空谷の跫音
藤崎珠里
その足音はしあわせを連れてくる
足音がした。聞こえるはずがない音だった。だからこれは、都合のいい幻聴でしかありえない。
ここにはわたししかいなくて、あとはただ、粗末な家と森があるだけ。食べることもせず、眠ることもせず、わたしは一人、ここにいた。
足音がする。
幻聴と認識してもなお聞こえるほどに、わたしは退屈だったらしい。相当だなぁ、と一人苦笑いを作ってみる。久しぶりの動きに、顔が引きつりそうになった。
足音がする。足音がする。
足音が――止まる。
無気力に、扉のほうに目をやる。どうせ何も起こらない。もう『今日』という感覚すらないけれど、それでもあえて今日という言葉を使うのなら、今日も二十四時間、きっと何も起こらないのだ。
そう、思っていた。
ドアノブが回る。
キー、と。また、聞こえるはずのない音が、確かに聞こえて。ドアが開く。光が差し込む。わたしの体が照らされて、そして。
* * *
「やあブラック、よく来たね! さっそくお茶を入れてくれたまえ」
いつものように俺がドアを開けると、ぱあっと顔を輝かせた少女がこちらを見る。若葉色の目が、嬉しそうに細まった。
彼女の動きに合わせて揺れるのは、目に痛いほどの真っ赤な長い髪。しかし人工的な印象は受けないし、彼女自身の言葉を信じるのならば、
「何キャラだよそれ」
「乗ってくれてもいいじゃんかー、けちブラック」
「めんどくさレッド」
「ゴロ悪くない!?」
可愛いレッドとか言ってくれてもいいのに、と文句を言いつつも、レッドは楽しそうだった。
レッド。ブラック。それが俺たちの互いの呼び名である。その由来は単純。レッドの髪が真っ赤で、俺の髪が真っ黒だったからだ。
『わたし、自分の名前って嫌いなんだよね。きみの好きなように呼んでよ』
そう言った彼女の本当の名前を俺は知らないし。
彼女も、俺の名前を知らない。
「もういいよー、自分で用意するもん」
拗ねたような口調で、レッドは両手を少し上げた。その指はカップの持ち手を持つように曲げられている。
瞬きのうちに、彼女の両手には二つのティーカップが現れていた。透き通った赤茶色の液体が、ちゃぷり、とほんの少しだけ揺れる。
「ほい、ブラックの。お砂糖はもう入ってるよ」
「サンキュ。……つーかどうせ、俺が用意するのもお前が用意すんのもおんなじじゃん」
「気分が違うんだよ気分が」
床も壁も天井も、すべて木目がそのまま見える小さな家。この家の外は森になっていて、けれどなんの生き物も住んでいない。
俺と彼女の出会いは、三ヶ月前。七月の、夏休みに入る直前のことだった。
不真面目な学生である俺はその日、授業をサボるために屋上に行こうとした。うちの高校は屋上がいつでも誰でも入れるようになっている……というのは過去の話であり、その約一ヶ月前に飛び降り自殺をしようとした生徒がいたらしく、施錠されるようになってしまった。
だから、ダメ元だったのだ。もし万が一ドアが開いたらそこでサボればいいし、開かなければいっそ学校から出てしまえばいい。
そんな『ダメ元』の結果。
ドアは開いた。びっくりするくらいあっけなく。
けれどドアの向こうの光景は、それ以上に驚愕するものだった。
屋上のドアを開けたら、どこかの家に繋がっていた――なんて、ファンタジーみたいな話だが、あいにくそのファンタジーは三ヶ月経った今でも続いている。
「今日は何かあったの?」
「別に、なんも」
「えー、つまんなぁい」
何もない小さな家に、こいつはあの日、一人膝を抱えて座っていた。
本当はあのとき、すぐにドアを閉めようとしたのだ。理解できない事実から、とりあえず逃避したかった。
しかしレッドと目が合った瞬間、逃げられなくなった。笑いたいのに笑えない、そんな顔で、こっちを向いたから。
呆然としている間に、何もなかったはずの空間にテーブルと二脚の椅子が出現していて、そのテーブルの上にはティーカップが載ったソーサーが二つ置かれていた。
