それぞれの過去 下
『音無 砂尾』、彼女の存在を簡潔に紹介しろと言われたら、彼女の弟である音無は間違い無く『良い姉』という語句を用いるだろう。
それは皮肉でもお世辞でも無く、言葉通りの意味である。
音無よりも六つ年上の彼女は何かと面倒見が良く、小さい頃から音無の身の回りの世話や遊び相手、そしてナルコレプシーを発症した際の心の支えとなっていた彼女と音無の関係は良好そのものであり、彼女の存在が小説家としての音無を形成したと言っても過言では無い。
何がきっかけかは不明だが、彼女は小さい頃魔法使いに憧れ音無に対して非現実的な魔法の呪文を頻繁に唱えており、そんな姉の姿は幼ないながらに音無の意識に強く焼き付き、魔法使いという題材を話作りに取り込むきっかけになったのだ。
だからこそ、彼女は音無にとって『良い姉』なのだ。
その感情は何かと劣っていると感じている自分への皮肉では無い、そう音無は考える様にしていた。
だがもし仮に……
「なになに? そんなに大袈裟に驚いちゃって? そんなにびっくりしたの!?」
音無の中で激しく揺れ動く感情など気にも留めず、砂尾は子供の様に無邪気に問いかける。
『もし仮に、彼女が事の犯人だったら?』
そんな事、一度も考えた事が無かった。
だからこそ、音無にとってその現状は目を背けたい物だった。
「~~!」
姉が何を言っているのか、そして自分の服の裾を揺するフォスが何と紡いでいるのかなど、聞く余裕すら無かった。
音無の意識は一瞬にして外部の音を拒絶し、代わりに酷く醜い思考が轟音を放って駆け抜ける。
直ぐ側で声が紡がれている筈なのだが、その声は一切自分の耳へは届かない、分厚いガラス越しに景色を見つめる様なその光景は、何故か滑稽にすら思えた。
「姉さんが……?」
先ほど会った魔法使われの行動と、フォスの言動、それらを組み合わせれば否応なしに事実が浮き彫りになる。
コップから水が溢れる様に、ただ力なくこぼれた一言に対し砂尾は首を傾げ、見当違いな笑い声で答える。
「姉さんですよー!」
赤ら顔で砂尾は答え、音無へ助けを求めたフォスの肩を掴みたぐり寄せる。
「そうじゃないんだ……」
何がそうでは無いのか、音無自身その言葉の意味を理解していない。
ただその一言が口からこぼれ、一歩後ずさる。
「拓斗? どうしたのだ?」
流石にフォスでも音無の様子がおかしいと感じたのか、砂尾に拘束されたまま、目を丸くして音無へと言葉を投げる。
「違う……」
何が違うのか?
そもそも誰が犯人なら正解だと言えたのか、そんな事判らない。
ただ一つ、様々な事に対する否定の感情が荒れ狂い音無は再度同じ語句を呟く。
「もう、何が違うの? ほら! お姉さんにちゃんと説明して!」
酒の影響か、それとも単に上機嫌なだけか。
砂尾はにぃと口端を吊り上げ、子供じみた様子で問い正す。
「拓斗?」
「フォスは黙ってて」
やっと追いつき始めた思考の余力を使い音無はフォスを黙らせると、吐き気すら覚える胃の痛みを堪え、姉へと向き直る。
「姉さん、正直に答えて」
「なーにー? 何を答えるの?」
何か面白い話の前振りだと思ったのだろう、砂尾は興味津々と言った具合で聞き耳を立て、フォスの肩を抱きしめる。
「姉さんは、魔法使いとあった事ある?」
「……? 何言ってるの?」
流石にその質問が普通では無いと思ったのだろう。
砂尾は一瞬の間の後、細かな詳細を求める疑問符で返す。
「誰かを呪った事は?」
「ちょっと待って拓斗、それは書いている本の話?」
「僕を呪ったの?」
「呪う? 何で? 何の話をしている――」
それが嘘の反応なのか、それとも自然な反応なのかは判らない、だが大袈裟に肩を竦めて見せる姉の仕草が、妙に白々しく見えた。
だからこそ、音無は彼女が言葉を言い終えるよりも早く強い語句を用いていた。
「姉さんはナルコレプシーは病気じゃ無くて呪いだと知ってたんでしょ?
