スピンオフ 黒猫ボンベイ

増田朋美

スピンオフ 黒猫ボンベイ

黒猫ボンベイ

私は、猫である。なんて、立派な文豪が描いたセリフをそのまま引用することはできない。

たぶん、生物学的に言えば、私も猫である。クロネコという猫である。そうなんだけど、私を生んでくれた母も、一緒に生まれた姉妹も、皆真っすぐで美しい尾を持っている。しかし、私だけが、そうではない。私は、ほかの子よりも、尾が短く、右方向に曲がっているからである。つまり、尾曲猫というわけなのだ。最近は鍵しっぽなんてかわいい言い方をしてくれる人間もいるようであるが、やっぱり、猫である以上、美しくて長いしっぽを持っていたほうが、人間たちはかわいいと思ってくれるんだということは疑いなかった。それに、私は真っ黒なので、トラ猫などの特徴的な毛並みがあるわけでもないから、どうしてもこの曲がった尾が、目立ってしまうという特徴がある。つまるところ、ごまかしがきかない。

飼い主さんは、私たち姉妹がある程度大きくなったら、親戚で猫をほしがっている人にあげようと計画していたようであり、私たちは生まれて数か月後、上の姉から順番に、別の家に引き取られて行った。母は、自分もそうやって育ってきているので、なんとも抵抗なく、姉たちをほかの人間たちに渡した。もちろん、一年間丹精込めて育ててきた娘たちを、別の人間のもとへやるというのは、なんとも悲しいことであるが、飼い猫なので、それが当たり前なのである。

まず、長姉が、飼い主さんの親戚の家に引き取られて行った。比較的のんきでおとなしい性格の彼女は、高齢ご夫婦が相手でも十分やっていけた。よく、あまり活発ではないことを母は心配していたが、新しい飼い主さんも年を取っているようなので、そのほうがいいだろう。

年を取って、あまり外へ出ることは少ないだろうし、たぶん、いるだけで心いやすとかそういう目的なので、比較的おとなしい長姉は、90歳近い高齢夫婦のもとへ引き取られて行った。

次に、次姉が、新しい飼い主さんのもとに引き取られた。特に飼い主さんと血縁というわけではなかったが、なんでも飼い主さんがインターネットで募集した投稿を拝見したと言って、やってきたのだ。まあ、時代だから、こういうこともあるだろう。それに、新しい飼い主さんは、小さな子供さんがいて、普段はご両親は仕事に行ってしまい、子供さんが独りぼっちになってしまうので、寂しがっているから、相手がほしいという理由で申し入れたそうだ。まあ、クロネコは人懐っこいし、甘えん坊で社交的なのでお勧めですよ、なんて飼い主さんも解説し、次姉はそのお宅に引きとられた。たぶん、長姉と違って、結構活発で、良く動くタイプなので、子供さんの相手もしっかりできると、私も確信した。たぶん、子供さんのよき遊び相手として、次姉はうまくやるだろう。

残るは私と、末の妹のみになったが、妹は猫としてはちょっと気が弱くて臆病なところがあり、人間に警戒心を持ってしまうせいか、あまり引き取り手が現れなかったようだ。そして、尾曲猫の私は、美しくないというところから、誰も、目を向けてくれるということはしなかった。

飼い主さんは、全部の子猫を処分してしまおうという考え方はないようで、もし、引き取り手がなかったら、うちにそのままいてくれていいよなんて親切に言ってくれる。けれど、姉たちが選別されたときに、やっぱりクロちゃんはきれいとか、つやがあって上品とか、そういう容姿的なことを、新しい飼い主さんたちが、散々に口走ったため、猫としてはやっぱり、私はダメなんだなと、思わざるを得ない。今は、飼い猫と言っても、いろんな種類の猫が飼育されている時代であり、単なる三毛猫とかそういう毛並みでは、人気を得られず、ペットショップなどでも、あまり販売されないと母が言っていた。母は、ペットショップを経験してからこのお宅に来たようだが、もう、アメリカンショートヘアとか、ペルシャ猫とか、ロシアンブルー、中には珍しい品種である、スフィンクスという猫もいて、動物園のようだったわよ、なんて言っていた。それだけ、人間たちはいろんな種類の猫を求めてくるようだから、単なる真っ黒というようじゃ駄目ね。なんて愚痴を漏らしたこともある。

