1983の異星人

草香祭

全話


 空はどこまでも濃く青く、群青色の海との境には小島がぽつりぽつりと浮かんでいる。

 何も無い島だ。久志はその頃、自分の故郷のことをそう思っていた。

 実際その島には、目立つ観光地があるわけでもなく、目立つ産業があるわけでもない。キャンプ場はあったから夏場にはいくらかの観光客が来たが、それもさしたる人数ではなく、盆暮れの帰省客の方が余程多いくらいだ。

 店も無い。農協が経営している小さなスーパーが殆ど唯一の店らしい店で、あとは学校前の駄菓子屋と文具店、個人経営の小さな店が点在しているだけ。

 島でまかなえない買い物があるときは、船持ちの家なら船を出す。そうでないなら日に三便の定期船に乗り、近くの大きな島にあるH市に向かう。そうなると買い物は殆ど一日がかりの仕事になった。

 とは言えH市も久志の住む島に毛が生えた程度の田舎だ。店の数や種類は増えて、一通りの物は買えるが、デパートなどがある訳ではない。

 だから本格的に買い物がしたかったら、定期船で駅のあるT町まで行って、電車に二時間近く揺られ、S市まで出なければならない。

 S市に行けば何でもあった。大きなデパートに美術館にゲームセンター。漫画がたくさん置いてある書店。それに映画館。


「久志はまーだ泣きよっとね」

「うるさか。姉ちゃんも泣きよったい! 僕ひとりじゃなかっ!」

 久志が目を擦りながら言い返すと、三つ上の姉の秀美は、偉そうに胸を張った。

「姉ちゃんはもう泣きよらんもん。映画館ば出てまで泣きよっとは、久志だけじゃなかね」

 映画館前の公園は、上映が終って出てきた人たちが三々五々に群れ集っている。泣き腫らした赤い眼をした人もいたけれど、確かに泣き続けている者の姿は見当たらなかった。

 久志は悔しくなって余計に目をごしごし擦る。

「そげん擦りよったら、目の痛うなるよ」

 水飲み場で濡らしてきたハンカチを手に戻ってきた母が、苦笑した。

「ほら。こいば当てて、少し冷やしたら腫れの引くけん」

「……あいがと」

 受け取ったハンカチを目に当てると、ひんやりして気持ちが良い。口からほうっと溜息が漏れた。母は久志の隣に腰を下ろし、清々しい顔で天を仰いでいる。

「よか映画やったねえ。男ん子と宇宙人の別れるシーンは、お母ちゃんも泣いたよ」

 知っている。隣の席で母が目元を拭っていたことに、久志も気付いていた。もっとも久志は、その頃にはしゃくり上げる勢いで泣いてしまっていて、字幕を追うのも大変なくらいだったが。

「外国の映画やら久し振りに見たけど、あの宇宙人も本物のごたった。自転車が空ば飛ぶシーンもほんなこつ飛びよるごたったし、最近の映画はすごかねえ……」

「SFXって言うとって。ハリウッド映画はすごかとよ」

「なんで姉ちゃんがそげん威張ると。自分の作った映画でもなかとにさ」

「久志、あんたうるさかよ!」

 飛んできた拳骨を避けようと、舌を出して身体をひねったところで、久志は自分を見ている人がいることに気付いた。少し離れて置かれた隣のベンチに座った子供が、くすくすと笑っている。幼稚なことをしていた自分が急に恥ずかしくなった。

 久志と同じくらいの年頃だった。背後にそびえる小さなビルの上、白雲を浮かべて腫れた冬空と同じ色のセーターを着ている。手には久志と同じく女物のハンカチを握って、潤んだ目元を赤く腫らしていた。

 可愛い顔立ちをしていた。久志より長めの髪がふわりと頬にかかっていて、一瞬、女の子かと思ったが、半ズボンを穿いているから男の子なのだろう。少年は久志と目が合うと、少し含羞んだ笑みを浮かべた。

「あらぁ。良かったねぇ。お仲間がいたじゃない」

 少年の隣にいた母親らしき女性が、明るい声を上げる。

「この子も泣き止まなくて、困っちゃって」

「まあ、うちもですよ。男の子ですけど泣き虫で」

 知らない人に話しかけられたせいか、返す母の声は少し上擦って、訛りが消えていた。

「でもお陰様で、泣きやんでくれて助かったわ。――そろそろ行けるね、めぐ」

「うん、お母さん」

 母親は身軽に立ち上がった。 ウェストを細く絞った花柄のワンピースが、それ自体が花に変じたようにふわりと翻る。

「じゃあ、失礼します」

 愛想良く会釈して立ち去る母親の後を少年が追い掛けていく。去り際にほんの少し久志を見て、もう一度にこりと笑った。

 三人で何となく無言のまま、立ち去る親子の姿を見送る。雑踏の中に完全に姿が消えて、母は何故か溜息を落とした。

「美人さんやったねえ」

「お母さんもあげん格好ばしてみれば?」

 秀美の言葉に、母は首を横に振る。

「なんば言いよっとね。お母さんにあげんか服、似合う訳のなかでしょ」

 母はひっつめ髪の後れ毛をそっと掻き上げると、立ち上がった。

「ほらそれよか、うちらもそろそろ行かんと。デパートのレストランでパフェば食べるって、お姉ちゃん、言うとらんかった?」

「そうやった! ほら久志、あんたもさっさと立って!」

 久志も慌てて立ち上がる。急いでパフェを食べて三時の電車に乗らないと、最終の連絡船に間に合わなくなってしまうのだ。

 急ぎ足に公園を横切りながら、久志は少年と母親が消えた方向を振り返る。だが行き交う人々の群れの中に、空色のセーターは見当たらなかった。


 その日、映画を見に行ったのは骨休めだった。

 祖母が八十二歳で往生を遂げ、四十九日が終ったばかりだったのだ。

 島の葬式は何かと面倒だ。ひっきりなしに来客があるし、四十九日までの間、七日に一度は為すべき決まり事が細々とある。女は葬式の裏方を仕切らなければならないから、このところずっと母は方々を走り回っていた。

 家には常に誰かが訪ねて来ていた。大半は近所の男衆で、昼日中から料理をつまみながら酒ばかり飲んでいる。その世話をするのも母の役目で、父は客と一緒になって、ずっと赤い顔をしてくだを巻いていた。

「女は損よな。男ばっかり楽ばしてさ」

「秀美!」

 台所で洗い物をしながら愚痴をこぼす秀美を、母は小声で窘める。

「仕方んなかったい。昔からこの辺りでは、そういうものやって決まっとるとやけん。その分、男ん人は力仕事ばしてくれとるじゃなかね」

「力仕事の終ったら、飲んだくれとるだけやん」

「そりゃあ大変かけど、隣のおばちゃんも里中のおばちゃんも、手伝いに来てくれとるやろもん」

「そうかもしれんけどさあ……」

 実際、久志も少し不思議だった。家を訪れる人たちは、見知った近隣の住人も多いが、一度も会ったことのない遠い遠い親戚もたくさんいて、涙を流す者は殆どいない。

 まるで誰もがここを我が家のように扱って、居間でくつろぎながらテレビのプロレス中継を見て刺身をつつき、酒ばかり呑んでいる。男連中は特にそうで、彼らが一体何をしに来ているのか、久志には理解出来なかった。

「婆ちゃんもなあ、秀美ちゃんやひさちゃん達に金のかかるごとなる前に死んだとやろ。孫孝行たい」

 中にはそんなことをしたり顔で言う者もいて、それが尚のこと嫌だ。

 祖母は誰にでも優しかったし、みんなに好かれていた。どこそこの嫁姑がいびりあってなんて話は、小学生の久志の耳にもちらほらと入ってくるけれど、この家ではそんなこともなく、母と祖母は実の親子のように仲が良かった。

 だから久志も秀美も母も、祖母のことが好きだった。静かに死を悼みたくとも、葬式はとにかく慌ただしいし、人が大勢来るのは鬱陶しい。

 夜、客がすべて帰り、父がこたつで大の字になって眠ってしまった後でそうこぼした久志に、母は肩を竦めて笑った。

「でもなあ、それで良かとかもしれんよ」

「なんで? 誰も婆ちゃんの死んだこと悲しかって思っとらんやん。おいはそがんと嫌ばい」

「ほんとは悲しかとよ。でも婆ちゃんも年やったし、みんなもそろそろかもしれんって、覚悟しとっただけとよ。大往生やったけん、苦しまんで良かったって思うとるとやろ」

 そんなものなのだろうか。少なくとも祖母の死は久志にとっては突然のことで、覚悟なんか少しも出来てはいなかった。

「……それに、忙しか方がお母ちゃんも気が紛れるけん、良かと」

 そう言って母は笑っていたが、やはり疲れてもいたのだろう。

 前から秀美が見たがっていた映画をS市まで見に行こう。そう母が切り出したのは、慌ただしかった冬休みも終わる頃。

 最近あちこちで評判のSF映画は久志も観たいと思っていた。何より映画館に行くこと自体がはじめてだった。

 父は外国の映画になど興味はないと言って来なかった。それもかえって良かったのかも知れない。

 父は島を出るのがあまり好きではない。たまに母にせがまれて一緒に出ても、街では始終不機嫌だ。不機嫌な人と一緒にいても楽しくないから、久志としても、むしろ来ないでくれた方が嬉しい。


 帰りの連絡船には何とか間に合った。

 無事に島に帰り着き、明日の始業式を前に早く寝ろと言われ、二階の寝床へ追いやられる。開け放たれた襖の向こうには階下から漏れるてくる光が帯を作っている。姉は隣の部屋でまだ起きているし、自分だけが寝ろと言われるのは理不尽だ。ほんの三つしか年は変わらないのに、中学生というだけでまるで大人扱いだ。

 久志はそっと蒲団をめくると部屋の中に這い出た。

 腰高窓を開けると、波音に混じりぽんぽんぽんと弾むような音が聞こえる。漁に出る船が立てるエンジン音だ。

 窓辺に頬杖をついて外を眺めると、道路を一本挟んだ外には闇に染まった海が迫る。潮の音がうるさいくらいだ。入り江の向こうに見える桟橋に立つ街頭の光を受けて、真っ黒に塗りつぶされた水面に、ちらちらと光の線が踊っている。

 その海の上を、たくさんの漁り火を灯した船が、リズミカルなエンジン音を立てながら横切っていった。

 光が波間に踊る。まるで祭の提灯みたいで、久志はこの光景を見るのがとても好きだった。

 あの船に父は乗っているのだろうか。船の形は似ていたけれど、船体の文字は見えないからよその船かも知れない。

 ああして漁に出た船は、朝方港に戻ってくる。久志が起きた頃、父は大抵、仏間で寝ていて、台所では釣られたばかりの魚が母の手で捌かれ、刺身になって食卓に上った。この島では肉は値が張るが魚には不自由しない。

 通り過ぎていく漁り火を見つめていたら、昼間に見た映画を思い出した。

 こうして家に戻ってくると、今日の昼に映画を観ていたことが夢みたいだった。島の一番大きな建物は、多分、去年立て直されたばかりの村役場だけど、その村役場よりも街の建物はずっと大きく、人も多くて別世界だ。

 街にいる間はずっと、頭の中でたくさんの虫がわんわんと騒いでいるようで、楽しいけれども落ち着かない。秀美などはずっと街にいたいと言うが、久志はこうして、静かに家で波音を聞いている方が好きだ。勿論、たまには街にも出たいけれど、本当に「たまに」でいい。父のように街に出て機嫌が悪くなることはないが、落ち着かない心地はするから。

 この島には何もないけれども、久志は島が好きだった。

 網戸越しに入ってくる海風は涼しくて、夏にも扇風機もいらないくらいだ。冬の今は寒くはあるが、かと言って雪が降るほどに冷え込むことは滅多にない。視線を少し上げれば大きな月が見えて、見つめていると、宇宙人を乗せた少年の自転車が横切っていくのではないかと思えた。

 ――映画、面白かったなぁ……。

 目を閉じると昼間に見かけた少年の顔が、残像みたいに瞼の裏に甦る。自分と同じように泣き腫らした、赤い眼をしていた。自分に向けられた恥ずかしそうな笑み。

 どことなくあか抜けていたから、きっとあの辺に住んでいる子なのだろう。久志にとっては別世界の少年だ。

 少し話をしてみたかった。感想を言い合ったらきっと楽しかっただろう。自分と同じように、映画館を出ても泣き止まないくらい感動していたんだから。

 ――多分、二度と会うことはないだろうけど。



 翌日は昨日の快晴を引き継いで、一日中良い天気だった。始業式を終えて家に帰ると、上り框に隣の家のおばさんが腰掛けている。奥には父親と座卓を挟んで、隣のおじさんの姿も見える。多分おじさんを迎えに来て、そのまま母との長話になってしまったのだろう。いつものことだった。

「ひさちゃん、お帰り。学校はどげんやったね」

「別に、普通」

「S市で映画ば見てきたって言うた?」

 麦茶をおばさんに出しながら、母が問いかけてくる。

「言うとらんよ。自慢したごとなるけん」

 答えながら二階への階段を上ると、大人達の笑い声が聞こえた。おかしなことを言ったつもりはないのだが、大人はすぐにああやって、よく分からないことで笑う。それが久志には気に入らない。

 大人達の話題は久志が帰ってくる前のものに戻ったようだ。階段を踏む自分の足音に混じって、隣のおばさんの声が聞こえた。

「こげん小さか島でスナックやらさ、何ば考えとるとかねえ?」

「客の来る訳のなかったい。直に潰れるに決まっとるばい」

「なんば言うとるとか。お前らは知らんろうが、昔はこの島も栄えとったっつぉ。置き屋も旅館もあって、芸者ば呼んで賑やかにしよったとやけん、スナックくらいあったって良かとたい。なあ?」

 父にそう言われて、隣のおじさんが何事か答えているようだったが、その頃には階段を上がりきっていて、声ははっきりとは聞こえなくなっていた。


 勉強部屋の襖を開けると、机に向かっていた秀美が眉をつり上げて振り返る。

「あんた寄り道ばしてきたやろ。小学生の方が中学生より帰りの遅かとか、おかしかよ」

「寄り道やらしとらんけん。掃除ん時に、浩太郎が箒ば振り回して蛍光灯ば割ったもんやけん、同じ班の俺らまで叱られて残されたったい」

 ランドセルを自分の机に下ろすと、秀美は久志の方へ身を乗り出し、声をひそめた。

「聞いた?」

「なんば?」

「下で話しよったやろ。こん島に、スナックの出来るとって。本田のおばちゃんって、おるやろ? あん人の親戚の人の越して来て、スナックばすることに決めたとってさ」

「姉ちゃん、スナックってなんや?」

 久志が首を傾げると、秀美は肩を竦めた。

「あんたそげんことも知らんと。女の人のおって、男ん人がお酒ば飲むところたい」

「どこに出来ると?」

「役場の手前のとこ。道一本山の方に入った道の、前に山本さんおった家の空き家たい」

 そう言えばその辺りに、この間から大工が来ていた。何が建てられるのだろうかと、友達と言い合っていたものだ。

「もう看板も上げてあるとよ。『スナック・トミノ』っち書いてあった」

「ふうん……」

 秀美は眉をひそめている。

「嫌ねえ。なんでスナックやら作るっちゃろ」

「どうして? 良かっちゃないと?」

「何が良かとよ。女の人のおるごたる店、いやらしかじゃなかね」

「だって、スナックっていうところに男ん人のみんな行けば、うちに来て飲まんごとなるやろ?」

 漁がない日、近所のおじさん達が集まって、家で宴会を開くことがあるのだ。そうなると夜中までずっと酔っぱらった男達の大声がうるさいし、秀美などは最近、一階の便所にパジャマのままで下りるのを嫌がる。

 秀美は大きな目をぱちりと瞬きさせて、感心したように頷いた。

「……久志、あんた久志の癖に良かこと言うね」


 何にしても島に変化があるのは珍しい。時折誰かが引っ越してきて、誰かが出て行くことはあるけど、普請は滅多にないことだ。誰かの家が立て直されることはあるにせよ、店が出来るなんて。

 去年改築が終ったばかりの村役場が出来上がるまでは、久志達も何度も見学に行ったが、店が出来るのは久志にとって生まれて初めてのことだ。

 だから翌朝、久志が学校に着いたときには、クラス中がその話題で持ちきりだった。

「スナックの出来るっち聞いた?」

 おはようを言うよりも早く、健次がランドセルを下ろしたばかりの久志に訊いた。健次は前の席から振り返って、身を乗り出している。

「うん、聞いた」

「新しか建物の出来よるっち聞いたけん、ようやく本屋の出来るかって思っとったとに、がっかりばい」

 健次の家は昔から網元だったとかで、今でも金持ちだ。漫画が好きでコミックスもたくさん持っているが、近くの大きな島の本屋に買いに出なければならないから、大変なのだ。だから前からずっと本屋を欲しがっている。

「スナックやら出来たってつまらんたい。本屋の出来ればよかとになー」

「そうやねえ――」

 久志が曖昧に頷いたとき、日直の女の子が興奮した様子で教室に駆け込んで来た。

「転校生の来るとって!」

 教室中が色めき立つ。

 始業式の日から、窓際の一番後ろに新しい席がひとつ設けられていたから、転校生が来るのだろうとみんなも分かってはいたのだ。だが実際に見てきたと言われると、全員が全員、興奮を押さえきれなくなった。

 転校生が来るなんて二年ぶりだ。それに二年前の時はふたつ上の学年に入ってきたから、久志達にはあまり関係がなかったが、今度は同じ学年。クラスは一クラスしかなく、二十人しかいない。クラスメイトは全員が小学校に入る前からの顔馴染みばかり。同い年の知らない子どもが入ってくるのは、初めてのことだった。

「男? 女?」

「男ん子たい。職員室で見たばい」

「へえ、どがん子やった?」

「都会ん子のごたるよ。ちらっとしか見んかったけん、よう分からんけど」

「スナックの家の子かね?」

 健次が久志を見上げる。

「さあ……どうやろ」

『スナックの家の子』という響きが何となく嫌で、久志はやっぱり曖昧に答えた。

 でも多分、健次の言うとおり『スナックの家の子』が転校生なのだろう。ここ最近、他に引っ越してきた人の話も聞いていないのだし。

 そしてその疑問は、すぐに解消された。朝の会で入ってきた担任は背後に小柄な男の子をひとり連れていた。

 ――あの子だ。

 久志は目を見張る。映画館の前で、ずっと泣いていた男の子。あの時は泣き腫らした赤い顔をしていたから、一瞬分からなかった。だけどきっと間違いない。今日は空色のセーターじゃなくて若草色のセーターを着て、黒っぽいズボンを穿いている。

 黒板には「富野恵」と名前が書かれていた。スナックと同じ『トミノ』だ。

「めぐみ?」

「女の子やったとか?」

 女の子だったとしても不思議はない可愛い顔をしている。だけど皆の声が聞こえたのか、その子ははっきりと大きな声で否定した。

「富野めぐむ、です。よろしくお願いします」


 皆が恵に興味津々だった。休み時間になると、近くの席の生徒にすっかり囲まれてしまって、廊下側の席の久志はすっかり出遅れた形になってしまう。その廊下の向こうには、他の学年の子達まで集まってきていて、教室の中をちらちらと覗き込んでいた。

 だけど恵はすぐに、その群れから抜け出して久志の所へやってきた。

「この間、映画館の前で会ったよね?」

「う……うん」

 まさか話しかけられるなんて思ってなかったから、どぎまぎしてしまった。これだけ注目を浴びているのに、落ち着き払った様子だ。

 久志はちょうど手元のノートに、映画に出てきた宇宙人を落書きしていたところだった。恵はノートを見て、上手だねと微笑んだ後、頷く。

「やっぱりそうだったんだ。似てるなって思ったんだけど」

「俺 《おい》も、もしかしたらそうかなっち思っとった」

 一瞬、会話が途切れる。二人して何となく照れた笑いを浮かべていることに気付くと、急に気が楽になった。

「名前、なんて言うの?」

麹屋こうじや久志」

「変わった名字だね」

「うち、昔は麹ば売りよったとってさ」

「麹って、味噌とか作るときに使うやつ?」

「よう知っとったね。俺は自分の名字やけどよう知らんよ。――どうして今日転校してきたと? 普通、転入生って、始業式の日に来るもんやなかと?」

 恵は少し困った顔をした。

「うちのお母さんが寝坊してさ。電車に乗り遅れて、連絡船の最後の便に乗れなかったから。船に乗り遅れると、色々大変だね、ここ」

「港で船ばチャーターすれば良かったとに。桟橋に行ったら海上タクシーのあっとけど、知らんかった?」

「海の上にタクシーがあるの? 知らなかった」

「夕べはじゃあ、どこかに泊まったと?」

「T町の国民宿舎。飛び込みだったから心配だったけど、空いてて良かった。海が綺麗に見えたよ」

 久志は家族で外泊などしたことがない。親戚の家に久志と秀美だけで泊まったことはあるが、他には学校で行った林間学校がせいぜいだし、次はきっと修学旅行だろう。さらりとよそに泊まったことを話す恵が大人びて見える。

「俺も泊まったことのあるぞ。T荘やろ?」

 椅子に後ろ向きに座った健次が身を乗り出した。どうやら口を挟むタイミングを伺っていたらしい。

「そうだよ」

「富野ん家は、あのスナック・トミノっちゅーとこ? お母さんのしよると?」

「……うん」

 率直な健次の質問に、恵はやはりほんのちょっと複雑そうに頷いた。

 チャイムが鳴る。恵は少しほっとした顔で、久志に向かって首を傾げた。

「後で映画の話しない?」

「……うん!」

 恵が立ち去るとすぐに、健次が低い声で訊いてくる。

「映画ってなんや?」

「一昨日、母ちゃん達とS市に行って映画ば見てきたと。映画館ば出たところで、たまたま富野君に会うたけん」

「ふうん。なんて映画や?」

「……忘れた」

 健次から視線を逸らして俯く。短いタイトルだったし本当は覚えていたけど、何となく言いたくなかった。




 久志と恵はあっという間に仲良くなった。

 三日も経つとお互いのことを名前で呼び合うようになっていた。元々、同級生達は大抵、久志のことを『ひさちゃん』と呼ぶ。だから恵も久志のことをそう呼んだ。

 スナックというのはよく分からないが、人によっては、眉をひそめることもある商売なのだということは、久志も何となく察している。だから久志は『スナックの子』である恵を疎外しようとする誰かがいるんじゃないかと、こっそりと気を揉んでいた。

 だが幸い、それもなかった。恵が大人しくて優しい気質だったおかげだろう。島の子よりも大人びていて、落ち着いているように思えるけど、話すと案外親しみやすい。

 昔からずっとクラスのボスは健次だけど、健次も今のところ恵を気に入っているようだ。健次は無闇に人を虐める性格ではないが、気に入らない子には素っ気ない。健次が素っ気なくなると、他の皆も何となくその子に当たりが悪くなる。

 学校は山のてっぺんにある。学校を中心に道路は左右に分かれていて、さらに山の奥に入る道と、久志や恵の家がある海側に続いていた。

 山側の道は舗装もされていて、小さなトラックなら通ることが出来る程度に広くて歩きやすい。山を蛇行しながら下りていくその道は、久志が普段使うのとは違う別の港に繋がっていて、生活物資はそちらから島に入ってきた。

 海側の道は急な石段が延々と続いて、車も通ることが出来ない。その代わり見晴らしだけは良かった。

 土曜日の昼。学校が終ると、久志達、海側の子供達は、仲良しの子と連れだって帰る。山を下る階段の一番上に立つと、港の全てが見渡せた。

「眺めがいいねえ……!」

 感嘆するように恵が言うから、ちょっと笑ってしまう。

「昨日も一昨日も同じことば言いよったが」

「何度見てもいい景色だから」

 実際、久志もここからの眺めは好きだ。入り江をぐるりと巡る堤防の白さと、湛えられた水の深い碧の色。道沿いに立つ小さな家々の背後に迫る山は、冬でも鮮やかな緑だ。

 急な階段を、久志達は風景を目に映しながら下りていく。途中でひとり減り二人減りして、海の傍まで下りてきたときには、恵と二人になった。

 海辺の道は、途切れ途切れに白いガードレールがある。ガードレールの無いところでは、どれだけ海に近い端っこを歩けるか試すのが、最近の久志の楽しみだ。

 両手を広げてバランスを取りながら端を歩いていたら、恵が心配そうな声を上げる。

「ひさちゃん、危ないよ」

「危のうなかって。落ちたってどうせ海やもん。泳げるけん平気」

「でも、風邪引くよ。岩が結構あるし、頭をぶつけたら大変だよ」

「落ちんって。恵は心配性や」

 久志は笑って、道の際から離れた。どのみちこの先しばらくはガードレールが続くから、端を歩くことは出来ない。

「恵の引っ越して来るとがもう少し早かったら良かったとに。したら一緒に泳げたとけど」

「……ねえ、あれなに?」

 海に目をやった恵が指さす先を見ると、半透明のぶよぶよとした物質が浮かんでいる。

「クラゲやん。こげん時期に珍しかね」

 ガードレールにもたれて、海面を覗き込んだ恵の目は、まん丸に見開かれている。そうすると、ただでさえ大きな目が、もっと大きく見えた。

「すごいね。あのゼリーみたいな半透明のやつ、全部クラゲ?」

「そうさ」

「図鑑で見たのと違うなあ。丸くないんだね」

 確かに、この辺りに打ち寄せられるクラゲは、ひしめき合って歪んだ形をしている。波に打ち寄せられたクラゲが堤防沿いにぎっしりといる様子は、見慣れている久志にも気味が悪い光景だ。

「ここに来る前、S市におったっちゃろ? S市にも海のあったろ。見たことなかと?」

「海の方には行ったことなかったな。街中に住んでたから」

「知っとう? あんクラゲば陸に上げると、水になって溶けるとばい」

「本当に?」

「ほんなこつ」

「……ほんなこつ?」

 首を傾げた恵に、久志は笑った。

「本当、って意味ばい」

 恵はまるで、テレビに出る人のような言葉遣いをする。S市の辺りでも訛りはそれなりにきついはずなのに、彼だけはまるで、ブラウン管から抜け出して来たようだ。久志にとっては当たり前の言葉が恵には通じないことが度々あって、たまに翻訳をしないといけなかった。

「恵はさあ、なんで訛りのなかと?」

「あちこち引っ越したから。S市にもあんまり長くいなかったし、生まれたのは東京なんだ。小さい頃はずっとあっちだったから」

「へー、東京かあ。すごかなあ」

「そんなの、ちっともすごくないよ」

 恵は、少し苦い顔で笑った。

「どうして? 芸能人とかおるっちゃろ。姉ちゃんとか喜ぶごたる」

「ご……ごたる?」

「えーっと……喜ぶだろうなあ。……かなあ」

 翻訳していると自分でもよく分からなくなってくる。

「芸能人もいるのかもしれないけど、僕は会ったことないし」

「そっかあ……そげんもんかねえ」

 自分がもしS市に行って、あの人混みの中から恵を探せと言われたら、きっと大変だろうとは思う。東京はS市よりも人が多いのだろうし、そんなものかも知れない。

「引っ越し、多かったと?」

「うん、この学校で五回目」

「五回! ほんなこつすごかなあ! 俺は引っ越しやら、したことのなかよ」

「……その方がいいよ」

 恵は少し大人びた表情で眼を細め、海を眺めた。そういえば転校初日、どんなに人に囲まれても、恵は落ち着いていた。それだけ慣れているのだ。

「……やっぱ、転校は大変か?」

「まあ、ね」

 恵の少し茶味を帯びた髪が、海風にさらさらとなびいた。そう言えば、クラスには恵みたいな髪型の男子はいない。みんな丸刈りか、伸ばしてもせいぜい五分刈りで、家の人にバリカンで刈ってもらうのが普通だ。もしかして恵は、床屋にでも行っているのだろうか。

 シャツの襟から覗いた首が細いし、恵はこの辺りの子に比べて、肌もずっと白い。きっと長くこの島に住んでいれば、恵も自分たちのように真っ黒に日焼けするのだろうけど。

 試しに日焼けした恵を想像してみたけど、どうしても想像がつかなかった。

「でも、もう引っ越しは終りやろ? 店まで作ったっちゃけん」

「……多分。お母さんはそう言ってるけど」

「それなら、夏になったら一緒に泳ご。恵、泳げる?」

「あんまり得意じゃない。ここの学校、水泳の授業がないってほんと?」

「ほんなこつさあ。プールもなかやろ? みんな泳げるけん、水泳やらわざわざせんし」

「すごいなあ。……僕、海で泳げるかなあ」

 不安そうな顔で海面を覗く恵の背を、軽く叩いた。

「俺の教えてやっけん、大丈夫って」


 家に帰ると今日は隣のおばさんがいなかった。父の姿も無かったから、今日は隣でくだを巻いているのかも知れない。

 台所の暖簾をくぐって出てきた母が、久志に眼を細める。

「お帰り。里中の兄ちゃんから、お下がりのたくさん来たよ」

 父の叔母の嫁ぎ先である里中家の長男は、久志達の家では『里中の兄ちゃん』と呼ばれていた。連絡船で渡った先のT町に住んでいて、役場に勤めながら所帯を持ち、久志より少し年上の息子がいる。久志にとっては又従兄弟だ。久志の洋服は、ほとんどがその又従兄弟からのお下がりだった。