何が目的かは判らないけど、少なくとも僕を陥れる為に魔法使いにお願いをしたんだ、僕を呪えって、そうでしょ?」
普段よりもワントーン落ちた声に酔いが覚めたのか、砂尾はレンズ越しの目を瞬かせて答える。
「ちょっと待って拓斗、本当に何の話を言ってるのか判らないの」
「白々しい反応は止めてよ姉さん」
一歩音無は歩み寄り、数ヶ月ぶりに見る姉の顔をまじまじと観察する。
「あのさ、いい加減怒るよ」
そんな弟の態度が気に食わないのだろう、砂尾も砂尾で少しだけ不機嫌になって返事をするのを見て、音無は顔を覆ってから玄関を指さす。
「悪いけど帰って」
「説明くらい――」
「良いから帰って、お願いだから」
怒鳴らなかっただけ上等だった。
それだけ、音無は白を切る姉が許せなかった。
だが何かの手違いかもしれない、そんな可能性のおかげで音無はあと一歩のところで踏みとどまる事が出来た。
「……何なのよ、折角顔を見に来たのに」
砂尾は露骨な嫌悪感を浮かべながらも、さっとフォスを解放すると顔を押さえてうずくまる音無を一瞥し、そのまま玄関の方向へと消える。
「……こっちが聞きたいよ、何で知らない振りをするんだ……」
玄関の戸が閉まる音を聞き、音無はそう呟く。
「拓斗……」
そこ声に応じてか、フォスが何かを悟った口調で呟く。
「拓斗は私以外の魔法使いと会ったのだな?」
普通の人間には検討など付く訳無いのだが、彼女は魔法使いであり砂尾が何かしらの魔法を掛けられて居る事も知っていた。
そうとなれば、彼女がそんな想像をつける事位考えるまでも無く判る。
「……」
音無は無言で頷き、フォスはその返事に落胆で答える。
「シストか?」
「……そうだよ、さっき出かけた先であの二人組と会って、魔法を使われた」
隠し通せる訳が無く、そもそも隠す必要も無いと音無は素直に事実を口にし、確認の為に言葉を繋いだ。
「フォス、姉さんに魔法がかかってたのは本当なの?」
衣擦れ音すら鬱陶しく感じるほどの静寂が満たされた室内で、フォスは静かに頷く。
「それは、姉さんをここに呼び出す為のも――」
「その通りだ、拓斗。
お前の姉こそが、拓斗に呪いをかけた張本人だ」
音無の声を食う様に紡がれた言葉、それはわかりきった事実の輪郭を再度鮮明に削り出し、目を背けたい事実と、詳細を知りたいという好奇心となり音無に刺さる。
「私は初めから全てを知っていた、だから魔法を使わずとも拓斗に真実を伝えることも出来た。
だが信じてくれ、私はいたずらにこの事を隠し――」
「じゃあ何だって言うんだよ!
フォスは僕を騙してたの? 事の犯人が姉さんだと知らず、今の今まで好意を向けていた事を黙って見ていたの?
僕の気持ちが判る? この呪いのせいで僕は今までさんざんな思いをして、こんなみすぼらしい日常を送っている!
それでも憎む相手も居ない、誰が悪い訳でも無い。
結局悪いのは自分自身だって無理矢理納得していた僕の気持ちが分かる?」
フォスの一言は、音無の感情の封を破くには十二分な切れ味を持っていた。
これまで無理矢理に押し込められていた本音が吹き出し、洪水の様に室内に溢れる。
今まで見た事の無い音無の表情に、フォスは後ずさってぬいぐるみを強く抱きしめる。
ぬいぐるみを抱く手にぎゅっと力が込められてるのを見て、音無は彼女がどれだけ自分に怯えているのかを知り、慌てて言葉を飲み込む音無。
「……」
流石に言い過ぎたと思ってはいたがその口から謝罪の言葉は出なかった。
ただぱくぱくと喘ぐ様に口だけが動くが、口にするだけは簡単なその一言がひねり出せず、音無は誤魔化す様に振り返ると寝室へ向けて歩み出す。
一人で考えても結論が出るわけ無い、だが少なくとも今フォスと居れば彼女を深く傷つけかねないと思った音無は、電気が落とされたままの寝室へと入ると、乱暴に扉を閉め、一日の大半を過ごしている椅子に腰掛ける。
「……姉さんが呪いをかけただって?」
考えれば考える程分からなくなる。
暗がりの中顔を覆った音無は一連の出来事を再度計算し直し、何故砂尾が自分に呪いをかけたのかを探る。
「どうし――? ああ、そういうことか……」
答えは直ぐに出た。
変な言い回しではあるが、音無は『期待をされた子供』であり、猫の様に気まぐれな姉はいわば『そうでも無い子供』という認識をされていた。
その為、音無は親の企業を告ぐ跡取りとして期待され、砂尾は普通の子供として、普通に育てられていた。
もし仮に、その事に対して砂尾がコンプレックスを抱いていたら?
