最後の願い 上
自分の不甲斐なさを嫌味に思う事、それはフォスにとってはさして珍しい物では無い。
いや、自分の能力の低さにストレスを感じる事はいつもの事であり、日常的に彼女は周りとは大きく劣る自身の能力に、強い劣等感を覚えてもいた。
何をやっても上手くいかず、自分がつまずいた箇所が難しいかと問われたら、大抵の人は皆口を揃え『そうでもない』と軽く答える。
その答えがせめて『人によっては難しいかも』などと、少しでも自身の気持ちを気遣う物ならまだ幾分ましだったかもしれない。
だが生憎な事に、大抵の魔法使いは嘘が下手だった。
何より彼らが嘘を吐いたとしても、突きつけられた現実が安易に騙されたいと願うフォスの思いに冷たい現実が答えるだろう。
自身が突破出来ない壁を、楽々と飛び越えていく他の魔法使い。
彼らにとって、その壁はちょっとした段差の様な物なのだろう。
道路脇の縁石の様な、これといって意識もせずに何気ない仕草で跨ぐことが出来る筈のそれは、フォスにとってはちょっとした小高い山の様な物だった。
それでも彼女は、他の魔法使いには理解も出来ない様な細々とした弱点を克服し、一瞬で渡りきれる筈の傷害をやっとの思いで克服してきた。
勿論その数は一つや二つでは無い。
立ちはだかる壁にしがみつき、汗だくになりながらその壁を乗り越え、その先に鎮座する新たな壁に絶句をする。
だが驚いている時間も惜しいと、彼女は乱れた呼吸を直す暇すら惜しみ、その壁の突破に全力を注ぎ、次の壁、そしてまた次の壁と彼女は他の魔法使いには一切理解出来ない苦しみに溺れながら、なんとか先をゆく仲間を追いかけた。
何と罵倒されようと、どれだけ話のネタにされようと、彼女は足を止めなかった。
諦めなければ何とかなる、そんな定型文にすがる事で彼女は自分の道を歩いてきた、ただ前だけを見て彼女は歩いてきたのだ。
だからこそ……彼女は背後から迫る影に追い抜かれるその瞬間まで、その存在に気付く事が出来なかったのだ。
その影こそ自分とは真逆の魔法使い、自分よりも何倍も優れた後輩の魔法使いであるシストである。
ただ他から劣っているだけならまだ良かった。
だが、その瞬間彼女は単に劣っているだけでは無く、後輩にすら追い抜かれる存在だと知らしめられたのだ。
その瞬間、彼女は自分の心が折れる音を聞いた。
「……」
本来音無が使っていた筈のベッドの上、目を覚ました彼女は寝返りを打つと目を開ける。
部屋の中には音無が仕事をする際に使う机と椅子、そしてデスクトップパソコンが鎮座しており、それ以外にはいくつかの資料が積まれたアルミラックとハンガーラックだけが配置されている。
これといって飾ってる訳では無いが、その分小綺麗な部屋の片隅にフォスの私物である帽子が置かれている。
「フェルカ……」
今布団から出ても、どうせ音無はまだ寝ているはずだ。
そう思いながらも彼女は起き上がるでもなく小さくその名を口にすると、彼女がこの帽子を身につける様になった時の事を思い出す。
実のところこの帽子は元々フォスの私物では無く、彼女の先輩である魔法使いのフェルカが与えた物だ。
己の無力さを痛感し、簡単に砕け散った思いを繋ぎ直す気すら失った彼女に、そっとかぶせられたその帽子の感触は今でも忘れられない。
『周りと見比べてはいけない、ただ足元だけ、自分が踏みしめるべき場所だけ見て歩けば良い』
言語は違えど、その時フェルカから告げられた語句にはそういう意味があった。
矢鱈と鍔の広い帽子はその為の物だ。
後ろが見えないからこそ、突然自分の目の前に現れる後ろ姿に傷つくのだ。
だから本来は背後を頻繁に振る帰るのが正解かも知れない……だが、それをやって何の意味があるだろうか?
