明日の黒板
楸白水
明日の黒板
それはまるで春の嵐のようだった。
姿形もなく、
三月某日。まだ肌寒い風が吹き付ける中、僕たちは旅立ちの日を迎えた。今日は晴れて良かったねとか、もう卒業なんだねとかいう感傷的な言葉が聞こえてくる。
別段僕は悲しみに暮れることはなかった。仲の良い奴の連絡先も手に入れているし、会いに行けないほど遠くの大学や会社に行く奴もいなかった。なので明日も今日の延長として続くわけだし、周りの皆みたいにぼろぼろ泣いて抱き合うほどの大きな感情の動きは生まれなかった。
「今日もまた、ここにいたんだね」
生徒はこぞって校門前にたむろしているせいか、校舎裏には誰もいなかった。
……彼女を除いて。
ここに咲く桜は彼女のお気に入りであり、桜が散ろうが雪が降ろうが暇があれば来ていたようだ。だから、今日も絶対ここに来ると思っていた。声をかけると、彼女はくすりと笑った。
「見納めにね」
彼女は桜を見上げたまま、ゆっくりと答えた。目に焼き付けているらしい。
「まだ少し時間ある?」
「ええ、まだお母さんの長話が止まらなくて帰れそうにないし」
くすくすと笑う彼女はどこか寂しそうでもあった。
「それは良かった。なら、少し教室で話をしない?」
「ここじゃ駄目?」
「外で話す内容じゃないなあ」
「……分かった。じゃあお母さんに言ってくるから、先に行っててもらえるかな」
「うん、待ってるよ」
平静を保ち踵を返す。柄にもなく、どくんと胸が高鳴った。
***
初めて彼女とあの桜に出逢ったのは入学式の直後だった。その時の僕は式が終わり、列を成した新入生の群れを抜け出しトイレに駆け込んだ後だった。入学早々粗相を免れたのは良いがその群れを見失ってしまったのだ。
半泣きになりながら辺りをさまよっていると、件の桜と彼女を偶然見つけた。
花弁と戯れる彼女はさながら非現実な世界の住人のようであり、不思議と目を奪われた。しかし今はそれどころではない。断ち切るように思いきり頭を振ってから、急いでその場を離れた。
後に彼女の名は春子といい、クラスメイトであることを知る。僕はあの後ほどなくして先生に回収された。
春子は意外と普通の女の子だった。女の子同士で集まっては騒ぎ、群れなして廊下や歩道を塞ぎ闊歩する女子特有の習性もあった。僕は少しがっかりしたのを覚えている。
再び桜と春子のセットを目撃したのは夏も始まるころだった。その時には桜はもう青々と元気に葉が生い茂っていた。
その姿は入学式の日と変わらない非現実な世界の住人だった。教室にいるときのような快活で騒がしい彼女とは別人のようだった。僕はまた興味を抱き、気がつけば話しかけていた。
「なんで一本だけ、離れて桜があるんだろうね」
そしてしばらく他愛ない会話をしたのだが、三年近く前のことなのであまり覚えていない。しかし最後に彼女が嬉しそうに語った内容だけは事細かに思い出せる。
それが、僕が彼女を意識するきっかけになったのだから。
「ここの桜はね、校門前のと違って全然手入れされてないらしいよ。面倒だからって」
マイナスな発言とは思えないほど、その顔は楽しそうにキラキラと輝いていた。
「でも私はその方が好き。人工的に小綺麗に整えられているより、ありのままの方が生き生きしてる感じがする」
「でも、ちょっと毛虫が多いなあ」
「綺麗なバラには棘がある。儚い桜にも毛虫はいる。そういうのなんて言うんだっけ、
「あ」
「あ!」
語るのに夢中だったせいで彼女は確認せずに木に寄りかかり、指に毛虫が触れてしまった。慌てて保健室に駆け込んだのは言うまでもない。
それ以来僕は彼女とよく話すようになった。
彼女は大勢の友達に囲まれて笑っているくせに、たまにその輪から自ら抜け出す。綺麗なファンタジーが好きなくせに、我に返るような事を言う。一人で桜の木の下で
彼女はロマンチストであり、現実主義者であった。相反する性質だが、両方あってこその彼女だと思う。ころころと変わる表情に、僕はいつしか目が離せなくなっていた。
***
「なあに、夏男君も寄せ書きするの?」
ぼうっと今までのことを思い出していたせいで、いつから彼女がこの教室にいたのか気付けなかった。驚いて振り返ると、満足したようなくすくす笑いをしている。
「僕はいいよ。君が書いたら?まだ黒板にスペースあるよ」
「私もいいや。どうせ消されちゃうものだし」
僕らは揃って黒板を眺めた。しばしの沈黙が流れる。しかし、それは決して苦しいものではない。僕らが積み上げてきた時間の分だけ、静かで穏やかな空気が流れている。
だから、一世一代決意して用意した言葉を、なんでもないようにさらりとこぼしてしまった。それが良いことか悪いことかは分からない。
「僕は、君がずっと好きだった」
「……そう」
「いつからかは分からないけど、多分ずっと」
ちらりと隣を盗み見ると、真剣な横顔があった。その内の感情までは読み取れない。
「大学近くなんだよね。これからも連絡取り合ってさ、またこうして会えないかな」
「……残念だなあ」
嬉しい顔をするのか、はたまた迷惑そうな顔をするのか。そう思っていた僕は戸惑う。
今にも泣きそうなほど、悲しみに満ちていた。
「ごめんね。それ、嘘なんだ」
「え?」
「本当は誰にも言わないつもりだったんだ。進路相談とか、先生には内緒にしてもらって、皆に見えちゃう進路表は全部嘘書いてた。」
「どういうこと……」
「ごめんね。夏男君」
やっと春子は僕の目を見た。その瞳は涙で滲んでいた。
「私、家族でアメリカに行くんだ。ずっとそこに住むつもりでいる」
頭を鈍器で殴られたかのように視界が揺らいで、一瞬焦点が合わなかった。ずっと近くにいると思っていたのに、信じられなかった。
「私、小さい時はあっちに住んでたらしいんだ。小さすぎて覚えてないけど」
以前聞いたことがあったような、なかったような、そんな曖昧な記憶しか僕にはなかった。
「父さんアメリカが好きだったみたいでさ、私が大きくなったら移住してみないかって言われてたんだ。何度も家族会議したよ。色々うまく行かないこともあるだろうけど、英語はちょっと自信あるし。正直海外も行ってみたかったしね」
……本当に、それだけだろうか?