そしてそんなタイミングで魔法使いが現れたら?
人間性や倫理を無視した場合の話ではあるが、そうとなれば砂尾が音無に対して強い呪いをかける、自分よりも下の存在にする事など当然な事と言えるだろう。
ましてや、音無がナルコレプシーを発症したのは今から十三年前、砂尾が十六歳の頃だ。
元々激しい感情の起伏に飲まれるそんな時期に、突然願いを叶える超常的な特権を得たとなれば音無に呪いをかけても不思議では無く、猜疑心だけは風船の様に膨らみそれ以外の感情を押しのけてゆく。
だが、それでも一つ判らない事がある。
「……どうして白を切るんだよ……」
音無は彼女の図星を貫いた筈なのに砂尾は焦る様子を一切見せず、器用に誤魔化してみせた。
確かに何の前触れも無く音無がそんな事を言ったのなら納得だが、彼女はフォスだって見ている、
幾ら自分が魔法使われだったのが十年以上前の事だとしても、その姿を見て、そして音無の言葉を聞けば、フォスが本物の魔法使いだという事位判る筈だ。
にも関わらず、砂尾は何も知らない第三者として振る舞った。
「どうして……」
その時、かなり控えめなノックの音が寝室へ響く。
「拓斗……」
音無はその問いかけとノックの音を意図的に無視し、目の前の電源が入っていないパソコンを睨んだまま溜息を吐く。
「話を……聞いてくれ」
音無は背後の扉が開き、フォスが歩み寄るのを背中で感じ取るが、やはり意図的に彼女の存在を意識から消す。
「拓斗……」
「今は話したくないんだ」
しつこく食い下がるフォスに対し、音無は冷たく言い放ち机の上に置かれていた書類を手に取り視線を向ける。
ここで彼女と話したら、余計事態が拗れる。
ならば今は無理矢理でも仕事の事を考え、溢れている負の感情が喉元過ぎるのを待とうとの判断だったが。
「――がっ!?」
不意に後頭部を襲った衝撃に、音無は顔面を机にぶつける事で反応を示す。
遅れて彼の机の上で、一抱えほどあるそれが跳ね、衝撃の主はフォスが力任せに投げたぬいぐるみ(フェンリル)であると伝える。
音無はひりひりと痛む鼻を押さえ、いい加減我慢の限界だと振り返り、怒鳴ろうとして――
「話を聞けと言ってるんだ!!」
逆にとてつもない勢いで叱咤された。
フォスは耳の先まで真っ赤にし、目尻には僅かに涙を浮かべたまま張り裂けんばかりの勢いで怒鳴ると、更に言葉を繋ぐ。
「私は拓斗の魔法使いだ! 私は拓斗の願いを叶える為にここに居る!!
それなのにどうしてお前は一人で考えるんだ! お前は一人じゃ無いんだ!!
どうして私を頼らないんだ馬鹿ぁ!!」
「……!?」
初めて彼女が音無に浴びせる罵声、それは何処か子供じみていた。
だが、それは一人よがりな結論を出していた音無の思考をリセットするには、十分な破壊力を持っており、返す言葉も無く硬直をする音無に対し、フォスは更に罵声を浴びせつつ、寝室の壁に立てかけていた杖を手に取ると両腕で持つ。
「馬鹿! 阿呆! 盆暗! たわけ者! 腑抜け! おたんこなす! 間抜け! 木偶の坊!――」
小さな頭の何処にそれだけの言葉が入っているのか、フォスの毒舌は息継ぎの間も惜しいとばかりに、まるで機関銃の如く繰り出される。
「あ……あのさ」
流石にここまで言われてはたまらないと、両腕を上げて降参のポーズを取ってみせるがそれでもフォスの怒りは止まる事を知らない。
彼女は、持っていた杖を狭い室内で担ぎ上げ、全身の筋肉をしならせる。
「……っておいおいまさか……」
プロ野球選手のバッターの如く、杖を右肩で背負う様な姿勢で構えた彼女を見て、音無は彼女が次に何をする気なのかを悟り息を飲む。
「ウドの大木! だらすけ! とんちき! 総領の甚六!!」
一般常識は無い癖に、なんでこんな語句ばかり覚えているのかと場違いにも思った音無は、彼女が杖を持つ腕に力を加えたのに気付き、椅子の上で状態を逸らす。
刹那、椅子から転げ落ちる様に回避した彼の鼻の先、僅か数ミリの所を轟音と共に杖が横断し、音無の顔面の代わりにその先にあるメタルラックに直撃して甲高い破壊音を奏でる。