だったらいっそ、後ろも横も、そして前すら見ずに唯ひたすらに歩めば良いのだと、そう彼女は教えてくれた。
「周りを見てしまったの」
故郷の言葉でそう本音を漏らす。
「見なければ良かったのに、私だって判ってるよ」
呟いたところで答えが帰ってくる訳無い。
この部屋には彼女の気持ちを理解出来る人間はおらず、居たところで彼女の用いる言語から意味を抜き取る事など、いくら音無と言えど不可能だ。
だからこそだ。
彼女は誰にも語っていなかった思いを、次々と形にして吐きだしていく。
「私は魔法使いなのに、魔法使いだから道具として扱って良かったのに……
そうすれば、私だって心を閉ざしていられたのに、どうして拓斗は私に優しくするの?」
自分を守る為、あまりにも弱すぎる内面を守る為彼女は、心を大きく分厚い殻で覆った。
なるべく感情を殺し、自身を物として見なし、ただ相手の願いを叶えるだけの便利な道具として振る舞う、そしてその事を魔法使われ自身にも強要した。
冷たい扱いには慣れている、幾ら雨風が激しくても氷の様に冷たい鎧で身を固め、じっと耐えれば、いつかは晴れとは言わずとも曇り空がやってくると知っていた。
その採算の筈だったのに、彼女が選んだ音無は予想とは全く違う態度を取った。
「暖かいのは嫌いなのに」
音無は、ぐっと構えたフォスに対し、屈託の無い笑顔と共に手を差し出した。
冷たい雨に耐えるために纏った鎧は、音無の日の光の様な暖かさにあっという間に溶けてしまった。
「拓斗の馬鹿……暖かくても、また寒くなるのに」
音無の行動は、傍から見る分には善行ではある、だが一概にそうとは言えないのが現実だ。
確かに己の存在を音無が認めてくれる事で彼女は救われ、音無に対して本音を打ち明ける事も出来、彼女にとって大切な居場所が生まれた。
だが、そんな日常は永遠には続かないのだ。
彼女がこちらの世界に居るのは、あくまでも試験の為。
試験が成功しようが失敗に終わろうが、彼女が延々こちらの世界に居座ることは不可能であり、彼女が思いつく全ての手段を試したところで、魔法使いがこちらの世界に延々居座る事など出来ない。
「……馬鹿……」
音も無く、目尻を小さな滴が伝う。
多くの物を消耗させ、心が渇ききっていたからこそ、涙など流れる余地が無かったのだろう。
だが、ここ暫くは良く自身は泣いている、その涙は自分の心が潤った証拠ではある、だが同時にいずれ自分は深く傷つくと言う意味でもあるのだ。
彼女はそんな思いを無理矢理に誤魔化すと、気だるげな仕草で上体を起こし、未だになれない柔軟剤の匂いの染みついた服で目頭をぬぐい鼻をすすって立ち上がった。
「一緒に行こう、フェンリル」
音無からもらったぬいぐるみを手に取ると、彼女は部屋の扉を開き、まだ薄暗い廊下を見渡す。
すんと息を吸い込むと、暖まりきっていない家の空気が鼻を撫で、少しだけ埃っぽい匂いがする。
「寒いな、フェンリルは寒いのは平気か?」
最近お気に入りになりつつある犬を模したぬいぐるみに語りかけると、フォスはスリッパも履かずにフローリングの上を歩き、トイレの扉に手を掛け……そこで動きを止めて居間の方を振り返る。
「私は寒いのには慣れて――ん?」
時計を見ていないので定かでは無いが、少なくともまだ音無が起きる時間にしては早すぎる時間だ。
その為居間で寝ている筈の彼は、まだ静かに寝息を立てていると思ったのだが、閉じられた扉の先から、何かが動く音が聞こえた。
「起きているのかな?」
僅かに湧いた不安を消す為か、腕の中の作り物の瞳に対して語りかけ、方向転換をしてからぺたりぺたりと歩む。
音無の家は一人暮らしには少し贅沢な2DK、居間と寝室の他に、広めなダイニングキッチンがある贅沢な作りだ。
そんな間取りの関係上、寝室のある区画とダイニングなどがある区画は間には風呂とトイレが挟まれる様に配置されており、結果長い廊下が家の中を貫く形になっている。
そんな狭く細長い廊下を歩き、はがき大の磨りガラスがはめ込まれた扉の前に立ち、彼女は耳を澄ませる。
「起きてるよね……」
扉の関係上中は窺えないが、書類を束ねる音やノートパソコンのキーを軽快に叩く音が扉越しに聞こえており、テレビは先日彼女が破壊した為動かないことと照らし合わしても判る通り、音無が部屋の中で実際に何かの作業していると見て間違いが無いだろう。
「起きたのか?」
