それぞれの過去 上

 彼女の目線が普通の人よりも少しだけ低かった為に、人よりも低い場所で淀んだ物が見えたのか。

 それとも他人から見下ろされる日常が彼女の感覚を少しずつねじ曲げ、結果としてどんな美しい物でも醜いと感じる様になってしまったのか。 

 少なくとも、猖雅谷 公香(くるがや きみか)にとって世界はあまり美しい物では無かったのは事実であり彼女にとって世界とは、奪い合いや卑下の元に形成される残酷な物だった。

 「まって!」

 必死にそう叫び楽しそうに駆ける同級生を呼び止めようとするが、その声は風に舞い赤いランドセルを背負った背中へは届かない。

 年端のいかない子供にとって単調な通学路ですら格好の遊び場であり、地面蹴って家路を急ぐだけでも十二分に楽しい物だ。

 故に同級生は皆鈴を転がす様な声で笑い、一人遅れている自身の事など忘れているのだ。

 「ねぇまってよ!」

 同年代の子供と比べると幾分風変わりな所が目立った為、何処か掴み所が無い子供だと認識はされていた様だが、少なくとも彼女は露骨に友人から嫌われていた訳では無く、先を行く彼女らの元へ駆け、その肩を叩くことが出来れば今起きている問題など直ぐに解消出来る筈だった……

 「置いていかないでよ! ねぇ……待ってよ! ……っ!」

 必死に速度を上げた彼女だが、次の瞬間アスファルトに空いた大きな穴に『車輪』を掴まれて激しく転倒する。

 元々不安定な姿勢だった。

 だからこそ彼女は真面に受け身を取れないまま倒れ、古びて石が浮いたアスファルトに肘を擦る。

 熱した鉄に触れた様な痛みが走り、じわりと白いシャツに血の跡が滲んだ。

 「ねぇ! まって……みんな……」

 倒れた拍子でランドセルが地面で弾み、中に入っていた荷物を撒き散らす。

 必死に仲間を呼ぼうとするが、勿論その声も、そして彼女と彼女が乗っていた物が倒れる音にも気がつかない、そんな同級生の背中が陽炎に飲まれゆらゆらと姿を変えている。

 「……おいていかないで」

 熱い日差しの下彼女は自力で起き上がることも出来ず、一人痛みに顔を歪める。

 呼んだところで誰も自分になど見向きもしない、それはいつもの事だ。

 辛い分だけ幸せになれる、苦しんだ分だけ優しくなれる。

 そんな言葉など一切合切出鱈目だと、彼女はふと悟っていた。 

 自分は一生幸せになどなれない、自分はそういう不便の元生を受けたのだ、そう思った途端不意に涙腺が揺れ視界が歪む。

 どれだけ努力しようと、立ちはだかる障害をなくせるわけでは無い。

 いつかのおとぎ話の様に、どこからともなく魔法使いが現れ『ちちんぷいぷい』の呪文で問題を全て解決してくれる訳では無いのだ。

 どれだけ望もうと、どれだけ願おうとも誰も助けてなどくれない。

 だが愚痴を吐くだけ間違っている、そもそも彼女が抱える問題に、小悪の根源などそんざいしないのだ。

 誰かが悪い訳では無い、運命のいたずらなど信じない。

 結局悪いのはいつだって決まっている、結局悪いのは――

 「……っ!」

 そこまで見た瞬間彼女は古い記憶を辿るかの様な夢から覚醒し、頭上で鳴り響く目覚まし時計へと手を伸ばす。

 「……どうして……」

 あれから十数年経ったのにもかかわらず、彼女にとってトラウマとなっている記憶を再度閲覧するのは気持ちが良い物では無い。

 折角の休日だと言うのに嫌な気分で目覚めた彼女は、一人この間見た二人組を思い出す。

 「彼らのせいね、きっと」

 半分寝ぼけたままの頭の隅から、その記憶を掘り返して彼女は小さく呟く。

 仕事が一段落した彼女は昨日、職場であるオフィスの側にあるコンビニへと出かけ、その先で妙な光景を見た。

 冴えない一人の男と、どこかのファンタジー絵本に出てきそうな格好をした女のペア、そのうち片方は突如川へと駆け出し、水面を跳ねながら移動してその先で溺れていた子供を救い出したのだ。

