それぞれの過去 中

 嫌な思い出という物は案外鮮明に脳裏に刻まれていると信じたいものだが、それは一概に言えないのが実際の所だ。

 多くの場合強い痛みを伴う記憶は、あまりはっきりと脳裏に刻まれていない場合も多く、いじめなどといった経験のある人間でも、その詳細を覚えている人間はそう多くない。

 それは自身の精神を守る為に無意識下で詳細を忘れているからか、それとも単純に『嫌なことがあった』という大雑把な情報だけが強く脳裏に刻まれるが故に、そこに至る記憶の大半を失っているだけか。

 何にせよ、フォス・クルスラットと名乗る魔法使いが抱える記憶もまた、もれなくそれらと同じ項目に分けられるだろう。

 彼女にとってのあちらの世界、つまり、魔界と呼ばれる世界はあまり美しい物では無かった。

 一体何がどう美しくないのか。

 そう問われると曖昧な返事しか出来ないが、少なくとも彼女にとっての魔界とは嫌な思い出を詰めた大袋の様な物であり。

 その嫌な思い出とは何かと探そうにも、激しく揺れる袋の中明確な姿を持っていた思い出はばらばらに砕け、彼女の靴の裏にへばりつき、最終的に足をもつれさせる。

 そこで転んでしまえば後は簡単だ。

 嫌な思い出の中でやっとの思いで見つけた素敵な経験は、薄汚い地面に倒れた衝撃で散り、激しく流れる負の感情に飲まれて見えなくなる。

 負の感情は正の感情を押し流し、次の瞬間恐ろしい速度で膨張を始める物だ。

 だからこそ……

 「早く帰ろう……拓斗」

 彼女は僅かに震える指で音無の服の裾を掴み、そっと引く。

 普段感情が表面に出ない彼女だが、この時ばかりは傍から見ても取り乱している事は明らかだった。

 そんな彼女に対し、シストと名乗った魔法使いは息がかかるほどの距離まで歩み寄り、そっと口を開く。

 「どうしたのかな? フォス・クルスラット」

 口調はあくまでも丁寧であり自然だ。

 勿論、明らかに外見とは不釣り合いなその言葉回しと、その声に含まれる感情が通常のそれとは違う事を除けばの話だが。

 「……」

 彼女は返事すらせず、さっと音無の影に入る。

 「フォス?」

 状況は判らないが、少なくとも彼女がシストに対して強い恐怖心を持っているのは明かな様だ。

 人見知りの子供が親の背に隠れる様、さっと姿を隠したフォスを気にかけ、音無はその小さな背中に手を乗せてなだめる。

 「……」

 だがやはり彼女のからの返事は無い。

 ただ小さく首を振り、ありとあらゆる情報に対して否定を返すのみだ。

 「あなたの魔法使い、奇抜なのは格好だけじゃ無くてその性格もみたいね」

 猖雅谷は、音無の背後で揺れる服の裾を見て、皮肉の様にそう呟く。

 先ほどから続く彼女の発言からして、彼女もまた音無と同じ魔法使われであり、一見すれば子供にしか見えない彼は魔法使いであると見て間違いが無い様だろう。

 「相変わらずだな、大、先、輩」

 シストはそう呟き、猖雅谷はその声に応じ、小さく笑ってみせる。

 直接見るのは初めての様だが噂程度には話を聞いていた、そんな所だろう。

 そんな二人の態度を見て気を悪くした音無は、怯えて声を出せなくなったフォスの代わりに噛みつく。

 「僕だって大体の状況は聞いている。 だけど、その発言はあんまりじゃない?」

 「……へぇ」

 音無の言葉など大して響かなかったのだろう、シストはにぃっと狡猾な笑みを作り、更に追い打ちをかけてくる。

 「何か理由があるかと思ったら、お人好しだと、確かにこれなら彼女の魔法使われにぴったりかも知れないね」

 「……違う」

 モニター越しの出来事を見ているかの様な彼の一言に、首をふるふると振ってから抵抗をする。

 彼女にとってシストはよっぽど苦手な相手なのだろう、音無の背に隠れたまま、それでも無理矢理にでも彼の視線に対抗をする。

 「違う? 何が違うんだい? 君は自分の魔法が他のそれよりも未熟な事は知ってる。

 だからこそ、自分に無茶な注文を付けない相手を選んだんだろ?」

 「そうでは……無い」

 フォスのささやかな抵抗を無視してシストはゆっくりと歩み寄ると、今度は音無の体を足の先から順に見た後、何か匂いを嗅ぐ様な仕草をした後、そっと言葉を繋いだ。

 「おや? これは呪いか……? まさかこ――」

 「エラマド!!」

 シストの言葉を遮ったフォスの言葉は、これまで一度も聞いたことの無い言語だった。

 おそらくは彼女が元居た世界で使っていた物だろう、音無にとってその言葉の詳細は理解出来なかったが、少なくとも、彼女がそれだけ必死にシストの言葉を止めようとした事だけは直ぐに判った。