彼女はこちらの世界の言語に切り替え、扉を開けながら問いかける。
「あ、まだ寝てて良かったのに」
「前にも言ったであろう、私はあまり眠らないのだ」
言語の習得が不完全な為に何処か堅苦しい口調になってしまうフォスに対し、音無は小さな苦笑いで答えると、座椅子に腰掛けたまま手を伸ばしマグカップを持ち上げてみせる。
「フォスも飲む?」
「拓斗が良いと言うのなら従おう」
「何それ、まぁらしい返事だけどさ」
音無は鼻で笑ってみせると立ち上がり、キッチンに置かれていたコーヒーサーバーの中身をほんの少し新しいカップへと移し、買ったばかりの角砂糖を数個落とす。
生ぬるいコーヒーを吸い、角砂糖は茶色く染まりぼろぼろと崩れ始める、だが温度が低いためにこれ以上溶けそうに無かったそれを電子レンジへと放り込むと、適当にボタンを操作して駆動させ、そのままキッチンカウンターに手を掛けたまま振り返る。
「端的に聞くよ、フォスはどうしたい?」
「……?」
「だから、フォスはこれからどうしたいかなって」
予備動作の無い質問に面食らったフォスに対し、音無は追撃を加える。
その声は晩飯は何が良いかと尋ねる様に気軽な物ではあるが、的確な答えを出すのも同じくらい難しい。
「……拓斗が望む事だ」
だからこそ、『何でも良い』と答える様に、フォスは嘯いてみせるのだが、音無はそんな彼女の言葉に対して目を細めて反応すると、会話の進行方向を無理矢理曲げる。
「僕が望む事はフォスが何を望んでいるかを知る事、これでいい?」
「……な、何を言ってるんだ拓斗、お前は魔法使わ――」
『お前は魔法使われだ、だから私の事を気に掛ける必要は無い』そう言おうとした矢先、謀ったかの様に完璧なタイミングで電子レンジが鳴き、フォスの発言を妨害する。
「魔法使われだよ、だけど、この質問は友達としての質問だよ、だからフォスは僕に何をするとか、そういうのは考えなくていいから」
一旦フォスが口を噤んだのを見計らってか、音無は電子レンジからカップを取り出し、ティースプーンでかき混ぜながら言葉を繋ぐ。
「それでも私は魔法使――」
「その前に一人の女の子だ、まぁ、二百歳の女の子がどこに居るのかなんて言えばまたおかしな話ではあるけどね」
彼女の言葉を音無は塞ぎ、他愛の無い話題を交えつつ言葉を繋ぐ。
「僕は魔法が使えないからね、どれだけ力になれるかは判らないけどさ。
だけど……少しはフォスも我が儘になって良いんじゃ無いかな?」
音無は冷蔵庫から牛乳を取り出すと、真っ黒なコーヒーが湯気を上げるコーヒーに注ぎ、乳白色へと変化させていく。
そして、まだらだった色が落ち着いたのを確認し、スプーンを外すと、カウンター越しに手を伸ばして手渡す。
「フォスがこっちの世界を気に入っていて、出来る事ならこちらの世界に残りたいって思ってる事も知ってるよ。
だけど、そんな事で出来っこないのも知ってるからね、だったらせめてこちらの世界の思い出を沢山作ろうかと思ってるんだ」
音無の言葉に、フォスは言葉はとっさに反論を投げる。
「そんな事をして拓斗はどうなる?」
「どうにもならないよ」
音無は言った。
「それならどうして……」
「だからこそだよ、フォスのしてくれた事で僕の願いは叶った……と言うより、満たされたってのが正解かな。
僕は満足してるんだよ、自分の病気が呪いだという事が判ったし、呪いを掛けられた事で僕は守られたんだって事も判った。
これ以外に何を望めば良いと言うんだい?」
予め用意していた返答を投げた後、音無は持っていたカップを片手に先ほど居座っていたテーブルの前に腰掛ける。
「だからさ、願いを叶えて欲しいんだ。
これらの仕事の納期、一週間伸ばす事って出来る?」
いたずらに笑い、茶封筒に包まれた書類をフォスに見せる音無。
「そんな事位魔法で簡単だ……だが、拓斗、お前は後二回しか魔法が使えないのだぞ?」
「そんな事判ってる、でもさ、魔法って私利私欲の為に使う物なんでしょ? だったら仕事をさぼりたいってのはぴったりな使い方じゃないかな?」
『こうなってしまってはてこでも動かないだろう』そう彼が使っていたテーブルの上の面々が語る。
机の上には、観光名所が書かれた雑誌と、それらに関する詳細が表示されたノートパソコン、そして彼が普段から大事に持ち歩いている、ナルコレプシーの薬。
つまりは、彼が珍しく早起きしてやっていたのは、これから遊びふけるための計画だったのだ。