「どがんと?」

「セーターとか色々。仏間に置いてあるけん、手ば洗うてから、着てみんしゃい」

 父が魚を捌く時に使う、家の裏手にある流しで手を洗って仏間に入ると、シャツやセーター、半ズボンが五、六枚、座布団の上に並べられていた。

 胸に当ててみた感じだと、大きさはちょうど良いようだ。きちんとノリをつけて洗われたシャツは、言われなければお古だとは分からない。

 だけど不意に、恵とはじめて会ったときの、空色セーターを思い出した。

 ――そうか。恵の格好が何となく自分と違っているのは、きっとお下がりの服じゃないからだ。

 どんなに丁寧に扱われた服でも、お下がりには誰かの気配が残っている。それが嫌だとは少しも思わないけれど、そういうものなのだ。

 島の子どもは大抵がみんな、誰かのお下がりを着ている。家が裕福な健次だって、着ている服はお兄さんのお下がりだ。恵だけが他の誰とも違っている。

「宇宙人のごたるなあ……」

 口にしてみて腑に落ちた。恵はまるで宇宙からの来訪者だ。久志達とは違う言葉を話し、違う見た目で違う服を着ている。物の考え方も久志達とは少し違うようだ。

 だけどそれは嫌な感じに違うのではないから、きっと恵はこの間の映画の中に出てきた、友好的で感じの良い宇宙人だ。あんなに枯れ枝みたいな手足はしていないし、年寄りみたいに皺のある顔ではないけれど、目が大きいところは似ているかもしれない。

「あら、似合うやなかね。良か服ばもらったねえ」

 前掛けで手を拭きながら、母が台所から出てきた。

「そうだ。ちょうど時間も早かし、髪ば切ろうか。大分伸びてきたもんねえ」

「……切らんと駄目?」

 久志は母を見上げた。

「あれ。切りとうなかと?」

「そげん訳じゃなかけど、たまには伸ばしてみたかとけど」

 恵みたいに。口にはしなかったがそう思っていた。母は笑って久志の頭を撫でる。

「久志もそろそろ洒落っ気の出てきたとね」

「男は丸坊主でよかったい」

 太いしわがれ声は開け放たれた掃き出し窓の向こうから聞こえた。不機嫌そうな父が、赤い顔をして戻ってくるところだった。やはり隣で飲んでいたらしい。

「洒落た転校生の来たけん、久志も少しはお洒落ばしたかってしょ。ちょっとくらいよかじゃなかね」

「男は丸坊主でよか!」

 上り框に上がりながら、父は吐き捨てるように言う。

「トミノんママんとこの息子は、女のごたる顔ばしとるけん、好かん」

「父ちゃん、恵に会うたことのあると?」

「あるさ。店に行ったらたまに手伝いよるけん」

 奥の部屋に大股に歩きながら、父は尚も続けた。

「気色ん悪かたい。あぎゃん顔ばした男は見たことんなか」

 父の姿が消えて、久志と母は顔を見合わせる。

「気色ん悪かやら、ひどかことば言うねえ」

「恵は気色悪ぅなかよ」

「分かっとるよ。可愛か子やったもんねえ」

 小引き出しからバリカンを取ってきた母は、笑いながら久志に耳打ちした。

「いつもより長めにしといてやるけんね」

「お父ちゃんに怒られんかな?」

「大丈夫やろ。ほんのちょっとちごたところで、気付かんって」

 新聞紙を広げ二階から勉強机の椅子を持ってくる。母は慣れた手付きで久志の首回りに新聞紙を巻き付けると、髪を切りながら言った。

「そうそう。あんなあ、お下がりの洋服と一緒に、良か物の届いとるよ。後で裏に回ってみんしゃい」

「良か物って、何?」

「行ってみてのお楽しみたい」

 一体何だろう? お下がりが送られてくるときは、たまに読み古しの本や玩具が付いてくることがあった。今回も何か一緒に送られてきたのだろうか。

 だが土間に下りて裏口の戸を開けた久志は、目を丸くした。

「お母ちゃん! 良か物って、この自転車? 俺のもらってよかと?」

 台所から母の明るい声が返ってくる。

「そう。兄ちゃんとこの子の背の急に大きゅうなって、大人用の自転車に買い換えたとってさ。そいやけん、その自転車ば譲ってくれらしたと」

「うわあ……!」

 明るい空色の子供用自転車だ。恵が着ていたあのセーターの色と少し似ている。ハンドルについたギアは六段。健次の自慢の自転車も確か六段ギアだった。ギアのついた自転車はみんなの憧れの的だ。

「お母ちゃん、ちょっと乗ってきてよか?」

「よかよ。ちゃんと後で、里中の兄ちゃんにお礼の手紙ば書きなさいね。それから海沿いの道ば走るときは、落ちんごつ気を付けて!」

 飛び出していく久志を追って、尻上がりに大きくなる声を背に、自転車をこぎ出していた。


 隣の家に年上のお兄さんがいた頃、乗り方は教わった。そのお兄さんが街に出てしまってからは乗っていなかったが、案の定、勘が戻るのは早かった。

 久し振りの自転車は、大人向けだった隣のお兄さんの物とは違って、しっくりと身体に馴染んだ。

 行く先は大してない。島は小さく、自転車を走らせることの出来る道は限られている。それでも久志にとって、それは大きな変化だった。

 歩き慣れた道でも風の当たり方が違うと、潮の匂いまで変わって感じる。頬に当たる風は冷たくて、皮膚が少し痛んだが、それもいっそ気持ちがよかった。

 桟橋をぐるりと回っていく里中の家は普段は少し遠い気がするのだが、自転車ならば近い。

「おばちゃん!」

 裏から呼ぶと、里中のおばさんが顔を出す。

「あら、ひさちゃん、自転車の届いたとね」

「うん! ありがとう。後で兄ちゃんにもお礼の手紙ば出すけん!」

 それだけを伝えて、また自転車で飛び出す。

「海沿いば走るときは、落ちんごつ気を付けるとよ!」

 心配そうなおばさんの声に、手を振った。

 通りすがる人たちは皆、顔見知りだ。網の手入れをしていた父の漁師仲間が、赤銅色に日焼けした顔を綻ばせる。

「おう、久志。自転車ばうてもろうたとか?」

「里中の兄ちゃんにもろた!」

「良かったなあ。海沿いば走る時は気ぃ付けるっつぉ」

「そいはもう何度も聞いたけん!」

 そんな些細なやりとりにも今日は笑いが漏れてしまう。何もかもが楽しくて仕方がなかった。


 その週末は自転車を乗り回した。休み明けの月曜日、恵と顔を合わせるとすぐに自転車のことを報告する。

「今週、水曜日が休みやん。後ろに乗せてやるけん、一緒に遊ぼ」

「うん!」

 恵は目を輝かせて頷いた。それから悪戯するような顔をして、声をひそめる。

「かごに入れたらいいのにって思わない?」

 恵が声をひそめるものだから、久志も釣られてひそひそ声になる。

「映画の宇宙人のごと?」

「そう」

「恵が自転車のかごに入ると? 無理やあ」

「だよね。――でも、入れたらいいのになあ」

「……そうやねえ」

 確かにそれは、胸躍る想像だった。

 久志があの青い六段変速の自転車に乗る。前のかごには小さくなった恵が入る。映画の自転車は赤色だったけど、久志は青の方が好きだ。恵のセーターと同じ色だから、きっと恵も青の方がいいだろう。

 そして二人で宙を舞って、月を横切るのだ。きっと空の上は風が気持ち良い。映画の少年みたいに笑顔になる自分と恵が思い浮かぶ。

 楽しい想像から我に返ると恵と目が合った。どちらからともなく笑い合う。それだけで、多分恵も同じような想像をしていたのだろうなと見当がついた。

「あんなあ、恵。水曜日はさあ――」

 そこまで言ったところで、久志は言葉を切った。隣に誰かが立っていることに気付いたからだ。

 健次がいつの間にか隣にいた。さっきまでは少し離れた席で、他の子と土曜日のお笑い番組の話をしていたはずだ。何故かひどく得意げな顔をしている。

 健次は子ども向けの学習雑誌を開いて、机に載せた。月に一度、学校にセールスのおばさんが売りに来るから、教室に持ち込んでも唯一怒られない雑誌だった。科学と学習の二種類があるが健次は両方を買ってもらっている。

 見開きのページの一角に、あの宇宙人の姿があった。

「俺も映画ば見てきたぞ。昨日の日曜。お前らの観た映画は、これっちゃろ?」

 久志が答えるよりも、恵の方が早かった。軽く微笑んで当たり前みたいにさらりと返す。

「うん、そうだよ。面白かった?」

「まあまあったい」

 健次は鼻で笑うと、雑誌を手に自分の席に戻っていく。

 なんだか胸がもやもやした。

 色々なことが台無しになった気がして、気に入らなかった。健次が映画を観たのが気に入らない。「まあまあ」という感想も気に入らない。

 でも一番嫌だったのは、恵があっさりと健次の問いに答えたことだ。

「ひさちゃん、どうかした?」

 久志が不機嫌になったことには気付いたようだが、恵はその理由までは分かっていないらしい。不安そうだ。

 大体、久志にだって、自分がこんなに不愉快になった理由が分からない。ただ胸がもやもやして、何かが破裂しそうな気分だった。

 何かを言いたい。でも何が言いたいのかよく分からないままに、口を開いていた。

「……そう言えばさあ。うちの父ちゃんが、恵んごたる顔は見たことん無かち言うとった」

「どういう意味?」

「男の癖に、女のごたる顔ばしとるって」

 ――途端に恵の顔色が変わった。大きく目を見開いたかと思ったら、色白の頬が、あっという間に怒りの朱色に染まる。その変化を一瞬のうちに捉えて、久志は我に返る。自分の言葉が恵を怒らせたと悟った途端、きゅっと体温が下がった気がした。

 恵は唇を開けて、何か言いかけてやめるのを繰り返している。だけど言葉が出てくる前に、大きな目から涙が溢れた。

「あ……っ!」

 思わず椅子を蹴飛ばして立ち上がっていた。

 恵の顔がくしゃりと歪む。顔に押しつけられた拳の隙間から、透明な涙がぽたぽたとこぼれて、古びた机の上に染みを作った。

「ご……ごめん。恵、ほんとにごめん。二度と言わんけん」

 恵の肩に手を置く。その手を身を捩って振り解かれ、余計に肝が冷えた。

 何故あんな意地悪を言ってしまったのだろう。恵が嫌がることくらい分かっていたのに。

「お前ら、何ばしよっとや!」

 健次の声がした。振り返ると健次は面白がっているようで、顔が半笑いになっている。久志が言い返そうとするより早く、健次は節を付けて囃しはじめた。

「泣ーかした、泣ーかした。久志が富野ば泣ーかした」

「泣いてないっ!」

 耳を貫くような大きな声にぎょっとする。顔を真っ赤にした恵だった。

「泣いてない、から!」

「どこがや。どう見たって泣きようじゃん」

「……泣いてないっ!」

 恵は袖口で顔を拭って、首を振る。誰がどう見ても泣いている。誤魔化しようもないのに、恵は意地になったように泣いていないと繰り返す。

「お前ら、なんばしよっとか」

 騒ぎを聞きつけたのか、さっきの健次みたいなことを言いながら、先生が入ってきた。

「ひさちゃんが富野君ば泣かしたとです!」

 女子の誰かの声が聞こえた途端、駄目押しみたいに、恵が叫んだ。

「泣いてないってば!」


「――まあ、何のあったとかは分からんけど、久志に泣かされた訳じゃなかつな?」

「……はい」

 恵はしゃくり上げながら言い張った。先生が途方にくれた顔をして久志を見る。職員室にいた他の先生達も、くすくすと笑っていた。

「久志、どげんなっとうとや、こいは」

「だから、さっきから言うとるように、俺が恵に嫌なことば言うたとです。そいやけん恵は――」

「違いますっ!」

「いやでも、俺の悪かったとやけん――」

「違うって!」

「ああもう、お前らの仲の良かとは分かったけん」

 先生は笑いながら恵と久志の手を取った。二人の手を握り合わせて、上から軽く叩く。

「つまりあれたい。喧嘩ばしたけど、仲直りしたっちゅうことやろ? 分かったけんか、顔ば洗ってから教室に戻れ。直に授業も始まるけん」

 廊下に出てすぐ、恵は久志の手を振り解いて、すたすたと歩き始めてしまった。

「恵」

 呼び止めたけど立ち止まってくれない。

「……ごめん!」

 とにかく頭を下げた。足音が止まったから恐る恐る顔を上げると、恵は背を向けたまま拳を握りしめている。

「……怒ってる訳じゃないよ」

「うん」

 何となく分かる気がする。恵は多分ばつが悪いだけだ。顔を合わせたくないのだ。

 どうしようかと一瞬悩んだけど、このままでも仕方がない気がしたし、恵の前に回り込む。恵は視線を逸らしたまま、口を尖らせていた。

「ひさちゃんも泣き虫だと思ってたのに、なんで僕だけ泣いてるんだろ」

「そりゃあ……先に恵にわんわん泣かれて驚いたけん、泣く気にもなれんかったとさ」

 恵はふくれっ面で黙り込んでいるけど、これも多分、ばつが悪いだけなのだろう。硬く握られた拳の上に、そっと手を重ねた。

「……ごめんな」

 恵はやはりそっぽを向いたままだったけど、深く頷いてくれた。

 その日一日、恵はそんなふうで、結局久志は気を揉むはめになったけど、翌朝になったらちゃんと機嫌を直していた。

 火曜日の朝の第一声は、「ひさちゃん、昨日はごめん」で始まる。後はもう元通りだ。



 水曜日の休みは、予定通り恵と自転車を二人乗りして出かけた。ちょうど火曜日の図工の時間に写生の宿題が出たから、桟橋の先の岬を回り込んで、岩場の絵を描きに行くことにしたのだ。

 岩場は見晴らしがいい。遠くの島までよく見えるし、黒々とした岩が碧い海からごつごつと突き出る様が絵になって、久志の気に入りの場所だった。潮に削られて出来た浅い洞窟もあって、遊ぶのにもいい。

 風を切って走る自転車に二人乗りして、連絡船を待つ人たちがちらほらと立つ桟橋を走り抜ける。汽笛が聞こえ、連絡船の真っ白な船体が、桟橋に入るためにゆっくりと向きを変えているのが見えた。

 防波堤の向こうでは、フジツボがぎっしりと張り付いた岩に波がぶつかっては砕け、白い飛沫を上げている。昼過ぎの今は、ちょうど波が引いて来る頃だ。

 潮の匂いが濃い。ぶつかってくる風が強くて気持ちが良かった。荷台に座った恵は久志の肩をしっかりと掴んで、楽しげな笑い声を上げる。

「恵、寒うなかか?」

「うん、平気。もうすぐ着く?」

「そこの先の角ば回り込んで、左に少し行ったらすぐたい」

「自転車、気持ちいいね」

「……うん!」

 恵が喜ぶから、スピードを上げた。島では殆ど車が走っていない。気を付けなければいけないのは、辺りをのんびりと歩く人と、ガードレールの無い道から海に落ちることくらい。この辺りまで来ると人家もまばらだから、多少大声を出したところで誰も叱らない。訳もなく楽しくて歓声を上げながら先を急いだ。

 いつからそこにあるのか、どうしてあるのかも分からない赤い鳥居を抜ける。その先は道もなくなるから、自転車は下りた。

 恵が自転車を指さす。

「自転車に鍵かけなくていいの」

「よかとさ。盗む人とかおらんもん」

「そっか……。そういうのいいね」

「そう? 都会はやっぱり盗む人のおる?」

「いるよー。僕、東京に住んでたとき、自転車盗まれたもん」

「へえ……」

 そんなことを話しながら不安定な岩場を二人で歩く。満潮の時には波がかなり上まで上がって来るから、岩は黒々と塗れ光っていて滑りやすい。恵が転びそうになったら手を貸した。

 濡れていない大岩を見つけて恵を座らせる。鳥居の近くには何の用を足すためか水道が設置してあるから、筆洗いに水を汲んだ。二人分の筆洗いを手に戻ると、恵は岩の上から、海を覗き込んでいた。

「なんば見よると?」

「クラゲがいるかなと思って。でも見つからないんだ。こっちにはいないの?」

「潮の流れの違うけん。クラゲは桟橋の方に流れて行くとさ。この辺やったらあんまりおらんけど、泳ぎにくかよ、岩ばっかりやけん。そいにたまにウミヘビのおるし」

「ウミヘビかあ。図鑑でしか見たことないなあ」

「ウミウシもおるよ。見たこつある?」

「ない!」

「言っとくけど、海の牛じゃなかよ」

「そのくらいは知ってるよー。食べたこともあるよ」

 恵は笑いながら、辺りをきょろきょろと見回している。

 普段、恵は落ち着いている方だ。同級生の中では大人びて見える。だからこそ恵が泣いたことにクラス中が驚いていたのだが、今日の恵もいつもと違っていた。こんなに好奇心旺盛ではしゃいでいる姿など、きっと誰も見たことがないだろう。例えば健次なんか、想像もつかないに違いない。

「どうかした?」

 恵が首を傾げて、それで自分が、にやけて恵を見ていたことに気付いた。

「こげんとこがそげん珍しかかねーって思うてさ」

「初めて来るんだもん。珍しいよ」

「そげんもんかね」

 筆洗いのバケツを恵に渡して、岩をよじ登った。

「そんじゃあ、描こうか」


 しばらくは話をしながら、ひたすら絵を書き続けた。久志の下絵が終った辺りで、恵がスケッチブックを覗き込んでくる。

「ひさちゃんは、絵が上手だよね」

「恵はあんまり上手うもうなかなあ。勉強は出来るとに」

 恵のスケッチブックを覗き返すと、恵は胸に抱えるようにして絵を隠した。

「勉強と絵は関係ない」

「そうや? 勉強の出来る子で、絵の上手か子、多か気のするけど」

「そう言うひさちゃんは?」

「勉強は……出来んなあ」

 久志が笑うと、恵も笑う。

 視線を海に戻すと、視界の端に、水色の光がきらりと光った。

「――ウミヘビんおるっ!」

「どこ?」

「ほらそっち、あすこ!」

 岩を滑り降りて岩場を指さす。ちょうど窪みに水のたまった辺りに、一匹の小さなウミヘビがはまりこんでいた。潮に乗り損ねて、岩場から動けなくなってしまったのだろう。

 岩の間から漏れ入る波は、窪みの中で千々に砕けて光を放つ。真っ黒な岩の隙間に隠れたウミヘビは、その光を受けて、鮮やかに明るい水色の鱗を輝かせていた。

 遅れて恵が岩を下りてくる。

「へえ……綺麗だねー。陸の蛇とあんまり変わらないんだ」

「色は綺麗かけど、毒のあるウミヘビかもしれんけん、触ったら駄目けんね」

「うん。――あ、これ何?」

 恵が見ていたのは、ウミヘビのいる窪みの手前にある、もっと小ぶりな潮だまりだった。そこには半透明の丸い石がいくつか、水に浸かって転がっていた。

「知らんと? こいはガラスったい。瓶の割れたヤツ」

「え、これがガラス?」

「岩とか海にぶつかっちょるうちに、角の削れて、丸ぅなるとってさ」

「へえ……!」

 恵の目はガラスに釘付けだ。

「集めゆうか」

 恵は嬉しそうに頷いた。真昼の陽射しを受けて砕ける波のように、瞳がキラキラ光っている。

 二人はしゃがんで、岩の隙間から濡れた小さなガラス粒を拾い出す。ガラスは岩や砂に洗われて、磨りガラス状になっていた。半透明の淡い色合いは綺麗で、元がただのガラス瓶だとは思えない。形も色もどこか優しく、ふわりと丸くて、口に入れたら甘そうだった。

 恵は拾い上げたガラスを光に透かし、眼を細めている。ガラスが恵の上気した頬を、色鮮やかな光で染めていた。

「何の瓶だろ?」

「緑は炭酸やろ。茶色はビールの瓶たい。白かとは元は透明の瓶やろうけど、透明は色々あるけん、何か分からん」

 話しながら次々に拾い出していたら、赤い玉を見つけた。白味を帯びてほんのりとピンクがかって見えるが、元が鮮やかな赤色なのは、所々に残った擦れていない部分から分かる。

「赤は珍しかけん、恵にやる」

 手の平に乗せてやると、恵はまた光に透かした。

「赤の瓶って知らないなあ。なんだろ?」

「さあ。この辺の島は外国の近かけん、よその国の瓶も流れてきとるかもしれんって、父ちゃんの言うとったけど」

「へえ、外国の瓶かあ……」

 恵は長々とそれを光に翳した後、大事そうにこぶしの中に納め、眼を細めた。

「ひさちゃん、ありがとう。大事にするね」

「大げさやぁ。ただの拾い物ったい」

「だって嬉しいから」

 こんなに喜ばれてしまうと何だか照れた。赤が珍しいのは本当だけれど、どこにでもたくさん落ちている物だ。

「映画に出てきた宇宙人のごたるよね、恵は」

「……似てる?」

 恵が少し複雑そうな顔をしたから、つい笑った。

「見た目は似とらんけどさあ。あん宇宙人は地球の物ば見て珍しがっとったやん。恵も何ば見ても面白がるやん」

「だって珍しいよ。こんなに海の近くで暮したことないしさ」

「ふぅん。そげんもんかねえ」

 ポケットからハンカチを出して、大事そうにガラス玉を包んでいる恵は、やっぱり異星人に見える。久志はハンカチなんか持ち歩かない。トイレに行って手を洗ってもズボンの裾で適当に拭いて終りだ。母はハンカチを持たせようとするが、持たされても持っていることを忘れてしまうのだ。

 やっぱり恵はどこかが違う。この島にも盆の時期になると、帰省客が連れてきた余所の子が増えるし、彼らもやはり島の子とはどこかが違うことが多い。だが毎年見る顔もあるし、恵ほどには違わない。

「恵もこっちの言葉ば覚えればよかったい」

 思い付きだったが、自分でも良いことを言った気がした。ここの言葉を覚えれば、きっと恵も宇宙人じゃなくなる。この島の子だ。

 恵は驚いたように瞬きをした後、久志から視線を逸らし水平線に目を向けた。

「そうだね……」

「ここの方言、好かん?」

「そんなこと無いよ」

「……もう、どっこも行かんとやろ? ずうっとこの島におるとやろ?」

 恵は返事をしなかった。ただ青い縁のついたハンカチに包んだ、色とりどりのガラスを見つめて呟く。

「……この島、好きだよ。綺麗な物がたくさんあるし、みんな優しいし」

「……そうね」

「ずぅっとここにいられたらいいなあ……」

「おればよかったい」

 強く言って、恵の腕を握る。恵は目を丸くして久志を見た。

「おればよかって。おりぃよ」

「……そうだね」

 恵は笑ったけど、返事はどこかはっきりしなかった。


 陽が落ちるまでに何とか色を塗り終え、自転車で恵を家まで送り届けて家に帰る。あの後は普通に話もして、楽しかったはずなのに、どこか気分がすっきりしなかった。

 浮かない顔の久志に、母が声をかける。

「お帰り、ひさちゃん。絵は上手に描けた?」

「うん……」

「どれ、お母ちゃんに見せてごらん」

 スケッチブックを開いてみせる。

「本当にひさちゃんは絵の上手ねえ。この宝石のごたっとは何?」

「……うん。ガラスの落ちとったけん、描いた」

「ガラス? 怪我ばせんやった?」

「丸ぅなっとったガラスやけん、大丈夫……」

「……ひさちゃん、どげんしたと?」

 母は少し心配そうな顔で、久志の額に手を当てた。

「そげん浮かん顔ばして。恵君と喧嘩でもした?」

「別に、どうもしとらんよ。喧嘩もしとらんし」

 母の顔から心配の曇りが取れないのを見て、久志は首を振った。

「腹ぺこやけん、元気のなかだけったい。晩ご飯まだ?」

「もうすぐ出来るけん、ちょっと待っとき。そいとも柿のあるけど先に食べる?」

「ううん。晩ご飯ば待つ」

「じゃ、お母ちゃん急ぐけんね」

 台所に笑いながら消えた母が、暖簾をめくって、またひょっこりと顔を出した。二階への階段を上ろうとしていた久志に、上を指さしながら付け加える。

「お姉ちゃんは熱心に本ば読みようごたるけん、邪魔ばせんごつね」


 二階の勉強部屋に入ると、姉の秀美は机に向かって、熱心に何かをめくっている。

 元々読書家で、学校の図書室の本は殆ど読み尽くしている人だ。だけど久志が部屋に入ったことに気付かないほど熱中しているのは珍しい。何を読んでいるのだろうか。

 気になって、そっと背後から覗き込む。そして久志は目を見張った。

 男の子同士がキスをしている――ように見える。両方とも目が顔の半分くらいあって、女みたいな顔をしているけど、ズボンを穿いているから男なのだろう。それに何となく、もっといやらしいことをしているような感じもする。ただのキスシーンじゃなくて、顔つきがそんなふうなのだ。

「姉ちゃん、何ば読みよっとや!」

「しーっ!」

 思わず大声を出してしまったら、秀美に口を塞がれた。

「大声ば出すっちゃなかとっ、ただの少女漫画たい。っていうか、あんたいつからおったとね!」

 秀美の手の下から何とか逃れる。

「気持ちの悪かー。姉ちゃん、ホモの漫画やら読みよると?」

「ホモと違う。こげんとは少年愛っちゅーとよ」

「何やそれ。訳分からんけん」

「あんたは分からんでよかと!」

 吐き捨てるように言って、秀美はまた、漫画の続きを読んでいる。よく見たら、机の上には同じタイトルの本が、十冊ばかり積み上げてあった。

「……姉ちゃん、それ、いやらしか本?」

 恐る恐る訊ねたら、秀美は眉をつり上げて振り返る。

「違うっ。純愛ばい。良か話やけん、読みよったら泣くとよ」

「へえ……」

「まあ、久志には読んでも理解出来んやろけどねー」

 ムッとしたが反論はしなかった。久志が本を読むのが得意ではないのは事実だ。絵の具箱を片付けていたら、秀美がさらに付け加えた。

「お父さんには内緒やけんね」

「どうして?」

「どうしても!」

「……いやらしか本やけん?」

「ち、が、うっ!」

 秀美は椅子をくるりと返すと、言い聞かせるように続けた。

「お母さんはまだよかけど、お父さんに見つかったら捨てられるかもしれんやろ。貯めといたお年玉でせっかく出とる分ばまとめて買ったとやけん」

 確かに父に知れたら捨てられるかもしれない。二階に上がってきて本棚の中身を調べることはないが、「漫画を読むと馬鹿になる」というのが父の持論で、父が家にいるときは、テレビアニメもろくに見られないのだ。だから内緒にしておきたいという秀美の気持ちは分かる。

 でもエッチな本に思えてならなかったから、夜になって秀美が風呂に行った隙に、こっそりその本を開いてみた。

「……やっぱりいやらしか本やん」

 思わず呟いてしまう。

 本の中では女みたいな顔をした少年が、上級生に裸にされたりしている。

 女でもいやらしいものを見たいのなのだろうか。自分たちも少年漫画にたまに出てくる女の子のヌードを食い入るように眺めてしまうから、似たようなものかもしれないけど。

 でもどうしてそれがホモなのだろう? そこがよく分からない。

 首を傾げながらパラパラとめくっていたら、浴室の引き戸が開く音が聞こえた。慌てて本を元の場所に戻す。

 しばらくして髪を拭きながら上がってきた秀美は、机に向かって教科書を広げている久志と、自分の机の上に置かれた漫画を見比べた。

「……久志、あんた姉ちゃんの本ば読んどらん?」

「読んどらんけど?」

「ほんなこつ? 並びの違うごたる気のするけど」

「……読んどらんよ。気のせいじゃなかと?」

 ドキドキしながら答えたら、秀美はまだ不審そうに「ふうん?」とだけ言った。


 愛だの恋だの甘っちょろいことばかり描いてあって、今までは少女漫画になぞ興味は無かった。

 個人経営の小さな店に毎号一冊ずつ入る少年ジャンプは、健次とその兄が交代で買っている。健次達が読んだ後に回し読みさせてもらうのが常で、それが久志の読むほとんど唯一の漫画でもあった。

 だけどあれ以来、あの少女漫画が気になって仕方がない。

 姉がいない時を見計らって何度もこっそりとページを捲った。

 流し読みしているだけだから、意味はちっとも分からない。ちゃんと読む気はあまりなかった。時折出てくる裸の場面やキスシーンだけ、食い入るように見てしまう。

 秀美が部屋に戻ってくる気配がしたら、それを元の場所に戻す。そんなことを数日繰り返した。

 久志が盗み読みしていることを薄々察してか、秀美は本の置き場所を次々に変える。とは言え同じ家の中だし、どこに隠してあるのかは大体見当がついた。秀美が隠す場所を変える傍から追い掛けて、やっぱりパラパラと本を捲る。どうしてここまでして読みたいのか、自分でもちっとも分からない。

 だけどその本を盗み読みしている時は胸がどきどきした。後ろめたいのに気になって仕方がなくて、秀美が部屋からいなくなると、つい探してしまう。

 秀美は久志が盗み読みしている事に気付くと、目を吊り上がらせて怒った。

「久志っ、あんたまた姉ちゃんの漫画ば読んだやろ!」

「読んどらん」

「へっぱばっか言うて。並び方の違うけん、すぐ分かるとよ!」

 下から母の窘める声が聞こえる。

「秀美、漫画くらい見してやらんね」

「いやっ! 久志が読んだら、本の傷むもん!」

「傷めたりせんよ」

「……やっぱりあんた読みよるっちゃなかね!」

 ……しまった、ばれた。

 秀美はぬっと手を突きだしたかと思うと、久志のこめかみを両の拳で挟み込み、ぐりぐりと拳骨を押しつけてくる。

「痛い痛い痛いっ、姉ちゃん、痛かって!」

「あんたはどうしてあん本だけそげん読みたがるとかね。あいは女の子の本ばい。男ん子は読まんでよかとっ!」


 そうこうしているうちに、次第に春が近付いてきた。祖母の百日忌も終り、久志はようやく祖母のいない生活に慣れた。一度慣れてしまうと、祖母が居た頃の暮らしが随分遠い昔のことのように思えてくる。祖母が死んだばかりの頃は、何もかも全てが変わってしまうような気がしたものだが、人がひとり居なくなってしまっても、暮らしは当たり前に進んでいくもののようだ。それがなんとなく不思議で、寂しい気がした。