しばらく、私たちは、母と私、そして末の妹と三匹で暮らしたが、とうとう私にとっては衝撃的なことが起こった。

それは突然の電話がかかってきたことによる。飼い主さんが偶然お宅に招き入れた、彼女の勤め先の、会社社長によるものだった。なんとも、うちの妻が猫を飼いたいようなので、お宅の猫を一匹譲ってくださらんか、という内容だった。つまらない黒猫ですが、なんて飼い主さんは恐縮していたが、いやいや、ボンベイを飼っているなんて、日本では希少ですよ、ぜひ、うちの家族として、迎えてやりたいです、なんて、社長さんは笑っている。私は、そこで初めて自身がボンベイという種族名を持っていることに気が付いた。基本的に、私たち猫の側から見れば、種族名なんてどうでもいい話であり、変なカタカタ名で呼ばれるよりも、単に「黒猫」と呼ばれたほうが、よほどいいのであった。と、いうのは、母がペットショップにいたときに、シャムネコは声がでかいので嫌だとか、ロシアンブルーは比較的おとなしくて飼いやすいそうだが、と切り出してくる客が多く、名前で性格は判断できるもんじゃないのに、人間はそういう目で見ちゃうから嫌なのよ。と語っていた思い出があることによる。

すぐに、この電話を受けた後、飼い主さんたちは、家族で話し合いを始めた。議題はもちろん、社長にどの猫を譲るかということである。もちろん、満場一致で妹が選ばれることは確実であった。尾曲猫の私は、カッコ悪いとされて、社長にあげるには失礼になるだろうと、言われることはまちがいない。

妹は、人間って怖いわ、と母に言ったこともあったが、大丈夫、ああいうお金持ちのひとは、すくなくとも、乱暴に扱うことはしないわよ、なんて母は優しく慰めていたのであった。

あーあ、結局、私だけが、誰にも引き取られることなく、ここのお宅で一生を過ごすことになるのか。母はもちろん、飼い猫として大切に世話してもらえるだろうが、私はどうなるんだろう。尾曲猫として、なんてカッコ悪い猫だろう、と悪童にからかわれる可能性もあるし、捨てられてしまうのだろうか。基本的に飼い猫というのは、どこかの家に住んでいることが基本だし、自立をしないでいつまでも母と一緒に住んでいることは、ちょっと甘えてるわね、なんてからかうほかの猫も少なくない。私は、どうせダメな人生しか送れないのかな。それでは嫌だな、と思う。たぶん妹は、社長さんにもらわれて、幸せな人生が送れるだろう。でも、私は、尾曲猫として、つまり、格好悪い猫として、一生を過ごさなければならないのだ。もう、妹のためにも、母のためにも、飼い主さんのためにも、私はいるべきではないな、と確信した私は、この家から出ていくことを決めた。つまり野良猫である。もう、どうでもいいから、出ていこう。私は、猫も人間もねしずまった真夜中にこっそり起きだし、開けっ放しの風呂場の窓から脱走し、家を出ていったのであった。

と言っても、私は、世の中を知らな過ぎた。今まで飼い主さんの家の床と、その庭くらいしか歩いたことがなく、アスファルトというものは、硬くて歩きづらいものであった。ときに、割れたガラスが落ちているところを歩かなければならない時もあり、足の裏に割れたガラスが刺さった。人間のように靴を履いているわけではないので、文字通り、痛かった。それに、どろどろの水たまりの中を無理やり歩くことも強いられた。本当に、ぬかるみは気持ち悪くて、たまらなく苦痛だった。もう、できることなら、道路ではなくて、柔らかな土の上を歩きたいと何度も思ったが、人間社会ではそういうエリアは用意されていない。

急に、後方からブーンという音がした。大型バイクが走ってきたのだ。これに刎ねられたらもう、ひとたまりもない。私はとっさに道ばたにある土塀の割れ目の中に飛び込んだ。

幸い、大型バイクは通り過ぎてくれたが、どうしても塀の外へ戻る気にはなれなかった。さらに割れ目の中を進んでみると、急に開けたところに出て、足の下がふんわりした感触になった。ここは道路ではないようである。しばらく進むと、真っ暗なのではっきりわからないけれど、じゃらじゃらじゃらと流れる水の音、そして、それに呼応するかのように決まった感覚でカーン、カーンと竹の音が聞こえてくる。はじめて聞く音だったけど、きまった感覚で、さわやかな音が聞こえてきたので、なんとも気持ちよくなってしまう。もうしばらく、この場所を歩いてみると、ちょうど寝るのによさそうな岩のようなものがあった。もう、疲れ切ってしまったので、ちょうどいい、ここで寝させてもらおう。私は岩に飛び乗り、何の迷いもなく、横になって寝た。