「っあぅ……!」
それだけの力で振り抜かれた杖の衝撃を消せなかったのか、今度はフォス自身が足をもつれさせ、次の瞬間には床で仰向けに倒たまま、まだ自分の命が無事だと安堵する音無に強烈なストンピングを繰り出す。
流石にそれは彼女の意図しない攻撃ではあったが、横倒しに倒れるその勢いを背負った彼女の肘は、小柄な人物が放ったとは言えど下手な打撃よりも威力がある。
「ぅっ……!!」
悲鳴にすらならない、しいて言うならば蛙を潰す様な音を奏でた音無は、のしかかったままのフォスの重みに半ば拘束されたまま、びくびくと両腕を突き出して悶絶、そして絶命した様に両腕を力なく落とす。
そこへ、僅かな時間差を開けて倒れてきた杖が襲いかかる。
『ヴァナルガンド』などとたいそうな名前をつけられているそれを、フォスがまともに使っているところは一度も見たことが無いが、そんな豪奢な名前をつけられている道具は、見た目通りの重量を持っていたらしい。
いかにもな具合でねじ曲がり、要所要所に大きな瘤が形成されたその木の枝は、白目を剥いて気絶していた音無の顔面、丁度鼻のある位置にぶつかり嫌な音と、無理矢理意識を呼び起こされた音無の悲鳴を生み出す。
「ちょっと……これは流石にやり過ぎ……幾ら何――」
鼻の奥から生暖かい血の感触が溢れるのを感じつつも、音無は自分の上にもつれ合う様に倒れたフォスを見て、小さく漏らす。
加えて反論をしようとしたが、彼は胸の上から伝わる、フォスの体温とは違う感覚に息を飲む。
「……馬鹿……」
本人にとっては力一杯の行動なのかも知れない。
だが、彼女が再度振り下ろした拳からは、全然覇気が伝わってこなかった。
むせている相手の背中を叩く様な、もしくは何かの合図代わりにする様な、そんな力の無い一撃だったが、先ほどから連続で喰らっている彼女の攻撃の中、それが一番鋭い痛みを放った。
「……フォス?」
痛みの原因は、拳と同時に降り注いだ彼女の涙だと悟る。
「馬鹿ぁ……」
それは彼女が初めて見せた表情だった。
元々幼く見えた顔一杯には子供の様な表情が広がり、頬も鼻の頭も、そして耳のてっぺんまで真っ赤に紅葉させ、おまけに長いまつげには朝露の様に涙を乗せている。
「拓斗の……馬鹿……グスッ……」
おまけにみっともなく鼻水まで流しており、兎に角みっともないったらありゃしなかった。
綺麗か醜悪かと聞かれたら、誰もが口を揃えて後者を選ぶだろう、だが、そんな表情こそ、彼女が見せた一切の補正の無いありのままの感情だった。
「暗くて良くは見えないけど、明かりが無くて良かったと心から思うよ」
なんと返すのが正解なのか、そんな事到底判りそうもなかった音無の声に、フォスは歯切れ悪く答える。
「お願いだ……私を一人にしないでくれ」
下ろされた掌が音無のシャツをぎゅっと掴み、乾いた布を無理矢理絞るかの様に涼やかな彼女の声が絞り出される。
「私は……拓斗、お前の魔法使いだ、だから……」
「ごめん」
彼女の言葉を聞き、音無は心の底から添う謝る。
「ちょっと冷静さに欠けていた」
突貫工事で追加された本音に、フォスは無言で頷くと嗚咽混じりに説明をした。
「拓斗、お前の姉は、お前が嫌いだった訳では無い。
そして……彼女自身、呪いの事で嘘を吐いている訳では無い……」
「……?」
その言葉の意味を知ろうとし、音無はさっと状態を起こすが、彼が口を開くよりも先にフォスが言葉を投げる。
「拓斗、今のお前は、ずいぶんと酷い顔をしているな」
鼻からだらだらと血を流す音無を指さし、フォスは自身満々でそう呟き、音無はそんな事はどうでも良いと言おうとし、とっさにその語句を飲み込むと、別の言葉で悪態を吐く。
「フォスだって酷い顔だ」
いやみったらしく言い返すと、音無は彼女の被っていた帽子の鍔を押し下げ、言葉通りさんざんな状態の彼女の顔を隠す。
暗い部屋の中、二人の笑い声が響いたのは次の瞬間だった。