 ただ祖母がいなくなったことで、家の中は前よりも少しだけ、息苦しくなった気がしている。父は前から時折、訳もなく不機嫌になる人だったが、祖母が居た頃よりもその回数が増しているように思えた。

 恵とは相変わらず仲良くしていた。恵はいつかいなくなってしまうのではないかと案じていたけれど、今のところはその様子もないようだ。店はそこそこ繁盛しているらしく、そのお陰か、深夜に家で酔漢が騒いで眠れないということがなくなった。

 恵は週末になると、母親とS市まで買い物に行くこともあるらしい。恵の母はふわりとパーマのかかった茶色の髪で、裾の広がった大きな花柄のワンピースをよく着ていた。島では恵の母以外にそんな格好をしている人は見かけない。

「トミノのママさんは派手かねぇ」

「水商売やけん、仕方んなかやろ」

「昔ここに住んどったことのあるち聞いたけど、ほんなこつかね。わたしゃあげん人のおったとは覚えとらんばい」

「一時期おったとはおったとらしかけどね。本田さんとこの、ほら、従姉ん人かなんかで、出戻りの人のおったろ。あん人の連れ子で、離婚してすぐん頃に――」

 時々、近所のおばさん達のそんな話を耳にした。おばさん達が恵の母をあまり好いていないことは、声を聞けば分かる。だけど恵の母は決して感じの悪い人ではない。恵よりももっと異星人みたいでどう話せばいいのか分からないが、少なくとも久志は嫌いではなかった。

 恵と同じに、恵の母も綺麗な顔立ちをしている。そもそも恵が母親似なのだ。

 恵の母は店が開いていないとき、店のドアの傍に寄りかかって、風に眼を細めながら煙草を吸っていることが多かった。久志は煙草を吸う女の人も見たことがないし、そんなふうに眼を細める人も見たことがない。煙草の臭いにはいつも、香水の香りが混ざっている。

 母や他のおばさん達のように日焼けもしていない真っ白な肌。煙草を持つ手も白くて指が細い。そして恵が帰ってきたことに気付くと、歌うような声で「お帰りぃ」と言って、久志にも声をかける。

「めぐちゃんと仲良くしてくれて、ありがとね」

 そうして声をかけられる度に、久志はテレビの中の人と話をした気分になる。

 恵の母が嫌われるのは、多分、彼女が恵よりもずっと宇宙人だからだ。宇宙人は何も悪いことをしていなくとも怖がられる。――あの映画みたいに。きっとそういうものなのだろう。

 恵はそうではない。島の中を久志と恵が連れ立って歩いていても、みんな同じように声をかけて、親切にしてくれる。相変わらず新品の服を着て、髪型もこの辺りの男の子とは違っているけど、ほんの少し日に焼けた気がするし、言葉を覚えようとしているようだ。

「今日はどこで遊ぶ?」

「俺ん家の前の階段のとこでさ、貝ば採らん? ミナ貝ば食うたことのなかち言うとったやろ?」

「でもこんな季節でもほんなこつ、採れるの?」

 思わず噴き出してしまったら、恵が唇を尖らせた。

「笑うことないだろ? ひさちゃんが言葉を覚えろって言ったのに」

「うん、上手かよ。でも少し変かったい。そげんときは、『ほんとに採れると?』でよかったい」

「ほんなこつ、じゃなくて? どうやって使い分けてるの?」

「……うーん。そう言われると分からんごとなった」

 実際、意識して使い分けてる訳ではない。

「どっちでもよかとかなあ。考えるとほんと分からんごとなるね」

「今のは『ほんと』だった」

「……ほんとだ」

 二人は顔を見合わせて笑い合う。

「えーっと。何の話ばしよったとやったっけ?」

「ミナ貝の話。えっと……ほんとに採れると?」

「ほんなこつ。潜った方が大きかとのいっぱい取れるとけど、まだ寒かしね。夏ほどは見つからんやろけど、引き潮ん時やったら、岩の隙間にもおるとの採れるけん」

 当たり前みたいに返事をしたけど、顔を見合わせあったら笑ってしまった。何がおかしいのか自分でもよく分からなかったけど、何故か嬉しかった。恵も少し照れくさそうに、でも嬉しそうに笑っている。

「そいじゃあ、一回家に帰ってランドセルば下ろしてきて、それから俺ん家の前でな」

「うん!」

 恵と一度別れ家に戻る。勉強部屋に飛び込んでランドセルを置いてすぐに、階段を二段飛ばしで駆け下りた。

「お母ちゃん、おやついらん。遊びに行ってくるけん!」

「あれ忙しかねえ。どこに行くとね?」

 暖簾越しに顔を出した母は、割烹着の裾で手を拭いながら目を丸くしている。

「恵と一緒にミナ貝ば採ってくる!」

「寒うなかね」

「今日、外はぬくかよ。このくらいやったら平気」

「ならよかけど。――ひさちゃんは最近、富野さん家の恵君とばっかり遊びよっとなあ」

 玄関先で靴を履いていた久志は、母親の声に僅かな翳りを感じて手を止めた。

「そうやけど、いけん?」

「……そげんことなかよ。転校してきたばっかりで寂しかやろけん、仲良うしてやり」

 母は微笑んで久志の頭を撫でた。


 玄関を出て目の前の道の向こうには、何のためにあるのか、海に入る階段がある。五段ほどのコンクリート製の階段は、下りると二メートル四方ほどの広場になっていて、その外はもう岩場だ。

 広場は満潮時には波の下になる。夏はここで泳ぐこともあった。この辺りの岩は比較的小さいし、少し歩けばすぐに深くなるから泳ぎやすいのだ。親戚の家に遊びに行ったとき、遠浅の砂浜で泳いだこともあるが、行けども行けども泳げる深さにならなくて面倒だった。

 堤防にはびっしりとフジツボが張り付いている。引き潮だからゆらゆらと光る波を透かして、岩が透けて見えた。岩の隙間には小さな黒い巻き貝がある。

「恵、これがミナ貝。分かる?」

「この三角の?」

「そうさ」

 靴と靴下は、階段の上に置いてきた。くるぶしまで水に浸かって、久志は手を伸ばす。水は冷たいが凍えるほどではない。小さな貝は、簡単に岩からもぎ取れる。岩を離れる寸前、貝の中身が岩を慕うようにせり出して、ぷつんと手応えを残して離れた。

 取りあえずふたつ取って、手の平に乗せると、恵は物珍しげに見ている。

「これ、どうやって食べるの?」

「爪楊枝持ってきたろ?」

「うん」

「それで引っ張り出して、潮水につけて食うったい」

「えっ、生で?」

「うん。そいが一番美味うまかもん」

「……でもこれ、生きてるけど」

「刺身でも生きとるうちにさばくやろ?」

「……そ、そっか。そういうものかなあ」

 恵に手渡された爪楊枝で、中身を抉って出す。海水で軽く洗って差し出すと、恵はおっかなびっくりの様子で受け取った。そして、そのまま動かない。

「食わんと?」

「……食べる、けど」

「恐かと?」

 にやにやしながら訊いてやったら、恵はしかめっ面になって一気に貝を口に入れた。

 どことなく必死さが漂う形相で噛みしめているのがおかしい。でも次第に肩の力が抜けてきたから、眼を細める。

「美味かろ?」

「うん!」

 勢い込んで頷いているのがおかしい。子どもの頃から誰もが食べるおやつなのに、宇宙人の恵には珍しいのだ。

 二人ともしばらくの間は、岩場を巡って貝を捕ることに専念した。ポケットに突っ込んできたビニール袋に、久志は貝を放り込む。生で食べても美味しいが、塩ゆでにしても美味い。母へのみやげにするつもりで集めていたら、後ろの方で恵が小さな悲鳴を上げたのが耳に入った。

「どげんかした?」

 恵は防波堤に手をかけて、自分の膝を見ている。白い膝頭に擦った後が幾筋か残っていて、血が滲んでいた。

「擦りむいたと?」

 恵は無言でこっくりと頷いたと思ったら、その両目からみるみるうちに大粒の涙が溢れだす。

「わっ、そげん痛かと?」

 首を振って唇を噛んでいるが、涙は止まるどころか勢いを増している。いくら恵が泣き虫でも、さほど痛くもなさそうなこの傷で、こんなに泣くなんて変だ。

「とにかく、俺んち行こ。母ちゃんに薬ば塗ってもろたら、すぐ治るけん」


 ただいま、という久志の声に、普段なら台所から顔を出すはずの母は、姿を見せなかった。

 恵はずっと泣きじゃくっている。裏口から風呂場に入り、ひとまず足を洗う。居間の座布団に座らせて一通り家の中を見回ってみたが、やはり留守にしているようだった。

「母ちゃん、おらんごたる。多分、里中のおばちゃん家ばい」

 恵は顔を真っ赤にして、不安そうに久志を見上げた。

「そげん顔ばせんでよかとよ。俺がちゃんと薬ば塗ってやるけん」

 踏み台に上って、棚の上にある置き薬の入った救急箱を手にすると、恵がしゃくり上げながら言いだした。

「フ、フジツボで、膝を擦りむいた子の、膝の、皿に……」

「うん?」

「……フジツボがぎっしり、生えた、って話、聞いたことない……?」

 畳の上に下りた久志は、思わず噴き出す。

「そげんとは、ただの噂ったい。泣くなって」

「泣いてないよ!」

「へっぱー」

 久志が笑ったら、恵が目を丸くした。

「……へっぱ?」

「嘘、っちゅーことたい」

「……本当に変わった言葉が多いなあ」

 恵は口の中で、へっぱ、へっぱ、と繰り返しているようだ。それがなんだか嬉しくて、つい笑ってしまった。

「恵は泣き虫ばい」

「ひさちゃんだって。映画館出た後、僕と同じくらい泣いてた」

「俺は最近泣いとらんもん」

 恵は唇を尖らせている。

「何か狡いなあ、それ」

「恵の泣くけん泣く気ばなくすったい。そげんとなか? 誰かの怒りだしたら、怒る気ばなくすとかさあ」

 恵は「ああ」と呟いて、納得したように頷く。

「あるね、そういうの。僕もお母さんが癇癪起こすと、しらけるから分かる」

「……癇癪って、恵の母ちゃんが? いっつもにこにこして、あげん綺麗にしとらすとに?」

 いつの間にか泣きやんでいた恵は、大人びた仕草で肩を竦めた。

「悪酔いするときがあるんだ。それにああいう仕事してると、嫌なこともあるみたいでさ」

「ふうん……」

 擦り剥いた膝に赤チンを塗ってやって、ついでに遊んでいくかと訊いたら、恵は頷いた。

 二階の久志達の部屋に案内すると、物珍しげに本棚を見回している。

「ねえ、ひさちゃん。あれ何の本?」

 恵が指さしたのは、本棚の上だった。

「姉ちゃんの読みよるったい。少女漫画やって」

「へえ。でも、どうして紐で縛ってあるの?」

「……知らん」

 久志が盗み読みばかりするからだとは、さすがに言えない。

 不思議そうに紐で縛られた漫画を見上げる恵の横顔を、こっそりと覗き見た。何となく漫画の中のキスシーンを思い出す。

 恵は唇の形が綺麗だと思う。美人の母親に似たからだろうか。

「……なあ、恵はさあ。キスとかしたことある?」

 恵は驚いた顔で振り返った。

「……あるけど、なんで?」

「したことあると! 誰と?」

 本棚の前に立つ恵に詰め寄ると、恵は少し赤くなって項垂れた。

「……お母さん」

 久志は拍子抜けして肩を落とした。

「へ? お母さん?」

「酔っぱらったら誰にでもするんだ。すごく嫌なんだけど。内緒だよ」

「うん」

 あの美人の母親と恵がキスをした。それは妙に胸をざわつかせる話だった。恵は本棚に目を戻す。

「ひさちゃんは、したことあるの?」

「……なかけど」

「ふうん……」

 少しの間、気まずい沈黙が下りる。恵がぽつりと切り出した。

「……試しにしてみる?」

 久志が目を見張ると、恵は急に気まずそうになった。

「あ……えっと、変なこと言ってごめん。ただの思い付き――」

「いや、実は俺も同じことば言おうかと思うとった」

「……あ、そうなんだ?」

 恵は一瞬笑いかけて、すぐに真顔になった。少し照れくさそうに目を逸らしている。久志はそろそろと恵の前に行き、顔を覗き込んだ。

「してよかと?」

「うー……うん」

 自分から言いだした癖に、恵は少し赤くなって目を伏せる。久志も己の頬が熱くなっているような気がした。

 そろそろと手をのばす。肩に触れると、恵は驚いたようにぴくんと跳ねたから、久志も心臓がどきりと鳴った、

「ほ、ほんとにするばい」

「……うん」

 顔をそろそろと近付ける。他人の顔をこんなに間近に見るのは初めてだ。久志の方は恵の顔を見ているのに、恵は俯いたままだ。

 それでも久志が恵の肩を掴むと、肩を震わせて顔を上げた。

 ――まつげが濃くて長く、伏せられた瞼が薄い。いつも綺麗な二重の辺りは、わずかに色が濃かった。

 恵は顔を真っ赤にしている。それよりもふっくらとした唇は赤くて、これから自分がそれに触れるのだと思うと、急に心臓が止まりそうになった。

 ――どうしよう。顔はもう互いの吐息が感じられるほど近いのに、これ以上近付けられる気がしない。唇と唇の間に見えない壁があるみたいだ。

 ――本当にしてもいいのだろうか。

 漠然とそんな不安が胸をよぎった。これは悪い事なのではないかと、罪悪感に似た思いが手を震わせた。

 でも、したい。せっかく恵がしていいと言っているのに、気を変えてしまったら嫌だ。

 久志は目をぎゅっとつぶる。残りの数センチはそのままぶつけてしまおうと、息を止めたときに怒鳴られた。

「お前ら、何ばしよっとか!」

 目を開ける間もなく殴られた。今までに食らったことがない強烈な張り手に吹き飛ばされた。背中を壁にぶつけて、息が止まる。

 頬には強い痺れがある。口の中には血の味がした。燃えるように熱くなったかと思うと激しく痛み出して、理性が止めるよりも早く、久志は泣き声を上げていた。

「何の音ね!」

 階段を駆け上がる音と共に母が姿を見せる。

「ひさちゃん……!」

 母は悲鳴じみた声を上げて、滑り込むように頬に手を当てて泣く久志の前に膝をついた。

「あんた、なんでひさちゃんば殴ったとね!」

「久志がろくでもなかことばしよったったい!」

 父の胴間声は、母の悲鳴じみた非難を圧倒するほどに大きかった。

 涙で歪む視界の端に恵がいた。大きな目をさらに丸くして、真っ青になって震えている。もう少しで触れそうだった唇はわなないて、顔は涙でしとどに濡れていた。頭が混乱していて、泣くことだけに精一杯だ。恵に何か言わなければならない気はしたのに、なにひとつ思いつかない。唇からは、この数年出したことのない、赤ん坊じみた鳴き声しか出てこない。

「はよ帰れ」

 父が立ち尽くしたままの恵の肩を押す。

 恵は一度、何か言いたげに口を開きかけたが、父の方が早かった。

「はよ帰れっち言いよるやろが!」

 恵は顔を歪めると背中を丸めて部屋を出て行く。それが余計に悲しくて、久志は声を大きくして泣き続けた。


 壁にぶつけた背中は大したことはなく、次第に痛みも治まった。だが頬には父親の大きな手形がくっきりと残って、ずきずきと痛む。母が冷凍庫から出してきた氷枕をタオル越しに当てたまま、久志は二階に追いやられる。階下からは父と母が何やら言い合っている声が続いていたが、しゃくり上げる己の声がうるさくて、何を話しているのか、はっきりとは聞こえなかった。

 開け放った窓の外からは、穏やかな波の音が聞こえている。空は少しずつ夕暮れの色に近付いて、波が反射する光も黄金に染まり始めていた。見ているうちに次第に息が整ってくる。夕風は優しく吹いて、久志の体温を冷ましてくれた。

 ようやく涙が止まってきたところで、荒々しい足音が聞こえる。反射的に身を竦めたが、足音は二階へ上がることなく、外に向かっているようだ。乱暴に戸を開ける音がして、そのまま外に出ていった。

 見つからないようにそっと覗くと、父が肩を怒らせてどこかに歩いて行くのが見える。島の中央に向かうようだから、もしかしたらスナックに行くのかと思うと、また肝が冷えた。

 恵のお母さんに今日の事を言うのだろうか。あの綺麗なお母さんに次に会ったとき、嫌な顔をされてしまったらどうしよう。

 唇を噛みしめていると、階段を上る密やかな足音が聞こえた。これは母の足音だとすぐに分かる。

 母は部屋に入ってくると、静かに久志の隣に腰を下ろした。

「どれ。ほっぺたば見してみんね」

 氷枕を取って頬の様子を確かめると、母は柔らかく笑った。

「腫れは少し引いたね。こげん力いっぱい殴られたとは初めてで、びっくりしたやろ?」

 実際、母の言う通りで、今まで拳骨で軽く殴られることはあっても、倒れるほどに叩かれたことはなかった。

 だがそう答えることは出来なかった。今はなにも話したくない気分だ。母に視線を向けることもなくふて腐れたままの久志に、苦笑する気配がした。

「ひさちゃん。婆ちゃんの墓参りに行こ」

「……今から?」

 唐突だ。墓参りは盆の晩以外は昼間に行くものと相場が決まっていて、こんな時間に寺に行こうと言われるのも初めてだった。

「陽の落ちるまでには帰ってくるけん、怖かことはなかよ」

「でも……」

「よかけん、おいで」

 手を引かれると、もう嫌だとは言えなかった。


 寺は入り江近くの小高い山を少し登ったところにある。山肌に築かれた階段と、それを登った先にある山門は、子供の頃からの遊び場だ。境内の中の大樹は子供にも登りやすい枝振りで、虫を捕るのにも都合が良い。だが冬の今はどこか寒々しくて、墓石も冷たく見える。

 母は外に久志を待たせて、境内の隅にあるお坊さんの家に挨拶に行く。それから久志を呼ぶと、バケツとひしゃくを手に、また階段を登りはじめた。

 その階段は山肌を巡り、墓地へと繋がっている。墓石に掘られた名字は種類が少ない。この辺りの家は、大抵がどこかしらで血が繋がっていて、山全体が親戚の墓地のようなものだった。そのせいだろうか。久志は墓地をあまり怖いと思ったことがない。

 母は途中に設置された水道でバケツに水を汲み、久志に持たせる。奥に入って少し木立の残る辺り、その一画に麹屋家の墓があった。

「婆ちゃん、挨拶に来たよ」

 母は言いながらバケツから水を汲み、墓石にそっとかけていく。手入れの行き届いた墓石は、水に濡れると黒々と光った。

 水入れを洗い新しい水に替え、線香を立てて火を灯す。跪いて手を合わせ、久志にもそれを促した後で、母は墓石に目を向けたまま言った。

「ほっぺた、痛かったやろ」

「……うん」

「婆ちゃんはよう言うとらしたよ。ひさちゃんのお父ちゃんは、遅くに出来た跡取り息子やったけん、少うしばかり甘やかしてしもたって。お父ちゃんは悪か人間じゃなかとけど、怒ると加減の分からんごつなるところのあるけんね」

 母が父のことをこんなふうに話すのを初めて聞いた。

 父が気難しい人だということは、久志も子供ながらに感じてはいた。母がいつも父を立てて気を使っていることも、次第に分かるようにもなっていた。だが母は今まで一度も、父についてこんなふうに語ったことはなかったのだ。

「――なあ、ひさちゃん。あんた恵君とキスしよったとって?」

 父から聞いたのだろう。

「し……、しとらんよ。そりゃ、真似はしたけど」

「でもお父ちゃんの来んかったら、しとったっちゃろ?」

 久志は答えず、気まずく黙り込んだ。

「婆ちゃんの泣くよ。ひさちゃんが男ん子ば好きになったっち言うたら」

「……別に、好きになったとか、そげんとじゃなかもん」

 ようやく口から出た言葉はそれだった。だが口にした途端、胸がちくりと痛んだ。ひどい嘘を吐いた――そんな気がしてならなかった。

 母は黙って墓石を見つめている。その沈黙が怖い。久志が痺れを切らして、何でもいいから口にしようとする頃になって、ぽつりと言った。

「お母ちゃんな、もう恵君とは、遊んで欲しゅうなかとよ」

 ――聞いた途端、横殴りにされた気がした。父の張り手よりもずっと痛い言葉だった。

「な……何でお母ちゃんまでそげんこと言うと? あげんと、ただの遊びやん。ふざけとっただけとに!」

「……ごめんな、ひさちゃん」

 母は俯いて手の平に顔を伏せた。肩が小刻みに震えている。

 自分が母を泣かせたのだということに気付いた途端、久志にはもう、何も言えなくなってしまった。

 叱られるよりも心が痛い。父のように叩いてくる方がまだマシだ。怒鳴られる方が謝られるよりも気が楽な場合もあるのだと、生まれて初めて知った。


 母は少しすると立ち上がり、「帰ろうか」と久志の手を引いた。目には泣いた跡があったが、笑顔を浮かべていた。

 家に戻るとまだ父は帰ってきてはおらず、母は当たり前のように夕飯の準備をし、中学校から帰ってきた秀美と三人で夕食を食べる。それから風呂に入り勉強部屋に戻ると、机に向かって教科書を開いていた秀美が、久志に背を向けたまま言った。

「なあ、久志」

「なん?」

「そのほっぺた、お父さんに叩かれたとね」

「……うん、ちょっと怒られた。そいがどげんかした?」

 秀美は教科書を閉じて振り返る。しばらく言葉を探すふうだったが、眉をひそめて言った。

「漫画と現実は違うとやけん。弟がホモになったやら言われたら、ちっとも嬉しゅうなかとよ」

 ――弟がホモになった。

 胸に痛い言葉だった。でも、自分も秀美に言ったのだ。ホモの漫画なんて気持ちが悪いと、確かに言った。

「……姉ちゃん、誰に聞いたと?」

「聞こえたったい。あんたが風呂に入っとる間にお父さんの帰ってきて、お母さんと喧嘩しよったけん」

「お父ちゃんは?」

「また出て行った。隣かスナックかに行ったっちゃろ」

 それきり秀美は何も言わない。気まずくなって、久志は口を開く。

「別にホモになった訳じゃなかもん。ちょっとホモの真似っこばしよっただけとに。ただの遊びたい」

「……ふうん?」

「お母ちゃんまで、恵と遊ぶなとか言い出すしさあ。みんな大げさやん」

 胸が痛い。ずきずきと痛んで息が苦しくなるくらいだ。

 ひとつ言葉を口にする度に、やっぱり罪悪感があった。恵の顔が頭の中をちらちらして、訳もなく謝りたい気がしてしまう。嘘を吐いている気がどうしてもする。

 姉に軽蔑されるのも父親に殴られるのも嫌だ。母を泣かせること、謝らせることはもっと嫌だ。だけど恵に辛そうな顔をされるのも、同じくらいに嫌なのだ。

「――あんなあ、久志。父ちゃんはなあ」

 秀美はいつの間にか机に向かっていたが、階下を憚るように小声で言った。

「……なん?」

 それきり黙り込んでしまったので促すと、秀美には珍しく、迷う様子を見せて続ける。

「……父ちゃんはな、浮気ばしよっとよ。トミノのママさんと」

 久志は言葉をなくした。店の壁に寄りかかり、眼を細めて煙草を吸う恵の母の顔が思い浮かんだ。

「え……。な、なんで? なんでや。お父ちゃんは、お母ちゃんのこと好かんごとなったと?」

「知らんよ、そげんこつは。でもトミノのママさんは、子どもん頃、ちょっとだけこん島におったことのあるとって。お父ちゃん、そん頃からママんことば好きやったって、お母ちゃんに言いよったとばい」

「姉ちゃんはなんでそげんことば知っとうと?」

「この間、下から聞こえてきたったい。あんたは寝とったけん、知らんやろうけど」

 この家には、ドアなんてひとつも無い。一階の天井と二階の床は近くて、眠っているときには、下の部屋の話し声がよく聞こえてくるのだ。

「そいやけん、母ちゃんはトミノん家の子と遊ぶなって言うったい。……母ちゃんの気持ちも、少しは考えてやりぃよ」

 その夜、久志は生まれて初めて胸苦しくて眠れなかった。その日一日に起こった出来事が頭の中で渦を巻いて、苦しくて息が出来なくなりそうだった。

 泣いた母の肩が震えていたこと、やけに背中が小さく見えたこと。

 父はもう母のことを好きではないのだろうか。何故浮気なんてするのだろうか。母は久志が恵と遊ぶ度に、どんな気持ちでいたのだろう。

 秀美は弟がホモになったら嬉しくないと言った。『婆ちゃんの泣くよ』と母は言った。祖母は本当に悲しむのだろうか。

 ――もし久志が恵を好きになってしまったら、父も母も秀美も死んだ祖母も嫌な思いしかしないのだろうか。

 そんなにも……そんなにも自分は、悪い事をしたのだろうか。

 外の波音も漁船のエンジン音も、今日は少しも心を慰めない。窓越しに差し込む船の灯りが目にうるさくて、久志は頭から蒲団をかぶる。

 叩かれた頬はいまだに痛くて泣きたい。母の気持ちを考えろと秀美は言う。その夜は一晩中、寝た気がしなかった。


「……ひさちゃん」

 翌日、学校に行くと、先に来ていた恵がすぐに話しかけて来た。

「ひさちゃん、あれから大丈夫だった?」

「うん。恵はどげんやったとや」

 父がスナックに行って、恵の母に何か話したかもしれないのが気に掛かっていた。恵は少し表情を曇らせる。

「ぼくは……まあ、大丈夫。叱られたりはしなかったよ」

「……そうね」

 久志の方は叱られたり責められたり泣かれたりしたのに、恵の方は何もなかったというのが理不尽に思えた。恵が悪い訳ではないと分かっているのに、恵の顔を見る気になれない。

「ほっぺた、まだ痛い?」

「……いや」

 腫れは朝になっても残っていて、ガーゼを貼って隠してきた。

 昨夜はいつの間にか眠っていたようだったが、目が覚めても気持ちは暗いままだった。恵にはああ言ったが、頬はいまだに熱を持って痛む。

 ――これからどうするかは決めてある。多分、これが一番良いのだろうと思っている。だがそれを実行するのは、とても気が重いことだ。

「……あんさあ。給食ば食べた後に話のあっとけど、よか?」

「うん、いいけど」

「じゃあ、後で」

 言い終わった頃に健次が教室に入ってきた。久志は恵をその場に残して健次の元へ歩み寄る。

「おはよう、健ちゃん。ジャンプ読んだ?」

「読んだよ。ひさちゃん、そのガーゼどげんしたと?」

「父ちゃんに叩かれた」

「ガーゼば貼らんといかんくらい叩かれるとか、なんばしたとね」

 適当な返事で誤魔化ししながら横目で見ると、恵は暗い顔をして肩を落とし、自分の席に戻るところだった。


 その日の休み時間は健次達とばかり話して、一度も恵と話さなかった。二人の様子がおかしいことには周りも気付いているようだったが、触れるに触れられないといった様子で、誰も口を挟もうとはしなかった。一度だけ健次が「富野はよかとや」と問いかけてきたきりだ。その健次も、久志が「よかと」と答えると、それ以上は何も言わなかった。

 恵がひとりで寂しそうに本を読んでいたことには胸が痛んだ。まるで虐めているようで気分が悪い。だが恵も他の級友に話しかけるでもないのだから、久志ばかりが悪い訳ではないと考えようとした。そう思うことがまるで言い訳だと感じて、それもまた嫌な気分だ。

 給食を食べ終え片付けを終えると、久志は恵を伴って体育館の裏に行く。数年前に立て替えられた体育館は、まだ真新しくて綺麗だ。先週の休みにPTAが草刈りをしたばかりだから雑草もなくて、体育館裏は少し景色がよそよそしい。

 神妙な顔でついてきた恵は、人気がなくなると自分から口を開いた。

「ひさちゃん、話ってなに?」

「……俺さ。俺、もう恵とは、休みの日には会わんけん」

 恵は黙って久志の言葉を聞いている。久志の言っていることの意味が分かっているのかいないのか、無表情な面からは判断がつかない。

 それで久志は、付け加えるしかなかった。

「もう恵と一緒には遊ばん」

 ――恵の大きな目から、不意にぽろりと涙がこぼれ落ちた。

 息が止まった。大粒の涙は次々にあふれて、恵の白い頬を濡らしていく。

 無表情だった恵の顔が歪んでいくのを見ていられなくて、逃げるように背を向ける。校舎に入る前に肩越しにちらりと見たら、恵は顔を腕で擦りながら、泣き続けていた。

 ――泣かせた。また泣かせてしまった。

 昨日は母を泣かせ、今日は恵を泣かせた。恵に酷いことを言って泣かせたのは二度目だ。

 誰かを泣かせたい訳ではないのに、どうしてこんなことになってしまうのだろう。でも久志には、これ以外にどうすればいいのか分からなかったのだ。

 恵は昼休みが終る頃に戻ってきた。必死になってこらえているようだったが、恵はまだ泣いていて、目は真っ赤に腫れている。

「どうしたとか」という担任の問いにも首を振り、何も答えようとはしなかった。久志は五時間目の休み時間に職員室に呼び出され、喧嘩をしたのかと問われたが、違うと答えた。