どれくらい時間がたったか不明だが、いきなり人間のでかい声が聞こえてきたので目が覚めた。

「よう、今日もいい天気だな。昨日家で大根を煮たんだが、作りすぎたから持ってきた。具合どう?」

はっと目を開けると、同時にふすまをよいしょと開ける音がして、車輪のついた椅子のようなものに座った人間の男性と目が合った。同時に、ふすまの向こう側から、誠にきれいな人、そう、つまり猫の私から見てもほれぼれしてしまいそうな、そういう顔をした人が現れて、座布団に座った。思わず、私もぼんやりしてしまう。ここまで綺麗な人が、人間の男性にもいたとは、信じられない、、、。

「あ、野良猫だ。池の鯉でもねらってきたのかな。こら、出てけ!野良猫!」

初めに目のあった、人間の男性が、そんなことを言った。私は、ヒヤッと全身が冷たくなってしまったが、

「野良猫?でもなさそうだけど。あれはボンベイだ。ただのクロネコとは違うよ、その証拠に、目が金だもの。ほかのクロネコは大体目が緑であることが多い。」

と、きれいな人がそう解説する。

「ボンベイってなんだ?人の名前か?」

「人じゃなくて、インドの都市の名前。クロヒョウがよく住んでいるといわれるボンベイから名前が付いたんだよ。もともと、クロヒョウのミニチュアとして製作された飼い猫だから。」

そうなんだ。じゃあ、私のモデルはクロヒョウであったのか。でも、クロヒョウほど強くはないな。

「しかし、池の鯉でも狙われたんじゃ大変だ。とにかく追い出そう。」

「いや、やめたほうがいいよ。たぶん、池の鯉を狙うような野良猫ではないと思う。それにまだ子猫だし、ボンベイといえば、不人気な猫として有名で、日本で飼育されることは非常にまれだから、よほどのことがない限り、野良猫となることはないと思う。」

「じゃあ、なんだ?誰かが庭にでも猫を捨てていったんかな?」

「いや、少なくとも、昨日一晩で、不審人物が入ってきたような音はしなかった。昨日、頭が痛くてずっと起きていたんだけどさ、そんな気配はなかったよ。」

「え、じゃあずっと起きてたの?」

「ごめん。最近頭痛が多くてさ、一晩寝られないことはしょっちゅうあるんだよね。」

綺麗な人なのに、辛そうな顔して、、、。猫の私にもそれがわかる。むしろ、きれいな人のほうが、人間の表情というのは読み取りやすい。不細工な、ぼんやりとした顔で、餌なんか出されても、受け取りにくい。

「じゃあ、どうして来たんだろ?犬みたいに、散歩していてコースを間違えたというわけでもないよね。てか、猫は散歩するわけないよな。じゃあ、どっかの家から脱走でもしてきたのか。」

「まあ、それが一番近いと思うよ。とにかく飼い主は、たぶん今頃心配して探していると思うから、ここで待たせてやろう。」

二人はそんな事を言い合っている。私も、一人の人は、結構乱暴な口調であるとは思ったが、もう一人のあのきれいな人がとても親切な感じなので、そこに残ってしまう。

「おい、クロヒョウ、いやボンベイ、こっち来い。」

と、一人の人がそういった。

「杉ちゃん、そんな言い方はよしな。そんな乱暴ないい方したら怖がるよ。こっちおいで。」

となりのきれいな人が、ずいぶん優しい声でそういったため、私は恐る恐る彼に近づいてみる。

「いいなあ、猫もイケメンがわかるんだねえ。やっぱり、動物も、水穂さんみたいなイケメンが好きなんかね。」

私としてみれば、その乱暴な言い方が怖いだけで、特に人選びをしているというわけではないのだが、、、。

「あ、この子、尾曲がりだね。真っ黒ちゃんだから、よく目立つね。」

杉ちゃんという人がそういうので、思わずギクッとしてしまう。それだけは口にしないでほしい言葉なのに!