早口で捲し立てる彼女にほんの少しの疑念を抱く。なんでもないように言っているように見えるが、本当はそうでない決意があるのかもしれない。皆に隠し続けて、皆に盛大に見送られることを避けたみたいに感じた。
しかし、僕にそれは問えなかった。無遠慮に責めて傷付けてしまうことが怖かった。代わりに別の質問をする。
「いつから行くの」
「明日、朝早くに」
そんな急な話があるか。口がいつの間にか半開きになっていたらしく、渇いて仕方がなかった。
「だからバイバイだ」
「待てよ!」
ひらりと僕の目の前を横切って去ろうとしたので、思わず大きな声で呼び止めてしまった。彼女は驚いて振り返ったその勢いで、溜まっていた涙が一筋決壊した。
「いつだって連絡できるじゃないか。時差とか色々あるだろうけど、今生の別れじゃないだろう」
「ううん、今生の別れだよ」
はっきりと告げる彼女の意思は固かった。
「私には、“いつか会おう”なんて不安定な約束だけで夏男君を縛り続ける覚悟はない。好きって言ってくれて嬉しかったけど」
「待つよ」
「待たないで。嬉しかったけど、応えられない」
「そんな……」
「大丈夫。夏男君は大学で、私も海の向こうで、新しい世界に染まっちゃうから。きっと今日の事は流れていくよ」
「流れるわけ、ないだろ」
「ばいばい夏男君。楽しかったよ」
「…っ、春子!」
再び叫ぶも、もう引き止めることはできなかった。
「……全部断ち切らなくたっていいじゃないか」
その後はどうやって帰ったのか覚えていない。気が付いたら日は暮れていて、布団に潜り込んでいた。
……はずなのだが、どういうことかまたこの教室に来てしまった。
卒業式のゴタゴタで不注意だったのかは分からないが、移動教室用の外扉の鍵が開いたままだった。なので容易に侵入することができてしまった。
数時間前、僕は一世一代の告白をして見事玉砕した。そんな痛ましい思い出の残る場所だが、同時にここは彼女と僕の日常がこれでもかというほど詰め込まれた場所でもある。あんなに当たり前にあった日常が、明日からはもう二度と繰り返すことはない。
明日は今日の延長ではない。痛感して、鼻の奥がつんとした。
僕はここに僕の想いを残しておこうと思った。どこかに葬ってしまいたい感情に駆られたのだ。
チョークを手に取る。僕は、たった一人のために言葉を
家に戻ってからも一睡もできなかった。僕はいつからこんなに繊細な人間になったのだろう。一人夜中に布団の中で考えることといったら自分の人生についての後悔しかない。ああすれば良かった、こうすれば良かったなどと堂々巡りをして夜が明けた。
そうして出した結論は、「やっぱり黒板の文字を消しに行こう」だった。
僕は昨夜、どこへも行けない気持ちをどうにかしたくてあんな行動に出た。しかし、僕の想いは僕の中だけにしまっておこうと思ったのだ。想いを呑み込むことで、痛みとして彼女を忘れないように。
人は感傷的になるとどうも詩人になっていけない。黒板の文字も誰に見られるか分からない。“忘れられない想いを、葬ることはできるだろうか”なんて思い出しただけで顔が熱くなる。妙な黒歴史を増やす前に僕は家を出た。
土曜日の朝は部活の活気のある声だけが響いている。今日は授業などないのだから教室は静かなものだ。昨夜のように罪悪感はないが、静かな雰囲気に呑まれて自然と忍び足になった。
三年の教室は昨日と変わらなかった。ただ、楽しげな飾りつけを残した無人の空間はなんだか祭りの後のような虚しさと寂しさを覚える。悲しい気持ちになりながら黒板の目の前に立ち、黒板消しを取ろうとして手が止まった。
“今ここで出逢えた運命なら、海を越えても想えたのに”
春子の字だった。ぞくりと背中が震えた。
「ばかだなあ、お互い」
自嘲するも、情けなく声が裏返ってしまった。朝早くに出発するのに、こんな所にもう一度来る奴があるか。
春子は期待したのだろうか、少しここで待ったのだろうか。一人で真夜中に黒板の前に立つ彼女を想像する。
夜中に学校に忍び込んで教室に行く、なんて普通なら考えつかない。それを思いつき、実行した偶然。それでも昨夜の数時間の内の間にすれ違うことすら叶わなかった僕らの運命なんてたかが知れている。そして未練がましくめそめそしていたくせに、妙に納得してしまった。
もしあの時もう一度会えていたら、彼女は“覚悟”ができたのだろうか。今となってはどうでも良いことだ。
僕は声を上げずに泣いた。さようなら、僕の初恋。
窓の外で飛行機が飛んでいる気がするが、生憎視界は涙で塞がれてよく見えない。海の先を目指しているであろうその音は、どの音よりも遠く聴こえた。
明日の黒板 楸白水 @hisagi-hakusui
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