最後の願い 中

 少しだけ空気が冷たくなり、独特な夜の匂いに満たされた洗面所を覗き、音無はその先にいた人物に対して声をかける。

 「それじゃフォス、おやすみ」

 「ふぉふぉふみ(おやすみ)」

 濃い紺色のマントに身を包み、相変わらずの三角帽を被った彼女は相変わらず似合わない歯ブラシを咥えたまま、夢現な状態で頷く。

 働いている時とは違い、好き勝手に遊んでいるときはあまり疲労を感じることは無いのだが、それでも一日中遊び回っていては疲労が溜まる物なのだろう。

 心地よい疲労の色が滲む表情でこちらを振り向いたフォスに、音無はさっと手を振ると今現在寝室としても使っているリビングへと足を進める。

 「……ふぁ」

 収まる気配の無い睡魔をかみ殺し、部屋の扉を開くと、ちゃぶ台を動かして寝床を確保し、その上に倒れ込む。

 人の三大欲求と呼ばれるだけあり、睡魔自体はとても心地の良い物だ。

 だが、音無はその睡魔が普段のそれとは違うことに気がついていた。

 心地よいのは間違い無い、体が睡眠を望んでいる事も間違いが無く自然だ、しかしその睡魔の強さが明らかに不自然だった。

 何処までも続く闇、その闇の中でもずっと深いところから伸びた手が、音無の意識をわしづかみにして無理矢理に引きずり込んで行く感覚。

 どれだけあがこうと、何をしても取り払えないその睡魔は麻薬の様に心地良く、同時に恐ろしかった。

 「寝ちゃ駄目だ、寝ちゃ――」

 フォスの前では精一杯の演技でいつも通りを装って見せたが、音無は自身の体が問題をきたしている事を知っていた。

 低速高トルクで引っ張られる意識は徐々否応なしに己の意識を引っ張る、その中で音無は手を伸ばし、部屋の隅に置いていた缶を引っ張り中身を確認する。

 「駄目……寝……だ」

 少しでも睡魔を晴らそうと呟いていた言葉が途切れ始めたたのと、缶の中に目的の薬がやっぱり無い事を知り、彼は目を閉じてそのままうつぶせに寝転がる。

 今現在、音無はナルコレプシーの薬を切らした状態だった。

 それは、計画的な物でも自身の計算の甘さでも無く、予想外なトラブルによって、つまりは大事に持っていた筈の薬の紛失によってだ。

 事が発覚したのは、フォスと映画を見に行ってから二日後の事だった。

 元々、フォスがあちらの世界に帰った後直ぐに病院に行くつもりだったが為に、それほど多くのストックを抱えておらず。

 そして、数少ないストックもまた、彼が普段持ち歩くシザーバックの中につめられていた。

 その為に、自体が発覚した時には既に、無くては日常生活に支障をきたすその薬が、全くなくなった状態だったのだ。

 勿論、病院に行けば薬は再度もらえる。

 だが、彼がかかっている病院が大学病院であること、そして特殊な病である事から、薬をもらうだけでも丸一日潰れるのは目に見えており、明日フォスが旅立つ日となれば、音無にとってその一日はとても貴重な物になる。