『ねえきみ、紅茶は好き?』
立ち上がった彼女は、少し掠れた声でそう言った。
それからなぜか三ヶ月も、俺はここをほぼ毎日訪れているし、レッドは俺を適当にもてなす。わざわざ夏休みにも、だ。
特に何をするわけでもなく、ただ一緒にいた。喋ったり、彼女がどこからか取り出した(創り出した、かもしれない)ボードゲームやトランプで遊んだりすることもあったが、本当に何もしない日もあった。
不思議なことに、ここでどれだけ過ごしても、学校に戻ったときには授業一時間分ほどの時間しか経っていない。どんな原理なのかまったくわからないが、まあ、わからないままでいいや、という結論に達している。
わからないままにしておいたほうが、面白いことだってある。
これはたぶん、そういう類いのものだった。
「ブラックはさー、いつまでここに来てくれるのかな。っていうかいつまで授業サボりまくるの? 留年しない?」
「いつまでとか特に決めてねーよ。留年は……しないだろ、たぶん。むしろここに来るようになってからサボり減ったし」
「ふーん、じゃあ平気なのかね。知らんけど」
適当にうなずいて、レッドは少し温めに入れてある紅茶をごくごく飲み干す。もっと味わって飲めばいいのに、レッドはいつも一気飲みだ。
カップをソーサーの上に置いて、彼女は二人がけのソファに移動する。そこにぼふんと勢いよく横になって、「あー疲れたぁ」と情けない声を出した。
「お前なんもしてないだろ」
「してるしてる、この世界を維持してる」
「それってなんか力使ってんの?」
「わかんない。使ってんじゃない?」
この世界では、生物以外のものならなんでもレッドの思うがままだ。生物と呼べるものは俺とレッド、それからこの家の周りの森の木々くらい。
……世界、なのかどうかもよくわからないが。
森の外には、何も存在しない。文字通りの『無』だ。たぶん出ちゃ駄目なんだと思うよ、とレッドもよくわかっていない顔で言っていたから、俺たちはほとんどこの家を出ないようにしている。たまに気まぐれに、森の中を二人で散歩するくらいのことはしたが。
「……そういやさ、ここって俺以外には誰も来ないわけ?」
「ブラック以外? 来たことないよ」
「へー……。確かに屋上、今立ち入り禁止みたいになってっけど、にしたって誰か来てもおかしくないんだけどな」
「……屋上? 待って待って、きみ、屋上から来てたの!? 学校の?」
謎の食いつきだった。
そうだけど、と戸惑いながら答えれば、レッドは寝転がったままなんとも言えない顔でこちらを見てきた。
「……そんなとこから来ないでよ」
「そんなとこっつーか、そんなとこしかここと繋がってねぇんだけど」
「こう、もっと頑張ってさー、見つけてよ! ブラックならできる!」
「無茶ぶり。たぶん俺よりレッドが頑張ったほうが、不思議パワー的なあれでなんとかできそうな気がするけど」
「無理です。……そこが繋がっちゃってるなら、たぶん、そこ以外駄目なんだと思う」
ぱたぱた足を動かすレッド。
「……学校の屋上に、なんかあるわけ?」
レッドの足が止まった。
今までの会話で、こいつも元は俺と同じ世界にいたんだろうな、とは薄々感じていた。だって俺が普通に話して、通じない言葉がないに等しいのだ。学校の話もふんふんすんなり聞くし、有名な小説の話だとか芸能人の話だとか、そういう話にだってついてくる。
だから、この世界はファンタジーでも、こいつの存在だけはファンタジーではないのだと、そう感じていた。
「別に、なんも」
さっきの俺の真似のように言って、レッドは体を起こしてにんまりと口角を上げる。
「ね、ブラック、肝試ししない? わたし生き物は出せないけどさ、幽霊的なのだったらいける気がする!」
「うわ唐突。肝試しって季節じゃないだろ」
「えー、十月じゃん、ハロウィンじゃん? お化けの季節だよ!」
「まあ、レッドがやりたいなら付き合ってやらなくもないけど」
