一の部屋を汚した者の台詞ではなかった。

 様一と天使あつかの視線が交差する。


「どういうつもりだ、お前……」

「神としてのエネルギーは十六歳から溜まり始めます。それはもし放置すれば、世界が崩壊してしまうほど危険なもの。貴方が修行を拒んだり、エネルギーが危険な状態になった時は貴方をころすように神様から言われています」

「クソ親父から言われたことか……」

「それは言えません」


 右手に伝う様一の血液。それを引いて天使あつかは右手の血液を目の前に持っていく。様一の血液が微量ながら付着した右手に舌が這う。

 様一から見て、その様子は狂気に満ちているようにしか写らない。


「明日、学校を休んでおいてください」

「は?」

「私としても、無理矢理あなたに修行をさせるのも望む話ではないのです。貴方が自主的に修行する気になれるようにしますので」

「どっか行くってことか」

「はい。ですから予定は空けておいてください。絶対に」


 念を押すように天使あつかは言う。表情もなにか必死な物に見える。

 もしここで了承し、明日になってからバックれたとして、天使あつかは後ろから様一を刺してくるかもしれない。命あっての物種だ。天使あつかの言う通りに学校を休み、目的の場所に行ったところで何が起こるのか。様一の思考には少し不安が走っていた。


「様一様」


 そんな様一に対して天使あつかは先程の必死な表情から一転、優しく包み込むような笑みを浮かべた。天使あつかは様一の名を口にしたあと、自ら付けた傷を優しく包み込む。

 校内で話題になるほどの美少女である白羽天使。そんな彼女が慈愛溢れる笑みを浮かべたら普通の男子高校生は魅了されてしまうだろう。神様の息子といえどそれは例外ではない。彼女が自分の父親を想って、息子の部屋で激しい自慰をする変態であることはわかっていてもそれは免れない。肌と肌で接触していたなら尚更だ。むしろ何故そんな娘があんな親父を、と心の中で涙するほどになっている。


「下心はあってもいいんです」


 不意にそんなことを言われ、様一の頭にははてなマークが浮かび上がる。


「もし私を抱かせろというなら、喜んで貞操を捧げましょう。お金が欲しいならば、なんとか供養いたします。どんな欲望でも構いません。私はそれを叶えるために存在しています」


 先程の言動と少しだけ矛盾を感じる。天使あつかは神様に貞操を捧げたいと言っていた。それが今では様一に捧げても良いと言い出した。欲望と義務。その二つが彼女の立場をあやふやにしているように思えて、様一は少しだけ居心地が悪くなった。


「まずは先払いをしてしまいましょう」


 そう言って天使あつかは服を着用したまま、シャワーで濡れた様一の身体と密着する。美命の服がずぶ濡れになるのを気にしていない。

 低い身長のため、天使あつかの顔が様一の首元の高さに来る。それをつま先立ちになることで顔が様一の顔面に近付いていく。そのまま天使あつかの勢いは止まらず、ゆっくりと瞼を閉じた。様一との顔面の距離が近づくにつれ、口を窄めていく天使あつか

 彼女が何をしようとしているのかを理解した様一は身を固めてしまう。本来ならここで押し返すのが正しい選択のように思える。しかし、様一は緊張のあまり何も出来ずにいた。

 それも無理からぬことで、絶世の美少女の顔が接近している。もうすぐゼロ距離になるところで、正常な判断のできる男子高校生などいないといっても過言ではない。様一もそれは例外ではなかった。


 様一と天使あつかの唇は優しく密着した。接吻はこれにて成立する。

 何をしようとしてるのかを理解していた様一は、さらに身体の硬直を強めてしまう。やはりそうかと頭では思うものの、その感触を味わう余裕が無い。

 そんな様一を差し置いて、天使あつかの接吻は激しくなる。様一の唇に舌を当てたと思えば、ほぼ無理矢理こじ開けて口内に侵入。そのまま差し込んだ舌を様一の舌に絡ませ、唾液を様一に提供していく。やられるがままの様一の舌は、抵抗の色を見せずに天使あつかの舌を受け入れていた。

 シャワーから出るお湯の音。そして、様一と天使あつかの唾液の擦れる水音が様一の耳を刺激する。

 舌だけでなく、天使あつかは軽く吸うことで唇や舌の感覚を刺激する。互いの吐息が熱くなり、互いに高揚していく身体。

 このままでは様一は天使あつかを締め付けるように抱きしめ、唇だけでなく身体の至る所を感じたくなってしまう。

 そんな危機感を覚えた様一は、限りなく小さな理性を取り戻し、天使あつかを引き剥がしに掛かった。神様を懸想する天使あつかの義務感溢れる行為を止めるため。そして、自らの欲望を理性で抑制するためだ。


「なにを……」

「続きを御所望なら、明日、答えを伺います。だから様一様、よくお考えください」

「君は神様のことが好きなんだろ……」

「はい、私は神様のことをお慕いしています」

「ならなんで……」


 高揚する呼吸を整えようと自分の胸に拳を置いて軽く深呼吸をふる様一。怪訝な表情をしながら天使あつかを見つめ、その真意を問い質す。

 様一の問いに対して、天使あつかは何も動じずに答える。電球の色が薄肌色になっているせいで、少し頬を紅く染めているように見える様相はさらに混乱を呼んでいた。


「私は、神様をお慕いしているからです」

「だから……、それは親父のことじゃ……」

「ここから先は禁則事項です。それでは明日、よろしくお願いします」


 様一の混乱を尻目に、天使あつかは浴室から退室して戸を閉めた。

 天使あつかの謎の行動に混乱していた様一は動くことも叶わず、戸の先を見据えるように固まっていた。地べたに落ちているシャワーヘッドから出てくる水音だけがその室内を響かせていた。