 故に、彼は己が薬を切らしたことを誤魔化し、無理矢理にでも最後の一日を彼女の為に使おうと考えていたのだ。

 多少症状が出たとしても、それは彼女と会ったあの人同じである。

 日常生活に支障をきたそうと、日常生活そのものが出来なくなる訳では無い。

 人として生まれた限りは、どれだけ問題を抱えていようと人として生きられる様にだ。

 「……」

 一旦許したせいか、意識がまっすぐに夢の世界に落ち始める。

 手足の感覚が溶け、額で感じていた固い床の感覚すら消える。

 頭の中で規則正しく回っていた思考もほつれ、要所要所が全く関係の無い事と繋がりを持ってはちぎれるを繰り返し始める。

 『フォス』『睡魔』『記憶』『別れ』『薬』『紛失』『仕事』『魔法』『固い床』……etc

 そんな中、ふと音無は妙な部分で考えが繋がる事に気がついた。

 『魔法使い』『人間』『噂』

 繋がりの見えないこの三つの単語。

 それが何を意味しているのか、それが判りかけた瞬間には彼の意識は完全にほどけ、深すぎる眠りの園に落ちていた。






 眠りに落ちたのと同じく、覚醒もまた素早かった。

 「っ!」

 どれほどの時間を寝ていたのかの判断は付かなかったが、彼は慌てて上体を起こし、その先にある紫の瞳と目を合わせる。

 「起きたか?」

 「……まぁ……」

 顎に床の後が付いたままの顔を見られるのは恥ずかしかったが、それでもまだ肝心の相手がこの家の中に居ることに安堵を浮かべる音無。

 どれほどの時間そうして待っていたのかは判らないが、フォスは音無の枕元でアヒル座りをしていた。

 「最後の日だな」

 小柄な彼女がよりいっそう小さく見えるその姿勢だが、今の音無の姿勢からすれば頭の位置が幾分高く、故に彼女の表情は逆光気味な部屋の明かりで上手く窺えない。

 そんな状態で、彼女は初めて会った時の様な、酷く感情の起伏に欠けた声でそう伝える。

 「……そうだね」

 肯定した瞬間、その言葉は鋭く己に帰ってくる。

 フォスは今日、日が暮れるその瞬間に消えて居なくなる。

 勿論それは物の例えだ、実際には彼女は消えるのでは無く元いた世界に帰るだけ、それの何処がよくある帰省と違うのかと述べれば、こちらの世界の全ての人間の記憶から、彼女にまつわる情報が削除されるだけ。

 ただそれだけの事ではある。

 しかし、それ故に辛い物であるのだ。

 何故なら、今後一生会えないだけで無く、彼女のとの思い出すら忘れてしまうのだから。

 だが、彼の内心を悟ってか、フォスは本当に小さな声で笑ってみせると、少しだけ顔をこちらへと寄せてみせた。

 強がりかそれとも悪戯か。

 元々童顔だった彼女の顔は逆光の明かりの中、少しだけ頬を吊り上げてみせる。

 こうしてみて気がついたが、彼女はこちらの世界にやって来てからずいぶんと表情豊かに語る様になった物だと音無は少しだけ安堵を浮かべた。

 「ところで拓斗、聞きたいことがあるのだが……」

 だが、同時にその声の中にこれまでには無かった猜疑心が含まれている事にも気付く。

 器用に隠したつもりではあったが、やはり音無がやっていた隠し事に気がついていたのだろう、彼女は音無が返事をするよりも早く溜息を吐くと、彼がいつも世話になっていたブリキ缶を開け、その中にいつもの錠剤が無い事を示してみせる。