 「何か関係があ――」

 「イスアル!! エラマド。 クァエプスイア、ノークァエプスイア!!」

 「それは君の方だろ? フォス、何をそんなにわめき散らしているんだ」

 「エアモ、トゥエム! エレアーク……」

 『これ以上話すな、静かにしてくれ』おそらくはその様な意味であろう。

 何かと言葉足らずとはいえ、当たり前の様にこちらの言語を使っていた為に忘れていたが、彼女にとってこちらの言葉は使い難い物だったのだろう。

 その為、不意に出た言葉が使い慣れた物だっただけか、それとも――

 「グラン、ド……ラルシア、ラッツァエラマド、カッツェスコダ、エレアーク! エレアーク……」

 必死に懇願する様な彼女の言葉に、不意に湧いた嫌な予感を無理矢理飲み込むと、音無は彼女の首根っこを掴み、店の出口へと足を向ける。

 「ねぇちょっと!」

 突然の事に驚いたのか、不満気な猖雅谷の声が背後から追いすがるが、音無はそんな声すら無視して彼女の手を引き、開かれた自動ドアをくぐって店外へと駆ける。

 店の外は良い天気で、体調を崩してしまいそうな程明るい日差しが降り注いでいた。

 それなのに、胸のむしゃくしゃは全然収まりそうに無い、寧ろ、露骨な程上機嫌な天気が嫌みにも思えてくる。

 彼は背後から二人が追いかけてくる事を警戒し、そのまま足をどんどんと進め、フォスの細い手を引っ張る。

 「拓斗……」

 何か言いたげなフォスの声に耳を傾け、音無は素早く動く足とは別に、ずっと閉じたままだった口を開いて返事をする。

 「さっきの言葉の意味を、僕は尋ねないから」

 彼女が音無には理解出来ない言語を用いたのは、単に地元の言葉が出ただけでは無い事は判っていた。

 彼女が元居た世界の言葉を使った本当の理由、それはおそらく『音無に会話の内容を聞かれない為』が正解だろう。

 彼女は単に自分の過去を暴かれる事を嫌い、その結果として取り乱してはいた。

 だが、自身が傷つけられるだけなら、一人殻に閉じこもり、ぎゅっと耳を塞げば良いだけの話。

 それなのに、彼女はシストが別の話題を切り出そうとしたその瞬間、血相を変えて言葉を紡いだ。

 「だから無理に話さなくて良いし、誰かを傷つける位なら、一人何も知らない方が良い」

 「……」

 彼女は何かを言われた際、肯定の意味を持つ語句を並べるのでは無く、こうして無言を返す事が多い。

 「……拓斗」

 肯定を意味する短い沈黙の後、フォスは再び彼の名前を呼ぶ。

 「何? まだ何かあるの?」

 流石にここまで来れば良いだろうと、僅かに荒くなった呼吸と歩調を整えつつ、音無は彼女の顔を振り返る。

 「……痛い」

 「あ! ごめん、大丈夫?」

 そう紡がれた彼女の言葉に、音無は慌てて手を離す。

 何も考えずに握っていた手にはかなりの力がかかっていた筈だ、音無はだらりと下がった彼女の手を優しく掴み直すと、跡が残っていない事を確認して安堵する。

 しかし、フォスは言葉を更に繋いだ。

 「痛い……」

 彼女はそう告げ、小さく鼻をすする。

 その仕草に、音無は彼女が何を痛がっているのかを悟り、言葉を詰まらせる。

 「痛いんだ拓斗……痛い」

 音無よりも一回り近く幼く見える彼女の顔を、小さな滴が伝ったのは次の瞬間だった。

 「フォス……」

 さっとその涙を隠す様に、フォスは大きな帽子を外して顔に押し当てる。