「ま、気にするな。猫またにはならないからな。それに、君は雄じゃないし。」

猫またというのは、年を取った雄猫が妖怪と化したもののことであった。もちろん、私はそんなことは迷信だと思っている。人間が勝手に、そうなるという迷信を、まき散らしているだけだから。

「こっち来な。いいもの出してやる。」

杉ちゃんが、急に車いすのポケットから何か出して、私の目の前に置いた。何だと思ったら、大根の煮物。おいしそうなにおいが充満して、もうたまらない。昨日から何も食べていなかったから、私は迷わずに大根にかぶりついた。

「すごい勢いで食べるね。」

「ま、猫も腹が減るさ。何も食べさせてもらってなかったんか。もしかしたら、尾曲がりであったせいで、いじめでもされていたんかな?」

杉ちゃんのいうように、ほかの姉たちや妹に直接いじめられたという記憶はないけれど、私は尾曲がりである以上、やっぱり飼い主さんたちにとっては、近寄りがたい印象になっていたのかということは認めていた。よく、姉や妹と一緒に並んでいると、あら、子猫ちゃんたち、一匹だけ尾曲がり?カッコ悪いわねえ。なんて、お客さんに言われて、飼い主さんが申し訳なさそうというか、恥ずかしそうにしていたのを記憶している。そうなると、私は、やっぱり嫌われた存在だったのかなと思う。

「なんか、このままだと、大根全部食べちゃうんじゃないか?」

杉ちゃんはそういうが、

「いいよ、このまま食べさせてやろう。」

水穂さんがそういって、背中を撫でてくれた。やっぱり飼い猫である以上、誰かに体を撫でてもらうのは、うれしいことである。そして、私を尾曲がりとして、変な顔をしないのが何よりもうれしいと思った。それに、この大根の煮物はおいしかった。杉ちゃんという人が調理したのかな。時々私も、飼い主さんの食事の残り物をもらったことがあるが、それよりもずっと、うまかった。

数分で、そのたっぱに入っていた大根の煮物はなくなってしまった。いい気持ちになった私は、思いっきり感謝の意を示したくて、水穂さんにすり寄って、その膝の上に乗った。意外にも、正座という座り方は、意外に乗りやすいものだった。それに、洋服ではなく、浴衣を身に着けていることも、乗りやすいものである。洋服と違って、二本の足の間に隙間ができることがないからである。杉ちゃんが重くないかと言っていたが、そんなことはないよ、猫というのはこういう動物だからね、なんて水穂さんは笑って返してくれたのさらにうれしくなる。時々背中を撫でてくれたりして、本当にうれしい。せめて、その手が冷たくなかったら、さらにうれしいけど、ぜいたくは言えない。もう、この人の膝の上で眠れるほど、幸せなことはない。水穂さんに時折背中をたたいてもらうなどしながら、ゴロゴロとのどを鳴らして、私も挨拶し、うまれてきてよかったと思いながら、私は眠ってしまった。二人はさらに、馬鹿話というものを続けていたようだが、それはなんだか子守歌のように聞こえて、これ以上、至福のひと時はないような気がした。

突然、大きな雷が鳴った。というか鳴ったと思った。天気が急変したのかな?と私が考えている間に、バケツをひっくり返したような雨が降ってきた。しかし、雨にしてはおかしいのだ、、、。雨となれば、もうちょっとさらさらしているはずだけど、この雨はどろりとしていて、なぜか魚のようなにおいがしたのである。

「おい、しっかりしてよ!ほんとに君という人は!」

杉ちゃんが、水穂さんの背中をたたいて何かしているのが見える。

「おい、猫をどかせろ。クロネコが、赤猫になってしまうぞ!」

何回か頷いて、水穂さんが私をパンと払いのけた。でも私は猫だから、自分の背中を見ることはできない。もちろん、人間にもできないけれど、、、。次の瞬間、頭上から赤い液体が流れてきたので、私も、思わずぞっとする。

「ちょっと待ってな。いいか、動いちゃだめだぞ。確かテーブルの上にあったよね。」

杉ちゃんは、今一度ふすまの中に戻った。数分後、彼は一本の水筒と、粉薬をもって戻ってくる。せき込みながら水穂さんはそれを受け取って、がぶ飲みするようにそれを水筒の水で飲みこんだ。そして、放り投げるように水筒を置いてさらにせき込む。これを繰り返した。でも、数分後、咳の数は次第に減少して、しばらくしてストップした。

「ごめんね。子猫ちゃん。」

水穂さんは私に向かってそんなことを言った。でも、もう、撫でてはくれなかった。その手には、大量の血液が付着していて、それで私を撫でたら、また私が赤猫に近づいてしまうからだ。