 喧嘩をした訳ではない。ただ一方的に絶交を言い渡しただけだ。胸がずきずき痛んで苦しい。

 掃除の時間になって教室の掃除を始めると、同じ班の健次が他の者には聞こえないようにひそひそと問いかけてきた。

「ひさちゃん、富野と喧嘩したとや?」

「――違うけど」

「じゃあなんで富野と話さんと? 富野の泣きよったとは、ひさちゃんの富野と話しばせんけんやろ?」

 答えたくなくて顔を背けた。健次は久志の様子をじっと見ている。

「富野と絶交したと?」

「……もう遊ばんことにした」

 ようやくそれだけを答えると、健次は鼻を鳴らした。

「なんで?」

「なんででんよかやろ。健ちゃんには関係なかろもん」

「なら俺が富野ば取るばい」

 久志は目を見開く。思わず健次を睨み付けていた。

「……取るってなんや」

「取るけん取るっち言うたったい」

「恵は物じゃなかとやけん、取るとか言うとおかしかやろ」

「でもひさちゃんは富野ば取られると嫌やろうもん」

「――知らん!」

 にやつく健次を見ていたら、無性に腹が立って背を向けた。バケツの前にしゃがみ込んで雑巾を洗っていると、傍らに人の気配を感じて顔を上げる。校庭掃除の班だった恵が、掃除を終えて戻ってきたところだった。胸元に手を当てて、物言いたげな顔をして久志を見下ろしている。だが久志が目を逸らすと、拳を握って立ち去った。

 帰りの会はいつも通り、女子が男子のいたずらを先生に言いつけ、先生が軽く叱って終る。誰かが久志と恵のことを口にしたらと心配していたのだが、幸いそれはなかった。もしかすると、誰もがその問題に触れるのに戸惑っているのかもしれなかった。――唯一、健次を除いて。

 担任が教室を去り、皆が三々五々、帰り支度を始めると、健次は教室中に響き渡る大声で恵を呼んだ。

「富野!」

「……なに?」

 暗い顔でランドセルを背負いかけていた恵が顔を上げる。

「今日、俺んちに遊びん? うち、漫画のいっぱいあるけん、読みに来ればよかよ」

 恵は泣き腫らした赤い眼を瞬かせる。健次の顔をまじまじと見て、ちらりと久志に視線を向けた後に項垂れた。

「……ごめん、行かない」

 恵はそのまま帰っていく。背中に背負われたランドセルが大きく見えた。

 ――恵は悲しそうなのに、健次の誘いを断ってくれたことにほっとしている自分を、心底嫌いだと思った。



 それから二週間ほどが過ぎ、柱にかけられた日めくりは十一月の物に変わった。島に吹く風も次第に温んで、春休みも間近だ。

 恵は相変わらず教室ではひとりだ。人に話しかけられれば会話をするし、仲間はずれになっている訳ではないが、自分から誰かに話しかけることは、めっきりなくなってしまった。休み時間になると大抵、図書室から借りてきた本を読んでいる。

 恵と遊ばなくなって、久志もまた、誰とも遊ばなくなってしまった。

 休み時間は健次達と話す事もある。だが元々健次のグループは、山をひとつ挟んでもうひとつの港の住人ばかりで、家に戻ると遊び相手はいない。

 それでも構わなかった。健次の家に漫画を読みに行かないかと誘われることもあったが、全て断った。恵にひどいことを言った自分が、遊びに行くのは悪いことだと感じていた。恵がひとりでいるから尚のことだ。

 その日も学校が終るとひとりで帰り、ひとりで絵を描いて過ごした。晩ご飯を食べて食器を下げ、プロレスを見ている父がいる居間に残る気にもなれず背を向ける。だが二階に上がろうとして階段に足を乗せたところで呼び止められた。

「久志。ちょっとこっち来んか」

「……なん?」

 食器の後片付けで姉と母は席を立っている。座卓の向かいに腰掛けると、父は目をテレビに向けたまま声をひそめた。

「お前最近、富野ん家の息子とは遊んどらんとか」

「……うん」

 咄嗟に身構える。下手なことを答えると、また殴り飛ばされてもおかしくない。めくり上げたシャツの袖口から覗く父の腕は、筋肉で縄のように盛り上がり、煉瓦のように赤く日焼けしている。

「なんでや?」

「……もう遊ばんって決めたけん」

「なんでや?」

 もう一度、同じ言葉で訊ねる父の声は、アルコールに灼けてしわがれていた。

 なんと答えれば気に入られるのだろうか。咄嗟にそんなことを考えていた。

 遊んで欲しくないと言われたから? 女みたいで気持ち悪いから?

 どれも口にしたくない。特に後者は自分の考えではないのだから、口にしたらただの嘘だ。

「……別に。理由は無かけど」

「…………そうね」

 父はそれっきりプロレス中継に目を向けたまま何も言わなくなったので、久志はそろそろと席を立って二階の勉強部屋に戻った。しばらくすると洗い物を終えた秀美も戻ってきて勉強机に向かう。下からは浴室の引き戸を開ける音が聞こえたから、父が風呂に入ったのだろう。父は入浴後、船で漁に出るのが習慣だ。これからしばらくは、家の全員が気が抜ける時間になった。

「なあ、久志」

「なん?」

 描きかけの絵から顔を上げると、秀美が肩越しに久志を見ていた。

「お父ちゃん、トミノのママさんに振られたらしかよ」

「……ふうん」

 それが良いことなのかは久志には分からない。特別に嬉しいとも思わなかったし、当然、悲しいとも思わなかった。

 母にとっては良いことなのだろうか。少しはほっとしたのだろうか。

 秀美は鉛筆を指先で回しながら笑う。

「久志は恵君と兄弟になり損なったねえ」

「……なんや、それ」

「だってそうやん。お父ちゃんがトミノのママさんと上手くいって、お母ちゃんと離婚してあっちと再婚とかっちことになりよったら、あんた恵君とは兄弟ばい。ずっと一緒におられたやん」

 ぐるぐると得意げに回る鉛筆が忌々しくて、久志は姉から目を背ける。

「――そがんと、誰もなりたかち思うとらんばい。俺はみんなに言われた通り、もう恵とは遊んどらんとやけん、そいでよかやろ!」

 吐き捨てるように言って、久志は絵の下書きを乱暴に消した。強く消しゴムを押しつけすぎて、描きかけの風景画が画用紙ごとぐしゃりと歪む。

 視界の端でちらちらと踊っていた鉛筆の動きが止まった。口の達者な姉にしては珍しく言葉を探しているようだったが、久志が乱暴に絵の具を片付け始めると、それ以上声をかけては来なかった。


 翌日の土曜日は午前の授業が終って家で昼食を終えると、久志はとうとう何もする気になれなくなってしまった。

 恵が来る前はどうやってこの時間を過ごしていたのだろう。ほんの少し前のことなのに、何故だか思い出せないのが不思議だ。他の友達の家に遊びに行ったこともあったはずだが、毎週の話ではなかった。

 先週の土曜日もひとりだったが、何をしただろう。絵を描いていたのだろうか? ――そうかもしれない。だけど今は画用紙を目の前にしても描く気になれない。

 これが夏ならば泳ぎに行くところだが、窓の外に広がる海は荒れて波が高い。それでなくともまだ冷たい海で泳ぐ気にはとてもなれないし、母も許してくれないだろう。

 父はどこかに飲みに出ているのか漁に出ているのか、家にいない。秀美は友達の家に遊びに行っている。

 一階に下りると母は繕い物の最中だった。久志は階段の一番下に足をかけたまま、母の様子を見る。

 家の階段は軋むから、人が上り下りすると音ですぐに分かる。だが今日の母は久志が下りてきたことにも気付かない様子で、手元に目を落としたままだ。

 だが針を持つ手はさっきからずっと止まっていた。何か考え事をしているのだろう。母は最近、こんなふうに物思いに耽っていることが増えたようだ。一体何を考えているのだろう。

 そうして見ていると、母は不意に気付いた様子で顔をあげると、久志に笑いかけた。

「あれ、ひさちゃん。退屈しとるとかね。りんごでも食べる?」

「……自転車に乗ってくる」

 何とはなしに思いついた言葉だったが、自分でも良い選択だと思った。

 風は強く空には雲がかかっている。天気はこれから荒れそうだ。だが自転車に乗って強い風に吹かれれば、もやもやした気持ちも、少しは飛んでいくかもしれない。

「風の強かよ。雨も降るごたるし」

「大丈夫。雨の降る前には戻ってくるけん」

 見送りに出てきた母に言って、裏の土間から自転車を引っ張り出す。表に回って自転車にまたがると、全力でペダルを漕ぎだした。

 しばらくは湾を巡って緩いカーブの道が続く。コンクリ造りの漁協、この辺りでは一軒きりの民宿に、赤い消防車が止まった消防団の詰所、港に泊まる船の数々。見慣れた景色があっというまに流れて行く。

 荒れ模様のせいか今日はあまり人に会わない。今夜の漁もないのだろうから、皆、外の仕事を休んでいるのかも知れない。

 U字型の湾の突端で道は一度、二手に分かれる。島の内奥に入る通りに抜けると、道は川沿いに真っ直ぐ続いて、村役場へと辿り着く。その向こうはすぐに山だ。

 単純すぎるその道が気分にそぐわない気がして、何気なく横道に逸れて走ったところで気付いた。このまま道なりに行くと『スナックトミノ』だ。

 ブレーキの音が静かな通りに響いた。

 この時間帯なら、きっと恵の母が店の前に立っている。煙草を吹かして眼を細めているのかも知れない。恵と遊ばなくなった久志を見て、彼女は何と言うだろう。

 ――顔を合わせる気にはなれない。

 やはり役場に続く道を行こうと自転車をUターンさせかけた時に、ごとりと重い音を聞いた。同時に小さく、誰かの怒鳴り声も。

 不穏なものを感じて音の出所を探す。どうやら材木置き場の陰からと気付いて、自転車をその場に置き、足を忍ばせて近付いた。

 壁に立て掛けられた幾枚かの板の隙間に、地面に倒れた少年の姿が見える。顔は板に隠れていたが、セーターを見た瞬間に直感した。きっとあれは恵だ。

 うずくまる恵に伸びてきた大人の太い腕が、恵の華奢な二の腕を乱暴に掴んで引き起こすのを見た途端、勝手に身体が動いていた。

「お前のおらんかったら――!」

 声を聞いたのと、久志が板を回り込んで二人の間に割って入ったのは、ほとんど同時だった。

 男の腕を恵からもぎ離し、顔を上げたところで息が止まるほどに驚いた。酔いも明らかに赤い顔をした父の姿がある。

 背後に庇った恵を咄嗟に見ると、頬が赤く腫れている。――この間の自分と同じように。

 全身がかっと熱くなって、震えが立ち上ってきた。頭の中が真っ白になるほどの怒りを初めて感じた。

「……なんばしよっとや」

「久志、お前なんでこげんとこに――」

「なんばしよっとかって言うとるったい!」

 拳を振り上げる。闇雲に振り下ろしたそれは、父の腹に当たった。

「恵に乱暴すんな!」

 乱れ打った拳は父になんの痛痒も与えなかった。ただ呆気にとられているのか、やり返す素振りもない。

「父ちゃんやら好かん! どっか行け!」

 全身の力を込めて突き飛ばしたら、父はわずかによろめいた。その拍子に足下の何かを踏んだようだ。背中に当たった板と共に、盛大な音を立てて倒れた。

 一瞬、血の気が引いた。だけど今は父のことを気にしている場合ではない。

「恵、こっち!」

 恵の手を引いて自転車の元まで戻ると、荷台に恵を乗せて走りだした。材木置き場はみるみるうちに遠くなり、父が追って来る気配はない。久志の腰にしがみついた恵が、心配そうに振り返っていた。

「ひさちゃん、おじさんが」

「あげんとどうでもよかっ!」

「でも――」

「どうでもよかけん!」

 久志は急カーブを曲がりながら声を張り上げる。そうしないと吹き付ける風に声が負けてしまいそうだった。

 行きよりも早く進む自転車は、あっという間に港に出る。右手に進めば家へ続く道。左手に進めば定期船の船着き場を越え、前に恵とスケッチをした海岸へと続く。久志は迷わず左手を進んだ。

 逃げる間際に視界の端に映った父は額を押さえていた。その指の隙間から赤い色が見えた気がする。

 ――あれを自分がやったのだ。

「ひさちゃん、危ない!」

 恵の声で我に返った。いつの間にかガードレールが途切れていて、自分が海に向かって突き進んでいることに気付いた。

 ガードレールの外は、岩の張り出た海だ。このままでは恵ごと落ちて、大怪我をさせてしまうかもしれない。――それだけはならない。断じて。

 ブレーキを握ると同時に海へ向けてハンドルを切ったのは、ほとんど本能的にやったことだ。

 回る視界の中で、道路側に放り出される恵を見た。迫る岩場と海の碧。久志は空色の自転車ごと、岩場に落ちていった。



「ひさちゃん! ひさちゃんっ!」

 気を失っていたのかも知れないが一瞬だったようだ。呼ぶ声に目を開けると、恵が泣きながら岩場に下りてくるところだった。見たところ、大きな怪我は無さそうだ。

「恵……痛かところはなかか?」

「馬鹿! ひさちゃんの方が大変だよ!」

 言われてようやく、鈍い痛みが全身を襲っていることに気が付いた。それに右の二の腕が熱い。視線を下ろすと腕に大きな擦り傷がある。

「ぼく、おばさん呼んでくる」

「いけん!」

 駆け出そうとする恵の足首を掴んだ。

「ひさちゃん、でも――!」

「このくらいどうってことなか」

 無理に起きあがると目眩がしたが、すぐに収まった。

「……血が出てるよ」

「大丈夫。いとうはなかし」

 恵が手を貸してくれたから立ち上がる。一番大きいのは岩で擦った腕の傷のようで、後はさほどの事も無いようだ。鈍痛はあったが動けないほどではない。頭も軽く打ったのかも知れないが、特に頭痛もなかった。

「自転車が……」

 恵の声に同じ方角を見ると、海に半ば沈んだ自転車があった。前輪のスポークが折れてあばら骨のように突き出てしまっている。岩から道に登るには、久志と恵の身長では岸壁を這い上がって道の上に戻るのがやっとで、自転車まで引き上げるのは困難に思えた。

「よかよ。……行こ」

 恵を促して道によじ登り、自転車をもう一度見下ろした。黒々とした岩に乗り上げ半ば水に浸かった自転車は、きっともう二度と風を切ることはない。だけど海に飲み込まれるには空色が鮮やかすぎる気がした。

「ひさちゃん、これからどうする?」

 ――どうすればいいのだろう。

 家には帰りたくない。父の顔を見たくはなかった。母にも姉にも会えない。ふたりは恵を見て良い思いをしないだろうし、恵のことを疎んじる二人に会わせたくもない。

 何よりせっかく恵と一緒にいられるのに、また離れるのが嫌だ。

 久し振りに二人だけで話して、強く思った。――もう離れたくないのだ。

「……逃げゆうか」

 他に言葉が思いつかない。恵は真っ直ぐに久志を見て、怖じる様子もなく言った。

「どこに?」

「取りあえずスケッチした岩場、行こうか。あすこなら洞窟もあっし、風も当たらん」

 恵はすぐに頷いてくれた。


 岩場はここから近い。少し歩くとすぐに赤い鳥居が見えて、回り込めばそこがもう目当ての場所だ。鳥居の所まで戻れば湾を挟んで久志の家が見える。

 だが湾を回り込まねば辿り着けない場所だから距離はあって、船着き場も行き過ぎたこんな島の外れには、あまり人も訪れない。隠れ場所としては悪くなかった。

 洞窟は波に抉られて出来た海蝕洞で、奥行きは浅いが風雨は多少しのげる。中に入って風の当たらない場所に腰を下ろし、それでようやく一息つけた。

 恵は久志が座るとすぐに、ポケットからハンカチを取り出し、血を流している久志の右腕に巻く。

「汚りゅうぞ」

「いいよ、そんなの。……痛くない?」

「あんまり」

 実際、激しい痛みではなかった。ずきずきと疼いてはいるが泣くほどではない。血は出ているがそれもきっと直に止まるだろう。

「恵こそ、いとうなかか?」

 恵の左頬は赤く腫れてしまっている。久志は手をそっと伸ばすと、指先で触れた。

「ごめん、うちの父ちゃんに殴られたっちゃろ?」

「うん。でも大した事は――」

「何のあったとや」

「……よく分からない」

 恵は途方に暮れた様子で、久志の隣に腰を下ろした。

「ひさちゃんのおじさんが店に来てさ。開店前だったけど、お母さんが中に入れた。大事な話があるからって言われて、僕は外に出てた」

「うん、そいで?」

「材木置き場のとこで、ひとりで遊んでたんだ。お客さんにボールもらって」

 恵がポケットから取り出して見せたのは、親指の先ほどの小さなボールで、よく弾むというので最近人気の物だった。島の駄菓子屋でも安く売っていて、久志もひとつ持っている。

「でもすぐに飽きちゃって。家に戻ろうかと思ってたら、ちょうどおじさんと会って。……おじさん、お酒飲んでたみたいだった」

「……うん。そいで、何て言われた?」

 恵は言い辛そうに口ごもる。

「気にせんでよかよ。……父ちゃん、恵に何ば言うたとや?」

「お前がいなかったら……みたいなこと、何度か言ってたかな」

 ――それは久志があの場で聞いたのと同じ言葉だ。

 それを父は、恵に繰り返し言ったのか。恵を平手打ちしながら言ったというのか。

「……ごめん、恵」

 恵は引き寄せた膝に額を押しつけ、項垂れる。

「ひさちゃんは悪くない。前にも言われたことあるから、気にしないよ」

「誰にそげん酷かことば言われたと」

「酔っ払ったときのお母さんだとか、お母さんの店のお客だとか。……お母さんのこと好きな人にとっては、僕は『余計なコブ』なんだってこと、僕だって分かってる」

 項垂れた恵の顔は見えなかったが、丸まった小さな背を見ていると悲しかった。それと同時に腹立たしい。あの綺麗な母親までもが、恵にそんなことを言うのか。

 ――だけど自分も恵に言ったのだ。もう遊ばないと、恵を遠ざけた。

「俺はやっぱり、恵のおらんと寂しかったよ」

 久志は恵の腕に触れる。

「恵、ごめん」

「え……?」

 恵はそっと顔を上げた。

「ごめん。……父ちゃんのことも、もう遊ばんっち言うたことも、全部ごめん」

 ――本当はずっとずっと、これが言いたかった。

 父に殴られた恵を見て思い知った。父が何を言おうと知ったことではない。母や姉に嫌われたい訳でもないし悲しませたい訳でもないが、恵と仲良く出来ないのはもっと嫌だ。

「謝んなくていいよ。……ひさちゃんがあの後に色々言われたんだろうなって、検討ついたし。キスしようって言ったのは僕だもん。僕が悪いんだ」

「俺も言おうと思うとったし、恵が悪か訳じゃなか」

「でもさ――」

 恵は視線を下げている。

 唇に目がいった。一度触れそうになった唇だと思うと、また触れたくなった。――ここにはきっと、誰も来ない。

 顔を押しつけるようにキスをすると、思った通り、恵の唇は柔らかで不思議な感触だった。

 離れると恵は目を丸く見開いていて、一度瞬きをした。ぽかんとしたその顔が可愛くて、胸がどきどきする。

「あんな、恵」

「う……うん」

「……あんな。恵は嫌かもしれんけど、俺はもしかしたら、恵んことば好きとかもしれん」

 顔が赤らむのが自分で分かった。久志は恵の顔をちらりと見た。

「俺はどっかおかしかとかな?」

「わ……、分かんない」

「恵はホモになったら気持ち悪かって思う?」

「……分かんない、けど」

 恵は久志の手を握ると、震える声で続ける。

「……僕もひさちゃんのこと、好き……なのかもしれない……」

「ほんなこつ?」

「う……うん」

 岩に打ち付けられた身体の鈍痛も、擦り剥いた腕の痛みも忘れていた。ひとりでに顔が笑ってしまう。

 ――両思いだ。すごい。

 バレンタインにもなればクラスの中に浮ついた空気が流れることはあったけど、まだ両思いになった者はひとりもいないはず。

 ついこの間まで好きな女の子もいなかったのに、両思いになる相手がこんなに早く出来るなんて思いもしなかった。

 握った手と手が温かい。――恵は可愛い。多分久志が知る誰よりも可愛くて優しい。

「ご飯はさあ、俺が貝とか魚ば採ってきてやるけん、そいば食べてから、この先の岩場ば抜けた先まで行ってみゅうか」

「うん」

「俺はウニも採ってこれるよ。山には果物も生るし――そいやけん、安心しぃ」

 握った手に力をこめて、もう一度キスをする。おでこをつけたまま言った。

「ずっと一緒におろうな、恵」

 父を突き飛ばして怪我をさせたことも、母や姉の事も今はどうでも良い気がした。頭の中がふわふわとして浮かれていた。――だから。

「……うん」

 笑って頷いた恵の顔が少し悲しげに見えたのがどうしてなのか、久志にはよく分からなかった。


 それから夜まで他愛ない話をして笑い合い、とても幸せな気分だった。明日からは誰の目も気にせずに恵と一緒にいられるのだと思えば、全てがどうでも良かった。

 二人は何度かキスを繰り返し、あとはずっと寄り添って過ごした。

 波の音は高くて、空には黒雲がひしめき合っている。夜の海は空と混じり合って境目もないほどに暗かったが、岩は風を防いでくれたし、満潮でもこの時期は洞窟にまで波もこないようだ。岩の上はごつごつとしていて居心地が悪かったが、それもさほど気にはならなかった。

 気が付くとさっきまで暗かった筈の空に、月が出ていた。満月だ。映画に出てきたのと同じような、丸く薄黄色い大きな月。クレーターがはっきり見える。月に照らし出された恵の顔がとても綺麗で、見とれてしまうくらいだ。

 大好きだなあ、と思った。

 恵が世界一好きだ。他の友達や家族全員への「好き」を足しても、恵ひとりの「好き」には届かない気がする。

 恵がこっちを見て笑っている。またキスがしたいなと思った。恵とキスするのは気持ち良い。恵の唇は柔らかで、触れるとどきどきする。

 ――なあ、恵。

 手を伸ばした。もういっぺん、キスしていい? そう訊くつもりだった。

 だが手がとどく直前に、恵の背後に、いつの間にかたくさんの人が立っていることに気付いた。

 皆、白い宇宙服のようなものを着ている。見覚えのある光景だ。人々の背後にはビニールで出来た白い大きなチューブがあって、強い光がビニールを透かして目を射る。

 ――あの映画だ。S市まで母と秀美の三人で見に行った映画。

 いつの間にか久志達は、映画の中に入ってしまっていたのだ。

『ひさちゃん! ひさちゃんっ!』

 恵が泣きながら呼ぶ声が聞こえる。いつの間にか白い服を着た人が恵を連れていこうとしている。

 ――恵は泣き虫だ。

 恵が泣くと、可哀想だ。

 逃げなきゃ。

 自転車のかごに恵を乗せて、逃げなきゃ。

 必死に念じたら身体がふわりと浮いた。いつの間にか久志は空色の自転車に乗っていて、恵がかごに座っていた。

 空を飛んで月を横切ると風が頬に当たって心地よい。島がはるか下に見える。暗い海に行き交う小さな光は漁に出る漁船。恵が振り返って笑う。柔らかそうな髪がなびいて、月は背後から恵を縁取っている。

 ――ああ、でも。自転車は海で無くしてしまったのではなかったか?

 海に沈んだ自転車を思い出した途端、視界がぐるぐると回った。ひどい風邪を引いて高熱を出したときみたいに、世界中が回っている。自転車は無いのだから空も飛べない。だから落ちているのだ。

 それに、と久志は思う。

 月を横切って逃げたとしても、恵は宇宙に帰ってしまうのではないだろうか。映画と同じに、辿り着いた先には迎えの宇宙船が来ていて、恵の仲間が下りてきて――。


「めぐ……っ!」

 腕を伸ばした途端、痛みを感じた。

 ――腕の先にあるのは真昼の天井。見慣れた形の電灯がぶら下がっている。目を巡らせると、自分が家にいることに気が付いた。

「……あれ?」

 確か自分は、恵と一緒に洞窟にいたはずだ。なのに何故、家の寝間にいるのだろう。夢でも見ていたのだろうか。だけど夢ならば、この怪我は一体何だというのだろう。

 身を起こすと額に乗せられていた手ぬぐいがぽとりと落ちる。頭の下で氷枕の水が音を立てた。ぽかんと口を開けていると、階段を上る足音が聞こえる。

「……姉ちゃん」

「起きたとね」

 秀美は手にした盥を下ろすと、久志の額に手を当てる。

「熱は下がったごたるね。熱冷ましのよう効いたねえ」

 秀美は軽く肩を竦める。

「あんたずっと寝とったとよ。途中で何遍か起きたこともあったけど、訳の分からんことばっかり言いよるし、頭のおかしゅうなったとかと思ったとやけん」

「……俺はどげんしたと?」

「熱ば出したとよ。そん腕の怪我」

 姉は包帯を巻かれた久志の右腕を指さす。

「そん傷からバイ菌の入って、熱の出たとってさ。その様子やと覚えとらんやろうけど、H市の病院まで行ったとやけんね。それからずうっと寝っぱなし」

 それならば恵はどうしたのか。家に戻されたのだろうか。いや、そもそも、いつどこでどうして家に戻されたのか、久志にはまるで分からない。

 恵のことを訊こうとして口を開きかけたが、母の気持ちを考えろと言われたことを思いせば、口が重くなった。

「……お母さんはどげんしたと?」

 久志が目を覚ましたなら、真っ先に飛んで来そうな母がいまだに姿を見せないのが気にかかる。

「今はな、里中のおばちゃんのとこ。大事か話のあって」

「大事か話って?」

「……あんなあ、久志。目ば覚ましたばっかりで悪かとけどさ。あんたにも大事か話ばせんといかんとよ」

「なん?」

 姉は居住まいを正すと、真面目な顔で言った。

「お母ちゃんな、お父ちゃんと離婚するって」

「え?」

 一瞬、訳が分からなくなった。耳から入った言葉が頭の中で意味を為すのに時間がかかったのだ。

「なんで? 俺が父ちゃんば殴ったけん?」

「久志が父ちゃんば殴ったって?」

 恐る恐る頷くと姉は笑う。大人達がたまに久志を笑うのと同じように、意味の分からない笑いだった。

「……何で笑うとや」

「久志に殴られたところで、父ちゃんは痛くも痒くもなかろうもん」

「ばってか怪我ばさせた」

「もしかして頭んとこ?」

「うん」

「へえ……そうね。あいは久志のしたとね。父ちゃんは酔ってこけたって言いよったけど」

「俺の突き飛ばして転ばした。その拍子に打って怪我ばしたとけど。――なあ、やっぱ俺のせいかな」

 姉は静かに首を振る。

「久志のせいじゃなか。少しくらい殴られたって、お父ちゃんには良か薬ったい。――お父ちゃんがトミノのママと浮気ばしよっとの分かった頃から、お母ちゃんはお父ちゃんとの離婚ば考えよったとってさ」

 母はここしばらくの間、考え事が増えていたように見えた。久志が来たことにも気付かないほど、真剣に物思う様子だった。

「姉ちゃんはお母ちゃんと一緒に行くばってん、久志はどげんするね」

「え……?」

「お母ちゃんは、久志にも一緒に来て欲しかって言いよる。でも久志は麹屋の跡取りやけん、お父ちゃんも久志ば欲しがるかもしれんし、お父ちゃんと一緒におった方がお金の苦労はせんかもしれん。そいやけん、久志がどげんしたかか聞いてほしかってお母ちゃんに言われたとよ。――久志はどげんしたかか、考えてほしかったい」

 姉は静かな目をしている。

 今までお金のことなど大して気にしたこともなかった。健次の家と比べれば自分の家が金持ちではないことは分かったが、どうせ島には店も少なく、駄菓子屋で小さなおもちゃや駄菓子を買うくらいしか小使いの使い道もない。

 だが改めて言われると、急に不安になる。母と姉と久志の三人で暮らす――本当にやっていけるのだろうか。

 ――でも、父ちゃんは嫌だ。

 浮気して母を困らせた上に、恵を殴りつけた。腕を乱暴に掴んで引き起こそうとした。恵がいなければいいのになんて、酷いことを言った父だ。

 それを思い出せば、考えるまでもない。

「――俺はお母ちゃんと行く」

「そいでよかとね? 明日くらいまでは考えてもよかとよ」

「よか。お父ちゃんとは一緒におりとうなかけん」

 秀美は頷くと、久志の肩を軽く押した。

「じゃあ、お母ちゃんにはそげん言うとくけん、あんた少し寝とき。――お腹ん空いとるやろ。今、姉ちゃんがお粥でも作ってきてやるけんさ」

「……うん」

 たった三歳しか違わないのに、姉が夜遅くまで起きていられることを狡いと思ったこともあった。でもたった三歳の違いなのに、今、目の前にいる姉は急に大人びて見える。眠っている間に世界が変わってしまったみたいだ。