 「お前にとってあのクスリと言う物は大事な物では無かったのか?」

 あくまでも質問という体裁ではあるが、その言葉に逃げ場は無く、鋭く音無の本心を貫く。

 「気がついてたか……」

 「毎朝飲んでいる所を見ているのだからな」

 その通りと言えばその通りである。

 予めあの薬がナルコレプシーの為の薬であると説明を受けていれば、毎朝食卓を共にする彼女が気に留めない訳が無い。

 ましてや、普段何かとまめな音無が部屋の明かりを付けたまま泥の様に寝ったのだ、その事から彼女が薬の在庫が切れた事に気付いても不思議では無い。

 「やっぱりお前は馬鹿だ」

 嫌味では無くそう告げる、そして直ぐに、彼女は言葉の続きを重ねて言葉の綾を訂正する。

 「私なんかのために無理をする必要は無いのだ、私はお前の魔法使いなのだからな……だが、そんな魔法使われも悪くない」

 「ずいぶんな言われ様だ」

 そう告げ、音無は小さく笑う。

 「なぁに、こんな言葉も直ぐに忘れる」

 何気なく口を突いて出たのだろう、そんな一言の後彼女は口を元を抑え思わず黙り込んでしまう。

 そして、僅かに生まれた沈黙を破る様に、彼女は慌てて意見を述べた。

 「私は魔法使いとして自立し、お前は何事も無く元の日常に戻れる、それは素晴らしい事ではないか」

 彼女の言葉通り、これはあくまでも彼女が魔法使いとして自立するための試験に過ぎない、だからこそ本来魔法使いは、己の感情を極力消して道具として振る舞う。

 魔法使われはそんな魔法使い達を道具として扱い、試験が終わればそんな思い出すら忘れてしまう。

 その事に罪悪感を覚えてはいけない、何故ならそれが当たり前の事であり。

 こちらの世界に、魔法使いが存在した痕跡を残すなど、例外なく不可能なことだからだ。

 それでも……

 「そんな事言うなよ……」

 ふと反論を込めてしまう。

 「忘れるから良いとか、そういう寂しい事言ったら駄目だ」

 その感情は隠し通すつもりでいた、この感情をぶつける行為は彼女の後ろ髪を引くのと同じ意味を持っている。

 そう思っていたからこそ、彼は黙っているつもりだったのだ、一度言葉にしてしまうと、堰を切った様に感情があふれ出す。

 「確かに僕の記憶からフォスの事は消えて無くなるかも知れない。

 だけど、それでも僕は君の為に沢山の思い出を作りたいんだ」

 「レナ……リリィナ! (私だって)」

 かぶせる様に紡がれたのか、彼女にとっては馴染みの、そして音無にとっては聞き慣れない言語だった。

 「ロジル ラーダクェ、レナ リリィナ、ラーダクィェ ラライナ――」

 「フォス……何て言ってるのか僕には」

 彼女がこうして元居た世界の言葉を使うと言うことは、それだけ感情を乱している証拠ではある。

 だが、それ以外の事は音無には判らず、首を傾げてしまう。

 すると、すぐに彼女は判る言葉で同じ様に紡いだ。

 「私とてこちらに居たい、ずっとこの世界に居たい、だがそれは無理なのだ……」

 尻すぼみになる言葉に、音無もまた言葉を無くす。

 それから程なくして二人は簡単にブランチを取り、近所を散歩して回ることにした。

 元々は彼女を連れて遊園地にでも行こうと考えていたのだが、人の多いところで音無が倒れた場合余計なトラブルを招く事と、フォス自身が慣れ親しんだ近所の景色をよく見ておきたいと口にした為に、急遽予定を変更したのだ。