 「……私は出来損ないの魔法使いだ。

 シストが言った通りの、落ちこぼれだ。

 要領は悪い、魔法は下手、愛想は悪くて馬鹿で何の取り柄も無い魔法使いだ……私は、拓斗を助けたいのに、拓斗痛みを消したいのに……私は出来損ないだから、落ちこぼれだから何の力にもなることが出来ない」

 一旦堰を切って溢れる感情の濁流は、早々止める事が出来ない。

 茶色く濁った感情の中に潜る尖った石が辺りを傷つけ、切り裂かれた堰を更に押し広げてゆく。

 「拓斗……すまない……私はお前が期待した様な魔法使いでは無い。

 私はお前の呪いを解くことも、お前の願いを聞くとこすら出来ない。

 私はお前に呪いを掛けた……相手に、復讐をする事だって出来ない……私は……私は……」

 嗚咽に飲まれ断片的になった彼女の言葉に、なんと返せば良いのか判らなくなった音無は、言葉の代わりにさっと手を伸ばそうとして、直ぐに引っ込めてしまう。

 自己嫌悪に飲まれた事は音無だって幾度となくある、そんな時、自分を肯定してくれる相手が居るだけで救われる事位知っている。

 だが、音無にそれは出来なかった。

 「……だから……痛い……拓斗……」

 痛みを消してあげたい、だがそれが出来るのは、彼女の痛みを全て知り彼女の全てを許せる人間だけである。

 彼が手を伸ばさなかったのは、彼女の痛みを知らない自分が彼女に寄り添う行為、それが偽善以外の何物でも無い気がしたからだ。

 いいや……正確には、偽善者に成り下がる自分が怖かったのかもしれない。






 音無とフォスが飛び出した直後、猖雅谷は小さく鼻を鳴らすと、腕組みをして二人が通り抜けた自動ドアを見つめる。

 「ねぇ、二人を追いかける事って出来るかしら?」

 「出来ますね、でも何のために?」

 迷い無く答えたシストに対し、猖雅谷もまた迷い無く返事をする。

 「面白そうだから」

 「左様で……」

 そう言い、シストは背負っていた鞄の中からなめし革で作られた袋を取り出す。

 「彼は呪いが掛けられていますから探すのは簡単ですけどね。 今からで?」

 「いいえ、もう少ししてからがいいわね、だから今はそれを仕舞ってて頂戴」

 その声に頷き、シストは袋から半ば取り出していたチケットを仕舞い直す。

 「折角の休日よ、楽しみは最後に取っておかなくちゃ」

 いつも通りの口癖を呟き、何処か不慣れな足取りで店の奥へと足を進めるのだった。






 あれからどれくらいのやりとりがあったのかはよく覚えてはいない。

 音無は一人、家の近くにある公園のベンチに腰掛け、星が綺麗に輝く空を見上げて息を吐く。

 肌寒いと言うほどではないが夏が終わりにさしかかるこの時期の夜からは、つい最近まで威張っていた残暑の気配が無く、沈んだ太陽に同意する様にそっと熱量を落としていた。

 『私は出来損ないの魔法使いだ』

 昼間そう告げた彼女の表情が脳裏にこびりついて離れない。

 「出来損ない……は誰だってそうだよ」

 あれから音無は彼女を家に連れて帰り、なるべくとりとめの無い会話をして過ごした。

 その行為には、彼女の傷を下手に開かない目的もあったが、同時に自身の傷を開かない為でもあった。

 ネガティブな考えは流行病の様に伝播するものだ、一人悲しむフォスの側に寄り添っていた彼は不意に己の傷が開いたのを感じ、買い出しが終わってないなどと適当な言い訳をして一人外に出かけたのだ。