「杉ちゃんさ、悪いけど机の上の財布からお金出して、恵子さんに、ペットショップで猫のシャンプー買ってきてもらうように言って。」

「猫のシャンプー?人間ので何とかならんのか?」

「よしたほうがいいよ。この子は、そこいらにいる子とはまた違う。もしかしたら血統書がある猫かもしれない。そういう子なんだから、一般的な手入れでは間に合わない。今は、ペットブームともいうし、子供以上に大切にされている猫もいる。そういうことも考えて、しっかり弁償したほうがいい。」

「わかったよ。水穂さんはとにかく横になって寝ろ。」

杉ちゃんは、その通りに机の上に置いてあった、財布を取って、一度部屋を出ていった。一方、のこった水穂さんは、縁側の床の上に落ちた血液をぞうきんでふき取る作業をした。薬のおかげでせき込むことはなかったが、本当に辛そうだった。そういうことをしなければ、いけないことになっているのが製鉄所の掟になっているなんて、私は知る由もないけれど、もしかしたら、ちょっと厳しすぎると思われるかもしれない。でも、そういうことになっている。人間であれば、なんか文句でもいえたかな、なんて思うけど、、、。

水穂さんは、時折、手を止めて咳をしながら、でも、ぞうきんで床を拭く作業を続ける。もう、つかれてどうしようもないのではないかとおもったが、何とか掃除を完了し、ぞうきんを片付けて、再び部屋に戻り、倒れるように布団に横になって寝た。私は、どうすることもできなくて、ただ、そのそばに座っているしかできなかった。それが本当に、やるせなくて、どうしようもなくて、悲しい気持ちでいっぱいだったけど、猫の私には、できることなんて何もないから、、、。私は、ただ、水穂さんの手をなめてやった。間違いなく猫舌で。

ふいに、私はその体を強い手でぐいと持ち上げられる。そして、金盥の中にドボンとつけられて、水をざばっとかけられた。そして、大きな手でごしごしと私の体を洗い始めた。私を洗った泡が、赤くなったため、私は、私の体に何が付いたのか、知ることになった。

「まあ、いろんなものを洗ってきたが、猫を洗濯したのは、生まれて初めてだ。まあ、おとなしい猫ちゃんで本当に良かったよ。」

私を洗ってくれたのは、杉三さんだ。水穂さんも、それを聞きつけて目を覚まし、

「杉ちゃん、あんまり乱暴に扱わないでくれよ。猫なんだから、生き物であって、洗濯物とは違うんだからね。」

と、いいながら布団に座った。

「なんだ、もっと寝ててもよかったのに。」

「いや、もういい。それより、さっきはごめん。申し訳なかった。」

「ごめんっていうのは、僕じゃなくて、この猫ちゃんだろ。」

「言葉が通じればいいのにね。」

水穂さんはちょっと悲しそうな顔をして、私を見てくれたのが印象的であった。実際問題、私はたらいで体を洗ってもらっていたけれど、乱暴なことは一切なく、むしろマッサージを受けているようで、気持ちいいくらいだったのである。

「ようし、きれいになったね。ドライヤーで乾かそう。」

杉ちゃんは、たらいから私を出して、まずタオルで体をごしごしと拭いた。私は、胴震いをしたが、もう、赤いものはでなかった。そのあと、ドライヤーで体を乾かしてくれた。けたたましい音だったけど、非常に早く乾いた。人間は、こういう道具を使ってものを乾かしているのか。なんだか、この道具は自然に乾くのが当たり前だった私にとっては、ずいぶん不思議なものだけど、人間は早いのが好きらしい。

体が乾くと、私はほかのことはどうでもよくなる。猫はそういうものである。でも、人間はそうではない。

私は、もう一度水穂さんのもとへ駆け寄るけど、もう撫でてはくれなかった。理由なんてわからないし、人間の言語を理解しているわけでもないから、ただ、見つめるしかできなかった。水穂さんも、わかってくれたらしい。