 そんなあり得ない筈の光景を見他のにもかかわらず、何故か彼女は殊更驚きはしなかった。

 ただなんとなく、その男を馬鹿らしいと思ったのは事実だ。

 「お目覚めですか?」

 ふと響いたその声に、猖雅谷は顔を上げてから相づちを打つ。

 「……いつからそこに居たの?」

 猖雅谷はまだ重さが抜けない瞼を無理矢理こじ開け、その人物の顔を伺う。

 「日が昇るよりは幾分早くですね」

 当然とばかりに答えたその人物は、幼さが残るどころか寧ろ物心ついて間もない外見をした少年だった。

 目鼻立ちがはっきりとしているせいか、何処か異国情緒が漂う彼は妙に大人びた口調で告げると、舞台俳優がカーテンコールで見せる様な大袈裟な仕草で礼をしてみせる。

 その幼い外見の為、必死に背伸びをしている様に見える仕草だが、その仕草は至って自然であり、どこか達観した様にも見えるその瞳からは年相応とは思えない知性が漂っている。

 「いくら子供の格好してるからって、女の寝室に踏み込むのはどうなの?」

 「どう……とは?」

 猖雅谷の言葉の意味が理解出来ないのか、少年は少しだけ眉を吊り上げると彼女の元へと歩み寄る。

 「……そういう所は子供のままなのね、まぁいいわ、ちょっと上着を取ってくれる?」

 当てつけな彼女の言葉が理解出来ないのか少年は小さく頷くと、ベッド脇の棚に掛けられていたガウンを掴み手渡す。

 「一応さ、あまり見ないのが礼儀じゃ無い?」

 今現在猖雅谷はネグリジェ姿であり、先ほどまで眠りの園に居た事から襟元は大きくはだけ目のやり場に困る姿になっており、そんな彼女がガウンに袖を通す仕草を、じっと恥ずかしがる様子も無く見ていた為に、小言で抗議をする。

 「どうして? それはこっちが聞きたい台詞だ」

 だが、やはり帰ってきたのは疑問符を含む語句だった。

 「あなたたちにとって理解出来ないことかも知れないけど。

 こういう格好はあまり人から見られたくない物なの、ましてや異性となると尚更よ」

 年端もいかない少年に対し、それは大袈裟な話である。

 だが、猖雅谷は同年代の異性に向けるのと同じ視線を少年に投げ、さっと胸元を隠す様にガウンを羽織る。

 「確かに私は、一応人であり異性だ。

 だけど、それ以前に私はあなたの所有物であり、道具。

 あなたは時計が情欲を覚えるとお考えですか? あなたは絵画の視線に羞恥心を覚えるのですか?」

 『自分など物として扱え』まるでそう言っているとも取れる彼の言葉に、猖雅谷は少しだけ頭痛を覚えて頷くと、これ以上会話が拗れるのを警戒して短く頷く。

 「まぁいいわ。折角の休日よ、今日は一日上機嫌でいたいの」

 猖雅谷は小さく伸びをしてベッドから降りると、室内履きを履き寝室の戸を開け、リビングへと向かう。

 その最中、玄関先で処分される日を待つ、古びた車椅子を見つめて立ち止まる。

 「まだそんな物に執着が?」

 金魚の糞の様に、彼女の後に続いていた少年は疑問符を投げる。

 「いいえ……何でも無いわ」

 曖昧に言葉を濁した猖雅谷は、リビングへと続く戸を開けてから思い出した様子で口を開く。

 「ねぇシスト、この町には何人の魔法使われが居るの?」

 その問いかけに、幼い少年の姿をした魔法使い、シスト・ノットヤードは何処か機械的な口調で答えるのだった。






 押豆町は町としての発展度はそうでもないが、単純な規模だけで言えばそれなりに大きな部類になるだろう。

 居住地としている世帯が少ないが為に、押豆町は『押豆市』になれずにいるが、基本的に平地が多く、また海にも隣接して居ることの土地は様々な施設が浅く広くで点在しており、町中を散歩するとちょっと珍しい光景と遭遇する事も希では無い。

 だが、それを鑑みても音無の自室の窓から見える景色は、明らかに不自然でしか無かった。

 「魔女っ子衣装は丸洗い可能……と」

 音無はそう呟くと、先ほど物干し竿に干したばかりのフォスの服を軽く叩いて皺を消す。

 何処にでもある一般家庭、更に言えば若い男が一人暮らしをして居る家のベランダに、女物(?)の魔法使いの服が干されているのだ。

 こんな状況、他人から見たら不自然でしか無いに決まっている。

 「にしても良い天気だな」

 音無はさんさんと照りつける太陽を見上げ、午前中の作業で浮いた汗を軽くぬぐうと、寝室へと戻り毛布を掴む。

 「これも乾くよな……?」

 音無は掴んだ毛布を洗面所にある洗濯機に放り込み、液体洗剤のキャップを外し、中身を確認して小さく鼻を鳴らすと、最後の一回分になった洗剤を洗濯機に流し入れ、スイッチを押す。