 音無は何気なく普段肌身離さず持ち歩いているシザーバッグを開き、その中からピルケースを取り出して確認する。

 悲しむ彼女の前で自分まで落ち込んだり、一人考え事に耽っていては彼女が不安がるとこうして一人になった訳だが、音無はその判断を後悔し始めていた。

 そんな不安に答える様、ピルケースの中の錠剤が揺れて小さな音を奏でる。

 音無がナルコレプシーを発症してから、ずっと長い間世話になっているこの薬だが、正直な所出来る物なら見たくも無いと言うのが正解だ。

 普通の生活をしたいのに、不意に意識を手放す自分の体がそうはさせてくれない。

 無理矢理普通の日常を続けるには定期的に病院に通い、この錠剤の力を頼らなくてはいけない。

 出来る事なら頼りたくも無い力に頼らざる得ない事実、そしてその事態を生み出している原因が自分自身にある事。

 そんな事を考えるといつもやるせない思いに駆られ、自由落下の勢いで気が沈むのが判る。

 「……それでも、まだ僕の方がマシなのかな」

 音無は静かに首をひねると、公園からも見える自分のアパートを見つめてフォスの事を思う。

 音無の場合、この体の問題は第三者からかけられた呪いだ。

 その詳細をフォスは語らず、グラニッツが現れるまで音無は騙されていた訳だが、それでも幾分気が晴れたのは事実だ。

 何故なら、犯人が誰にせよ自分の不幸は誰かのせいであり、憎むべき対象がどこかにあるという訳だから。

 それと引き替え、フォスの場合は単純に己の能力の低さが原因である。

 誰かを憎むにも憎む先は何処にも無く、何が悪いかと言えば一切合切己に帰ってくる、筋が通り憎む相手が存在しない、そんな決して理不尽では無い状況出あるが故にその事実は辛辣に突き刺さる。

 そして、あの時現れたシストと名乗る魔法使いが行った行為は、そんな彼女の傷へ無理矢理塩をすり込むのと同じだった。

 そんな事をされて平気で居られる人間など居ない。

 ましてや、その先に当事者が必死に隠したい事実が埋もれているのなら尚更だ。

 「……?」

 そんな時、ふと音無の意識に妙な違和感が引っかかった。

 「魔法って……」

 フォスが現れて初めて音無は魔法使いが実在する事実を知ったが、当たり前な話、魔法使いなどこちらの世界ではフィクションの世界の産物だ。

 聞く方が馬鹿げているとは言え、手当たり次第人を集め『魔法使いを見たことはありますか?』などと尋ねたところで、全ての人間が首を傾げ苦笑いを浮かべる筈だ。

 音無自身も今まで生きてく上で一度も魔法使いなどと出会った事は無く、二人目の魔法使い、グラニッツと会っただけでも奇跡そのものと言える筈だ。

 そこへ、更に追加で現れたシストの存在。

 一つの街に魔法使いが三人居るなど普通に考えればあり得ない話であり、仮に魔法使いがそれだけの量こちらの世界にやって来ているとなった場合、今度は別の疑問が姿を現す。

 フォスは音無に対して六つの魔法を使わせてやると良い、これまで三つの魔法を使った訳だが、そのどれもが科学では説明できない超常現状の類いだ。

 それが世界のどこかで、数年に一度起きている程度なら気のせいだろうと第三者は納得し、魔法など無いものとして認識する筈だ。

 現に宇宙人だのユーマと呼ばれる存在がそれらに当たるだろう、実際に存在したとしても、目撃情報があまりにも少ないが為に、大多数の人はその事実を適当に流す。

 だが……

 「一つの街で三人って……」

 魔法使いの数が多かったと仮定して、それだけ多くの魔法使いがこちらの世界にやって来ているのにもかかわらず、大勢の人から認知されていないのはあまりにも不自然だ。

 そして、更にもう一つの可能性が頭をよぎる。

 「……ナルコレプシーも魔法のせい」

 音無は錠剤を見つめ、小さく紡ぐ。

 彼がこの薬を飲む様になった原因も、魔法使いが絡んでいる。

 相手にどの様な狙いがあったにせよ、ナルコレプシーを発症した時、近いところに魔法使いが潜んでいた証明となり事実を反芻し、再度思案し、それらの説明として妥当な可能性を模索する。