「……あんさあ、姉ちゃん。訊いてもよか?」

「訊いてもよかこつかどうかは、聞いてみんと分からんけど、よかよ。なんね?」

「恵はどげんしとるか知らん? 俺、自分が家になんでおるとかよう分からんったい。恵と一緒におったはずとけど」

 秀美は久志の顔をじっと見た。見透かされている気がして居心地が悪く、久志は身を引く。

「……なに?」

「別に、何でもなかけど」

 秀美は肩を竦めると答えた。

「恵君はな、あん日、お母ちゃんば呼びに来てくれたとよ。遊びよったら久志の熱ば出して動けんごとなったけん、迎えに来てって」

「恵が……」

 ならばあれは夢ではなかったのだ。恵と一緒に逃げたことも――洞窟で何度もキスをしたことも。お互いに好きだと言ったことも。

 あの時の幸せな気分を思い出して、気持ちがふわりと浮かびかける。

 ――でもあれが夢ではなかったのなら、恵は今、どうしているのだろう。

 姉は立ち上がりながら言った。

「あんなあ、久志」

「うん?」

「恵君、お母さんと一緒に、ここば出て行ったとって」

 何気なく発された言葉に、久志は息を呑んだ。

「久志の寝とる間に健次君の見舞いに来てくれて、そげん言うとった。みんなに挨拶もせんままで転校したとってさ――って、久志、あんたどこに行くと!」

 萎える足を奮い立たせて、久志は蒲団を飛びだしていた。寝間着のままで裏に回り土間を覗く。だけどそこに自転車は無かった。

「久志っ! どこに行くとって訊いとるとに」

「すぐに戻る!」

 階段を下りてきた秀美に答え、運動靴を引っかけて戸を開ける。一瞬、ガードレール越しの海の明るさに目が眩んだ。

 久志はそのまま駆け出す。身体は思っていたより弱っていて、すぐに息が切れた。そういえば自分がどのくらい寝込んでいたのかも知らないままだ。脇腹が早々に痛み出して、役場へと通じる道に入る頃には苦しさのあまり足を止めそうになった。

 途中ですれ違った人から声をかけられたが、答えている暇もなかった。

 靴が片方脱げても拾う余裕が無い。裸足のまま足を引きずりながら、横道に入ってまっすぐに走った。そろそろ「スナック・トミノ」の電飾スタンドが見えるはず。

 だが足を止めた久志が目にしたのは、取り外され、板壁に立て掛けられた看板と、コンセントを抜かれた電飾スタンドだった。

 店の前まで行っても、人の気配はない。看板もスタンドもまだ新しいはずなのに、不思議と古ぼけて見える。

 遠慮がちに扉を叩く。何の反応も無くて、久志は強くノックをした。

「こ……こんにちは! 麹屋です。富野君は――」

 返事はない。

「恵……恵っ!」

 幾度も呼んだが、何の反応も返ってこない。

 ――だから、恵は本当にいなくなってしまったのだと、認めざるを得なかった。

 目頭が熱くなる。鼻の辺りがつんとしたと思うと、止めようもなく涙が流れ始める。自分が泣いていることを意識した途端、喉を突き破って嗚咽が漏れた。

 ずっと一緒にいるはずだった。

 あのまま一緒にいたかったのだ。家族の誰よりも恵を選んだのだ。

 それなのに恵はもういない。いなくなってしまった――映画に出てきた宇宙人のように。

 探しに来た秀美に見つかるまで、久志はその場で、声を張り上げて泣き続けた。



 恵はあの夜、傷だらけになって久志の家に助けを求めに来たのだそうだ。後に秀美が教えてくれた。

 久志と恵は懐中電灯のひとつも持っていなかった。岩場の辺りには外灯もない。夢と現実が混ざってしまって記憶が定かではないが、確か空も厚い雲に覆われていたはずだ。慣れない恵がどんなに怖い思いをして暗い岩場を抜けたのだろうかと思えば、胸が痛んだ。

 恵は母と秀美に、「ごめんなさい」と深々と頭を下げたらしい。久志の怪我も自分を庇ってのことだから、どうか叱らないで欲しいと訴えたと聞いた。

 そのお陰か、母も秀美も恵について悪く言わなかったし、自転車を壊したことや夜まで戻らず心配をかけたことで、久志を叱ることもなかった。

 二度と家には戻らないつもりでいた久志にとって、責められなかったことが逆に心を重くさせた。本当は家族を捨てて恵と逃げるつもりだったとぶちまけてしまいたかったが、恵が居なくなってしまった今、それを言うことになんの意味があるのだろう。

 それにくよくよしている間もなかった。すぐに春休みがきて、それから目まぐるしく事態は変化した。父とはほとんど顔を合わせぬうちに、両親の離婚は決まった。結局、親権で父と母が争うことはなかったようだ。

 ――父ちゃんやら好かん。

 あの時、口を突いて出た言葉は、きっと本音だった。父を嫌うなど考えたこともなくて、だから今まで気付かなかっただけの本音だ。改めて思い返してみれば、ずっと前から父のことを考えると気が重かった。

 島はただでさえ小さくて、島内のどこで引っ越しても父の気配が濃厚すぎる。それにこの島にいたのでは、母の就職先も見つからない。里中の兄の伝手でT町の農協に職が見つかり、慌ただしく引っ越しが決まった。

「母ちゃん、何の仕事ばすっと?」

「事務ってさ。お父ちゃんと結婚する前は、お母ちゃんもここの農協の事務ばしよったらしかよ」

 引っ越しの準備だなんだで忙しい母に代わり、秀美が教えてくれた。久志にとっての母はいつでも家にいる存在だったから、外で働いているところなど想像もつかない。

「これからは家の事ば全部お母ちゃんにやってもらう訳にはいかんとやけん、あんたも手伝わんと」

 秀美はそう言い、自らも実践した。引っ越しの手続きや準備に忙しい母に代わって料理を作るようになり、久志にも手伝わせた。久志も片付けや掃除をするようになった。

「ひさちゃんも秀美ちゃんもよう働いてくれるけん、お母ちゃん助かる」

 秀美が作り、久志がよそった夕飯を食べながら、母は疲れた顔に嬉しそうな笑みを浮かべる。だがそうして喜ばれるとまた、罪の意識が胸をちくりと刺した。

「ひさちゃんは急に大人んごつなったね」

「久志ももう六年生やもん」

 母と姉がそんな話をしているのも耳にした。

 ――一度は皆を捨てて家を出ようと考えた。その罪悪感が拭い去れない。捨てた物の中に居座るのなら、それだけのことをしなければいけないと、そんな気がしていた。

 そうこうしているうちに日々は過ぎ、春休みも終わり間近な四月、住み慣れた島を出た。新学期からはT町の小学校に通う。

 引っ越し先のT町は陸の町だ。二方が海に面してはいたが鉄道も通っていて駅もある。

 母が見つけた新居は町営住宅で、一棟に五世帯が入る一階建ての長屋になっている。住宅は二間しかなくて、居間と勉強部屋に分けて使うことになった。母は居間に寝起きし、勉強部屋には二段ベッドを入れて秀美と久志が寝る。島の家では使っていない部屋まであったのに、今思えば贅沢なことだ。

 島の家ではどこにいても常に波の音が聞こえていた。だが新しい住まいの近くには海がなく、しばらく歩いてようやく海の青が山間に見えた。海が遠いから波音も聞こえない。夜にもなれば時折虫が鳴く程度で、島の家に比べればとても静かだ。

 町に住むようになって気付いたのは、町では家が密閉されているということだった。

 島では真冬以外、どこもかしこもが開け放してあって風通しは常に良く、いつも外と繋がっていた。久志には外と内の区別がなく、外の道も海も自分の身体の一部のようだった。だが町の住宅はサッシ窓を閉じてしまうと、家を外から丸ごと覆い隠してしまう。カーテンを閉めるという習慣がいつの間にか出来た。

 しばらく住むうちに親しくなった近所の住人が家に上がり込むこともあったが、彼らには島の隣人達のような、親戚めいた気安さは感じられない。

 町の学校は島に比べれば生徒も多く、クラスも二クラスあった。一クラスの人数がそもそも島の倍だから、生徒数は一学年で四倍だ。中学にあがると学区が広がるからさらに増えて、四クラスもあるのだと秀美は言う。

 クラスメイトも近隣の住人と同じで気安さは感じなかったが、それは直に慣れた。少なくとも当たり障りのない友達になることは出来たから。

 ――恵がいなくなってしまってから、久志の中で何かが変わってしまった。

 誰かと必要以上に仲良くなる気がしない。喧嘩しない程度に仲良くして行けたら、それでいいと思う。

 それでなくとも日々は慌ただしい。新しい物だらけで、母も秀美も久志も、ただ暮らしていくというそれだけに精一杯だった。

 新生活で嬉しかったのは、母が前よりも明るくなったことだ。

 母は勤めに出はじめて化粧をするようになった。服装も前よりしゃれっ気が出てきたし、職場にもすぐに馴染んだようだ。もしかしたら結婚する前の母はこんなふうだったのかもしれないとも思う。秀美や久志が知らないところで、母はずっと自分を押さえ込んでいたのではないか――成長するにつれてそんなことを考えるようにもなった。

 そうして数年が過ぎるうちに、恵とのことは夢の中の出来事のように思い始めていた。

 島の小学校の担任に引っ越し先を訊ねて手紙を書いたこともあったが、宛先不明で送り返されてきた。そのままどこか別の場所に移ったのか、そもそも担任の知る住所が出鱈目だったのか。いずれにせよ、久志にはそれ以上、恵の足跡を辿ることは出来なかった。

 恵のことを思い出すと胸が痛む。キスをした夜の幸せな気持ちを思い出すと余計に悲しくなる。それで考えまいとしているうちに、少しずつ記憶は遠のいた。

 恵はやはり異星人で、星に戻ってしまったのだろうと、そんな気すらした。島の言葉を覚えれば島の子になる気がしていたけど、映画の宇宙人だって、地球の言葉を少し覚えて帰ってしまった。

 ――だからきっと、恵も元の居場所に戻ってしまったのだ。


 そうして時が過ぎ、久志は中学生になった。秀美は早いうちから、高校卒業後は看護学校に入って看護婦になると決めていた。昼間は病院で働きながら通う夜間の看護学校だ。仕事は忙しいが授業料が免除になる上に給料も出るから、家に負担がかからない。

 ただその学校を出ても准看護婦までしかなれず、正看護婦になるには働きながらさらに勉強しなければならない。聞いているだけで先が大変そうだった。

 父がいなくなって家では漫画が読めるようになった。久志は自分のベッドに寝転がって、クラスメイトに借りてきた漫画を読みながら、勉強机に向かう姉の背に声をかける。

「姉ちゃん、大学行って医者になりたかっちゃろ、本当は。成績も良かとやけん行けばよかとに」

「お母ちゃんもそげんこと言うとったけど、学費の安か医大ほど倍率の高かっちゃもん。そげんとこ行けるほど頭もようなかし、借金せんと私立の医大やら行けんし。私立になると入学金だけで破産するよ」

「でも、奨学金とか入学金免除とかもあるっちゃろ?」

「あんねえ、奨学金はもらえるわけじゃなかとよ。いつかは返さんといかんとやし」

「返さんでもよか奨学金もあるっちゃなかと?」

「そういうのば貰えるほどは頭良うなかもん。大体、医学部は授業料以外にも色々お金のかかるっちゃけん。奨学金ばもらったところで雀の涙みたいなもんよ。無理無理」

 きっと久志の言うようなことは、既に調べ尽くしたのだろう。

 ――時折、考えるのだ。

 自分が父の元に残っていたら姉は希望の進路に進めたのではないだろうかと。……今更言っても詮無いことだが。

 秀美は椅子の背もたれ越しに久志を振り返る。

「久志こそ、美大に行きたかっちゃろ? 医大に比べりゃ美大の学費やら可愛かもんたい。姉ちゃんが行かせてやるけん、頑張り」

「俺のことは気にせんでよか。美術やらただの趣味ばい」

「趣味やら嘘ばっか言うて。あんたそれしか能の無かとやけん、そいで身ば立てんでどげんすっと。この間のテストも悪かったやろ?」

「……何で知っとうと?」

「成績表ばお母ちゃんから見せられて、相談されたもん。久志はどうしてこげん勉強の出来んとやろかーって」

 あまりにもあまりな言われようだ。

「……それで姉ちゃんは、なんて答えたとね」

「そのまんま本当のこつば答えたよ。久志が馬鹿やけんに決まっとるやろって」

 それは自分でも事実だと思ったから、ぐうの音も出ない。ふて腐れる久志に再び背を向けて、秀美は続けた。

「そん代わり、あんた国立に行き」

「はぁ?」

「国立やったら授業料も安かけんさ。他の国立に比べたら、美術系の偏差値はあんまり高うもなかし、実技重視やろ。死ぬ気で頑張れば行けるよ」

「……あんなあ」

 久志は呆れ気味に溜息をつく。

「姉ちゃんは簡単に言うけどさ、その手の大学の倍率、どんだけっち思うとるとや」

「あんた、中学生のくせに倍率やらよう知っとるねえ。姉ちゃんの受験雑誌ば見たっちゃろ?」

 秀美はからかうようにニヤニヤと笑う。久志は姉から目を逸らした。

「……何年も浪人して行く人のおるごたる大学ばい。俺には無理ったい」

「無理って思うとったら、最初から無理になるったい。……頑張り」

 ――そう言う秀美は、自分が医大に行くことは端から諦めているのだ。

 秀美がどれだけの思いでこの言葉を言ってくれたのかと思うと、胸が痛かった。


 それから秀美が家を出て名古屋にある看護学校に行くと、家は少し広くなった。

 将来をどうするかは悩んだが、姉の言う通り、美術以外にやりたいことが見当たらなかった。国立大に行けるかはともかくとして、美術関係の学校には進みたいと思った。

 潰しが効かないことは久志なりに理解していたが、母も姉も反対するどころか、むしろ勧めてくれた。美術部の同級生の中には、家族に反対されて中学のうちから美大進学を諦める者も居た中、自分は恵まれていたと思う。

 高校になんとか入らないことには大学にも行けない。だから受験の時は頑張った。目標を持つことで勉強に集中することも出来るようになったお陰か、中学を卒業する頃には成績も大分上がっていた。

 何とか滑り込んだ学校は、H市の県立高。県下では中程度の学校だ。元は藩校だったとかで歴史は長く、進学クラスもある。国立大学に行きたいならば入っておきたい学校だった。

 海の傍に建つ高校で美術部の部室からは海が見える。その眺めが嬉しかった。

 健次とは高校に入って再会し、気付けば島に居た頃とは違う形で親しくなっていた。

 島では健次はボスだった。クラスで一番強くて背も高かったし、誰もが健次の言葉に従った。だけど高校生になった健次はあの頃と違って、他の皆と変わらぬ普通の学生に見える。健次自身も小学生の頃と比べて雰囲気が丸くなっていた。

 健次は中学からサッカーを始めていたらしい。田舎の小さな高校だがサッカーは強い。過去には県の代表になったこともある。

 だが健次は選抜でレギュラーに入れずやる気を無くしたようだ。二年も半ばを過ぎると、美術室でデッサンに励む久志の元に、部活をさぼって訪れるようになった。

 健次は気安く話せると同時に、会話をしなくても間が持つ相手で、久志にとっても一緒にいて楽だ。幼馴染の所以かも知れない。

 久志の他は離れたところで油彩を描いている女子部員がふたりいるだけの静かな放課後。顧問がいない時間を見計らって遊びに来た健次は、連絡船の時間までの暇つぶしにジャンプに目を落としながら、ぽつりとこぼした。

「……あんさあ」

「なに?」

「小学校ん時にさあ、富野恵っておったやろ」

 心臓が鳴った。

 ――恵の名を聞くのは久し振りだ。

 他の人の口から名前が出てくると不思議な心地がする。恵とのことは夢の中の出来事ように感じていたから、恵が夢から現実に引き出された気がした。

 一瞬のうちに色々な想いがよぎっていった。大きな月と空色の自転車。月明かりに縁取られた恵の顔。――どこまでもどこまでも、二人で行くはずだった。

 返事をしない久志に、健次が不思議そうに眉を寄せる。

「久志、どげんかしたか?」

「……いや、なんでもなかよ。それで恵がどうかした?」

「俺さあ、あん頃な」

「うん?」

「富野んこと――」

 そこで健次は長いこと口ごもり、読みかけのジャンプを自分の顔にばさりとかぶせた。

「……ごめん。やっぱ聞かんかったことにしといて」

「――分かった」

 久志は笑って答える。何を言おうとしたかは、聞かずとも分かる気がした。

 恵に対して同じ想いを抱いていた人間がもうひとり居た。それは少し嬉しいことだった。恵が夢や幻ではなく、本当に存在したのだと実感出来る。

 ――学校にも家にも不満はない。進路の希望も出来たし、その為に努力もしている。

 だけど恵ことを思い出すと、ふと姿を消したい衝動に駆られる。

 あの時、二人で逃げようとしていたからだろうか。二人で旅立つ空への憧れが、いまだにこの胸には眠っているのだろうか。


 両親の離婚以来、父の顔は殆ど見ていない。父からは定期的に養育費が送られてきているそうだが、特に会いたいと言われるでもなく、付き合いはなかった。

 祖母の法事に行ったときに短い言葉を交わしたことはあったが、久し振りに立ち寄った家は荒れていて、子供の頃とはまるで違っていた。それで余計に寄りつく気もしなくなった。

 夜更けに窓から見送る漁り火や波音が恋しい時もあったが、久志はいつの間にか町の生活に慣れていた。

「あのな。今日、里中の兄ちゃんから電話ばもろて。里中のおばちゃんの亡くならしたとって」

 夕飯の席で母が言ったのは高二の秋も終る頃のこと。

「ひさちゃん、あんたはおばちゃんに可愛がってもろとったし、ちょっとお葬式に顔ば出してくれんね。平日に悪かけど、お母さんは今、仕事ば休めんけん」

「うん、よかよ」

 仕事が忙しい時期なのも確かだが、葬式に行けば父と顔を合わせることになる。母にとっては気が重いことだろう。それで翌日、学校を休んで久し振りに連絡船に乗った。

 里中の家は連絡船の船着き場から近い。湾を挟んだ向こう側にはかつての我が家が見えていたが、立ち寄るつもりはなかった。

 鯨幕の下りた家の中に入り記帳していると、受付に座っていた女性が声を張り上げる。

「あれ、ひさちゃんやなかね。大きゅうなって!」

 見覚えがあるが、どこの誰だったのかまでは思い出せない。困っていると彼女の声が呼び水になったかのように、あちこちから見知った顔の大人達が顔を出した。

「おお、久志か! 男前になったなあ」

「今いくつか。そろそろ受験じゃなかつな」

「相変わらず絵ぇばっかり描きよるっちゃろ」

 返事をする間もないほどに話しかけられて、葬式だというのにあまり湿っぽくないのも以前と変わらない。適当に返事をしていたら、自分を囲んで出来た人垣の奥から、太い声が聞こえた。

「……久志。来たつか」

 しばらく見ないうちに随分白髪が増えた父の姿がそこにあった。


 焼香を終えて挨拶を済ますと、やることがなくなってしまった。

 家の中では大人が酒盛りをしている。久志も誘われたが精進料理はあまり好きではないし、酔っぱらいも苦手だ。忙しく立ち働く女達を置いて宴会に混じる気にもなれず、台所に手伝いを申し出てみたが追い返されてしまい、家の中には居所をなくした。

 帰りの連絡船まではまだ時間がある。縁台に座り込んで頬杖をつき、外に広がる海を見ていた。

 ――懐かしい海だ。潮の匂いが濃い。陽射しは柔らかでまだ寒さは遠く、湾を挟んだ向かいには自分が住んでいたあの家が見えた。

 人の気配に顔を上げると、父が無言で隣に座るところだった。喪服を着た父からは、珍しく酒の匂いがしない。人が集まる席では必ず呑む人だったのに、珍しいこともあるものだ。

 何も言わない父を持て余して、久志は話題を探す。

「……ここも少し、寂しゅうなったごたるね」

 話しかけられるとは思っていなかったのだろうか。父はわずかに驚いた様子を見せた。

「……昔はこん島も賑やかやったとけどな。年々人の減っていきよる」

 父は懐かしげに眼を細めた。

「俺の小さか時は、こん島にも置屋のあって、芸者のあちこち歩きよった。夢んごときれかったっつぉ」

 久志は苦笑する。

「前にも聞いたことんあるよ、そん話」

「そうか」

「想像のつかんよ。俺の生まれたときには、置屋もなかったし芸者もおらんかったし」

「……そうか」

 それきり会話が途絶えて間が空いた。久志は横目で父を見る。

 父の肌は日焼けで赤銅色に染まり硬そうだ。がっしりした体格は昔と変わらないが、背丈は久志の方が高くなったようで、隣に座られても昔ほどに威圧感は感じない。

「……あんさあ、訊きたかとけど」

「なんか?」

「なんで浮気やらしたと?」

 思い切って訊ねると、父はやはり少し驚いた顔をしたが、それきり考え込んだ。久志が黙って返事を待つと、ぽつりと答える。

「……久子さんは、俺にとっては、夢の中の女やったけん」

「久子さん?」

「トミノんママの名前ったい。子供ん頃、離婚した母親に連れられて、一ヶ月くらい島におったことのあった。……他の女の子とは全然違ちごうとった」

「……ふうん」

「都会の女の子やら、初めて見たったい。おしゃれか服ば着て、ふわふわした髪にリボンやら結んどってな。あげん女子おなごは見たことんなかった。すぐおらんごつなってしもうたけん、余計に夢ん中の女子のごとあったっちゃろ」

 まるで恵のことを聞いているようだ。

 他の子供とはまるで違っていた恵。――ほんの少しの間しか島にいなかった恵。

可愛かわゆうてなあ。おいはずうっと久子さんのこつば忘れきれんかった。――お母さんには、悪かことばしたな」

「それは本人に言うてやったら?」

「もう言うたさ。そいで許してもらえんかったとやけん、仕方んなか」

 父は笑った。父の笑った顔を見たのは、久し振りだと思った。父は向こう岸に見える家を指さす。

「たまには秀美も連れて遊びに来い。あすこもお前の家ぞ」

「……うん、そうやね」


 棺が山の上の火葬場に運ばれ、父もついて行ってしまった。焼き場にまで付き合うと乗る予定の連絡船に遅れる。久志はそこで里中家を辞去して、島の中を歩いた。

 道沿いにまばらに設置されたガードレール。里中家からしばらく歩くと、久志が落ちた岩場。波に濡れて黒々と光る岩の間に、あの日、空色の自転車ごと落ちた。

 恵に肩を支えられて歩いた道のりを行けば、赤い鳥居は塗りも剥げて、前よりも朽ちて見えた。人が減ると、こうしてあちこちに目配りが行き届かなくなり、綻びが生じるのだろう。

 鳥居をくぐって岩場に向かう。

 二人で岩の上によじ登って絵を描いた。潮だまりでウミヘビを見て、丸く綺麗なガラスを探した。

 あの日二人で籠もった洞窟は思い出の中にあるよりも浅くて小さい。

 久志は苦笑した。こんなところで一晩を過ごそうというだけで無茶なのに、一生家には戻らないつもりでいたのだ。今になってようやく、あの時の自分がどれだけ馬鹿だったかが分かる。

 記憶の中の恵は、少し困った顔で笑っている。恵は賢い子供だったから、久志が語る夢物語がいかに無謀かよく分かっていたはずだ。久志の提案をどんな気持ちで聞いていたのだろう。

 ――あれから七年が過ぎた。

 あの時見た映画は名作として名を残し、時折雑誌やテレビの話題に上ることがあった。見ればどうしても恵のことを思い出して辛い。切なくて苦しいのに、一度記憶が甦ると懐かしくて、ずっと思い出に浸っていたくなる。今も岩陰からあの日の恵が顔を出すのではないかと、心のどこかで期待している自分に気付いていた。

 高校に上がると、久志は時折、女の子に告白されるようになった。可愛い子も優しい子もいた。だけど誰に好かれても心が動かない。

 誰かの面影を思い出して胸苦しくなるのは恵だけ。きっとこの先もそうなのだろう。

「……なら俺はもう、誰とも付き合わん」

 父は久子の面影を抱いたまま母と結婚した。「久志」と名付けたのは父だと子供の頃に聞いたことがある。わざわざ問いただす気にもなれず訊ねなかったが、由来は明らかだろう。――その事に母は気付いているのだろうか。

 母と父が結婚しなければ久志も秀美も生まれてはいなかっただろうが、それでも父は間違ってしまったのだと思う。母を不幸にしたとも思う。

 ならば自分は同じ間違いを犯してはいけない。恵以上に心を動かす人が現れない限りは。

 久志は足下の潮だまりを覗き込む。昔はあんなに簡単に見つかったガラスは、どこにも見当たらなかった。


 そうしてまた時が過ぎ、久志は高三になった。

 志望を国立に絞ると決めたのは、学費のためだ。入学金なども含めて考えれば、やはり国立が一番安い。公立ですら躊躇するくらいなのに私立の学費を払う余裕はどこにもなかったし、アルバイトするのは勿論にしても、画材代や材料費がかかることを考えれば出費は出来るだけ抑えたかった。

 秀美は支援を申し出てくれたが、姉が自分の夢を犠牲にしたことを思うと、とても頼れない。秀美が自分で稼いだ金は秀美自身に使ってほしかったし、出来るだけ自力で大学に行きたかった。

 だが国立で美大となると選択肢は極端に減って、別の問題が生じた。そもそも受かるかどうかが未知数だ。

 高校の美術教師とも随分話しあった。久志の作る物に見込みはあると言ってはくれたが、数多の才能ある人々が集う学校だ。ただでさえ久志達の世代は子供の数が多く、受験競争は熾烈だった。倍率は異様に高く、確実に受かるだなどとは誰にも言えない。それでも最初から諦める事はすまいと決めた。

 学科は彫刻科。高校に入って始めた立体造形が思いの外性に合ったのだ。就職を考えればデザイン科を選んだ方がいいのは間違いなかったが、どうせ駄目で元々と受ける大学ならば、そこで妥協しても意味はないだろう。

 金銭的に余裕のある家の子供は、長期休暇になるとS市にある予備校のデッサン教室に下宿して通っていたが、久志にはそれも難しい。その代わり県下の高校が合同で開催したデッサン教室に参加し、集中して学んだ。

 ――がむしゃらに過ごして一年。

 合格することが出来たのは、まるで奇跡だった。

 上京に入学、高校とは違う自主性を求められる大学の仕組み。これまで培ってきた自信を木っ端微塵にされる授業。東京の西、東京都は思えない片田舎にある寮は薄汚かったが賑やかだ。学生達は皆あくが強く行動が突飛で驚かされることも多い。同じ新入生でも久志のような新卒から、上は何十回浪人したのかも分からぬような四十代までいて驚かされた。

 とにかく全てのことについていくのがやっとで、無我夢中で学業とバイトに励むうちに、あっという間に三年間が過ぎていた。


 看護師として働き始めた秀美からは、時折、寮に電話がかかって来る。

 久志は上京以来、いつの間にか訛りが薄くなっていたが、姉や母と電話で話す時だけは、無意識に方言が出てくる。どうやら姉も同じだそうで、普段は名古屋弁なのだそうだ。

 受話器の向こうからは昔と変わらぬ声が聞こえる。

『あんた彼女は出来とらんと?』

「……姉ちゃんは電話の度にそれば言うね」

『ばってか気になるっちゃもん。我が弟ながら顔は悪うなかと思うとけどね。高校の時はもてたとやろ?』

「知らんよ、そげんと。それに忙しゅうて彼女どころじゃなかもん」

『そげんこと言うて。もしかしたらあんた、ゲイやなかとね?』

 一瞬、胸がどきりとしたが、素知らぬ顔で答えた。

「違う。俺はノンケなの」

 秀美は電話の向こうで笑っている。

『いきなり標準語になりよるよ、怪しかねえ。それにノンケとか、そげん言葉よう知っとったね』

「その位の言葉、きょうび常識ってやつばい」

『ねえねえ、やっぱり芸術家には多かと?』

「多かかどうかは分からんけど。友達にアルバイトでゲイビ出たやつとかはおるけどね」

 実際、学資に苦労しているのは自分だけではない。出来るだけ自分で稼ぐようにしているが、二千円の寮費はともかくとして、問題は制作費だ。石彫などという金のかかる専攻を選んでしまったせいでいつも財布は空っぽで、今日もこの電話が終えたら、すぐにアルバイトに行かねばならない。

 ゲイビデオに出たとこっそり耳打ちした友人が、何のつもりで久志に教えてくれたのかは知らないが、手っ取り早く稼げる手段に飛びつきたくなる気持ちは分かる。

『お姉ちゃんはさあ、別に久志がゲイやったら、それでもよかと思うとよ』

 唐突に言われて、久志は目を丸くした。

「……弟がホモになったって嬉しくないとか言うとらんかったっけ?」

『そげんこと言うたきゃ?』

 秀美は空とぼけたあと、小さな溜息をついて続けた。

『冗談。覚えとるって。……あんときは私もまだ子供やったしねー』

 秀美は笑い声をまじえて続ける。

『今はね、この際性別はどうでもよかけん、あんたが誰か好きになれたらよかち思うとるよ。孫の顔やったら私がお母さんに見せてやるし』

「……そうや、ありがと」

 苦笑して答えた。口調は冗談めかしているが、秀美が心底、自分を心配してくれているのだと声で分かる。

「でも今んとこ、恋愛する余裕とかなかよ。卒業制作の準備も始めんといかんし、就職活動もせんと」

『そげんこつ言いよったら、あんたいつまで経っても独り身よ?』

「孫の顔は姉ちゃんが見せてやるっちゃろ? 安心して任せるわ」

 秀美は患者の青年と付き合い始めて二年になる。そろそろ結婚も考えているようだと、母が先日教えてくれた。そう言う母も農協の同僚と付き合っていて、再婚するかもしれないと、これは秀美がこっそり教えてくれたことだ。