 最近この手の消耗品の消費量が極端に増えた。

 その原因は、この家に住む人間の増加が関係している。

 フォス・クルスラット、そう名乗る魔法使いが突然現れ、音無と生活を共にしている。

 何かと風変わりで、掴み所の無い彼女だったが、最近やっと彼女と真面に意思疎通が出来る様になり音無の悩みは軽くなった筈だった。

 その筈なのに……

 (私にはその願いを叶える事は出来ない)

 フォスの一言が意識の奥底で再生される。

 昨日の夕方から、寝ても覚めても離れないその言葉が音無の胸に突き刺さり、タチの悪い棘の様に、何度も何度も執拗に彼の胸で痛みを生み出す。

 「ナルコレプシーが呪い……」

 音無は普段から肌身離さず持ち歩いている薬を、腰に付けたシザーバッグから取り出して確認する。

 何処にでもある様な楕円形の錠剤、それは彼が普通に生活する上で無くてはならない存在であり、彼は急な泊まりがけの外出などに備え普段から持ち歩いていたその薬の作用は即ち、日中に襲いかかる強い眠気の予防である。

 音無自身この薬には救われている。

 様々な制約があれど、少なくともこの薬が作用している間は突然眠りに落ちることも無く、結果こうして生活が出来ており、これ以上の事を求めるのはあまりにも贅沢な話であろう……だが、もし仮に。

 もし仮に、この病がただの不幸では無く、他人の力で仕込まれた物だとしたら?

 そんな事一度も考えた事は無かった、少なくとも今までは、全て不幸な自分が悪いのだと無理矢理事態を飲み込んでいた。

 その筈なのに関わらず、突如現れた二人目の魔法使いが彼に対し、ナルコレプシーは病では無く呪いであると伝えたのだ。

 「誰が何の為に?」

 再三反芻してきた問いかけを口に出してはみるが、誰も答えてはくれない。

 あの時の魔法使いのグラニッツ曰く、魔法とこちらの世界の法則にはある種の互換性があるらしく、一口で呪いと言っても顕現する際は、今回の様に病気などとして現れるらしい。

 だからこそ、強い呪いであったとしてもこうして現代科学で対処出来るのだが、それ故に音無は自分の病の正体に気がつかなかったのだ。

 そしてもう一つ、音無が呪いに気づかなかったのにはもう一つの理由がある。

 音無は低い駆動音を奏で動き始めた洗濯機の蓋を閉じると、テレビが置かれている居間へと足を進めると、部屋の片隅で揺れた服の裾を見つめ、口を開く。

 「フォス、僕はもう怒ってないから出てきたら?」

 本人としては隠れているつもりなのだろう。

 部屋の角で鎮座する液晶テレビの奥で、明らかに隠れきれて無い三角帽がびくりと揺れ、おそるおそると言った具合でフォスが顔を覗かせる。

 「か……噛まないか?」

 「多分怒ってたとしても噛まないから」

 少しでも場を和ませようとする彼女なりの気遣いなのか、それとも本心からの発言なのかは不明だが、少なくとも彼女は彼女なりに気まずさを感じているのは事実な様だ。

 巣穴から顔を覗かせる小動物の様に、なるべく音無とは目を合わせない様にしながら彼女は狭い隙間から体をひねり出す。

 「そ……そうか、なら心配は要らないな」

 彼女なりに気に入っているのか、昨日から肌身離さず持っていたぬいぐるみ(フェンリルと命名された)をテレビ台に置き、部屋の壁に手を添える。

 彼女は昨日のあの瞬間まで、音無に対し、ナルコレプシーが病では無く呪いである事を隠していた。

 確かに、音無が尋ねなかったから答えなかったと言えばそれまでだが、グラニッツが現れる以前に彼は病院に行き自分の病の説明を彼女にしており、いくらでもその事実を伝えるチャンスがあった筈だ。