あれからフォスと話して判った事は幾つかある。
一つは、先ほど彼女が述べた通り、砂尾は音無に対し呪いをかけたのは事実だが、その動機は憎しみや嫌がらせの類いでは無い事である事と、その理由を全てフォスは知っている事だった。
「つまり、姉さんは僕を何かから守る為、あえて呪いをかけたと。
だけど、どうしてその情報を知ってるのかと、なぜ姉さんがその事実を隠しているのかは言いたくても言えない……そういう事?」
夜の帳が更に深く落ち、住宅街特有の生活音すら控えめになった時間帯。
音無は持っていた二つのマグカップのうち片方を彼女に渡し、センターラグに腰掛ける。
「……ああ、出来れば今話した情報すら知られたくない理由があった、だから今まで話せないでいたのだ」
本人なりに罪悪感を覚えているのだろう。
暖かいカフェオレが注がれたそれを両手で持ったまま、フォスは小さく答えると深く溜息を吐く。
「本当にすまない事をした……」
殆ど牛乳だけで構成されたカップの中身を見つめたまま力なく紡がれた一言に、音無はさっと助け船を渡す。
「それは僕の台詞だよ。
僕だって人に話したくない事の一つや二つあるし、そんな事に無理矢理首をつっこもうとした僕が悪いんだ」
大袈裟に笑い、フォスのとは違う真っ黒な液体が注がれたカップに口を付け、音無は静かにカップを傾ける。
そんな彼の仕草を真似る様、相変わらず何処か危なげな仕草でカップに口を付けるフォス。
彼女が何処か小動物を思わせる雰囲気を放っているのは、背筋を丸めカップを丁寧に両腕で抱きかかえる様に持っているからだろう。
フォスは一口分量が減ったカップをテーブルに置くと、少しだけ眉をしかめた後、思い出した様に呟く。
「まだ苦いな……」
「それ殆ど牛乳なんだけどね」
苦そうな表情を作る彼女に対し、音無は『苦笑い』で答える。
「それでも苦い物は苦いのだ」
「じゃあ無理してコーヒー飲まなきゃ良いのに……」
「拓斗と同じ物が良い、私はお前の魔法使いなのだからな。
魔法使われの味覚すら理解出来ない魔法使いが、どうやって魔法使われの手助けをすれば良いと言うのだ?」
とってつけた様な言い訳に、音無は『コーヒーとカフェオレはそもそも別物だ』と言う根も葉もない反論を投げ様として、話があまりにも脱線してしまうとさっと口を閉じる。
「ただし……飲み物が同じでも、拓斗が言った理由と私の理由は違うのだがな……」
前々から考えてはいたのだろう。
彼女はカップに再度口をつけた後、歯切れ悪く話を切り出す。
「違う? 何の話?」
「拓斗の呪いの件だ。
私が話したくないのでは無く、話したくとも今は話せない状況なんだ」
結果論で語ってしまえば同意語に過ぎないが、その二つの意味合いは途中経過が大きく異なる物だ。
「だから私は話す事は出来ない、『今』はな」
彼女なりに意味がある一言なのだろう、僅かに語尾を強調して紡がれた一言に、音無は眉を吊り上げて反応する。
「拓斗、無理にとは言わん。
拓斗がそれを望むのならやるのも正解だ、そうとだけ言わせてもらう」
「……? 何を?」
やはり何か意味がある様子で言葉を繋いだフォスは、短い深呼吸の後、口を開いた。
「拓斗、お前は私の魔法使われだ。
良いか? 私は魔法を使ってお前の望みを叶えるためにこの場所にいる、魔法で出来る限りの願いは全て叶えてやる。
何故なら、私はお前の魔法使いなのだからな」
その一言に、音無はいまいちかみ合っていなかった歯車が、カチリと音を立ててかみ合うのに気がつく。
「……もしかして……」
フォスがこちらの世界で使える魔法には、回数制限があると言った。
彼女自身好き放題魔法が使える訳では無い事を意味する一言だが、言い方を変えれば、魔法使われが望んだ場合に限り、魔法が使えるとの事でもある。
つまりは……
「もしかして、真実を語るには魔法が必要って事?」
カップを置いたフォスは、こくこくと顔を縦に振り肯定を示す。
詳細は説明できないのだろう。
