飛沫

須野 セツ

飛沫

 周りのタイル壁は薄水色に淡い赤の斑点がそぞろになっている。指の先で鉛色の水面をひょいとなぞると生ぬるい湯の感触が襲ってきた。裸体の上半身から下半身にかけての纏わりついていた夜の肌寒さにようやく気付く。

 水滴がぼたりとしている手すりを握って左足それから右足と順に湯の中に自分を落としていき、それからふう、と吐き出すように一息ついた。

 明日は晴れるだろうか。

 窓は台所にずさんに置かれた箸の間ほどの隙間が開いていてそこからは梟の声とともに円い光が加減している。

 また雲が覆った。隙間から見える全ては籠った藍色でしばらく光は隠されそうだった。高く上げていた視線を水上に戻す。


「あした天気になあれ」


 しゃがれていながらも陽気な声。古ぼけた浴室の中によく響いていた。そのときの僕はきっと狭い浴槽の半分も使えずに膝を折り曲げている。

 顔だけを水面の上に出して目を三角にしつつ、口からは歯を覗かせた器用な表情に鏡の中の僕は映っていた。

 今は皮肉にも足を伸ばしてさえ浴槽の中に若干の余裕がある。それを隠すように白いタオルを湯の上に浮かべた。

 こんなことをするのは久しぶりだ。あのときから少し大人になった僕は世間一般的にそれが行儀悪いことなのだと知っていたから。

 タオルは水の上を不安定に漂いだした。両端は今にも沈みそうに水底の方を向き、相反して真ん中は乾いたタオルの淡い色を保っていた。水の染みは暗く浸食を中心へと進んでいき、段々小さくなっていく丸は世界最後の狐島を思わせた。


「こうやって慎重に掴むとな」


 優しい水飛沫に刹那の間、目を奪われる。

 銀色の浴槽の壁にはぼやけた肌色が一面に広がっていてそれを直視してしまうことに悲しさを覚えた。白いタオルに両手でお椀状の輪っかを作ってそれから掬い上げるようにタオルを掴んだ。水上には八方に広がるスカート、その上に左右に引っ張ったみたいな球。

 今、僕が持つことによってはっきりと浮くことができている。

 

 気泡がひとつ、またひとつと弾けていく。

 

 水の中にタオルを全て沈める。それから手をかざして一気に握った。泡が水を埋め尽くしていく。曖昧に形作られた水面に勢いよく無数のそれがぶつかっては消えを繰り返す。音が逆三角形に萎んでいく。

 記憶の中の笑い声が喚起する。さっきまで月にかかっていた雲はいつの間にか黄金色の丸を取り戻した。

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飛沫 須野 セツ @setsu_san3

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