「ごめんね。」

ただ一度だけ言った。

もう、そういうことなんだな。

私は、もうなんとなくわかった。

私の、、、なんていうのかな、思いは終わるんだ。

そういうことだ。

きっとそういうことだ。

「おい、尾曲りボンベイ、また何か食べるかい。」

と、杉三さんが言う。正直なところ、食べ物なんて、あれだけたくさんの大根を食べたから、当分口にしたくない。

「尾曲ボンベイ、じゃあ、何かして遊ぼうか。なあ、この庭に猫じゃらしって、生えてなかったか。」

杉三さんが庭を見ても、猫じゃらしは一本も生えていない。

「あ、ごめん。この前庭師の人が、庭の剪定に来たばかりだった。猫じゃらしなんて、刈り取ってしまったと思う。」

水穂さんがそういうように、庭はきれいに剪定され、余分な草も何も一本も生えていない状態である。

「なんか代わりになるものないかな。」

と、杉三さんは言ったが何もない。

「あるとしたら、手拭いと、水筒と、それくらいしかないな、、、。」

「そうだよね。手拭いが、猫を遊ばせる道具にはならん。」

猫の私としたら、そんなことどうでもいい。とにかく、私は、この人のそばにいたいの。それだけでいい。できればもう一回体を撫でてほしいけど、それはできないって、頭ではわかっていても、でもやってほしいという気持ちはどうしても抜けられない。

だって、私を、尾曲として、見ないでくれたのは、初めてだったもの。

それだけ、大切だったのよ。

私が、一番つらいと思っていたコンプレックスを、あなたは一度も口にしないでくれたのよ。

それほど、うれしいものはないでしょ。

わかるでしょ。

あなたのような人なら、、、。

私は、もう一回、体を摺り寄せた。

でも、やっぱり撫でてはくれなかった。

「もう、こうなったらもう一回ペットショップに行って、なんか買ってきたほうがいいのかな。」

杉三さんはそういうことを言う。

違う、私はものじゃないわ。そんな余分なものはいらないの。ただ、そばにいたいのよ。それだけなの。ねえ、お願い、わかって。私の気持ちわかって!

「にゃん。」

口を注いで出たのは、その音だけだった。日本語でも英語でもなんでもなかった。

つまり、私は、やっぱり猫に過ぎないのか。これだけの思いを考えても、口の中からでてくるのは、おそらくにゃん、だろう。

でも、にゃんの三文字では、私が伝えたい思いなんて何も伝わらないよね。

人間は耳で聞くことはできても、その意味は分からないもんね。

私が、悲しい気持ちにふけっていると、正面玄関がガラガラと開く音がする。

「あ、あの、突然押しかけてしまって申し訳ありません。私、この近くに住んでいる、佐藤というものです。実は、昨日から、私たちが飼っている猫のミーちゃんが、行方不明になってしまって、一生懸命探しているのですが、もしかしたら、お宅にいませんか?もしかしたら、誰かのお宅の庭にでも入ってしまったのではないかと、思いまして、、、。」

中年の女性の声が聞こえてきた。

「はあ、猫と言っても色々いますが、どんな猫なんでしょう。それを言っていただかないとこちらではなんとも。ペルシャ猫とか、アビシニアンとか、色々いるでしょう?」

とりあえず、青柳教授がそう応対している声も聞こえてくる。

「あ、はい。ボンベイという種類なんです。日本では割と見かけない猫なんですが、とにかく漆黒の毛並みをしていて、黄色い目をしているんです。たまたまペットショップに在庫があったので買ってしまったのですが、、、。」

「へえ、珍しい猫ですね。日本も豊かな国になってしまったものだ。あの猫は確か、アメリカ以外では、飼育数はワーストを更新しているようですが、日本でも飼われるようになったわけですか。そんなことはさておき、その猫の特徴を教えていただけないでしょうか?大柄であるとか、太っているとか、いろいろあるじゃないですか。」

「え、ええ、、、。そうですね、、、。身体的な特徴といっても、、、ただ真っ黒であるだけしか言いようがないのですが、、、。あ、そうだ、しいて上げるなら、鍵しっぽなんです。しっぽが短くて曲がっている、、、。」

口ごもって特徴を上げようとしている。確かに、真っ黒であるだけで、ほかに何もない。私たちは、そういう猫である。たぶんほかの人に、クロヒョウの話をしても、わからないだろう。

「飼い主さんが来たよ。もう家におかえり。」

水穂さんが私のほうを向いて、そっと私の頭をなでてくれた。

「にゃん。」

出たのは、この三文字だけであったが、わかってくれただろうか。

「もういきな。」

杉ちゃんがそういったので、私も、もう行くべきだとおもった。

「こっちへ行けば、玄関へ行けるから。」

水穂さんが、私を廊下へ出した。やっぱり冷たい手であったが、もう、冷たくはないと確信することができた。私は、一度だけ振り向いて、玄関へ向かって歩き出した。

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スピンオフ 黒猫ボンベイ 増田朋美 @masubuchi4996

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