 例えば、初めからこの町は魔法使いにとって格好の試験場所であり、この町にしか魔法使いがやって来ていない可能性。

 だが、それなら物心ついた頃からこの町、本柳町に住まう彼自身が、魔法使いの存在を今の今まで知らない事の説明が付かない。

 では、本当に偶然、短い期間で大勢の魔法使いがこの町に集まり、天文学的な確率でその全ての魔法使いに対して音無がコンタクトを取っている可能性、それも考えたが幾ら何でも憶測が過ぎると、音無はその考えを否定する。

 音無は視点を切り替えて考え直す。

 魔法使いが多い理由を探すのでは無く、魔法使いが多いことは当然として、ならば何故大勢の人間が魔法使いの存在を認知していないのか?

 「……?」

 ふと、音無の脳裏に一つの可能性がよぎる。

 曖昧すぎて全体像すら、そしてそれが現実的かも判らないほどぼやけた輪郭を持つそれを意識の中に止めた音無だったが、その可能性の詳細に目を通すよりも早く、聞き覚えのある声が音無に降りかかり、思考を中断せざるを得なくなった。

 「こんばんは魔法使われさん、昼間は悪いことしちゃったみたいね」

 「!? って……あなたは」

 「猖雅谷って呼んで、ところであなた名前は?」

 音無が見上げた先、そこには昼間ホームセンターで見た女が立っていた。

 「……音無です」

 この人物に対して恨みがある訳では無いが、先の一件のせいで思わず身構えてしまう音無。

 彼は。持っていたピルケースを仕舞うと、最低限の自己紹介で返す。

 「そう、じゃあ次は確認だけど、あなたはあの子をどう思ってるの?」

 「……なんですか藪から棒に……っていうか、つけてたんですか?」

 彼女の背後からシストも姿を現すのを確認し、露骨な嫌悪感で答えた音無の態度に、これといった感情を見せずに言葉を繋ぐ猖雅谷。

 「あら、藪から棒はあなたでしょ? 別にあなたの事に興味はあるけど、そこまで私は暇じゃ無いの」

 猖雅谷はそう告げ、シストを指し示してから言葉を繋ぐ。

 「魔法よ魔法、魔法ってのはこういう時に使う物でしょ?」

 当たり前の事として彼女が言った言葉に、音無は驚き言葉を無くす。

 「ちょっと待ってください……今さらっと言いましたけど、たった六回しか使えない魔法をこんな事に使ったんですか!?」

 ちょっと話しただけでこの女には何かしら、性格面での問題があるのは分かっていたが、まさか貴重な魔法を初見の自分を追うためだけに使った事が信じられ無かった音無は、思わず不機嫌な表情を崩して声を上げてしまう。

 だが、帰ってきた返事は、音無の予想を遙かに上回る物だった。

 「六回? ああ、あなたの魔法使いはそれが限界なのね」

 「……限界?」

 「たった六回しか使えないなら確かに私の魔法の使い方は贅沢かもねぇ」

 魔法は六回以上使えて当たり前。

 そうだと言いたげな、いや、実際にそうだからこそ彼女は魔法をこんな事につかったのだろう。

 だが、状況がいまいちよく分からない音無は、フォスと出会った時、彼女が行った説明を思い出す。

 「魔法使いは七不思議を作る為に六個の魔法を使う筈じゃ……」

 「何それ? それなら六不思議になるでしょ?」

 今更ながら、音無はその矛盾に気がつき言葉を無くす。

 「もしかして、今気がついたの?」

 追い打ちの様に放たれた疑問符が音無の胸を貫き、音無は目眩すら覚える。

 「いや、まぁ……その……」

 「あなたどれだけ鈍感なの?」

 「いやもうそこはどうでも良いんです!!」

 半分逆上しながら会話の舵を手に取ると、音無は代わりに先ほど湧いていた疑問を投げる。

 「あの、もしかしてその魔法使いは沢山魔法が使えるのですか?」

 「その魔法使いとは失礼な、私の名前はシスト、名前で呼ばないにしてももっと言い呼び方があったのでは?」

 その通りな一言の後、彼は言葉を繋いだ。

 「それはそうと、魔法使いの試験では六個の魔法を使えなんて言うのは珍しい部類かと、大抵試験ではその魔法使いの技量に応じた魔法の数で決められるのですよ?