だが、音無が魔法の使用を望むのなら、真実を伝えることも可能であるのは間違いが無い。
「私は魔法使いだ、魔法使われが望んだ未来を用意する事が私の望みだ」
どんな魔法だとしてもフォスが使える魔法は後三つであり、フォス自身その事を気にかけてはいるのだろう。
急かす訳でもなく、フォスは静かに音無が結論を出すのを待つ。
「使える魔法はあと三つだよね」
その問いにフォスは静かに頷く。
「それじゃ魔法を使って欲しいんだフォス、僕に『真実を教えて』」
「承知した、これより、お前の四つ目の願いを叶える」
そう言うと彼女は懐からマッチ箱を取り出し、その中で転がっていたマッチのうち一本を手に取って慣れた手つきで火を点ける。
刹那、ぱっとマッチから漏れる光が彩度を増して室内をオレンジ色に染め上げ、次の瞬間には夢から覚めたかの様に消えて無くなる。
「……やっぱり馬鹿だなお前は、こんな事に貴重な魔法を使うなんて」
そう口にしつつも何処かうれしそうなフォスの表情に、音無は頭を掻いて答える。
「まあ良い……拓斗の望み通り、これで全ての事実を伝えることができる」
彼女は消し炭になったマッチをテーブルに置き、短く深呼吸をした後口を開いた。
「先ず、どこから話せばいいのだろうな……
先ずはそうだな、フェルカ・カルパルネルと言う魔法使いについて話すべきだろうか」
何故か聞き覚えのあるその名前に、音無は思考を活性化させて意識の奥底に沈殿していた記憶を掘り返す。
「その名前は前に聞いた気が……」。
その名を聞いたのは、前回病院に行った際の事だ。
彼女はあちらの世界に居たときの記憶として、その名前の魔法使いの話をしたのだ。
勿論、その時は音無も適当にその話を流した記憶があるが、まさかここで同じ人物が話題に上がるとは思っておらず、予想外な事態に、音無は少し抱け眉を寄せる。
「フェルカの事は少しだけ話した事があったな。
彼女は先に話した通り、魔法使いとしてはごくありふれた存在であり、私にとっては、唯一の理解者だった」
フォスは魔法使いとして最低レベルの才能の持ち主であり、魔法の能力だけが全ての魔法使いにとって、その事実は格好の的になる。
結果、フォスはあちらの世界では孤立し、ある種のはけ口として扱われていた。
「前に話した通り、私は出来損ないの魔法使いだからな、大抵の魔法使いは私の事を避けるか、面白おかしく笑いの種にするだけだ」
基本、人は弱く流されやすい。
様々な面において、己の居場所を見つける為、そして忘れないために碇を下ろす。
例えば時計。
時間と言う感覚を見失わない様に、人は時計を持ち歩き、己の行動の指標として利用する。
例えば単位。
無意識下で最小と最大の位を大雑把に定める事で、人は物の大きさを認識する。
それらは、精神的な意味合いでも同じだ。
自分が今どの位置に立っているのか、そして自分が最低では無い事を確信したいが為に、人は自分より劣った存在を探すことに躍起になり、その対象を見つける事で精神の安定を図る。
いじめや差別、迫害などがまさにこれらに該当する行為だろう。
『こいつよりはマシだ』『こいつよりは自分は劣っていない』
そう思う事で人は自分の存在を固定し、強い横風に流されない様に努力する。
流れの速い川を渡る際、なるべく重たく安定した地盤を踏みしめて体を安定する様に、他の魔法使いは、決して自分に追いつくことの無いフォスを踏み台にしていた。
「だがな……フェルカだけは違った」
その名を呼ぶ瞬間、彼女の声が少しだけ和らぐ。
「フェルカは、こんな私の事をユニークだと言い受け入れてくれた」
単に傷跡から目を逸らし、作り笑顔で手を差し伸べるだけならそう難しい行為では無い。
だが彼女が言った通り、相手の抱える傷を良く見定めた上で、その傷ごと相手の腕をそっと掴む行為は誰でもが出来る事では無い。
だが、フェルカと呼ばれる魔法使いはフォスが抱えた目をそらしたくなる様な生傷をそっと撫で、受け入れた。