 それでも彼女は事実を口にしなかった、それどころか、魔法で呪いの主を呼び出せと命じたのにも関わらず彼女はその願いを却下した。

 「拓斗……その……昨日の話だが……」

 やたらと歯切れ悪く紡がれる彼女の声に、音無は目を瞑り溜息一つ吐くと、腕組みしてから答えた。

 「話したくない理由があるんでしょ? そして呪いの主を教えたくない理由だってあるんだよね?」

 「……」

 その無言は肯定そのものだろう。

 彼女は何も言わずにテレビに引っかかった服の裾を救出する作業に勤しみ、音無は携帯電話を取り出して時刻を確認する振りをして、彼女から視線を逃がす。

 彼女が何を隠しているのかは不明だ、だがそこを突くのはあまりにも酷な気がしたため、音無はあの日あれ以上に質問を投げることを止めた。

 『こんな魔法使い、笑いの種として誰もが知ってる』、それは昨日グラニッツが告げた一言だ。

 彼女は彼女なりに色々な物を背負っており、彼女が事実を隠した事はその一言と関係している気がするのだ。

 自分に呪いを掛けた相手を調べたところで、自分が得をする訳では無く、ましてやナルコレプシーが無くなる訳でも無く、ただ一人、フォスが隠していた痛みに塩を塗る結果で終わる。

 「フォス……昨日の魔法使いとはどんな――」

 そこまで口に出し、咳払いをして言葉を切る音無。

 「――いや……何でも無いや」

 人の痛みを他人が理解出来る訳が無い。

 当事者にしか判らない痛みに耳を傾けても、第三者には十分の一も理解出来ないのだ。

 そしてどれだけ悲痛に叫んでも周りから理解されない、初めから耳を傾けてもらえない状況がどれだけ辛い事かも知っていた。

 だからこそ、音無はただ知らない振りをしようとした。

 どうせ自分は魔法使われであり、彼女とは全く違う存在。

 そして、彼女の痛みなど一切理解出来ない唯の他人なのだ。

 「そうか? 噛みつかないのか? 怒ってはいないのか?」

 「だから噛みついたりしないし、怒ってもいないよ」

 なぜ彼女が『噛みつく』事に拘るのかは不明だが、さっと笑って答えた音無は自分の意志を示す様、なかなかテレビの奥から抜け出せない彼女に手を差し伸べる。

 「そうか……」

 自身の物より一回り小さく、柔らかな掌が彼の手に重ねられる。

 判らない事は山ほどあるが、いちいち目くじら立てていても何も始まらない、そう心に決め、音無は足を踏ん張り彼女を救い出す。

 小柄な彼女はさっと隙間から抜け出すと、危なげな足取りで床へと降り立ち音無の手をぎゅっと握りしめ口を開いた。

 「拓斗はこんな私にも手を差し伸べてくれる、お前は私が知る誰よりも優しいのだな」

 音無の体温を確認する様に、フォスは音無の手に空いていた方の手も添え、目を閉じる。

 「いやフォス……あのさ……」

 妙なむずがゆさを覚えた音無は、そっと手を手を引き離そうとするが、彼女は強く音無の腕を掴んだまま、今度はその腕を胸元で抱きしめる。

 「拓斗の手は大きい、助ける筈の私が救われてばかりだ」

 感慨に彼女がふけるのは良いのだが、音無はこの時一つの問題に直面し、顔をゆでだこの様に真っ赤にすると喚く。

 「いやフォス……あのさ」

 「どうかしたのか?」

 そう言い、少しだけ強く腕を体に押し当てるフォス。

 「あのさ、胸、当たってるから!」

 何処か中性的な雰囲気があるとは言え、彼女は年頃(二百歳)の女であり、薄いとは言え出るところは出ている、そうなれば音無の腕に、柔らかな感触がダイレクトに伝わって来るのは必須の事。