 そうして周囲の人達がパートナーを見つけて行くことに、久志は安堵していた。

 いつの頃からか、姉の眼には久志がひどく孤独に見えているらしいと気付いてはいた。

 友人はいる。寮はいつも賑やかだし、自分も楽しく過ごしているつもりだ。だが誰かと親しくなる必要はないと考える自分も心のどこかにいた。

 己がゲイなのかどうかの自覚すらない。男にも女にも心惹かれないのだから、分かりようもないというのが正直なところだった。

 ……ただ、今でも時折、恵の面影が脳裏をよぎる。

 あれから十年以上が過ぎ、顔もちゃんと思い出せなくなってしまった。写真の一枚も残っていないのだ。それでも微かに記憶が甦っただけで、胸を鷲掴みにされた気分になる。

 ――あの日あのまま、二人で旅に出られたらよかったのにと、どうしても思ってしまう。

 家族にパートナーが出来て安堵するのは、きっと自分の胸の奥底に家族を捨てたい気持ちがあるからなのだろう。皆がそれぞれに大事な人を見つけてくれれば、自分はもっと自由になれる。ふらりとどこかへ姿を消しても大丈夫だと、そんな思いがどこかに眠っている。


 電話を終えると急いで寮を出た。今日のアルバイト先は先輩の就職先でもあるフィギュア製作メーカーで、その先輩の紹介で働いている。企業向けのプライズや店頭に置くPR人形などを手広く制作している会社で、勉強がてら雑務から初めて、原型の仕事をさせてもらえるようになって一年近くが過ぎる。

 途中、電車が人身事故で遅れて、最寄りの駅に着いたときには予定の時間を過ぎていた。会社のビルに駆け込み、エレベーターの扉が開くのももどかしく制作室に飛び込む。

「遅くなりました!」

 作業室は静かで、己の声が思いの外響いてぎょっとする。山積みになった資料や道具の隙間から、すぐさま上司の声が飛んできた。

「おう、遅いぞ麹屋」

「すみません、電車遅れました。すぐかかります」

 席について昨日からかかっていた企業のプライズ用フィギュアの覆いを取ると、ヘラを片手にしばらくは作業に没頭していた。背後に人の気配を感じたのは、一時間ほど経った頃の事だ。

 振り返ると上司が立っていた。いつも突然現れては無言で背後から作業を観察し、制作中の物に唐突に辛辣な批評を下して去って行く人だ。

「……あの、どこかまずいでしょうか」

 恐る恐る訊ねると、その人は鼻を鳴らした。

「麹屋、お前、四月から四年だったよな」

「はい」

「卒業後の進路は決めてるのか?」

「いえ、まだ」

「そうか。――安月給だし、契約社員からってことになるかもしれねえけど、お前にその気があるなら考えとけ」

 ぽかんとした久志を置いて、上司はまた鼻を鳴らして自分の席へと戻っていった。

「やったじゃん」

 肩を叩かれて我に返る。傍らに久志をこの会社に誘ってくれた先輩が立っていた。

「あの人がああいうこと言うのって珍しいぞ。よかったな」

「はあ……その、有り難いです」

「でも安月給なのは事実だからな。気が乗らなかったら断ってもいいんだぞ」

「いえ。入れてもらえるならお願いしたいです」

 就職難で苦労している先輩達を山のように見てきたのだから、声をかけてもらえるだけで大助かりだ。それに出来るだけ早く職を見つけて、母を安堵させたいと思っていた。

 先輩は「そうか」と呟いたあと、難しい顔で腕を組む。

「でもなあ、ここに誘った俺が言うのもなんだが、ほんとにいいのか。お前、石彫で食っていきたいんじゃねえの?」

「んー……」

 久志は苦笑した。手元の粘土を指先で捏ねる。粘土は柔らかく、久志が好きな石とはまるで真逆だ。今作っているのもペットボトルのおまけに付けるのだとかいうカエルのおもちゃ。本来の久志の作風は抽象で、会社の仕事は素材と同じく真逆だが、素材も仕事も決して嫌いではなかった。

「俺、石彫一本でやって行きたいとか、そういうのなくて。制作がしたけりゃ、アトリエ借りてプライベートでやってもいいんだし」

「そうは言うが大変だぞ。就職すると生活に手一杯で、いつの間にか制作しなくなるヤツの方が多いくらいだ」

「……それもそれかって気もします」

 作家として食べていくのは難しい。教師になる者も多かったが、人に教えるのは性分ではない。物作りを仕事に出来るのならば、それが多少畑違いであろうと有り難いことだと思う。

 石彫を続けたい気持ちはあるが、仕事で手一杯になってやらなくなるなら、自分にとってその程度の物だったということだろう。少なくとも学んだことは職に繋がったのだから、それでいいと自分を納得させることは出来そうだ。

 ――あるいはいっそ、物を作らずとも生きていけるのは幸福なことなのかも知れない。久志にとって制作への意欲は、心に空いた穴を埋める行為にも思える。別のことでその穴を埋めることが出来たのならば、やはりそれは僥倖なのだ。

 先輩は久志をじっと見て、唇を尖らせる。

「お前さあ。なんつーか執着とか無さそうに見えるよなあ」

「……そうですか?」

「石磨いてるときはそうは見えねえんだけどな。なんかさ、いきなりふらっとどっか行っちまいそうな気がするわ」

 ぎくりとさせられた。

 実際、久志の胸の内には、いつの頃からか姿を消したいという願望がある。――周りの何に対しても不満などないのに、いつだって、ここではないどこかへ行きたいと願っている。

「まあ、その辺はどうでもいいんだけどさ。悪いな、変なこと言って」

 立ち入りすぎたと思ったのかも知れない。先輩は微苦笑を浮かべると肩を竦めた。

「取りあえず就職の心配をしなくて済むようになったのはラッキーか。これで卒業制作に専念出来るってもんだろ」

「あー……」

 頭を抱えた久志に、先輩はニヤニヤとチェシャ猫じみた笑みを浮かべた。

 卒業生は誰もが、卒制の話になるとこんな顔をする。自分たちが通った道筋を、後輩達が七転八倒しながら歩むのを見るのが、楽しくて仕方がないらしい。

「大変だぞー、卒制は。石彫はもう作業も始まってんだろ。テーマ決まったの?」

「いえ、まだ。早く決めろって教授にせっつかれてます」

「ぼやぼやしてるとあっという間に四年だぞ。卒制落として卒業し損ねたら就職の話もおじゃんだな」

 先輩は久志の肩を数回叩いて、自分の席へ戻っていった。

 実際、卒業制作は重大な問題だった。四年間の集大成ともなれば、大作を期待される。物が大きければ制作時間もかかるものだし、石彫は材料となる石だけで数十万円することもあるから、バイトも欠かせない。

 作業に再び戻りながら、ふと、このまま一生、こんなふうに過ぎていくのかなと思った。

 大学を何とか卒業して、そのままこの会社に就職して、毎日物を作っているうちに年を取っていくのだろうか。

 それは決して嫌なことではなかった。会社の人達にも馴染んだし、仕事に不満はない。家族にとっても、ふらりと姿を消されるよりもその方がいいだろう。

 気持ちは凪いだ海のようだ。ただひたすらに碧く澄んで遠くまで見晴るかす。どこまで行っても静かな海。

 ――それはそれ、か。

 自分の言葉を胸の内で繰り返す。気持ちはとても穏やかだった。故郷の島で夜更けに窓を開けて漁り火を見送った子供の頃、波間に映る光を見ていたときにも、こんな気持ちになっていた気がする。

 ――だが、心の奥深くには荒波が立っている。

 あの日、恵と逃げようと決めた日の波だ。荒波は凪の海の奥底に隠れて渦を巻き、時折水面を泡立たせる。

 この波もいつしか砕けて消えていくのだろうか。そして完全に波が消えてしまったら、その時、自分は「自分」であることが出来るのだろうか。

「……なに作ろうかな」

 小さく呟いた。

 卒業制作のイメージを今月末までにまとめて持ってこいと指導教官から言われていた。

 大学生活の集大成。大作に打ち込むことが出来るのは、もしかするとこれが最後かも知れないのだ。

 胸の奥にあるこのもやもやとした物に形を与えてやりたい。だがそれがどんな形をしているのか、久志にはまだ見えないでいる。


 仕事をあがって会社を出ると、外はネオンにすっかり彩られていた。

 会社から駅まで行くには、途中の公園を突っ切った方が早い。会社では治安が悪いからあまり通らない方がいいと忠告されている近道で普段は避けているのだが、今日は急ぎたい事情があった。

 久志は寮で毎食、食事を出して貰う契約にしているが、これは夜の十時を過ぎると余り物を他の寮生が食べていいというルールになっている。早く戻らないとハイエナのような寮生達に食事をとられて、食いはぐれる羽目になってしまう。

「間に合うかな……」

 腕時計を睨みながら脇目も振らず歩いて、その声を聞いたのは、公園の中程まで来た頃だった。

「――だからさ、こっちはそういうつもりじゃなくて、待ち合わせしてるだけで」

 やけに耳について何気なく立ち止まる。声の方に目をやると、街灯の下に若い男が二人立っていた。片方は痩せて細く、片方は柔道選手かなにかのように堅太りで厳つい。揉めているようだが、止めに入るべきだろうか。それとも余計なことには首を突っ込まない方がいいだろうかと迷っているうちに、痩せた方の視線がこちらを向いた。

「あ、いた! 遅いよー」

 ――俺か?

 戸惑っているうちに、相手は突進してきて久志の腕を親しげに取る。顔もろくに見ないうちに、久志を引きずって歩き始めた。

「待ってたんだよ。どうしてこんなに遅れたの」

「えー……あー、うん、ごめん、仕事が遅れて……」

 意図は分かったから適当に話を合わせる。聞こえよがしに大声を出して答えながら背後を伺った。あの厳つい男は街灯の下に佇んだまま、二人を見送っている。追って来るつもりはないようだ。青年は小声で言う。

「助かるよ。悪いけどこのまま一緒に歩いてくれる?」

「いいけど……」

 隣を歩く青年は、久志よりも少し背が低い。俯いた彼の顔はよく見えなかった。

 声や身体付きの感じからいって、同じくらいの年頃だろうか。暗い色のブルゾンの下に素肌にぴったりと貼りつくような小さなTシャツを着ていて、春先とは言え寒そうだ。鎖骨が細くて肌に落ちた影が濃い。革紐のペンダントが夜目にも白いうなじを流れていた。

 青年はいまだに久志の腕を離そうとしない。パーソナルスペースが狭い人なのだろうか。男同士にしては少し珍しいくらいに距離が近くて落ち着かなかった。

 公園の入り口から出て少し歩き、街灯の根本まで来たところで青年はようやく立ち止まった。公園の奥を確かめるように覗き込んで息をつくと、久志を見上げてにこりと笑う。

「ありがとう、助かったよ。あいつしつこくてさ」

 久志は息を呑んだまま目を見開いていた。

 街灯の下で見た青年は、やはり自分と同じくらいの年頃か少し年下に見える。

 くっきりと二重の大きな目に、小作りに整った顔立ち。頬を柔らかく包む長めの髪。

 ――恵に似てる。

 十年以上が過ぎて、もうはっきりと思い出せなくなっていたはずの恵の顔がまざまざと甦る。息をすることも忘れて青年の顔を見ていた。

 青年は不思議そうに久志を見上げている。

「ねえ、どうかした? 僕の顔に何かついてる?」

「……あ、いや、ごめん。子供の頃の知り合いにすごく似てたもんで、つい」

 久志の返事を聞くと青年は何故か笑った。

「結構ベタなこと言うんだね」

「え……っと、それってどういう意味?」

「……あれ?」

 久志が首を傾げると、青年もまた不思議そうに首をひねったあと、今度は噴き出した。

「あ、もしかして素で言ってる? ごめんごめん、僕はまたてっきり」

「てっきり、何?」

「気にしないで。大した事じゃないんだ」

 青年はひとしきり笑って笑みを消すと、久志の顔をまじまじと見る。至近から見つめられると気恥ずかしくて、思わず身を引いた。

「……なに?」

「ううん、なんでもない。かっこいい人だなって思っただけ」

「男にそういうこと言われたの初めてだなあ」

「そう? ――それより、悪いんだけどさ。もう少し一緒にいてくれない? 待ち合わせしてるって言ってたのは本当なんだ。ひとりだとまた絡まれそうだし」

「構わないけど」

 構わないどころか、出来ればもう少し一緒に居たい。誰かの姿を見て胸が苦しくなるのなんて、恵が居なくなって以来初めてだ。

「よかった。――ねえ、君さ、慣れてない感じだけど、こういう場所に来たのってはじめて?」

「こういう場所って、この公園のこと? それなら仕事帰りに時々通るけど」

「……あれ?」

 青年は久志の言葉を聞くと首を傾げ、今度は吹き出した。そのまま腹を抱えて笑われてしまって途方に暮れる。さっきからどうもよく分からないことで笑われてばかりだ。

「……俺、笑われるようなこと言ったかな」

「いや、ごめん! そうじゃないんだ。でもまた僕の勘違いだったみたいだから、それがおかしくて」

「勘違いって?」

「えっとねえ――」

 青年が目尻を拭いながら身体を起こしたとき、Tシャツの襟の中に入り込んでいたペンダントトップが服から転げ落ちた。

 どうやら手づくりのペンダントのようだ。革紐の先には、細いワイヤーで巻かれた半透明の赤い石がぶら下がっている。

 久志の脳裏に、故郷の海岸で拾った赤い石が浮かんだ。

 二人で拾い集めたガラス片。赤は珍しいからと言って、恵に渡した。

「あのさ、それ――」

「あ、これ?」

 久志に指さされると、青年は少し照れくさそうに、ペンダントヘッドを手の平に握り込む。

「恥ずかしいな。ただのガラスなんだ。シーグラスって言うらしいね。赤は珍しいって聞いたから」

 赤は珍しいから恵にやる。――ほかならぬ久志がそう言ったのだ。

 思わず肩を掴んでいた。久志の手の平にすっぽりと収まるほどの小さな肩。彼は驚いた顔で久志を見上げる。

「……めぐむ、か?」

「え……?」

「君、もしかして恵じゃないのか? 富野恵」

 息を呑んで目を丸くしたその顔。

 ――そうだ、似ているなんてものじゃない。恵そのものじゃないか。

 切れ長なのに大きな目、小作りな顔立ち、少しだけ色素の薄い真っ直ぐな髪。一度そう思って見てみると、もう恵以外の誰にも思えなかった。その上、久志が恵に送ったあのガラスを持っているだなんて。

 胸が沸き立つ。こんな気分は何年ぶりだろう。

「なあ、恵だろ? 俺、分かんないか? 久志だ。麹屋久志。小学生の時に一緒だった――」

 青年は不意に笑みを消すと、久志の言葉を遮った。

「ごめん、違う」

「……え?」

「人違いだよ。……ごめんね」

 青年は身を捩って久の手から離れる。

 ――違う?

「……でもそのペンダントの赤いガラス、俺と恵が一緒に拾って」

「これは人にもらったんだ。どこで拾ったのかなんて、僕は知らない」

 青年は赤い硝子を手の平に握ったまま、少しの間考え込むように黙り込んだ。久志から目を背けたまま低い声で言う。

「ただ、その恵って人のことは知ってる。もう死んだよ」

「……え?」

「死んだんだ。随分前だよ」

 そして急にきょろきょろと辺りを見回すと、遠くに向かって手を振った。

「あ、いた! もう、あんまり待たせないでよ」

 そのまま駆け出していったかと思うと、少し離れたところで振り返って「ありがとう、じゃあね」と言う。そのまま走り去っていく方向には、人の姿は見えない。

「……誰もいないじゃないか」

 久志は呆然と呟くしかなかった。


 どうやって電車に乗り、寮に戻ったのか自分でも分からない。

 帰り着いたときには十時を過ぎていて、食堂には腹を空かせて金の無い学生達が残り物目当てにむらがっているようだったが、最早それすらどうでも良かった。空腹なはずなのに、空腹を感じない。神経のどこかが麻痺してしまったみたいだ。

 ――恵が死んだ?

 本当なのか?

 いくつの時に、どこで。どうして?

 あの恵に似た青年は、何故あの赤いガラスを持っていたのだろう。恵とどういう関係なのだろう。

 親戚か何か? 弟にしては年が近すぎる。まさかとは思うが、生き別れになった兄弟でもいたのだろうか。

 分からない事があまりに多すぎて、恵の死が信じられない。あんなに恋しかったのに、泣く気にもなれないほど実感がない。

 ――それに何より、信じたくない。

「……連絡先くらい聞いておけばよかったな」

 狭い自室の蒲団に寝転がって呟く。窓の外には空を覆うような雲が見えた。



 とにかくあの青年にもう一度会いたい。恵の死についての詳細が分かるまでは、卒業制作のイメージスケッチも手につかない気分だ。

 だが連絡先も名前も分からない以上、あの公園に通うくらいしか手立てが思いつかない。通い詰めたいところだったが、生憎久志も忙しい身だ。やきもきしながらフィギュア会社でのアルバイトの日だけ公園を探して、四日目の夜にようやく再会することが出来た。

「君、この間の!」

 街灯の下に立つ青年を見つけて駆け寄る。青年は久志の顔を見て驚いたように目を丸くした。

「よかった、会えて。探してたんだ。この間の話の続きを――」

 近くまで寄って初めて、彼の隣にもうひとり男が立っていることに気付く。

「あ……ごめん。邪魔したかな」

 久志が訊ねると、青年の横に立っていた大柄な男が青年に尋ねた。

「ヒロミ、彼は?」

「えっと……知り合いの知り合い。大事な話があるみたいだから、ちょっとだけあっちで待っててくれる? すぐ終ると思うから」

 ――ヒロミ。

 名前を聞いて久志は肩を落とした。

 ではやはり彼は恵ではないのか。恵は死んだと聞かされても、心の奥で彼が恵なのではないかと思っていたのに。

 ヒロミの言葉に男は大人しく頷いて歩み去る。久志はそちらを目線で示した。

「よかったのか?」

「あんまりよくはないけど、用事あるんでしょ」

 ヒロミは不機嫌そうな様子だ。

「……その、ごめん」

「いいけど。君とはまた会いそうな気はしてたし」

 ヒロミが軽く微笑んでくれたので少しほっとする。そうして笑うと、やはりヒロミは恵によく似ていた。

 さっきの男は離れたところにあるベンチに腰掛けて煙草を吹かしている。革ジャンの下に着た白いシャツの胸は盛り上がり、よほど鍛えているのだろうと分かる。年も離れているようだし、どういう関係なのか少し気になった。

「友達?」

「ああ、うん――」

 ヒロミは頷きかけて、ふと笑みを消した。

「いや……彼氏」

「え?」

「僕、ゲイなんだ」

 ヒロミは自分で言った後、どこか皮肉るような顔で久志を見上げた。

「気持ち悪い?」

「いや、そんなことはないけど」

「ないけど?」

「……説明が難しいな」

 久志は困り果てて頭を掻く。

 彼がゲイであることは気にならない。だが恋人がいるという事実がショックだったし、そんな自分に驚いていた。

 自分はもしかしてヒロミに惹かれていたのだろうか。――恵に似ているから?

 だがそんなことを言っても彼を困らせるだけだろうし、何より恵が死んでしまったという彼の言葉の方が気に掛かる。

 ――そうだ、恵だ。

 面影が甦った途端、浮ついた気分が消えた。

「それより恵の事を聞かせてほしいんだ。恵はいつどこで、どうして死んでしまったんだ?」

 ヒロミは顔を曇らせて目を逸らす。

「そんなこと気にしてどうするの?」

「知りたいだけじゃ駄目かな。その……恵は俺にとって、とても大事な幼馴染だったから」

 ちゃんと話を聞くまでは信じられない。まともに悲しむことも出来そうになかった。

 ヒロミは首を傾げると、身を乗り出して久志の顔を見上げる。

「教えてあげてもいいけどさ、代わりにお願いがあるんだけど」

「なにかな。俺、あんまり出来ることないけど。金も時間も無いし」

 だがヒロミは首を振ると笑って言った。

「君のこと教えてよ」

「俺のことなんか聞いてどうするんだ?」

「知りたいだけ。駄目?」

「……そりゃ、駄目じゃないけど」

 さっき自分が言ったことを繰り返されてしまっては、断ることも出来ない。

「でもなあ。俺のことを話すって言っても、何を言えばいいんだか……」

「何でもいいよ。――そうだなあ。例えば、今何やってるの? 学生?」

「大学三年。石彫やってる」

「石彫って、石の彫刻のこと? どんなの作ってるの?」

「説明が難しいな。具体的な何かを作っている訳じゃないから。なんとなく、こう、イメージっていうか」

「抽象ってこと?」

「そう。話が早くて助かるよ」

 ほっと胸をなで下ろすと、ヒロミは小さく笑った。

「でもよく知らないんだ。ビルの前なんかに飾ってあるオブジェみたいなのを作ってるのかな」

「そう……かな」

「へえ、あれってどうやって作るの?」

「……えーっと」

 改めて説明しようとすると難しい。そもそも話すのはあまり得意ではないのだ。

「石を鏨【ルビ:たがね】でちょっとずつ削って、ヤスリや砂で磨いて水で洗って――って、こんな言い方で分かるかな」

「なんとなく」

 ヒロミはシャツの襟元からあのペンダントを引っ張り出した。

「砂で磨いて洗うっていうと、こんな感じでしょ」

 革紐の先では、ワイヤーの隙間から、岩や砂に磨かれた赤いガラスが覗いている。

「……そういえばそうかな」

 ヒロミに言われて初めて気が付いた。

 石彫を始めたのは大して理由あってのことではなかった。ただなんとなく性に合うと感じていた。だがもしかしたら、自覚の無い理由がそこにあったのかもしれない。

 ヒロミは急ににやりと笑った。

「ねえ、君さ、もしかして無理して標準語しゃべってない?」

「……もしかして訛ってる?」

「訛ってるってほどじゃないけど。なんとなく本当は違うんじゃないかと思って」

 久志は頭を掻く。

「そっか。無理をしているつもりはないんだけど、こっちに来たらなんとなく方言が出なくなったんだよ」

 ヒロミはまといつくように久志の顔を覗き込んだ。

「ねえ、地元の言葉なんかしゃべってよ」

「いや、しゃべれって言われても……」

「いいじゃない。何でもいいから」

 からかうような眼差しに至近から見つめられてたじろぐ。

「何でもいいって言われても、何話せばいいのか分かんないよ」

「じゃあ今の。今のそのまま方言に翻訳すればいいじゃない」

「……何でもよかっち言われても、なんば話せばよかとか分からん」

 半ばやけくそ気味に言ったのに、ヒロミはぱっと顔を輝かせた。

「これで満足か?」

「うん。なんかいいね、お国言葉って」

「なあ、俺のことはこのくらいでいいだろ。それで、恵はどうして死んでしまったんだ?」

 ヒロミは唇を尖らせて「ケチ」と小声で言うと、肩を竦めた。

「えーっとね。恵は自殺したんだよ」

 予想外の言葉だった。

「……どうして」

「さあ。辛かったんじゃないの?」

「自殺する人は誰でも辛いだろ。――なんで? いつの話だ?」

「中学の頃。親に捨てられたんだよ。母親が男作って金持って出て行って、身よりも何もなくて途方に暮れたんだってさ。それで施設に入れられたり、色々。で、死んじゃった」

「……そんな」

 店に寄りかかって煙草を吹かしていた恵の母のことや、恵の顔が頭の中を駆け巡る。

 ――あれからほんの数年で、恵は死んでしまったというのか。本当にこの世のどこにもいないというのか。

 ヒロミはそんな久志を痛ましげに見つめていたが、ベンチからの声に振り返る。

「ヒロミ、まだか?」

 ヒロミの彼氏がそろそろ業を煮やしたようだ。

「ごめん、もう行かなきゃ」

「待って」

 歩き出そうとしたヒロミを呼び止める。

「最後にひとつだけ聞かせてくれ。君は恵とどんな関係なんだ。血が繋がってるのか?」

「……どうしてそう思うの?」

「だって君、恵に似てる」

 ヒロミは言葉を選ぶように二、三度口を開いては閉じしたあと、ようやく言葉を紡ぎ出した。

「似てるなんてどうして言えるの。最後に会ってから、十年以上経ってるんでしょ」

「え?」

「子供の顔なんて変わるもんじゃない? ――待たせてごめんね!」

 ベンチで待つ男の方へ駆け去る後ろ姿を、久志は呆気にとられて見送った。

「俺、言ったっけ?」

 最後に会ったのが十年以上前だなんて、どうしてヒロミは知っていたのだろう。恵から久志のことを聞いていたのか? その割に、久志が最初に名乗ったときは知っているような素振りもなかった。

 ベンチではヒロミがさっきの男と寄り添って、にこやかに何か話をしている。その顔はやはり恵に似て見えた。


 三度目の再会は早かった。

 翌日のバイトの前、少し早めに来て公園を探したら、人待ち顔のヒロミがいたのだ。夕暮れ時の茜色の陽射しを浴びて、大きなブルゾンに埋もれるように立っていた。

「やあ」

 声をかけるとヒロミは少し嫌そうな顔をした。

「……また来るとは思わなかったなあ」

「俺、この公園を抜けた先にある会社でバイトしてるんだ。今日は一人か?」

「うん、まあ……今のところは」

 ヒロミは俯いて息を吐いた後、ちらりと久志を見上げた。

「君さあ、この辺あんまりうろつかない方がいいよ」

「なんで?」

「ここハッテン場だから」

「ハッテン場?」

「……知らないんだろうとは思ってたけど」

 腕を組むと、ヒロミは言い聞かせるように言った。

「あのね。僕らみたいなゲイって、出会いの場所が限られてるわけ。そういう店に行くんじゃなきゃ、こういう公園とか駅とか、ゲイが集まる場所に行ってお相手を探すの」

「それがハッテン場?」

「まあね。……出会いの場ってだけならまだいいけど、ラブホも兼ねてるんだから。意気投合したらその辺の繁みですぐやっちゃうんだからね」

「あー……」

 そのハッテン場で、恵は彼氏と何をしようとしていたのだろうと思ったが、まあ、多分そういうことなのだろうと察しはつく。

「やりたくてやりたくてたまんない連中が多いんだから、気に入られて声かけられたら面倒でしょ? 君なんか速攻でいただかれちゃうよ」

「俺、何度か通り道にしてるけど、今まで一度も声かけられたことないし、大丈夫じゃないかな」

「甘い」

 ヒロミは久志に指を突きつける。

「君みたいな子が好きだって人、結構多いと思う。油断してたらほんとに危ないよ。それにあんまり来てると、僕の――」

「僕の?」

 口ごもったヒロミを促すと、ヒロミは首を横に振る。

「……なんでもない。そもそも君、ゲイって訳じゃないんでしょ?」

「さあ、どうだろ」

 久志の答えを聞いて、ヒロミは首を傾げている。

「自分がゲイなのかどうか分からないんだ。男だから惹かれるとか女だから惹かれるとか、そういうの無いし。……でも、俺が好きなったのは今まで恵だけだから、ゲイと言えばゲイなのかも知れないな」

 ヒロミはぽかんと口を開けたかと思うと、目を丸くした。

「……へえ。まさかとは思うけど、今も好き……とか?」

「ああ」

 言い切ることに躊躇いはない。ヒロミはたじろいだように視線を逸らす。

「気が長いんだね、君」

「そうかな」

「……物好き」

 久志は苦笑して、ジーンズのポケットに手を突っ込んだ。

「この間さ、恵が自殺したって聞いただろ」

「うん、それが?」

「信じられないんだ、俺。死んだって聞かされても、実感がわかなくてさ。恵はどこかでまだ生きている気がする」

 あれから何度も、ヒロミに聞いた話を思い返した。母に置いて行かれた恵の気持ちを考えると胸が痛んだし、気持ちが沈む。その当時、自分は母や姉に守られてぬくぬくとした中学生活を送っていたのだと思えば、己のことすら腹立たしい。恵の窮状を知りもせず、恵の事を思い出すのが辛いとすら思っていたのだ。恵はどんなにか心細かったことだろう。

 だが、恵が自殺したというところまで思考を進めると、そこで考えが止まってしまう。どうしても信じる事が出来ない。単に恵の死を信じたくないだけなのかもしれなかった。

 ヒロミは複雑そうな顔をして久志を見ている。久志は腕時計を見た。

「そろそろ行かなきゃ。バイトの時間だ。――また会えるか?」

「……別にいいけど。僕が恵に似てるから興味があるわけ?」

「恵の事をもっと聞きたいってのはあるけど。それを抜きにしても、君にも興味があるかな」

 ヒロミは久志を軽く睨む。

「あのさあ。僕、彼氏いるって言わなかった?」

「彼氏がいると友達も作れない?」

「……そういう訳じゃないけど」

「なら問題ないだろ」

 胸元から手帖を取り出すと、一枚破って量の電話番号を書き付けて渡した。

「これ、俺の住んでる寮の電話番号。君のも教えて」

「……電話なんか持ってないよ」

「じゃあ、連絡がつけられる場所。どこでもいいから」

 ヒロミは少し考えるようだったが、首を横に振る。

「じゃあ君が俺に電話して」

「気が向いたらね」

 そう口では言いながらも、ヒロミは丁寧に折りたたんだメモをブルゾンのポケットに押し込む。「じゃあ、またね」と言って踵を返した。

「『またね』か……」

 また、と言われたのは初めてだ。いつの間にか微笑んでいる自分に気付く。恵が死んだと聞かされて以来ささくれ立っていた心が、少し潤った気がしていた。

 だからだろうか。仕事が終って帰る頃になると、もう一度ヒロミに会いたくなった。そういえばヒロミと恵がどういう知り合いなのかも知らないままだ。

 食堂が無法地帯と化すまでにはまだ少し余裕があるから、早く帰るべきだというのは分かっていたが、あえて夜の公園に足を踏み入れる。ヒロミにはあまり来ない方がいいと言われたが、公園は近道でもあるのだ。見つかっても言い訳は立つだろう。