「呆れて物が言えんな」
フォスはそんな音無に対して、らしくもなく大きな溜息を吐くと、持っていたぬいぐるみを床に置き、後二本なったマッチを取り出すのだった。
一言彼女と共にこちらの世界で遊び倒すと決めたは良いが、正直な所どうやって彼女のを楽しませれば良いのか判らないのが事実だった。
彼女の世界とは違い、科学が行き届いた現代社会の示す観光名所という物は、どれもが古い建築物か海や山などの大自然が主になる。
勿論、それらの観光地が景観に劣っている訳では無いのだが、科学の代わりに魔法が発達した彼女の世界では古い規格の建物の群れなど何処にでもあり、環境破壊などと縁が無い技術が発達した影響で、自然などは彼女の世界の方が多く残されている。
巨大な滝も大昔からある寺や教会などは、フォスにとっては見慣れた物でしか無かった。
つまりは、最初の二日は観光地巡りをしてみたのだが、彼女の関心を掴むには今ひとつな成果と言うのが正直な所なのだ。
勿論、彼女なりに気を遣っているのか、慣れないながらに驚いてみせるフォスに申し訳なさを感じつつ、音無は別の作戦を行使する事にした。
それが、あちらとは違う文化を見せる事。
つまりは、魔法が無い反面にこちらの世界で発達した、科学や娯楽の文化を見せるという選択肢だった。
「拓斗! あれは凄いな! あの吸血鬼は良い吸血鬼だな!」
結論から言えば、その選択は大正解だったと言えるだろう。
話し合いから三日目の昼下がり、フォスは映画館の中で目をキラキラと輝かせたままそう告げる。
本が貴重な物であるからして、大体の予想は付いてはいたのだが、案の定彼女の世界にはこの手のエンターテイメント文化は栄えておらず、試しに見せた映画は彼女の胸をわし掴みにしたのだ。
「リリィと言う女も素晴らしいな! 感動したぞ!」
先ほど見た映画の登場人物の名前を口にするフォスに対し、音無は落ち着いた様子で返す。
「ずいぶんと気に入ったんだね」
「当たり前だ! 映画とは素晴らしい文化だな! 吸血鬼退治の方法についてあんなに詳しく説明するとは感動したぞ!」
「……あ、そっちなのね」
単純に映画の内容を気に入ったと言うよりは、微妙にズレた方向での関心を示すフォスに、音無は溜息で返すが、そんな彼の仕草から何かを感じ取ったのか、フォスは彼女らしくも無い大声で言葉を繋ぐ。
「勿論映画自体も楽しかったぞ!
錬金術師見習いのリリィの師匠が吸血鬼であり、友人が仕方なく襲いかかる展開!
そして、そんな状況でも、吸血鬼である師匠を見捨てないあの女の心の強さに感動した!
それにだ! 最後の最後で師匠は死にかけるが、ぎりぎりのところでリリィの血を――むぐ……」
「とりあえず今は黙ってて」
音無は慌てて彼女の口を塞ぐと、白い目線を向けるギャラリーに対して申し訳なさそうに頭を下げる。
彼女にとっては、単に音無に対して先ほど見た映画の感想を告げているだけかも知れないが、つい最近後悔された映画のネタバレをこうもまあ大声でされては反感を買うのが目に見えている。
「どうしてだ?」
さっと手を離した隙にそう告げるフォスに対し、音無は溜息交じりに帰そうとするが、ここで順を追って説明するよりも話を逸らした方が手っ取り早いと頭を切り換え、昼食についての話題を提示する。
「それよりも、フォス、おなかすい――? どうしたの?」
映画館は町中にあるショッピングセンターの中にあり、映画館の位置は建物の三階に位置しており、逆に飲食店の類いは一階に集中して並んでいる。
その為、食事をするための飲食店に向かうには、エスカレーターないし階段等を使って降りる必要があるのだが、一階へと向かおうとした時、音無は彼女が不意に立ち止まっている事に気付く。
「拓斗……階段が……階段が……」
「あ……そういうことか、来るときは階段だったもんね」
一階に降りるために音無が使おうとしたのは、来た時の階段とは違い、エスカレーターだった。
彼女にとっては見慣れない施設であったために、乗り方が判らないと言った様子だ。
「大丈夫、これに乗るだけで良いの」
「……だが……」
見慣れない道具という物は何かと恐怖心を煽るらしく、一歩踏み出そうとして後ずさるフォスを見て、音無は溜息の後手を伸ばした。
「ほら、手を掴んで」
「だがな……」
「大丈夫だから」