 大抵は二十~四十、私の場合は七十五の魔法を使う事になっています」

 「七十? そんなに沢山の魔法……」

 フォスが叶えると約束した数の十倍以上、そんな数の魔法を使えるとなれば、猖雅谷がこんなしょうもない事に魔法を使ったのも納得が出来、彼がフォスの事を見下した理由だって直ぐに理解した。

 「魔法使いの技量として、彼女の腕は最低レベルです。

 何十年も留年し、後輩にどんどん追い抜かれ、今更になってやっと試験を迎え。

 しかし普通の条件だと絶対にクリア出来ない事が判っていた、だから彼女だけ特別ルールで、たった六個の魔法で良いと約束された。

 全部繋がりましたか?」

 若干嫌みたらしく紡がれたシストの声にむっとしつつも、返す言葉が無く黙り込む音無。

 彼の言葉で、フォスが七不思議と言う言葉に拘った理由を理解した。

 彼女は、自分が使える魔法の数が少ないことを悟られない様、適当にそれっぽい口実を用意したのだろう。

 つまりは、彼女にとってたった六回の魔法で良いと言う条件が、それだけ恥ずかしい事だった証拠だ。

 「それでだけど、もう一度聞くわね。

 あなた、彼女の事をどう思ってるのかしら?」

 その声に、音無は首を傾げた後に答える。

 「どうって、一生懸命な子だと思いますけど……」

 すると、猖雅谷は吹き出した後大声でケラケラと笑い、必死に笑いを堪えると口を開いた。

 「あなた、魔法使われ失格ね」

 「わざわざ嫌味を言いに来たんですか?」

 露骨な嫌悪感を覚えた音無の声に、猖雅谷は少しだけ白けた様子で返す。

 「そうじゃないわ。

 ただあなた、大事な事を忘れてるみたいだから忠告しとくけどさ、彼女の事を思うのなら、今のあなたの対応は間違いよ。

 魔法使いは感情を殺して、道具として魔法を使う練習をする為にこちらにやって来てるの、だからわざわざ人として扱う、それ自体が間違いなのよ?

 あの子も言わなかったかしら? 『私は道具だ』って」

 その言葉に聞き覚えがあった音無は、思わず息を飲む。

 「第一、魔法は自分の為に使う、そんな物でしょ?