「フォスは、その魔法使いの事をどう思ってたの?」
「……心から尊敬していた。
だから、彼女の様に私も誰かを受け入れられる魔法使いになりたいと思ったんだ」
予想通りの返事をするフォスに音無は予め用意していた言葉を返す。
「フォスはさ、僕と会ったとき、僕の事を何て言ったか覚えてる?」
音無の言葉に、フォスは目を丸くして考え込むが、肝心の答えが風化して読み取れないと悟ると、小さく首を振る。
「フォスは、僕の事を『面白い』って言ったんだ。
僕がナルコレプシー持ちで、あんな症状を持っている事を知ってね」
「それがどうかしたのか?」
音無の回りくどい言い回しが理解出来なかったのか、丹念に輪郭が描かれた疑問符を頭上に構え、ゆっくりと首を傾げる。
「そのフェルカって魔法使いと同じ事、フォスもしたって事」
安っぽい擬音が付きそうな仕草で彼女の鼻を指さした音無に対し、照れ隠しなのかフォスは咳払いで答えると、何事も無かったかの様に話の進路を修正する。
「兎に角、私は試験の前、フェルカから願い事を託された。
それがお前だ拓斗」
「……?」
「フェルカはな、拓斗に対して少なからず罪悪感を感じていた。
だから、詫びとしてお前に魔法使われの権利を与えたいと考えていたのだ」
フェルカと呼ばれる魔法使い、その顔すら知らない音無だったが、フォスの言葉を聞き、その人物と自分の繋がりを理解して息を飲む。
「もしかして……」
「そうだ拓斗、フェルカ・カルパルネルはお前の姉、音無 砂尾の魔法使いだ」
刹那、音無は自身の呪いが発動した時期の事を思い出して息を飲んだ。
「あの時姉さんが言っていた事は本当の事だったのか……」
音無が幼い頃、姉砂尾は頻繁に魔法使いについて語っていた。
勿論、そんな魔法使いと音無は会った記憶など無く、今となっては記憶そのものが酷く曖昧な物になってはいた為に、砂尾が語っていた言葉は全て、彼女の妄想の産物だと勝手に勘違いしていたのだ。
だが、今のフォスの説明で、姉の言っていた言葉が子供特有の夢現ではなく、現実に起きた出来事だと理解出来た。
「何故拓斗は、自分に呪いがかけられたのかを知りたいのであろう?」
音無が急かすよりも早く、フォスはその疑問に手を付けた。
「拓斗、お前は幼い頃運命を定められた人間では無かったか?」
「運命?」
「つまりは、お前は将来何になるか決められており、自分で将来を選ぶことなど出来ない身であったのだろう?」
再び、カチリと音がして思考の歯車が噛み合う気がした。
彼女の言葉通り、音無の人生には予めレールが引かれていた。
「父さんの会社……」
それが音無が向かうはずだったレールの先だ。
運命が約束された日常、それは確かに不便など無かったかも知れない。
だが言い方を変えれば、それは自分で好きな未来を歩めないと言う事でもある。
「拓斗、お前はその未来を望んではいなかったのだろう?」
そう言われ、音無は無意識に捏造していた記憶を掘り返し、隠されていた本当の記憶を思い返す。
そして、音無は自分が過去に幾度となく自由な道を歩める姉を妬み、さんざん文句を言っていた事を思い出す。
「そうか……僕が好きな道を選べる様に……」
砂尾がかけた呪いは、音無から未来を奪う物では無く、無条件で設置されていた未来を切り取り、代わりに脇芽の様に広がる別の未来を選ばせる為の物だったのだ。
だが、いざ好きな未来を選べるとなった途端、音無はそんな事も忘れ、好き勝手に自分は被害者だと騒ぎ立て、挙げ句の果てには今の自分の生活を『みすぼらしい日常』とまで表していたのだ。
実際は、一つの病を発症する形であえて欠陥品という烙印を押され、自由の身になる為の手段だと言うことすら忘れてだ……
「果報者……だったんだね」
音無はふとそんな自分を恥じ、同時に姉に対する言葉に出来ない感謝を胸の内で広げて呟いた。
だが、同時に一つ判らない事に目が付く。
「ちょっとまって、それにしても、どうして姉さんはあそこまで白を切ったの?