 公園と一口に言っても広い。これまでは殆ど同じエリアで見かけていたから、今日もそこを探してみたが姿が見えない。

 少し奥まった場所に人の気配を感じて、久志は何気なくそちらに足を向けた。

 陽が落ちて久しく、街灯も道を外れたこの辺りには、ぽつりぽつりとしか立っていない。それでもそこに複数の人達が黒い影となって、ひっそりと佇んでいるのは分かった。

 何をしているのだろう。集った人達の顔が同じ方向に向けられていることに気付き、視線を追う。

 ――木陰から甲高い声が聞こえる。

 木の幹に華奢な男が押しつけられていて、その背後にもうひとり男が立っているようだ。

 空気がむっと熱気を増した気がする。背後に立っている方の男が囁いた。

「ほら、もっとちゃんと言わなきゃ。ヒロミ君はみんなに見てもらうのが大好きでしょ?」

 ――ヒロミ。

 息を呑む。男の声に答えるように声が高くなった。

 背後の男がいっそう激しく動いている。

 ――一瞬、ヒロミと目が合った気がした。

 幹にぶつかるほど強く押し上げられて、ヒロミが甲高い悲鳴を上げる。細い指先が樹皮を抉る様を見た気がした。

 背後から誰かに太股を触られて、久志は我に返った。ギャラリーの一人が棒立ちになった久志に手を伸ばしていた。手を振り払い後ずさる。震える足を引きずるように数歩行き、そこからは走った。

 耳にヒロミの喘ぎ声がこだましている。薄暗い公園の向こうに見える町の明かり目がけて、ただ走った。


 寮に帰り着いても、全身が掻き回されている気がしてまともに思考も出来ない。暗い部屋で、敷きっぱなしだった布団に突っ伏したまま夜が更けて、深夜を過ぎた頃になってようやくひとつだけ思うことがあった。

 ――ハッテン場だと教えられた。彼氏と待ち合わせしていると聞いて、意味は分かっていたつもりだった。

 だがもっとちゃんと考えるべきだった。ヒロミが来るなと言ったのには、ああいう現場を見られたくないという意味もあったのかもしれない。

 ――でもヒロミのことをどう考えればいい。

 ヒロミは本気であの状況を悦んでいるのだろうか。ああして複数の誰とも知らない連中に見られながら行為に及ぶのが、本当に嬉しいのか。

 分からない。ヒロミのことはあまりに未知数だ。考えてみれば、彼と出会ってまださほど日も経っていない。ほんの数分の立ち話を繰り返したきりの見知らぬ人なのだ。なのに何故、こんなにもショックを受けているのだろう。

「……アイデアスケッチ出さんといけんかったな」

 震える息を吐き出した瞬間、唐突にそんなことを思い出していた。

 卒業制作どころの話ではない気分だが、為すべき事はきちんと為さねば。何より、大学まで出してくれた家族の為に。

 重たい身体を起こして明かりを点ける。スケッチブックを開きはしたものの、何も思い浮かびそうな気がしなかった。


 それからしばらくの間は、あの会社へバイトに行っても公園に立ち寄る気にはなれなかった。

 ヒロミに会う前と同じに遠回りをして帰り、制作とバイトに明け暮れるようになった。何も考えたくないという思いが久志を日常に駆り立てていた。

 それでも時折、ヒロミの痴態やあの場の静かな熱気を否応なく思い出す。嗅いだ覚えのない精液の臭いまで思い出されて息が詰まりそうだ。

 眠っていても眠った気がしない。浅い眠りには何度も黒い影が夢になって出てきた。公園に佇む影。ヒロミを背後から穿つ影。ヒロミばかりが白く光っている。いっそ何も知らなかった方が心は平穏だった。

 と、そこまで考えたところで、久志は苦笑した。

 ――俺、こげん柔かったんやな……。

 全てを無かったことにしようという考え方だ。恵にもう遊ばないと告げて泣かせた子供の頃と大差ない。あの時あんなに後悔して、恵に悪いと思ったのに。

 ――だが、どんな顔をして会えばいいのか分からないのだ。

 あの場に割り込んでヒロミを救い出すべきだったのか? だがヒロミが望んでのことだったら、それは余計なお世話というものだろう。自分には理解出来ない世界にヒロミが生きているのかもしれないと、そんな気はしていた。だがもしヒロミが恵なら、恵はあれを望むだろうか。

 思考は堂々巡りを繰り返す。いくら考えても答えが出なくて、悶々としながら書いたイメージスケッチは、教授にあっさりと却下された。

「やり直し」

 黄昏時の教授室で、スケッチブックを指で弾かれる。突っ返されたスケッチを受け取りながら、溜息をついた。

「……まあ、そうなりそうな気はしてました」

「そうなりそうな気がしてるなら持ってくるな。時間の無駄でしょ」

「はい……」

 その通りだ。スケッチしたものを作りたかったかと言えば、自分でも首をひねる出来だ。そういう意味では、教授に対しても自分に対しても不誠実なことをしたと己でも思う。

 教授へ真面目に取り組んでいるポーズを見せたくて描いた訳ではなかった。とにかく何かに取り組んでいないと気が紛れなかったのだ。

 意味の無い線でも書き連ねていれば何かを為すかもしれない。そんな気持ちで枚数を重ねて、一応なにがしかの形にはなったから持ってきてはみたが、自信は持てなかったというだけのことだった。

 教授は項垂れた久志をじっと見ていたが、小さく鼻を鳴らした。

「麹屋、君、何がしたいの」

「何が……」

「君さ、ここんとこ上の空じゃない? 作りたい物が見えてる?」

 久志は少し考えて首を横に振る。

「そう。なんかあった?」

「色々と」

 そうとしか言い様がない。

「女のこと?」

「……まあ、そんなところです」

 苦笑混じりに答えると、教授は至って真面目な顔で頷いた。

「じゃあまずそれを何とかしなさい」

 教授は机の傍らに置かれた彫りかけの小品を撫でた。

「石彫やる人間にも色々いるけどさ。石の中から形を掘り出したいと思う者もいれば、自分の中にある形を石に投影したいと考える者もいる。相手が石にせよ自分の中の何かにせよ、必要なのは『向き合うこと』だよ。ちゃんと対象を見てる?」

 自分でも似たことは考えた。全てを無かったことにしようとしていることへの自覚はあったのだ。だからせめて、考え続けることだけはやめまいとしていた。

 ――だがそうじゃないのかもしれない。ヒロミの、或いは恵のことばかり考えているつもりでいたけれど、本人とは会っていないし、本人の話を聞いてもいない。

 顔を上げると教授は何度か頷いた。

「心当たりはあるみたいだし、女と上手く行かないのも同じ理由じゃないの? しゃんとしなさい。しゃんと。――取りあえずそれはやり直しね」


 その日は別の場所でバイトがあり、さらに翌日は課題の締め切りが迫っていて大学で徹夜作業をする羽目になって、結局あの公園に行けたのは翌々日の夜だった。

 仕事上がりに恐る恐る入った公園は、メインの通りを歩いているだけならさほどおかしな所もない。分かった上で改めて見れば人待ち顔の男が多いことには気付いたが、いかがわしい行為に耽る者は見当たらなかった。どうやらその類の人間は、先日のように奥の方に籠もるもののようだ。

 ――探しに行くか?

 公園の暗がりを覗き込みながら躊躇する。不用意に踏み込んで、またあんな現場に遭遇したらと思うとなかなか思い切ることが出来ない。

 しばらくの間、遊歩道を行きつ戻りつして、ようやく覚悟を決めて歩道から足を踏み出したところで、肩を叩かれた。

「久し振り」

「あ……」

 肩を竦めて首を傾げたヒロミが立っていた。

「しばらく見なかったけど、元気だった?」

「あ、うん。……その、君は?」

「僕は元気だよ。見ての通り。――で、今日は何しに来たの?」

「……えっと」

 話をしたいと思って来たはずだが、いざ顔を合わせると何を話せばいいのか分からない。

 ――あの日、ヒロミと一瞬、目が合った気はした。だが本当に彼が自分の存在に気付いていたのか、確信は持てない。

 彼からすれば、見られたくはない光景だったかも知れないのだ。知らない振りをしておきたいという気持ちと、だがそれでは核心に触れる会話は不可能だろうという思いの間で揺れ動く。

 ――でも、話さなきゃ。

 その為に来たのだ。今話をしなければ、ここに来た意味もない。

 久志は拳を握ると、顔を上げた。

「あのさ、聞きたいことが――」

「この間、見てたんでしょ」

 久志は息を飲んだ。ヒロミは暗い目で久志を見上げて唇を曲げる。歪んだ笑みだった。

「ねえ、興奮した?」

「何を言って――」

「ギャラリーの中に突っ立ってるんだもん。やっぱりこの人ゲイだったのかって笑っちゃったよ」

 ヒロミは久志の耳元に唇を近付ける。

「見たかったのなら、もっと近付けばよかったのに。サービスしてあげたのにさ」

 久志は咄嗟にヒロミの肩を押しのけた。

 ヒロミは顔を赤くした久志を見て、口元に手を当てくすくすと笑っている。

 ――ヒロミにとって俺って何だ?

 ここまで来て今更、そんな思いが胸に沸いた。

 ヒロミにとって恵は知り合いだと言う。自分は知り合いの幼馴染でしかない。その自分が彼のプライベートに立ち入って、何を語ると言うのだろう。

 ――大体、何のために俺はここまで来たんだ?

 そう思った瞬間、ヒロミが言った。

「だからここにはもう来るなって言ったんだ」

 笑みが消えている。ヒロミは苦しげな目で久志を見つめていた。

「来るなって言ったのに、なんで来たんだよ。ここがどういう場所か言った筈だよね?」

 その目を見ていたら、問わずとも分かった気がした。

「やっぱり好きであんなことやってる訳じゃないんだな」

 恵ははっとした様子で拳を握る。

「だとしても、君に何の関係があるの」

「関係はないかもしれないけど、気になる。――なあ、あいつは本当に君の彼氏なのか? なんで言いなりになってるんだ。本当は何か弱味でも握られてるんじゃ――」

「だから君には関係ないってば!」

 声を荒げたあと、恵は唇を噛んで目を逸らした。

「とにかく、もう来ないで。じゃあね」

「待てよ」

 咄嗟に腕を掴むと、すぐさま振り解かれた。早足で突き進むヒロミの後を追う。

「なあ。――なあって」

 ようやく追いついて腕を掴んだ。

「だから、なに!?」

「何か俺に出来ることはないのか?」

「は? 何言って――」

「好きでやってることなら、口出ししちゃいけないんだろうって思った。俺は君とは赤の他人だし。……でも、好きでやってるんじゃないなら。俺、出来ることがあるならしたいんだ」

 また怒鳴られるかもしれない。そうでなくとも腕を振り解かれるかもしれない。だがヒロミは何も言わず久志を見つめ、小さく呟いた。

「なんで僕なんかの為に、そんなに必死になるの」

「俺もよく分からない。お節介してるのも分かってる。……だけど、なんかほっとけないんだ」

 握った腕は離さなかった。ヒロミは少しの間、言葉を探すように視線をさまよわせていたが、結局、そっと久志の手から腕を抜いた。

「僕のことはもう忘れて」

「ヒロミ君」

「――恵も僕も、死んだと思えばいい」

 ――泣き出しそうな目をしている。大きな瞳は潤んで、今にも涙をこぼしそうだ。

 思わずまた手を伸ばしそうになったが、久志がそうするより早く、ヒロミは背を翻して駆け出した。後を追おうとすると、ヒロミは振り返りもせずにただ叫ぶ。。

「ついて来るな!」

 烈しい声に思わず足を止めていた。ヒロミの背中がみるみるうちに小さくなって、公演の入り口を抜けていく。多分これは、追わない方がいいのだろうと、なんとなくそう思えた。

 お互いに少し頭を冷やした方が良さそうだ。

「……そういや、恵もあんなだったな」

 昔、喧嘩をしたときのことを思い出す。職員室で教師に理由を問われて、自分が悪いことをしたのだと答えた久志に、恵は違いますと怒鳴った。大人しそうな見た目の割に気が強いところもあるのだと、子供心に思った気がする。

「恵も僕も、か……」

 久志は己の手の平を見る。さっきまで掴んでいた腕の、上着越しにも分かるか細さが何故だか胸に迫った。

 ――ヒロミは恵は死んだ、と言う。

 だがどうしてもそうは思えない。それどころか、案外近くにいるのではないかとさえ思えてしまう。

 ――恵、ごめん。

 生きているのではないかという思いが勘違いなのだとしたら、死んでしまったかもしれない恵を悼むでもなく、ヒロミのことを気にかけてしまう自分はなんて薄情なのだろう。

 でも、放っておけないのだ。どうしても。

 あの華奢な身体で自分のことを忘れろと訴える青年のことを、どうしても忘れられそうもない。


 しばらくその場で様子を見ていたが、ヒロミが戻って来る気配はなかった。

 その日は寮に帰り、また翌日。その日はフィギュア製作の会社でのバイトはなかったが、ただヒロミを探すためだけに公園を訪う。

 今まで会った通りを一通り巡って姿が無いのを確かめたあと、久志は昨日と同じに奥を覗き込んだ。

「……行くか」

 もしまたあの現場に遭遇したら、今日は覚悟を決めてヒロミを引きずり出す。袋だたきにされるかもしれないが、知ったことか。

 意を決し足を踏み出したところで、昨日と同じに背後から肩を掴まれた。

「ヒロミ!」

 思わず笑みを浮かべて振り返ったが、背後にいたのはヒロミとは大違いの、柔道選手のように堅太りした、髭面の男だった。久志よりもゆうに十センチは背が高い。顎の太い顔の中で、鋭い眼光を放つ目が久志を睨んでいた。

 咄嗟に久志は後ずさる。

「あ……あの、すみません! 俺別に相手を探しに来たわけじゃ――」

「そんなことは分かってるわよ。ヒロミなら今日はいないって教えてあげに来たんじゃないの」

「え?」

 ――言われてみれば、セーター越しにも分かる筋骨隆々としたこの体格や雰囲気には見覚えがある。

「えっと……もしかして前にヒロミと揉めてた人ですか?」

 その人は心外そうに肩を竦めて唇を尖らせる。

「揉めてた訳じゃないわよ。あたしはあの子を助けようとしてただけ」

「助けるってどういう――」

 相手は久志を上から下までためつすがめつした。

「あんたこそ誰なの? ヒロミの彼氏かと思ってたけど、そういう訳じゃなさそうね」

「違います。俺は……えっと、ヒロミの友達の幼馴染で」

「何それ。ただの他人じゃない」

「はあ。その……すみません」

 しかし今のところ、そうとしか言い様がないのも事実だ。

 相手は顎をつまみながら眉をひそめた。

「でも変ねえ。あんたみたいの、絶対ヒロミのタイプだと思ってたんだけどなあ」

「でも俺がこの間見かけた彼氏は、俺とは似ても似つきませんでしたが」

「あら。どんな感じの男だった?」

「革ジャンで、割と筋肉質な」

 相手は「ああ」と言って手を打った。

「それ多分、彼氏じゃないわ。客ね」

「……客? あの、ヒロミ君って何の仕事してるんですか?」

 相手は頬に手を当てて首を傾げた。

「教えてもいいけど、その前にひとつ聞かせてちょうだい。貴方さっきこの奥に入ろうとしてたでしょ。どうして?」

「その……そう言う貴方のほうこそ、どうして俺がヒロミ君を探しているって分かったんですか?」

「質問に質問で返すのやめなさいよ。――って言いたいところだけど、まあ、いいわ。あんたがヒロミを探しているかもしれないって思ったのは、あっちの奥でヒロミを見かけた事があったからだわね。貴方もそこでヒロミを見たんじゃないの?」

 久志は神妙な顔で頷く。

「やばそうな状況だった?」

 もう一度頷く。

「それでヒロミを探してた訳ね。どうして?」

「……ヒロミは望んであんな事をしている訳じゃなさそうだったから」

「それで? 王子様気取りでお姫様を助けようと思ってるわけ?」

「助けられるとか助けられないとか、それ以前の話なんです。なんであんな事になってたのかもはっきりしないし。何かしたいって思うけど、俺に出来ることがあるのかも分からない。ただ……」

 久志は拳を握りしめた。

 最後に会ったときのヒロミの顔がどうしても忘れられない。死んだと思えばいいと言った癖に、やけに印象的な目が忘れられない。

「ただ、なによ」

 久志は溜息を落として頭を掻く。

「……すみません。俺もまだ考えがまとまってないもんで、上手く言えません。でも多分、放っておけないだけなんです」

 相手は久志をじっと見て、肩を竦めた。

「――あんた悪いやつじゃなさそうだから、いいわ、教えたげる」


 男は「カズコ」と読んで欲しいと言った。本名は『カズオ』だそうだ。

 ベンチに並んで腰掛けて禁煙パイプをくわえると、カズコは夜空を見上げる。しばらく考えをまとめるように視線をさまよわせたあと、ようやく口を開いた。

「あたしがあの子と会ったのは、もう五、六年前のことよ。ヒロミと会ったのは売り専バーでね。――売り専バーって分かる?」

 久志が首を振ると、カズコは続けた。

「まあ要は、男相手に身体を売る男を集めたバーよ。そこであたしもあの子もボーイをやってたの」

「ボーイ……というと」

「飲み物運んだりしてたわけじゃないわよ。まあ、そういうこともしてたけど、本業はお客様のお相手。もっと言うなら身体を売ることね。それをウリっていうんだけど」

 カズコは当たり前のことのようにさらりと言ったが、久志にとっては驚くべきことだった。目の前のこの人やヒロミが身を売っていたというのが信じられない。売春の話はあちこちで耳にするが、久志にとっては遠い世界の出来事だった。ゲイビデオに出演したという友人が身近にいてもなお、他人事だったのだ。それが急に身に迫って感じられる。

「ヒロミは年をごまかして中学の時からウリやってたって言ってたっけ。私と会ったときが十六、七じゃなかったかな」

「……ヒロミはどうしてそんなことを」

 カズコは鼻を鳴らす。

「そんなの、金が欲しかったからに決まってんじゃない」

「いや、それは分かりますけど。でも中学生の頃からって――」

「よくある話よ。元々母子家庭なのに母親が男作って逃げて、ひとりになっちゃったのね。それで食い詰めたんでしょ」

 久志は目を見開いた。

「――それ、ヒロミの経歴なんですか。本当に?」

「本当なんじゃないの? ヒロミ自身がそう言ってたもの。それにあたしに嘘をつく必要もないでしょ」

 だがその過去は、ヒロミが恵の過去として語ったものと同じだ。

 もしかして、とは思っていた。どうしても恵が死んだ実感もわかなかった。だが、やはりそうなのか。

「あの……妙なことを訊きますけど、『ヒロミ』って名前、本名なんでしょうか」

 夜の店に居たのなら、源氏名なのかもしれない。そう思って訊ねると、カズコはあっさりと認めた。

「本名じゃ無くて源氏名。売り専バーでつけられた名前ね」

「本名は知ってますか」

 勢い込んで訊ねたが、カズコはこれには首を横に振った。

「知らないわ。あんな場所じゃ滅多なことでもない限り本名なんて教えないもの。客に知れたら実家まで突き止められたり、付きまとわれたりして大変だしね。――ヒロミの本名がどうかしたの?」

 久志は首を横に振った。

「それより、話の腰を折ってしまってすみません。ヒロミが金に困ってたのは分かるんですけど、その……中学生だったんですよね。普通そういうときって、児童養護施設とかに入るんじゃないですか?」

「勿論。でも施設の職員にタチの悪いのがいたのね。悪戯されて、嫌になっって逃げ出したみたいよ」

 そこまで言って、カズコは久志に指を突きつけた。

「この話、ヒロミは知られたくないだろうけど敢えて言ってるの、覚えておいてね。……そういう経験しちゃった子はね、たまに安全弁が壊れてしまうことがあるのよ。自分を簡単に蔑ろに出来るようになっちゃうの。ヒロミがウリやるようになったのも多分そのせいだと思うから、こうして教えてるの。いい? 分かった?」

「……はい」

 久志は頷いた。

 久志が母と姉に守られて、のほほんと中学時代を過ごしている間に、ヒロミはそんな酷い目に遭っていたのかと思うと、胸に重い石を詰め込まれた気分だ。

「カズコさんは、ヒロミに信頼されてるんですね」

「あら、どうしてそう思うの? こないだなんか、話をしようとしたら逃げられちゃったのに」

「でもそんな深い話までするくらいなんだし」

「別に信頼がどうのって話じゃないわよ。あたしもヒロミも、同じ寮で住んでたからね。みんなで雑魚寝して暮らしてりゃ、多少は分かることもあるってこと」

「寮っていうと、その、売り専バーの?」

「そう。……あの子もあの店にいれば、まだよかったんだけどね。そんな仕事じゃあるけど、待遇のいい店だったのよ。マスターも親身になって面倒みてくれたし、客層も割と良かったし。身体売る仕事なんてろくなもんじゃないんだから、せめて良い店で働かないと、どんどん酷いことになっちゃうし」

「……でも、じゃああれは、店の仕事としてやってたんじゃないですか?」

 久志が奥の暗がりを指さすと、カズコはすぐに察した。

「違うわ。――そりゃね、お客様が望んで、ボーイが嫌じゃなきゃ応じる場合もあるけど、少なくとも、あたしとヒロミが会った店じゃ、強要するようなことはなかったわね」

「……そうですか」

「とは言っても、好きでやってるんならいいのよ。売春だろうが乱交だろうが野外プレイだろうがさ。でもあの子の場合そうじゃなかったからねえ」

 カズコは禁煙パイプを指先で揺らした。

「さっき、あの店にいればまだよかったって言ってましたよね。ヒロミは店を辞めたんですか?」

「辞めたっていうか、クビになったの。――ヤミケンって言ってね。店を通さずに客を取っちゃうタブーがあるのよ。店の中抜きがないから、客は安くボーイを買えるし、ボーイは儲けることが出来る。ヒロミはそれに手を出したのね。多分今のヒロミは、個人的に客を取ってるんじゃないかしら」

「どうしてヒロミはそんなことを」

「その頃、客の一人と出来ちゃってね。それがまあヒモみたいな男でさ。カレに貢ぐお金が欲しくなったんじゃない? ――軽蔑する?」

「……いいえ」

 事情はどうあれ、久志だって大学進学するかどうかはかなり悩んだ。今だってバイトに明け暮れる日々を送っているし、それが嫌だとは思わないが、お金が欲しい気持ちは分かる。

 カズコは軽く微笑んで続けた。

「ボーイにはゲイの子もノンケの子もいるけど、ヒロミは多分ゲイだったんでしょうねえ。時々、客といい仲になってたけど、見る目がないっていうか、男運がないっていうか。どれもろくでもなかったけど、最後にとびきり酷いのに当たっちゃったみたいでねえ」

「そうですか……」

「見た目はねー。ちょっと素朴でノンケっぽくて、優しそうに見える男ばっかりだったけど」

 カズコは久志の額を指でつついた。

「ちょうどあんたみたいな感じね」

 複雑な顔で眉を寄せた久志の顔を、カズコはまじまじと見つめた。

「――ねえ、あんたさ、えっと、ヒロミの知り合いの幼馴染、なんだっけ?」

「はい。一応」

「さっきヒロミの本名のこと気にしてたでしょ。あれ、どうして?」

「……俺はヒロミに、俺の幼馴染は死んだって聞かされたんです。でもヒロミに聞かされた俺の幼馴染の生い立ちが、さっきカズコさんに聞いたヒロミの生い立ちにそっくりで」

「ああ、死んだことにしておきたかったワケだ」

 カズコはあっさりと言って頷いた。

 ――多分、そういうことなのだろうと久志も思う。

 一目見て恵だと思った自分の目は、やはり間違ってはいなかったのだ。

「そっか。あんたがヒロミのカレに似てるんじゃなくて、カレがあんたに似てたのね」

「へ?」

 カズコの唐突な言葉に首を傾げると、彼はにやにやと笑っていた。

「あんたさ、ヒロミと何かあったでしょ」

「え? な、何かって……」

「察しなさいよ、鈍いわね。付き合ってたんじゃないの?」

 久志は困り果てて頭を掻いた。

「えっと、子供の頃のことだし」

「そんなの関係ないわよ、この色男。――ヒロミはあんたのことが忘れられなかったのね」

 久志は唇を噛む。

 ――俺だってずっと忘れられなかった。

 誰に告白されても誰にも心を動かされなくて、あれ以来、ずっと一人だった。

 久志は拳を握ると立ち上がり、カズコを見下ろした。

「あの、カズコさん。ヒロミの居場所、分かりますか」

「店を辞めて寮を出たときの彼氏の家なら分かるわよ。居るとしたらそいつのとこだと思うけど、その時のカレと今のカレが同じかは分かんないし」

「それでも構いません」

「そ。ちょっと待ってなさい。今地図を書くから」

 カズコは胸ポケットから取り出したメモ帳を破いて地図を書く。もう一度メモを破くと、今度はいかつめな見た目に似合わぬ繊細な文字で、住所を書き込んだ。

「これが地図。割と近くだから。で、こっちはあたしの連絡先。ヒロミと話がついたら、あたしの所に連絡するように言って」

 カズコは二枚のメモを久志に手渡す。

「あたし今、カウンターだけのちっちゃいバーやってんの。ウリで貯めた金を元手に始めたのよ。この間からヒロミにうちの店で働かないかって声かけてたんだけど、ろくに話も聞いてくれなくて」

「じゃあ、この間揉めてたのも……」

「そう。余計なお世話するなって言われちゃった。でもねえ。あの子、このままじゃダメになっちゃう気がするのよ」

 カズコは真顔で久志を見上げた。

「しけた店だけど、食べられる程度にはお給料も出せるわ。夜の仕事に代わりはないけど、少なくとも身体は売らなくても生きていけるようになる。他の仕事に就くまでの橋渡しくらいにはなるでしょ。……って、あんたからも言っておいて」

 久志が頷くと、カズコは満足そうに笑って肩を竦めた。

「実はね、あんたが今の彼氏だったら、ぶん殴ってやろうと思って声をかけたのよ。でもよかったわ、殴らなくて」


 カズコと別れて公園を出ると、久志はすぐに地図の場所を目指した。割と近くだというカズコの言葉通り、私鉄で二駅行った場所だ。電車を下り、地図を頼りにしばらく歩く。駅前の繁華な光が消えると街灯がぽつぽつと灯るだけの住宅街になり、古ぼけた二階建てのアパートが現れた。

 ブロック塀に書かれたアパートの名前と、地図に書かれた名前を照らし合わせる。ヒロミがいるのだという彼氏の部屋は、二階の一番手前にあった。外から見るとカーテンが閉じられていて、窓には光が灯っている。

 ドアの前まで来て少し躊躇した。

 ヒロミが出てくれば話は早いが、彼氏が出てきたら何をどう言えばいいだろう。

 ――なんて、いちいち悩んでいる場合じゃない。

 ともかくヒロミに会う。話をする。取りあえずカズコさんの伝言だけでも何とか伝える。

 腹を括ってノックをすると、すぐに間延びした声が応えた。

「どなたですかー」

 ヒロミの声じゃない。どうやら彼氏の方だ。

「あの。ここにヒロミって人が住んでるって聞いてきたんですが」

「ヒロミ? ……ちょっと待って」

 鍵を外す音がして、すぐにドアが開いた。

 トレーナーの上下を着て、つっかけを引っかけた若い男が顔を覗かせる。

 ――ちょっと素朴でノンケっぽくて、優しそうに見える男。

 ノンケっぽいというのがどういうことなのか、久志にはよく分からない。だが目の前の男は、確かにどことなく久志と似ている気がした。顔かたちが似ているのではないが、身体付きや漠然とした雰囲気が似ているのだ。もしかしたら子供の頃も似ていたのかも知れない。

 男は久志をためつすがめつして口を開いた。

「あんた誰?」

 見た目は大人しそうだが、口を開くと少しガラが悪い印象だ。だが怪しむのも無理はないとも思ったから、久志はなるべく丁寧に頭を下げた。

「俺はヒロミ君の幼馴染で麹屋って言います」

 男は久志をじろじろと見て、顎をしゃくる。

「ちょっと入って」

「え?」

 腕を捕まれ引き寄せられる。

「いいからちょっと」

 男は久志を扉の内側に引きずり込んで扉を閉じると、久志を睨め付けた。

「――お前かよ、ヒロミの新しい男は」

 印象が一変する。自分に似ていると感じたのが嘘のようだ。久志を睨む様子もその口調も、まるでチンピラだった。

「いえ、そういうわけじゃ」

「じゃあなんでわざわざうちまで訊ねて来てんだよ」

「……最後に会ったときに様子が変だったんで、ちょっと気になって」

「へえ? ……ま、どうでもいいか、そんなことは。どっちにしてもあいつはもういねえよ。追い出したからな」

 男は軽く言って肩を竦めた。

「追い出した?」

 一瞬言葉が出なかった。久志は数回呼吸を繰り返し、何とか言葉を絞り出す。

「いつ? どうして?」

「昨日かな。ウリやんの急に嫌がりやがったから。金入れなきゃ置いてやる義理もねえもん」

 眉をひそめた久志に非難されたと感じたのだろう。男は語気をわずかに荒くした。

「家に置いてやってたんだし、金くらい出すのが当然だろうが。何でそんな目で見られなきゃいけねえんだよ」

 ヒロミの恋人はヒモだと、カズコが言っていたのを思い出す。

「あんた、ヒロミの恋人じゃなかったのか?」

 久志の言葉を男はせせら笑った。

「恋人とか気持ち悪ぅ。よくそういうこと真顔で言えるよねえ。男相手にさあ」

「俺は、あんたとヒロミが付き合ってるって聞いてたんだけど」

「俺は友達に誘われて店に行っただけ。その場のノリっての? 俺は別にホモじゃねえし、笑えるかと思って行ったワケよ。それでもいいからって迫ってきたのはヒロミの方だし、何でもするっつったのもあっち。最初から恋愛感情とかそういう気持ち悪いのは無いの」