 あなただってばんばん好き勝手な魔法を使うべきかと思うんだけど?」

 追い打ちを掛けた猖雅谷は、猫の様に笑うと、音無が腰掛けていたベンチの端に座り、懐から名刺を取り出して音無へと渡す。

 「これだって魔法のおかげ」

 彼女が差し出した名刺には彼女の名前と連絡先、そして『グラフィックデザイナー』の肩書きが書かれており、その角には見覚えのあるイラストが描かれていた。

 「まさか、あのデザインって……」

 音無が反応したのも無理が無い。

 どこかで見覚えのある鳥のマーク、それは昼間フォスが反応していたフライパンの柄と同じだったからだ。

 つまり……

 「そう、アレは私のデザイン、そしてあのデザインが何故か人気があるのは魔法のおかげよ」

 その一言は、捉え方を変えると『自分はデザイナーとしての能力はそんなに高くない』と言ってる様な物なのだが、彼女は更に言葉を繋ぐ。

 「あと、私にライバルが居ない事も魔法のおかげ。

 邪魔をする奴等には手当たり次第簡単な呪いをかけてるの」

 「ちょっとそれは――!」

 「それが普通よ? 魔法なんて自分だけが得をするために使う物なの、折角魔法使われに選ばれたんだったら好きに使うのが正解だと思うけど?」

 簡単に言ってはみせるが、その言葉が気にくわなかった音無は食い下がる。

 「じゃあ呪いをかけられた人はどうなるんだ!」

 「知らないわそんな事? 自分が呪いかけられて辛いからそう思うのかもだけど。

 だったら良いじゃ無い、魔法で犯人探して仕返しをすれば。

 だってあなたにはそれだけの力があるのよ?」

 その言葉に、音無は口を紡ぐが、今度はシストの方が言葉を繋いだ。

 「その話ですけど、どうしてフォス・クルスラットはあなたの呪いについてあんなに露骨な反応を示したのですか?」

 それは昼間の一件を示しているのだろう、シストは肩を竦めてみせる。

 「……知らない、って言うか知るわけ無いだろ、フォスだって教えてくれなかったんだから」

 「無理矢理聞けば良いじゃ無いの」

 「そんな事はやりたくない」

 自身の声を遮った音無の顔をまじまじと観察すると、猖雅谷はそっと告げた。

 「魔法を使っても治せない体にされたのなら、せめて仕返し位しても良いと思うけどね……」

 昼間ならまず聞き取れない程の声で紡がれた一言に、音無はさっと視線を上げる。

 「私と違ってあなたのそれは他人にやられた物よ、それに直すことが出来ない。

 それなのにどうしてあなたは復讐をしないの? 無理矢理にでも命令すれば魔法使いは断ることが出来ないのよ?」

 「……? どういう事ですか?」

 何か引っかかる猖雅谷の物言いだが、その問いかけに答えるでは無く、猖雅谷はさっとシストの方を振り返る。

 「ねぇシスト、彼に呪いをかけた人間を探すことは出来る?」

 その一言を聞き、音無は青ざめる。

 彼女はシストの魔法で、音無に対して呪いをかけた相手を探そうとしているのだ。

 確かに彼自身も自分に呪いをかけた犯人を知りたかった時があったが、フォスが知られたくないのなら、その犯人など知らない方が良い、そう思っていた。

 だが、そんな彼の思いよりも早く、シストは頷き懐からチケットを一枚取り出す。

 「可能です、今からやりますか?」

 「お願い」

 間髪入れない返事に、音無は止める間も無かった。

 「ちょっとま――!!」

 次の瞬間、シストは持っていたチケットを破くと、さっと手放す。

 月明かりで青白く照らされた公園の中、半分になったチケットは風に舞いながら地面へと向かい、角砂糖がコーヒーに溶かされる様にばらばらになり、直ぐに見えなくなる。

 「魔法は完了しました、近いうちにあなたの探している人間が、あなたの目の前に現れるでしょう」

 当たり前と言わんばかりの様子で説明をしたシストは、大袈裟な仕草で礼をしてみせる。

 「何を!?」

 「魔法は私利私欲の為に使う物、それを教えてあげたの。

 犯人と目を合わせば、あなただって人を呪う気持ちが判る筈よ?」

 初めからそれが狙いだったのだろう。

 僅かな怒りを滲ませる音無に動じること無く、寧ろ感謝しろと言わんばかりの様子で猖雅谷は告げる。

 「誰かを傷つける為なら自分が傷ついた方がましとか、傷ついた分だけ優しくなれるとか。

 私はそういうのが大っ嫌いなの」

 「……」

 反撃が出来なかったのはそれが正論だと思ったからでは無く、根本的な部分で自分と彼女は同じ部類の人間かも知れないと感じたからかもしれない。






 あれから程なくして音無は帰宅した。

 勝手に魔法を使ったことに関しては音無自身言い風には思って居ないが、猖雅谷という人間は少なくとも自分よりも魔法使いに対しての知識があり、何かと有意義な情報も得られた。