音無は彼女の手を掴むと、彼女と歩調を合わせてから一緒にエスカレーターへと乗る。
「怖くないでしょ?」
「……そ……そうだな」
科学では説明が出来ないことを平然とやるくせに、こういう科学そのものの出来事に関しては矢鱈と過敏に反応する彼女を見て、音無は少しだけ笑って見せる。
魔法が発達したと言うことは、その分科学が衰えたと言うこと。
そして、そんな衰えた、言い方を変えれば劣った技術と呼ばれる物は、あちらの世界の人間にとっては何かと不安を煽る物なのかも知れない。
現に、エンジン付の自動車が当たり前の昨今に、突然蒸気駆動の車に乗れと言われたら、突然爆発しないかと自身は少しは心配を覚える筈だ。
そんな事を思いつつ、ふと音無は自身の左手が握られる感触に、意識を向ける。
「あのさ、フォス……いや、何でもない」
正直、力一杯握られているが為に左手が痛むのだ。
だが、その事について言及をしようとした音無は、ぎゅっと握られた感覚に続く冷たい汗の感触に言葉を濁す。
それは音無の物では無く、おそらくはフォス自身の流した物だろう。
「エスカレーターって言うんだけどさ、これ、フォスは怖い?」
「……ち……違う!」
やせ我慢のつもりか、声を発さずに必死に首を横に振る彼女を見て、表面上は苦笑いで返した音無は、内心胸の奥に杭を打ち込まれた様な感覚を覚えた。
音無の苦笑いが下手な嘘に隠された『本当の嘘』なら、彼女が作った強がりもまた、別の感情を隠すために作られた偽りの『誤魔化し』だろう。
器用に隠された彼女の嘘に気付く事が出来たのは、短い間とはいえ共に同じ環境で生活をしてきたが故、そんな成果の賜だろう。
彼女が怯えていたのは乗り慣れないエスカレーターだけでは無い。
おそらく、彼女は自分があちらの世界に帰らなければいけない日が、少しずつ近づいている事を感じ取り怯えているのだ。
先にこれまでの日常を『短い間』と評したが、それはその通りなのだ。
必ず終わりがある、だからこそ、『短い間』なのだ。
どれだけ抗おうと、どれだけ拒もうと。
いずれは終わりがやってくる、これが夢の様なひとときだとしても、覚めない夢は無いのだから。
「そうか、それじゃ次のエスカレーターはフォス一人で乗れるよね」
「ば……馬鹿! 魔法使いはな、魔法使われと一緒に――」
「そんな事はやらないよ」
そんな言葉で感情をごまかすフォスを余所に、音無も己の感情をごまかす様に軽く返してみせる。
自身がやっている事が果たして正解なのか、それは実際に考えを行動に移した今でも判らない。
だが、こうしてお互いに空元気を見せびらかしている間、ふと考えてしまう。
もし仮に、初めから彼女を道具として扱い、こちらの生活をあちらよりも酷い物にしたのなら、それは彼女にとってこんな苦しみを与えないで済む素敵な物だったのでは無いのかと。
「そんな事は……無いよ……」
「どうかしたのか?」
「いや、何でも無い」
自分に言い聞かせる様に紡いだ根拠の無い自身、それの一端を耳にした彼女は、見慣れたアメジスト色の瞳で音無を見上げる。
「拓斗……」
「ん? どうかした?」
乗ったときと同じく、彼女とタイミングを合わせてエスカレーターから降りた音無はそう返す。
先ほどとは少しだけ違う声色に、音無は疑問で答えたが、答えは直ぐにやって来た。
「痛いぞ」
「あ! ごめん」
感情が仕草に出ていたのか、どうにも彼女の手を強く握りすぎていた様だ。
音無は慌てて手を離すと、誤魔化す様に腰から下げていたシザーバックへと反対の手を突っ込む。
「別に、私は構わないのだが」
くっきりと跡がついた掌をさすった跡、フォスは音無の服の裾を掴む。
「これなら痛くない」
「まぁそうだけど……」
人前と言うこともあり妙な気恥ずかしさを覚えながらも、音無はシザーバックに入っていた携帯電話を取りだし、電源を入れ直す。
「兎に角……」
その時、携帯電話に引っ張られ、彼が肌身離さず持ち歩いていたピルケースがリノリウムへと落ち小さな音を立てる。
物が小さく軽い素材で出来ていたが故に、その音はごく小さな物であり。
小さかったが故に、床へ落ちたピルケースは通行人に蹴られ、飾られていた映画のパネルの下に隠れた。
だからこそ、音無とフォスは、些細だがあまりにも大きな出来事に気がつく事が出来ないでいた。
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