「ツンデレ~」
けらけら笑って、彼女はソファから立ち上がった。俺の手を無邪気に取って、「ほらしゅっぱーつ!」とドアを開けた。俺が開けると学校に繋がるそこは、レッドが開けると森に繋がるようになっている。
俺たちが立てる音以外になんの物音もしない森を、手を繋いだままゆっくり歩いていく。
「……風くらい吹いててもいいんじゃねーの?」
「あ、忘れてた。ナイスブラック」
途端、風が吹き始める。
レッドは何が楽しいのか、ふんふーんと調子っぱずれた鼻歌を歌っている。俺の耳と記憶が確かなら、俺たちが小さかった頃にテレビで放送されていた戦隊ものの曲だった。
俺が彼女について知っていることは少ない。……いや、それだと嘘になるか。三ヶ月もほぼ毎日会っているのだから、会話から窺い知れることだけでもたくさんある。
自分の名前が嫌いなこと。『家族』の話を避けたがること。こんなんでも一つ年上の先輩だということ。さみしがり屋で怖がりなこと。戦隊ものが昔から好きで、レッドとブラックという呼び名をすこぶる気に入ってくれていること。優しいくせに、「わたしが他人に優しいのは他人に優しくしてほしいからだよ」と引け目を感じていること。ボードゲーム、中でもオセロがくそ強いこと。ピアノが弾けること。カレーが好きで、一週間くらいなら余裕で朝昼晩食べきれるらしいこと。
ああうん、やっぱそれなりに多いな。思いつくことはまだまだあるが、もう一つだけ言うとしたら――俺のことを、結構好きでいてくれていること、だろうか。友達としてか恋愛対象としてか、それはわからないけれど。
「ねぇ、なんかひゅーどろーって感じの音しない!? もしかしてわたし、BGMとかまで自由自在なの!? ムダ能力!!」
ひゃー、と悲鳴を上げるレッドは、今更肝試しが怖くなってきたらしい。……でも確かに、そういう音はした。ムダ能力だな。
「ぶらっくぅぅ、森がざわざわしてる! あっ、なんか白い影が!」
「全部お前の妄想だろ」
「そうだけどぉぉ一緒に怖がってよぉぉぉ」
「はいはい、怖い怖い」
涙目になりながら、レッドは腕にぎゅうっとしがみついてくる。柔らかい感覚に、ちょっと変な気になった。レッドはかなり着痩せするタイプだ、と言えば伝わると思う。
ざわざわ揺れ出した木々に、どこからか聞こえてくる不気味な笑い声。時々視界の隅でちらちらする、白い光のようなもの。極めつけにBGMは恐怖感を煽る、無駄に荘厳で時折不快な音楽。
ここまで来れば立派な肝試し……というかもはやお化け屋敷だ。屋敷じゃないけど。
すべて自分が引き起こしていることだというのに、そのすべてに怖がるレッドがおかしくて、次第に笑えてきた。
「……何笑ってんのさー! バカブラック!」
「なんでも」
こいつが俺を、結構好きでいてくれるように。俺もこいつのことが、結構好きなのだ。友達としても、恋愛対象としても。
知っていることより知らないことのほうが当然多いし、そもそも名前さえ知らないが、それでも好きだった。
……まあ、わざわざ伝え合ったことはないので、好かれているというのが勘違いの可能性もゼロではない。
「肝試し飽きた! 帰る!」
「はいはい、帰ろう帰ろう」
拗ねていたはずのレッドの機嫌は、たったそれだけの言葉で浮上したようだった。あの何もない小さな家に『帰る』と言っただけで。
「……着いたら、俺はそろそろ
わざとそう続ければ、「そっか」とレッドは寂しそうに笑った。
ずっとここにいる、と。
そう言いたい気持ちはあるし、レッドもきっと、それを望んでいる。
けれど、レッドはこんな寂しい場所にずっといるべき奴ではないのだ。――ここから連れ出して、と言ってくれれば、すぐにでも連れ出すのに。そう望んでくれるのは一体いつになるのか、見当も付かなかった。
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