 例えばフォスがあちらの世界でどの様な事を扱いを受けていたのか。

 そして、シストとフォスの関係など。

 フォスは魔法使いとしてはかなり劣った部類であり、逆にシストは魔法使いの中でも屈指の才能を持つ、俗に言う優等生であること。

 その結果、フォスにはシストが一際まぶしく見え、知らず知らずのうちに彼女にとってシストの存在が、自分の劣等感を擽る存在になっていた事。

 光があるからこそ闇がある、光が強ければ強いほど闇は一層目立ち、この場合の光はシストであり闇がフォスだったのだ。

 だからあの時、フォスはシストに一際怯えた。

 圧倒的な能力差を目の当たりにし、自分の弱さを見たくなかったから。

 そして何より、音無にそんな自分を見られたくなかったから。

 「能力差……か……」

 音無は大して重たくないレジ袋と、重たくて仕方なくなった思いを抱えたまま玄関の扉を引いて次の瞬間絶句した。

 「拓斗! 拓斗!!」

 先ず目に付いたのは、昼間とは全く違う部類の恐怖に怯え、はだけた服の裾をなびかせながら必死にこちらへと走るフォスの存在。

 そして……

 「あー! 拓斗!! あんたも隅に置けない子ねぇ、女の子と同棲してるなんて!!」

 何故か半裸状態で逃げ回るフォスを追いかける、スーツ姿の女。

 大きくはだけたグレーのスーツに、長い髪をざっくりと束ねるバレッタ。

 そして、母親似の泣き黒子と品のある銀縁眼鏡が特徴的なその人物は、酒を飲んでいるのか頬を真っ赤にしトロンとした瞳でこちらを伺う。

 予備動作も無くとんでもない行動を取りそうなその女の正体を、音無は知っていた。

 「拓斗! この女が! 無理矢理家の中に! この家には魔除けの結界は無いのか!?」

 「きゃー! 魔女っ子台詞可愛い!! こっち早くこっち来てよ!!」

 珍しく半狂乱なフォスの裾を掴むと、力任せに引き寄せて小柄な彼女に抱きつく女の名前は、音無 砂尾(おとなし さお)。

 「姉さん、何やってるの?」

 説明するまでも無い、彼女こそ音無の姉だ。

 砂尾は抱き枕か何かの要領でフォスを小脇に抱えたままこっちにやってくると、アルコール臭い息を吐きつつ口を開いた。

 「ねぇ拓斗、この子なーにー? 彼女? それとも彼女? はたまた彼女?」

 「その三択に見えて一択な質問は何ですか?

 ちょっと訳あってうちで居候しているだけだよ、名前はフォス、見て判る通り外国の子」

 あまり長々と話しても怪しまれると、とりあえず予め用意していた設定で答えると、音無は半泣きになったフォスを回収し、今へと足を進める。

 「って言うか、どうしてここに?」

 元々かなり風変わりな砂尾は、時折こうして家に訪れる事があったためにさして驚きはしなかったが、流石にここまで泥酔した状態での対面は初めてだった。

 ひとまずそんな彼女を落ち着かせるべく、机に転がっていた空き缶をゴミ箱へと放り込むと、音無はコップへ麦茶を注ぎ姉へと差し出す。

 「どうしてって、姉が弟の様子を見にやって来ちゃ駄目なの?」

 「駄目ではないけどさ、前振りの無い酔っ払いの襲撃に耐えられるほどうちは丈夫じゃ無いの」

 軽く皮肉交じりな言葉を言いつつ、ぎゅっと自分の腰を握るフォスをなだめて座椅子へ座らせる。

 だが、その時、お気に入りになたぬいぐるみを抱いたフォスが妙な事を言った。

 「拓斗……あの女、魔法の匂いがするんだが……」

 「魔法?」

 その一言を聞き、音無は全身の血が凍り付く感覚を覚える。

 「あれー? 二人ともどうにかしたのかなぁ? 姉に同棲が見られて焦ってるのかな?」

 相変わらず壮絶な勘違いをしてケラケラ笑う姉を余所に、音無は先ほどのシストの言葉を思い出す。

 『近いうちにあなたの探している人間が、あなたの目の前に現れるでしょう』

 シストが言った予告。

 それが正しいのなら、目の前に居る姉こそ、音無に呪いをかけた人間だと言うことになる。

 「まさか……」

 音無は背筋に氷水を流される様な感覚を覚え、脳天気に笑う相手とは対照的に、一人絶望を覚えるのだった。

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