 予定を変更した結果が散歩と言うのはいささか手抜きな気がしたが、その判断は案外的確であり、思いの外そのひとときは楽しいものだった。

 「そういやあの川、フォスの魔法でとんでもないことになったんだっけ」

 音無は川辺を歩きながらそう呟く。

 軽く体を動かすことは血行を促進させ、頭の回転を早くさせる作用がある。

 おかげで、不思議と大抵の人は饒舌になり、会話が弾むのも珍しくなく、音無やフォスもまたそれらから漏れない部類だった。

 「嫌水魔法だな、あの時の拓斗の顔をなかなか愉快だったぞ、一体何を勘違いしたのだ?」

 「もう止めてよ……あの時フォス、がちゃんと魔法の詳細を教えてくれたらあんな風にはならなかったって」

 音無は少し前にこの場所で起きた珍事を反芻し、顔を赤らめる。

 「確かにそうだな、少しばかり私は言葉数が足らないのでな」

 「まぁ、それがフォスの面白い所でもあるけどね」

 そんな一言がむずがゆかったのか、フォスは帽子を少しだけ深く被ると鼻を鳴らす。

 やはり彼女はこちらにやって来てから変わった気がする。

 何かと明るくなり、いろいろな意味で様々な表情を見せる様になった。

 今日を最後に、音無の記憶から彼女は消えて無くなるが、それでも彼女がこうして明るくなったのならそれも悪くない、そんな事をふと考えてしまう音無。

 「しかしあれだな、流れる水を渡れぬとは、拓斗は吸血鬼みたいだな」

 「吸血鬼ねぇ、っていうか本物の吸血鬼もその設定引きずってるのね」

 「当たり前であろう、こちらの人間が持つ魔界の知識は、皆魔法使いが持ち込んだ物だからな」

 「ああ、そうだったね」

 大袈裟な反応で肯定してみせると、過去に彼女が伝えた事を思い出す。

 こちらの世界では存在しない魔法使いや吸血鬼、それに狼男などのフィクション上の生き物、それらに関する知識は全て、魔法使いがこちらの世界に持ち込んだ知識だという。

 「まぁそのおかげで僕みたいな物書きは救われてるんだけどね」

 「救われる? 魔法を使って無くてもか?」

 「そうだよ、だって、魔法使いのするそんな思い出話のおかげで、ファンタジーなんてジャンルも生まれたんだからね」

 「成る程な。

 そこまで褒められると、うれしくて膝が笑うな」

 「いや、だからその言葉使い間違ってるか――ら?」

 「どうかしたか?」

 不意に音無が言葉を詰まらせた事に気がついたフォスは、怪訝そうにこちらを伺う。

 「……フォス、魔法使いがあちらに帰るときは、魔法使いに関する記憶は全部消えて無くなるんだよね?」

 目を見開き、棒立ちの姿勢のまま、音無はそう尋ねる。

 「……どういう事だ?」

 「だから、魔法使いとの記憶は、全部消えるのが当たり前なんでしょ?」

 飲み込みやすい様に、大雑把に噛み砕かれた質問を再度投げる音無。

 「消える……筈だが」

 音無の言葉回しに自身を無くしたのか、小さく呟くフォスに対し、音無はゆっくりと振り返ると口を開いた。

 「じゃあ、どうしてこっちの世界に、魔界の常識を元にしたお話が存在するの?」

 彼女の頭の中でも歯車が噛み合ったのだろう。

 一応は疑問符を撃たれている物の、何を言いたいのかがあまりにもはっきりとした質問を投げた音無は、更に言葉を繋げる。

 それは憶測では無い、疑い様の無い事実だった。

 「魔法使いに関する知識が全て消えるのなら、こっちの世界にファンタジーなんてジャンルは存在する訳が無い。

 つまり、魔法使いのルールを破る手段がどこかにあるって事だ」

 寝起き早々に後頭部を殴られた様な物なのだろう。

 フォスは目を瞬かせ、ぽかんと口を開いたまま固まる。

 「そんな話聞いたことが……魔法使いは皆魔界に連れ去られるのが基本なんだぞ……」

 「だから例外なんだよ、どうやるのかは判らない、でも魔界に帰らないで済む方法がどこかにあるのは間違い無いんだ」

 もう時間は殆ど残されてはおらず、検討すら付いていないが為に、その希望はあまりにもささやかな物だ。

 だが、真っ暗な闇の中だからこそ、小さな光でも眩しく輝く様に、この瞬間の僅かな希望は、音無の心を激しく震わせる物だった。

 「フォス! まだ時間はある、だから方法を探そう!」

 下向きになっていた感情が一気に跳ね上がり、素早く揺れる。

 音無は僅かな希望がうれしくて仕方なくなり、フォスの肩を掴んで軽く揺する。

 「こっちに残る方法があ!――れ」

 普通ならこれで良かった筈だ、だが音無は自身の体調が万全では無い事を忘れていた。

 「……あ……」

 一瞬にして全身の力が抜け、視界が黒く染まり始める。

 その瞬間音無は大事な事を思い出した。

 彼が持つナルコレプシーと言う病は、感情の起伏によって症状が引き出される病だ。

 普段は薬を飲むことでその症状を抑えることが出来るが、薬の無い状況において、それが悪い感情であろうと、良い感情であろうと、強い感情の起伏は例外なく、自身にとっては猛毒でしかない。

 「フォ……ス――」

 だが、その事を思い出した時には完全に意識を失い、河川敷の土手を転げ落ちていた。






 目を覚ましたのはパーテーションで区切られた病室だった。

 「……っ」

 白を基調にデザインされた数々の医療機器を視界に入れた音無は、無理矢理に中断された思考を組み直し、何が起きたのかを思い出す。

 起きたのはいつもの発作に過ぎないのだが、突然倒れた男が斜面を転げ落ち、そのままぴくりとも動かなければ、それを遠目に見ていた人間は取り乱すのは当たり前の事であり、そんな人間が親切にも救急車を呼んでくれた結果だろう。

 突然意識を戻した音無を気遣い、若い看護師が脳に異常が無いかを確かめる為に自身の名前と年齢を口にするように求め、音無はいつものやり取りに機械的に答えたあと、原因はナルコレプシーであり、精密検査は必要無いと付け加える。