 対する天使あつかといえば、浴室を後にして、脱衣所の壁に背を当てて脱力する。高揚した顔をなんとか抑えようと、何度も呼吸を繰り返しながら胸に手を添えた。


「神様……」


 身体は震えていき、さらに乱れていく呼吸。その口に浮かべるのはニヤけるような笑みだ。


「やり遂げました、神様」


 小さく呟くその声は天使あつかの耳にしか届かない。しかし、その声音ははっきりとしている。

 天使あつかはその高揚した身体を抑えるためにある決意をする。その視線の先にあるのは脱ぎ立ての様一の下着。それを鼻に押し当てた天使あつかは大きく息を吸う。その表情は先程の慈愛のものとは違って、だらしなく歪んだ顔をしている。涎を垂らし、さらに呼吸の乱れは増していく。


「致しましょう」


 何をとは言わなかった。下着を持った天使あつかは脱衣所を後にする。その下着は今後、様一の元に帰ることはなかった。




 ====




 翌日。

 様一は睡眠することなく夜を過ごした。シーツが天使あつかの体液で汚れていることも理由の一つだが、それ以上に浴室での一件が様一の頭を活性化させていた。

 興奮状態になった様一は、それを抑え込む行為を繰り返し行っていた。若さにものを言わせて行うナニは夜通しで抑えなければならなかった。

 寝不足は否めなかったが、若さのおかげか、それとも神のエネルギーとやらが恩恵を促しているのかわからない。なぜか体力が有り余っているのがわかる。


 本日木曜は普通に学校のある日だったが、天使あつかの要望通りに予定を空けている。学校自体をサボって、天使あつかの案内でどこかを目指して自転車を走らせる。

 天使あつかは翼を生やして様一に付随するように飛んで移動していた。彼女が天使化するとき、不可視の結界を張っているらしい。その姿でいるときは普通の人間からは視認できず、言葉も認識出来ない。天使あつかが許諾したものにしかその存在を認めさせないのだという。最も、それは人間に限った話で神族や天使族相手ならその効果は無きに等しい。

 そんな彼女の指示に従って道を走り、どんどん走行距離を増やしていく。もうすぐ市を跨いでしまうほどの距離を置いていた。

 どこに行くのかと行く直前に問うてみたら返ってきた答えがこうだった。


「子供の秘密基地です」


 どこの秘密基地かを聞いたらついてくるように言われただけで答えられなかった。

 詳細が聞けたのは車道の外れた林道に入ったところだ。

 様一の住んでいる地域は海岸沿いの神奈川県。日本全体で物をいうなら都会に部類されるだろう。さらに日本首都から少し外れて、山や森林の多い地域でもある。

 そんな地域の人の出入りの少ない森林に様一らは侵入する。木の密度が高く、自転車で通るのは困難を極める。最後の人道に自転車を置いていく。

 森林に入った途端に天使あつかは饒舌になる。


「約二十年ほど前の話です。当時周辺に住んでいた子供たちがこの辺りに秘密基地を作りました」


 何の話かと様一は頭を傾げる。しかし、今回の目的地の重要な話かもしれないと思って黙って聞くこととする。

 天使あつかは二十年ほど前と言っていたが、正確に言えば十八年前の話。

 かつてこの地域では子供たちの遊び場として様々な遊具が用意されていた。現在では危険性を証明されて侵入禁止の札が立っているため、人影一つ入ることがない。

 そんな森の中で、当時小学校の中学年から高学年の複数人がトタン板や薄い木の板をそれぞれ持ち寄って一つの建物を作った。小学生にしては本格的に作ったそれは、大人から見れば歪で脆い出来のものだった。しかし、当人達にとっては最高の出来だったその建物を秘密基地と称して遊び場として親しまれていた。

 数年すると侵入禁止になったその場所はもう人が入ることのない廃墟と化していたが、現在でもその建物は存在している。


「土埃や木の葉が薄く脆い板の間を縫って侵入し、布が破れて綿が飛び出した座布団。雨風を凌がないその屋根や壁のせいで座布団や、その場に放置されているゴミはかなりの異臭を放っています」


 当時の子供たちはその建物を見て「我ら建設の天才」と鼻を高くしていたが、素人建築も甚だしいその建物は雨風を凌がないものだった。

 そんな現在も残ってるその建物の木の壁は腐って穴が空いており、虫も湧いてとてもではないが人の住める環境とはお世辞にも言えないものが出来上がっている。トタン板の屋根も雨風を長年受けたことでボロボロになっていて、ほとんど屋根の役目を果たしていない。


「そんな建物に、もし子供がいたらどうします」


 天使あつかは様一に対してそう問いかける。返答しようとする様一の言葉を遮るように天使あつかは続けて発言する。


「もし、その子供が病気に掛かっていたらどうします」


 様一の頭は一つ合致するような、していないような思考が走る。

 それをわかっているのかいないのか、天使あつかは追い打ちを掛けるように続けていう。


「この先に、そんな病を抱え、両親に見捨てられた一人の子供がいます。その子供、後数分で……、死に至ります」


 その声が様一の耳を刺激し、思考を停止させてしまった。






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