「……でも一緒に住んでたんだろ?」

「住むとこないって言うからさあ。それにヒロミって男のくせに顔だけは可愛かったし、言えば何でもしてくれんだよね。あとさあ」

 男はそこで声を潜めてほくそ笑んだ。

「あいつすっげえフェラチオ上手いんだぜ、あんた知ってた?」

 久志は拳を握りしめた。手の平に食い込んだ爪の痛みが無ければ、怒鳴り声を上げそうだった。今すぐ目の前の男を殴り飛ばしたい。だが今すべきことはそれではない。何とか息を整えて訊ねた。

「……じゃあヒロミが今どこにいるか分かりますか」

「俺が知るかよ」

「心当たりは」

「知らねえっつの。しつけえな、あんたも。――なあ、ほんとにあんたヒロミの男じゃねえの?」

「違います」

「マジ? ……っかしいな。男が出来たからウリやんの渋ったんだと思ったんだけどなあ」

 男はぼりぼりと頭を掻いて溜息をついている。

「あーあー。しかし明日っからどーすっかな。今更バイトとか、かったるくてやってらんねえわ。ったく、ヒロミが大人しくケツの穴売ってりゃよかったのによ」

 ――その言葉を聞いた途端、最早どうしようも無いほどに、頭の奥がかっと熱を帯びた。

「全然似とらんわ」

 久志の口から漏れた低い声を聞いて、男は眉を上げた。もう我慢が出来ない。目の前の男の戯言を、これ以上一言たりとも聞いてはいられなかった。

「は? 何言ってんの」

「俺【ルビ:おい】とお前じゃ似ても似つかんっち言いよるったい。ったく、ヒロミも見る目ん無か。なんでこぎゃん人間のクズんごたる男に引っかかったとか」

 男はうわずった笑い声をあげた。

「お……お前急に何語しゃべり出したの? 何言ってるんだか、ちっとも分かんないんですけど、人間の言葉しゃべってくれない? っていうかさ、もしかしてお前、田舎モンなの?」

「田舎モンで何が悪かか。生きとる価値もなかごたるクズよかマシやけん」

「テメェ」

 意味が分からないなりに、悪口を言われたことだけは理解したらしい。男は肩を怒らせると久志に拳を打ち込んできた。

 拳は頬を抉ったが、まるで痛みを感じない。多分、怒りのせいだ。腹の底からふつふつとこみ上げて身を焦すこの怒りに比べれば、モヤシのような腕から放たれる拳など、蚊が刺したほどにも感じられなかった。

 このくらいの痛みはどうってことない。――ヒロミが受けた仕打ちに比べたら。

 久志はそのまま相手の拳を掴む。指が軋みをあげるほどに握り込んだ。

「い……っ、痛い、痛いって! 離せよっ!」

 久志の力の強さに相手が悲鳴を上げるたが、そのまま腕を引いて男を引き寄せると、久志は至近から呟いた。

「先に殴ったとはお前やけんな。――よう覚えとけ」

 言って、空いた手の甲を力いっぱい相手の頬に叩き付ける。

 そのまま壁に向けて男を放り出した。隣家から聞こえていたテレビの音がふつりと止む。みるみるうちに男の頬が腫れていった。

「お、おま、な……で。お、おでが、なにしたって」

 唇の内側を切ったのかもしれない。言葉は不明瞭だ。へたり込んだままの男を見下ろして、久志は言い捨てる。

「――なんば言いよっとか、ちぃっとも分からん」

 叩き付けるようにドアを締めてアパートを出た。足音も荒く階段を下りながら吐き捨てる。

「彫刻科の腕力、舐めとっちゃなかぞ」

 伊達に毎日重たい石を相手にしている訳ではないのだ。

 少しばかり溜飲は下がったが、あの男がヒロミの居場所を知らないのなら、長居しても意味はない。

 しばらく歩いたコンビニ前の公衆電話でカズコに連絡をして、状況を伝えた。心当たりを探してくれると言ったカズコに礼を言い、自分は寮に急ぐ。

 今のヒロミの行動範囲は久志には分からない。せいぜいがところあの公園くらいだ。公園を探した後に久志に出来るのは、ひとつしかなかった。


 寮の管理室の外、受付け用のカウンターには、ピンク色の公衆電話がひとつ置かれている。それは寮で寮生が使える唯一の電話で、日中は管理人が電話を受けて、かかってきた相手に放送で知らせることになっている。管理人が引き上げた夜間は、学生が電話番を交代で受け持つことになっていた。

 久志は受付カウンターの前に陣取って腕を組み、薄汚れて少し黄味を帯びた公衆電話を睨み付けていた。

 りん、とベルが小さな音を鳴らす微かな音。耳がそれを捉えた瞬間に手を伸ばし、飛びつくように受話器を取った。

「はいっ、もしもしっ!」

 受話器越しの声を聞いた途端、久志は肩を落として、管理室に声をかけた。

「302の石田さん……」

「はいよ、石田さんね」

 管理室に詰めている友人は、マイクのスイッチを入れると放送を始めた。

「302の石田さん、お電話でーす。302の石田さーん――」

 久志は腕を組むと大きな溜息をついた。これで何本の電話を受けたか分からない。これをいつまで続けなければならないかは、目の前が暗くなりそうだから考えるのをやめた。

 マイクのスイッチを切った友人が、管理室の小窓から顔を出す。

「麹屋さあ。そこにずっといるんだったら、ついでに当番やってくんねえ?」

「それは無理」

 もしヒロミから電話があったら、すぐに迎えに行くつもりだ。当番を代わってしまうと管理室に缶詰になってしまう。

「つかさあ、電話が来るの待ってるんだったら、部屋で待てば? 俺、ちゃんと放送するよ?」

「それは駄目」

 今のヒロミは、呼び出しの待ち時間の間に電話を切ってしまいかねない気がしていた。そのくらい孤独感に苛まれているのではないかと思った。

 友人は「ふうん」と呟いて、頬杖をつく。

「電話の相手ってカノジョ?」

「え?」

「いやだって、そんな必死になって電話待つのなんてカノジョくらいでしょ。お前いつの間にカノジョ出来たの」

 階段を下りてきた半纏姿の石田に電話の前を譲りながら、久志は首を横に振る。

「彼女じゃないよ。友人」

「なんだ。こっちから連絡取れないの?」

「取れるならこんな事してない」

「ま、そりゃそっか」

 友人が肩を竦めたとき、チン、と受話器を置く軽やかな音が聞こえた気がした。電話が終ったかと振り返ろうとした久志の目の前に、銜え煙草の石田先輩が受話器が突き出していた。

「麹屋ってお前だよな」

「……はい、そうですけど」

「俺が電話を切るのと同時にかかってきた。お前宛」

「もしもしっ!」

 ひったくるように奪った受話器の向こうは、無音だった。ただ、微かに街の音がする。遠くを走る車の音と、どこかの店の鳴らす音楽。多分、街外れの路地にでもある公衆電話からかけているのだろう。

「もしもし、もしもしっ?」

 相手は何も言わない。ただ小さな吐息の後、微かに――本当に微かに、受話器を下ろそうとしている気配を感じた。

「待て、切るな!」

 久志は慌てて声を張り上げる。

「ヒロ――」

 ヒロミだろう。そう言いかけて久志は口を閉ざす。一度唇をぎゅっと噛んで、改めて声を発した。

「……恵だろ? 恵なんだよな」

 返事はやはりない。だが相手が動きを止めたのは分かった気がした。

「恋人の家を追い出されたってのは知ってる。……今どこに居るんだ?」

 横では石田と友人が顔を見合わせていたが、気にしていられない。

「なあ、恵。もう隠さなくていいんだ。お前が恵だって、俺、分かってる。嘘つかなくてもいい。恵と会えれば、俺はどうでもいいんだ。ちゃんと話そう。迎えに行くから、どこに居るのか教えてくれ」

 ――返事はない。受話器の向こうからはやっぱり遠い車のエンジン音と、街の喧噪。それから今にも消えてしまいそうな吐息。

 微かなその音を追うように耳を澄ませて数分。受話器を握りしめる。久志は瞼を閉じ、身を折るようにして声を絞り出した。

「恵。頼むけんか居場所ば言うてくれ。俺は……俺はもう、恵ば見失いとうなか!」

 祈るような気持ちで返事を待った。おそらく一分にも満たない時間だったのだろう。だが待つ時間は永遠のように長く――長かったからこそ、聞こえてきたか細い声は、眩い光のようだった。

『……上野駅』

「山手線の方? 何口?」

 管理室を覗き込む。終電までにはまだ余裕があるようだ。

「広小路口だけど、でも――」

「分かった。すぐに行くけん、絶対にそこば動くな!」

 受話器を下ろしてすぐにポケットに手をやる。そこに財布があることを確かめて駅までの道を駆け出そうとしたら、背後から名前を呼ばれた。

「麹屋、自転車貸してやる」

「え?」

 飛んで来た鍵を反射的にキャッチする。管理室にいた友人が窓から顔を出していた。

「何か知らんけど急用だろ? 自転車置き場の右端にあるからすぐ分かる。駅まで使えばいいよ」

「……ありがとう!」

 自転車置き場目がけて駆け出した久志の背に、石田が「頑張れよ」と気の抜けた声をかけた。


 駅の自転車置き場に自転車を置いて、折良く滑り込んできた快速電車に飛び乗る。池袋で山手線に乗り換えて、上野に辿り着くまでの十数分がもどかしくてならなかった。

 自分が行くまで、ちゃんと待っていてくれるだろうか。今の恵の心境では、いつ逃げ出してもおかしくない。

 上野に着いて駅舎から駆け出す。

 正面口の駅前は遅い時間もあいまっていつもより人も少なくて、駅舎に入る人と駅から流れ出る人の群れの中に、恵の姿は見当たらない。

 息をするのも忘れて駅前の通りに出て、何気なく視線を向けた歩道橋の影に、項垂れてひっそりと立つ、か細いシルエットがあった。

「恵っ!」

 確認もせずに呼んでしまったが、はっとした様子で顔を上げたから、確かに本人のようだ。

 駆け寄ると恵も一歩を踏み出した。

 二人の間の距離は、三歩。駅舎から漏れ出る光と街灯に身体を縁取られて、恵は寒そうに身を縮めている。

 小作りな瓜実顔と頬を包む細い髪。潤みを帯びた瞳と少し薄くて頼りなげな色の濃い唇。――改めて見れば恵以外の誰でもないじゃないか。何故一時でも別人だという言葉を信じていられたのか、今となっては理解出来ない。

 季節は冬だ。往来に立っていると吹き付ける風は肌を凍らせる。

 恵はジャンパーと薄いTシャツ一枚の姿で、ジャンパーのポケットに手を突っ込んだまま、蒼ざめた唇を震わせた。その頬は赤く腫れている。叩かれたのだとは一目瞭然で、あの男をもう一発殴っておかなかったことを後悔した。

「……無事でよかった」

 言うと、恵は顔を上げた。久志を見て、少し気まずそうにも気恥ずかしそうにも見える顔で目を逸らす。

「……ただ、声が聞きたかっただけなんだ」

 ――細い声。

「でもまさか、来てくれるだなんて思わなかった」

「そりゃ来るさ」

 久志は残り数歩を歩み寄ると、恵の肩を抱き寄せる。そうしないとあまりにも寒そうで、頼りなくて、見ているだけで辛かったのだ。

「とにかく俺んとこ来ればよかよ」

「でも……」

「よかけん、来いって。飯食って休んで――後んこつはそいから話そうや」



 電車の切符は久志が買った。駅からは借りた自転車に二人乗りして寮を目指す。

「懐かしいね、こうして二人乗りするの」

「今日は落ちる場所もなかけん、安心してよかよ」

 言うと恵は笑った。久志の胴に巻き付く手の力の柔らかさが、子供の頃のことを思い出させる。夜風は汐風に負けないくらい涼しくて、心地良かった。

「おい麹屋ー。さすがに女の子引っ張り込むのは……って、あれ? 女の子じゃないの?」

 寮の入り口で目を丸くされて、中に恵を入れる。本来なら部外者の宿泊は禁止されているのだが、誰もそんなことは気にしていない。

「すっきりしたろ?」

 風呂上がり、部屋に戻った恵は、久志に問われてこっくりと頷いた。

「……本当に誰も気にしないんだね」

 久志は電気湯沸かし器をセットしながら笑う。

「寮生以外の出入りとか珍しゅうなかよ。友達引っ張り込んで騒ぐとも多かし。ドアば開けて他の部屋の連中も巻き込んで、廊下で酒盛りしよるともおるしな」

 寮に戻ると十時ぎりぎりだったから、弁当箱片手に慌てて食堂を覗いてみたら、残り物の争奪戦は既に始まっていた。何とか二人分の食料を確保して部屋に戻り、それから風呂を使った。

 学生ではない自分がいて大丈夫なのかとしきりに恵は気にしていたが、誰ひとり気にする様子もなかったから拍子抜けしたようだ。

「大学ってそういうもの?」

「さあ、他の大学のことは知らんけど、ここは飛び抜けて変人の多かっちゃなかとかね。芸術系の大学は大概おかしかごたるよ」

「そっか。何だか楽しそうだね」

 そうして仄かに微笑む恵は、久志の知る子供の頃の恵と少しも変わっていない。ヒロミと名乗っていた時と違って、肩の力が抜けて見えた。

 コーヒーを手渡すと、恵は湯気の立つカップに目を落としたままぽつりとこぼす。

「……ねえ、いつから僕の嘘はバレてたの?」

「嘘って?」

「恵が死んだ、って言ったこととか」

 部屋の隅に畳んで置いた布団をソファ代わりに腰掛けて、久志は首をひねった。

「いつやったかなあ。……まあ、最初から引っかかることは色々あったとけどな。そもそも顔んよう似とるし――でも、おかしかっち思うたとは、俺と恵が別れて十年以上経つって知っとったことかな。俺はそげん話はしとらんかったし」

「恵から聞いたのかもしれないとは思わなかった?」

「思ったけど、色々ちぐはぐやったけん。そげんこつまで話すほどに親しかったにしちゃ、恵の事ば話すときにも素っ気なかし、その割にそいば持っとうし」

 手を伸ばして恵の襟元に見える革紐を軽くつつく。

 恵はパジャマの上からペンダントを握り込んで、「そっか」と小さな声で言った。

「恵こそ、なんであげん嘘ばついたとや?」

「……僕はずっと、良い生き方をしてこなかったから、合わせる顔がなかったんだ」

 恵は俯いている。臥せられた瞼が微かに震えていた。

 久志はカップを手に、恵の隣に移動する。

「ひさちゃん?」

「俺はさ。恵がこれまでどんな生き方してきたんか、詳しいことは知らん。そいやけん、恵が良か生き方ばせんかったっち言うても、否定してやることの出来ん。多分誰になんば言われても駄目っちゃろ? 一番自分ば否定しとるとは恵やろうけん」

「……うん、そうだね」

「でもな、恵。俺は恵に会えて嬉しかよ」

「ひさちゃん……」

「恵の死なんでよかった。これまでなんばしとっても構わん。生きとってくれてありがとう」

 恵は大きな目を丸く見開いて久志を見ていたが、急に顔を背けた。

 ――肩がわずかに震えた気がした。

 久志はあえて恵から目を逸らす。カップを畳に置いて、そっと恵の背に腕を回した。痛々しいほどに骨張っている。昔は久志と体格もさほど差がなかった気がするのに、今はどこもかしこも子供じみて小さくて、恵のこれまでがを考えれば胸が詰まった。

 恵は少しの間、顔を俯けていたが、目元を軽く拭うと「そう言えば」と小さな声で言った。

「……今更だけど、ひさちゃんって呼んでもいいのかな」

「当たり前やん。さっきもそう呼びよったろ」

「……うん、それはそうなんだけど」

 恵はようやく久志を見て、ほのかに笑う。

「再会してすぐの頃、うっかり呼びそうになって困ってたんだ。実は」

「呼べばよかったとに」

「だってそれじゃ、僕が恵だってバレちゃう。――それにさ、なんとなく、ひさちゃんなんて呼んじゃいけない気もしたし」

「なんで?」

「だってひさちゃん、かっこよくなってたし。言葉もまるで違うんだもの」

「あー……」

 かっこよくなっていた云々はともかく、言葉のことについて言われるとそれこそ格好つけていた気がしてきて、少し気恥ずかしい。

「方言のまんまじゃ通じんしね。それに周りがみんな標準語で話しとったら、俺も自然とそうなったとさ」

 恵は膝を引き寄せると、膝頭に顎を乗せた。

「……ひさちゃんの方言聞くと、安心する」

「そうか?」

「うん。……島にいた頃は良かったなって、いつも思い返してたんだ。だからなんとなく安心する」

 久志を見るその顔は穏やかだ。

「なあ、恵。訊いてよかか?」

「なに?」

「あの後、何のあったと? 俺はよう覚えとらんったい。恵と洞窟におって、具合の悪うなって、気が付いたら家で寝かされとった。そいで、恵は引っ越したっち聞かされた」

 恵は少し考える様子で手の中のカップを回していた。

「あの日……ひさちゃんが熱を出したことに気付いて、おばさん達に知らせに行って。ひさちゃんのことは気になったけど、家に帰りなさいって言われて戻ったんだ。そしたらお母さんが酔っ払ってて」

 当時のことを思い出したのか、恵はくすりと笑った。

「それで、急に店を畳んで引っ越すって」

「どうして」

「いつものことだった。大した理由なんてないんだよ。ちょっと嫌なことがあったとか、人と付き合うのが嫌になったとか。そんなことですぐに引っ越しちゃうんだ。あの時も何かあったんだろうね」

「……うちの親父が恵のとこのおばさんに振られたとか聞いたけど、関係のあるとかね?」

 恵は首を横に振った。

「ひさちゃんちのお父さんだけの問題じゃなかったと思うよ。当時の母さんの彼氏、多分ひとりじゃなかったし。……いつもそうだったんだ。男がいないと生きていけない人だったから」

 恵は苦笑して、また膝頭にことりと顎を落とす。

「島を出た後もあちこちを転々としながら暮らしてた。それでも中学までは平和だったんだけど、ある日置き手紙もなく帰って来なくなっちゃってさ。後になって分かったんだけど、当時付き合ってた男が妻帯者で、駆け落ちしたみたい」

「そっか……」

「あとはまあ、当然家賃も払えないし、出なきゃいけなくなって。役所の人が来て色々あって……養護施設に入ったりしたけど、色々あってさ。そこも嫌になって飛びだしちゃった」

 ――養護施設で職員に悪戯されたのではないかと、カズコは言っていた。

 恵にとってもそれ以降のことは、語りたくないのだろう。苦笑して肩を竦めた恵にそれ以上を問う気にはとてもなれないし、その必要もない。

「おばさんとはそれっきり?」

「そうだよ。今頃どこで何をしているんだか」

 恵は軽い口調で言うが、久志はむらむらと腹が立ってきた。あの母親が恵を置いていかなければ、恵はこんなに悲惨な境遇にならなくて済んだのだ。

「恵はおばさんのことは怒っとらんとか?」

「え?」

「俺は腹ん立つぞ。大体、酷かやなかか。我が息子にどうしてそげん仕打ちん出来るとか、俺には分からん」

 己の母親のことを思い出せば尚更だった。

 母親が子供のために全てを捧げるべきだとは思わない。だがもっと他にやりようはなかったのかと、どうしても腹立たしい。

 だが恵は肩を竦めただけだった。

「怒ったり悲しんだりしたこともあったけどさ。あんまりそういうのが長く続いて、疲れちゃった」

「恵……」

「あの人もさ、まだ綺麗なうちにって思ってたんじゃないかな。老けることをすごく怖がってたし、顔以外に取り柄が無いって――そう自分で思ってるような人だった。だからまだ綺麗なうちに誰か引っかけて、幸せになりたかったんじゃないかな」

 ――その結果、果たして本当に幸福が得られたものだろうか。捨てた息子の存在は、彼女の心に影を落とすことすらなかったのか。そんな思い過ちを抱えたままで、人は本当に幸せになれるものなのだろうか。

 それに恵が、こうも悟ったふうに語るのが切ない。その解答を得るまでに、どれだけ長い間思考を続けたのだろうかと――自分を捨て去った母親のことを考え続けたのかと思うと、久志までもが辛かった。

 空気を変えたかったのか、恵は少しおどけたふうに続けた。

「まあ、僕も人のこと言えないけどねー。今までろくな仕事してなかったし。ろくでもないやつと付き合ってたし」

「確かにろくでもなかったな、あの男」

「え?」

「恵の彼氏なら、俺も会うたぞ」

「……もしかして喧嘩になった?」

 そっと伸ばされた細い指が久志の頬を掠めた。

「こんくらい大したことなかけん」

「でも……」

「わざと一発殴らして、倍にして返してやっただけやけん。――あ、そういや恵の彼氏ば殴ってしもたとやったな。怒るか?」

 恵は苦笑して首を横に振る。

「あいつには世話になったとも思うけど、怒ったりしないよ」

「……なんであげん男と付き合っとったとや?」

「えっと……」

 恵は困ったふうに眉を下げている。

「最低の男だった。それは僕にも分かってるんだ」

「うん」

「……でも、家に入れてくれた。ここに居ていいって言ってくれたんだ」

 再び膝を抱えた恵は、年よりもずっと幼く見えた。

 ――母親に去られてひとりになり、家も施設も出なければならなかった恵の孤独を思う。

「寂しかったとか?」

「まあ、そりゃあね。……うん、そうだったのかな」

「そいで好きになったとや」

「……好きじゃなかったよ。でも似てる気がしたんだ」

 恵は膝の上に顔を突っ伏す。くぐもった声は聞き取りづらかった。

「え?」

「ひさちゃんに似てる気がしたんだよ」

 恵はやけになったようにこぼした。その頬が赤く染まっている。

「ひさちゃんに似てる子ばっかり探して、付き合ってた。再会したときだって、この人ひさちゃんに似てるって思ったから声かけたし、腕組んだりしたんだ」

「え?」

「笑っちゃうでしょ。それがまさか本人だなんて思いもしなかった」

「恵……」

「――追い出していいよ」

「何を言って――」

 恵は暗い目をして久志の言葉を遮った。

「だって気持ち悪いでしょ、こんなの。あんな男の家に居候しなくたって、その気になればやっていけたんだ。身体を売れば泊めてくれる男くらい、いくらでもいた。今日電話したのだって、ひさちゃんの声を聞きたくなっただけで、ほんとはここに来るつもりなんてなかった。だから追い出してくれても構わな――」

「恵!」

 咄嗟に抱きよせると恵は口を閉ざす。

「気持ち悪か訳んなかろうが。……俺もずっと、恵んこつ、忘れられんかった」

 恵が息を飲むのが分かる。やはり細い。痛々しいほどにか細い身体が、腕の下でぴくりと震えた。

「そいやけん、そげん悲しかことばっかり言うな。自分ば貶めるようなことばっかり言うな」

 耳元に唇を押しつける。恵はきっと、何度も何度も己を殺しながら生きてきた。周囲の人間から殺され、自分自身の気持ちで、言葉で、自分を殺してきた。そうして頑なになっていった恵の心に言葉を届けたかったら、どうすればいいのだろう。

 腕の中の身体は微かに震え始めている。着ていたスウェットがじわりと湿り気を帯びた。

「ごめん……好きになってごめん。……ずっと好きで、ごめん」

「なんで謝るとや」

「だって、僕は、狡くて汚い……」

「そげんこつなか」

「子供の時だってそうだった。ひさちゃんのことが好きだったから、キスしてみるかなんて訊いたんだ。それでひさちゃんは殴られて。ふたりで逃げたときだって、僕のせいでひさちゃんは、熱出して」

「恵のせいやなか。俺も恵のことばずっと好いとった」

 抱きしめた腕に力を込める。

「恵が俺んことば好いとったこつでって謝らんといけんなら、俺も恵に謝らんといけんごとなる。――そいやけん、もう、泣くな」

 恵は久志の胸元に拳を押し当てたまま、しばらくの間黙っていた。

「恵?」

「そんなこと言ってもらえるとか、思ってなかった」

 呼びかけられて、ようやく口を開く。

「また会えたことだって奇跡だと思ったのに。……好き、とか。そういうの、夢みたいで信じらんない」

 恵は久志の胸元に顔を埋めたまま、幸せそうに呟く。

「今、最高に幸せ。このまま死んでもいいや」

「馬鹿んごたるこつば言うな。せっかく会えたとに死なれたら困る」

「……うん」

 涙をこぼしながらくしゃりと笑う顔が可愛い。涙を溜めた目元を指先で拭った途端、その唇に触れたくて仕方がなくなった。触れたいと思った次の瞬間には、考える間も無くそうしてしまっていた。

 唇を押し当てる。涙で濡れた唇は柔らかに湿っていた。幾度か軽く押し当てて、そこでようやく、恵は嫌ではないだろうかと気になった。

 顔を離して恵の様子を伺う。恵は顔を上気させてとろんとした目で久志を見ていた。それが急にはっとした様子で狼狽えると項垂れた。その耳が桜貝のように赤く染まっている。

「……嫌か?」

 恵は声を出さずに首を振る。

 だから怖々、もう一度キスをした。

 あの日、漫画の真似をして交わしたのと同じような、不器用な口付けを。


 結局その日は、キス以外の事はしなかった。これまで散々な目に遭ってきた恵の事を思えば、再会早々――そうだ、ようやく名乗り合えたのだから、今日が再会の記念日だ――性行為を迫る気になど、とてもなれなかった。

 抱きしめるだけ抱きしめて、煎餅布団でくっつき合って眠る。どきどきしてとても眠れないのではないかと思ったのに、疲れていたせいか、現金にもいつの間にか深い眠りに落ちていた。

 ――夢を見た気がする。

 子供の頃の恵を自転車のかごに入れて、空を飛んでいた。

 宇宙船まで送り届けると、シルエットだけの宇宙人が恵を迎えに下りてくる。

 でも、いやだ。

 行っちゃ嫌だ。手の届く場所にいてくれなきゃ嫌だ。恵は島の子なんだから。

 ……いや、違う。

 恵は大事な、大事な。

『ひさちゃん!』

 宇宙人の手を振り解いて、恵が駆けてくる。

『恵!』

 手を握る。そのまま引き寄せて抱きしめる。きつく抱き合って名前を呼んだら、「なあに?」と優しい声に問われて目を覚ました。

 見れば目の前で恵が笑っている。辺りはカーテン越しの白々とした朝日に包まれていて、恵は内から輝くようだ。

「どうしたの? 怖い夢でも見た?」

「いや……どっちかっていうと、よか夢やった気んする」

「まだ早いよ。もうちょっと寝たら?」

「…………うん」

 恵は綺麗だ、と思った。まるで地球の人じゃないみたいに。

 でも恵はもうどこにも行かない。仲間のいる宇宙じゃなくて、この地球を、自分の傍を選んでくれたのだ。

 それが急に腑に落ちた気がした。


 翌朝、朝食を食べた後、恵は決心したふうに久志と向き合った。

「僕さ、カズコさんところで働かせてもらおうと思う」

「うん、そいがよかよ。おいもたまには覗きに行くけん」

「高校も行ってみようかなって。通信制とか、夜間とか、色々あるみたいだし」

「うん」

「それでね、その……」

 言い淀む恵が言葉を紡ぐのを待たず、言う。

「恵もまた遊びにおいで。おいはいつでも構わんけん」

「……うん!」

 きっと恵はそれが言い辛かったのだろう。嬉しそうな顔を見たら、ほっとした。

「そいでさ」

「うん?」

「そいで、おいが卒業したら、一緒に住もう」

 恵ははっと息を飲んで、小さく震えた。

「……いいの?」

 膝の上でぎゅっと握られた恵の手を取る。

「おいが恵の居場所になりたかったい。恵こそよかとや?」

「……うん!」

 力いっぱいに頷いた恵の笑みが明るくて、それだけでもう、全ての事が上手く行くような気がした。


「またね!」

 恵は力強く手を振って去って行った。明日辺りにでも、また会おうという話になっている。今度は探し回る必要も無く会えるのだ。

 浮き立つような気持ちを抱えて大学に行けば、学部棟に入った途端、担当教官と鉢合わせた。

「麹屋、卒製のアイデアどうなった」

「あー……」

 昨日はそれどころじゃなくて、何も出来なかった。と、焦りかけたその一瞬で、ふと、頭の中に絵が浮かんだ。

 丸い……そうだ、歪で滑らかで丸いものがいい。例えば月のような。それから月と岩と波の間に佇むもの。具体的に作らなくてもいいのだ。ただ、海と付きの間に、その存在が感じられれば。もう二度と手放さないと決めた、大事な、大事なものを、そっと大事に潜ませることが出来れば、それがきっと作りたかったものになる。

「海と月を作ろうと思います」

 目を見て言い切った久志の顔を見て、教官は面白がるように目を丸くして、「ふん」と小さく頷いた。

「なんだか知らないが、目付きが変わったね、君。スケッチが出来次第、持ってきなさい」

「はい!」

 ひらりと手を振って去る教授に頭を垂れて、石彫室へと歩き出す。

 不意に潮の匂いが嗅ぎたくなって、恵を誘って、週末にでも海に行こうと決めた。



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