 音無の言葉に、心配そうな表情を浮かべていた看護師だが、直ぐにそんな彼に対して露骨に嫌そうな表情を作る。

 彼らに言わせてみれば、一刻を争うと思い慌てて助けた相手は、ただ昼寝をして居ただけ、そう聞かされた様な物なのだろう。

 途端に申し訳なく思った音無は、薬品臭の染みついたベッドの上で起き上がると、目を伏せて軽く詫びた。

 そこでようやく肝心な事を思い出して絶句する。

 「あの! 今の時間は!」

 考えるよりも早く口に出して、直ぐに窓から差し込む光が黄昏色に染まっている事に気付き、一気に血の気が引くの覚える。

 「今は、5時……」

 腕時計をのぞき込む看護師の声から、おおよその自分の認識と実際の時間のずれが無い事に気付いた音無は、辺りを見渡して視線の何処にもフォスが居ない事に息を飲む。

 「僕が倒れた時、側に居た女の子は!?」

 「女の子……? ちょっと確認してみますね」

 寝起き早々激しく取り乱す音無に面食らった様子ではあるが、看護師は眉をしかめた後、担当の人間と話をするために部屋を出る。

 「……フォス」

 この場に欠けたその名前を口に出し、音無は胸が強く締め付けられるのを覚えた。

 救急車で人が運ばれる際、大抵の場合は家族などの関係者を同伴させるのが主であり、この場合はフォスが同伴するのが当たり前ではある。

 だが、おそらくフォスはは今現在この病院には居らず、音無が倒れた河川敷にいるのだろう。

 その理由は考えてみれば直ぐに判る。

 本来救急車に関係者を同伴させるのは、運ばれる患者についての情報を集め、的確な処置を施せる様にする為だ。

 そんな重要な役を、妙な格好の上にこれまた妙な言動を繰り返す妙な人物に任せる訳が無く、場合によっては関係者とすら思われない可能性だってある。

 そんな人物を同伴させたところで、役に立たないどころか、下手をしたら処置の邪魔になる可能性だって大いにあり得るのだ。

 「兎に角今は……」

 そう言い、音無はベッドの上から降りる。

 理由はどうであれ、音無は急いでフォスの元へと戻り彼女にするべき事があった。

 フォスがこちらの世界に居られるのは、おそらく後一時間程度。

 それまでに彼女に願いを伝え、魔法を使わせない場合、彼女はあちらに帰らなくては成らないどころか、魔法使いとして劣っていると言う烙印を押されてしまうのだ。

 だからこそ、音無の行動は素早かった。

 音無は病室から飛び出すと、通路を駆け病院の出口へと向かう。

 そして一つ目の角を曲がったとき、その先にいた看護師とぶつかり、激しく転倒をする。

 「ぐぅ!」

 そのまま音無は廊下を転がり、自身がぶつかった相手を見て目を丸くした。

 「あれ?」

 「『あれ?』じゃ無くて、先ずは謝るのが先じゃ無くて?」

 「全くです」

 そう答えたのは、床に腰を着いたままの少年にしか見えない魔法使いのシストと、その魔法使われである猖雅谷だった。

 「病院で走るのはマナー違反じゃ無くて? 魔法使われさん」

 「それはお互い様ですよね、っていうかなんでこんな所にいるんですか?」

 「それこそお互い様なんじゃない? って単に見舞いよ見舞い。 うちのボスが倒れちゃったの、あなたは?」

 「僕自身が倒れただけです」

 つまりは彼女は上司の機嫌取りに見舞いに来た、そんなところだろう、そう思った音無は小さな皮肉を交えながら立ち上がる。

 「見舞いなんて珍しい事をするんですね」

 それが嫌味だと直ぐに判ったのだろうが、猖雅谷は機嫌を損ねる事も無く笑って答えた。

 「そりゃ、私だって人間よ」

 「その割には魔法使いには冷たいですよね」

 「当たり前でしょ? 彼らは人間では無くて唯の道具、違わなくて?」

 そういえば露骨に噛みついてくる、そう思っていたのだろう。

 艶っぽい声と視線を音無に送る彼女だが、肝心の音無は何故か明後日の方向に目線を向けたまま、何かぶつくさと呟いている事に気付く。

 「……魔法使い……人間……そうか!」

 刹那、頭の中でどうしても解けなかった方程式の答えが見つかり、音無は声を上げる。

 「そうだよ! 人間だ!」

 「何を言ってるの?」

 突然意味の分からない事に感動し、らしくも無く喜び跳ねる音無に強い違和感を覚えた猖雅谷の肩を掴み、音無は目をキラキラと輝かせたまま口を開く。

 「ありがとう! 君のおかげだ!」

 「はぁ?」

 「答えは人間なんだよ!」

 「あなた何を――」

 「そういうことだから!」

 音無は全くもって意味が分からず疑問符を浮かべる猖雅谷を余所に、視線を真後ろへ向けると再びリノリウムを蹴って走り出す。

 「シスト、彼は何の事を言ってるのかしら?」

 「さあ、私には皆目見当も付きません、気が触れたのでしょうか?」

 「その様ね」

 揃って目を丸くする二人の視線に居た音無は、みるみる内に小さくなり、今頃河川敷にいるであろうフォスとの距離をつめ始めていた。

 何が音無の頭の中で爆ぜ、どんな答えが見つかったのかは判らない。

 だが、少なくとも彼は現状を打開できる手段を見つける事が出来たのは明かであり、数多くの問題が一瞬に解消されたと言っても過言では無い。

 ただ、問題があるとすれば……

 「まぁ良いわ、それよりももうこんな時間よ、早く用事を済ませなきゃ日が暮れちゃう」

 時計を見て呟かれた猖雅谷の言葉通り、日が暮れるまでの時間はもう殆ど残されて居なかった。

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