あと、フォスが魔法を使わないと説明出来ないと言う言葉の理由が判らない」
音無の問いを聞き、フォスはカップの中身を一気に飲み込むと口を開いた。
「勿論その事も説明するつもりだ。
だがその説明を前に質問だが、拓斗は魔法使いがどれだけの数こちらの世界にやって来ているか判るか?」
それは、音無自身も気になっていた疑問だった。
この町には少なくとも三人の魔法使いが居るが、たまたまこの町集中したと考えるにしても、その数はあまりにも多い気がした。
「さぁ、検討も付かないけど、量で言えば少ないんでしょ?」
見当すら付かなかった音無は、そう答えてみせた。
「拓斗は何故、魔法使いの数が少ないと思ったのだ?」
フォスの言葉は、疑問符を含んでいながら、音無の勝手な予想に一石を投じる物でもあった。
「もしかして、結構な量の魔法使いが?」
「だとして、その事に拓斗はどうして違和感を感じるのだ?」
彼女の返事はそのまま肯定として捉えることが出来る。
その上で再度投げられる疑問符に、音無は当然の反応で答えた。
「僕自身、魔法使いと会ったことは無いし、僕の身の周りにもそんな人間は居なかったからね。
そうなれば、魔法使いの数が少ない事位直ぐに検討が――」
「『知らないと』『忘れた』は同意語では無いぞ拓斗」
音無の言葉を食う様に紡がれたフォスの言葉、それを聞き彼は言葉を詰まらせる。
「拓斗、お前は今までにも、私以外の魔法使いと何度か出会った事がある筈だ」
「そんな事無い、魔法使いと会ったら、誰だってはっきりとその事を覚えている筈だ」
「だから言っただろ、『知らない』と『忘れた』は同意語では無いと。
お前の姉がフェルカの事を話さなかったのはそういうことだ」
「まさか……」
全ての歯車が噛み合い、何の抵抗もなくスムーズに回転を始めたのを感じ、音無は息を飲む。
「そうだ。
私達は試験が終われば、魔法使われ、そしてその他の人間の記憶から消えて無くなる」
「どうして……」
「もう判ってるであろう? それが決まりだからだ……
魔法使いがこちらの世界に与える影響は大きい、だからこそその影響を最小限に抑えるにはそれが最も効率が良い」
暖かい飲み物を口にした直後なのにも関わらず、音無は自分の胃袋に拳大の氷が放り込まれる感覚を覚える。
「そんなの……間違ってる。
他人から忘れられるなんて……それは――」
「案ずるな拓斗、私は別に命を落とす訳では無い、ましてや傷つく訳でも無いのだ」
本人にとってそれはとっくの昔から覚悟していたのだろう、彼女はただ機械的に、まるで朗読をするかの様に説明をする。
いつも何処か機械的は、感情に欠けた雰囲気を持つ彼女の表情が、このときは一段と冷たく感じた。
「そんなの……寂しすぎる、フォスはあんまりだと思わないの?」
「安心しろ、記憶を失えばそれら全ての感情を感じる事は無い。
拓斗には私が現れる以前の日常が戻って来るだけだ、勿論、拓斗にとってはそんな変化すら気づかない訳だがな」
「フォスは……それでいいの?」
音無の声に、彼女はぎこちなく頷こうとして、動きを止める。
「良くは無い、だが私にその未来を拒む事など出来ないのだ。
試験が終われば、私はあちらに帰らなければならない、魔法使いはな、こちらの世界に永遠居座ることなど出来ないのだ。
そして、帰る時は絶対に記憶を消さなくてはならない」
「それでも……」
「こちらの世界に来る魔法使いは、いくつかの呪いをかけられる。
一つは、こうなる事態を避ける為真実を語れぬ呪い。
こちらの呪いは大したことが無い、私自身でも魔法使われが望めば、簡単に解呪が可能だからな。
だが、もう一つの呪いの方が問題だ。
こちらの人間への影響を抑える為、そして魔力を完全に失いこちらの世界に取り込まれるのを防ぐ為、試験を無事終えることが出来なくとも強制的にあちらの世界に帰らされる。
魔法使いとはそういう物なのだよ……拓斗」
考えてみればそれは道理であり、音無自身なんとなくではあったが、その話を聞いていた。
だからこそ、音無にはその事実を受け入れるしか無かった。
「つまり、僕が最後の願い事をしなくても、フォスはあっちの世界に帰らないといけないって事?」
「正確には私は簡単な試験も達成できない欠陥品として烙印を押され、無理矢理あちらへ連れ去られる訳だがな」
それが事実なのか、もしくは音無の制止を防ぐ為に盛られた物なのか。
少なくとも、それらに類する事態が起きるのは間違い様の無い事だろう。
「……それはいつなの?」
音無が願い事をしなかった場合、彼女がこちらの世界に居られる最長の時間、それが彼女に残された制限時間である。
「私の心配をしてくれて感謝する。
だが、そんな事をして何の為になる? いっそ今願い事を言い、私を忘れた方が拓斗は傷つかないのだぞ?」
「いいから、その時は何時なの?」
とっさに食い下がる音無に、面食らい喉を詰まらせたフォスは、視線を空っぽになったカップの中へ落として口を開く。
「一週間だ」
必死に感情をごまかしているつもりなのだろう、機械的な言葉回しとは対照的に、その声は小刻みに震え、酷く聞き取り辛い物だった。
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