 「当てているのだが問題か?」

 だが、音無の言葉の意味が理解出来ないのか、それとも理解出来てはいるがそもそもそんな事に羞恥心を感じないのか、フォスは首を傾げさも不思議そうに答える。

 「問題だよ!」

 再度喚いた音無は、力任せにその腕を引き抜くのだが、それが予想外な結果をもたらす。

 「あう……」

 力任せなその動きに、間が抜けた様な声を上げるフォスの体が揺れ、後ろ向きに崩れる。

 その先にあるのは、37インチの液晶テレビだった。

 頭の中でアドレナリンが大量に分泌されているのか、突然スローモーションで再生去れ始めた視界の中、音無の頭の中で様々な思い出が交錯する。

 家電量販店で必死に値下げ交渉をした思い出。

 新しいテレビが来ると、テレビを置くための一角を丹念に掃除したひととき。

 そして、家に届いたテレビの大きさに感動し、その日は一晩中映画三昧名夜を過ごした事。

 幾つもの思い出が音無の頭の中で走馬燈の如く再生され、次の瞬間彼は悲鳴を上げていた。

 何故なら、そのテレビが一人の魔法使いの背中に押し倒され、そのまま激しい破壊音と共に完膚なきまでに破壊されたからだ。






 「拓斗、怒っているのか?」

 「そりゃ怒ってるよ、だってテレビ壊したんだよ」

 「……すまない事をした」

 「まぁ僕にも非がある訳だし、もう良いよ……後で片付け手伝ってね」

 「……噛まないか?」

 「だから噛まないよ!」

 切れた洗剤の補給のために向かったホームセンターの中、二人の会話が飛び交う。

 先の一件で大事なテレビが破壊されたのは痛手だが、ここであまりごねると突然魔法でテレビを修理してやろうとフォスが言いだし、次の瞬間には今時珍しいブラウン管が四足歩行で家の中を走り回る光景が想像できたため、音無は一人無言でテレビを片付けたのだが、取り繕ったとは言え、半泣きで割れた液晶をかき集める音無の後ろ姿が印象に残っていたのだろう、一旦頭の中一番奥の引き出しの――更にその裏側にある壁と棚の隙間に放り込んだ問題を鷲づかみで引っ張り出した彼女から放たれる注目を余所に、音無の後を追いかける。

 「大体……なんでフォスはそんなに『噛む』に拘ってるの?」

 今回に限らず、彼女がことある毎に口にする言葉を思い出し、音無は何気なく問いかける。

 異世界に住む彼女がどの様にしてこちらの言葉を覚えたのかは不明だが、異世界の住人とは思えないほど流暢に話す彼女でも幾つか知らない言葉があるらしく、これまでにも時折彼女が首を傾げ、音無が紡いだ言葉の意味を尋ねる事はざらにあった。

 ならば、彼女が時折言う『噛む』と言う言葉は、何か別の言葉と間違っている可能性がある事になる。

 「拓斗は噛まないのか?」

 「だから、普通の人はそうそう噛まない……っていうか、ちょっとフォスの言う『噛む』をやってみてよ」

 もしやと思った音無は、冗談半分で腕を突き出すとそう試す。

 「良いのか? 『噛ん』でもいいのか?」

 「そう、なんかフォスは言葉を間違って覚えてるみたいだから、一回整理もかねてやってみてよ、フォスの言う『噛む』って奴を」

 音無の言葉に頷いたフォスは、おそるおそると言った具合で音無の腕を掴み、再度確認を取る様に音無の顔を覗く。

 「……拓斗?」

 「ほら、良いからやってごらん、思いっきりやって大丈夫だから」

 そう言った音無の腕をフォスは引き寄せると、そのまま何気ない仕草で彼の手を噛む。

 「……っ!!」

 流石にそれは予想外だった。

 何か別の意味合いがあったと思われたフォスの『噛む』は、そのままの意味だったらしく、音無の右掌、丁度小指の付け根の辺りを小さな口を目一杯開けて噛みついていた。

 しかもその力には一切の加減が無く、フォスは固いステーキ肉を噛み切ろうとする勢いであり、流石に音無は目を見開いて声にならない悲鳴を上げ、慌ててフォスの口から手を引き抜く。

 「ちょっとフォ……ス……」

 くっきりと歯形が残った手をさすりつつ、音無は脂汗が浮いた顔でフォスの顔を恨めしそうに睨むが冷静に考えれば事の原因は自分にあると気づき、直ぐに作り笑顔で感情を誤魔化す。

 「っていうか……その、言葉通りの意味なのね?」

 「……思いっきり噛めと言ったのは拓斗であろう? 何か問題でもあったか? 問題があったのなら何でもして私は謝罪をするつもりだが」

 「いや……まぁそうだったね、うん、僕は噛まれるのが好きだからお願いしたんだよ、うん、そうなんだよフォス」

 これ以上言うとまた会話が堂々巡りしかねないと判断した音無は、無理矢理な言い訳を重ねてフォスの勘ぐりを回避する。

 「そう、か? そうなら良いのだが。

 にしても、拓斗は変わってるな、噛まれるのが好きとは、だから噛まないのだな?」

 「そ、噛まれるのが好きだからフォスの事は怒ってても噛まない、そういうことを僕は教えたかったんだよ。

 だからもうこの話はおしまい! いいね?」

 そもそも『噛まれるのが好きだから噛まない』など、意味不明にも程がある発言なのだが、なんとなくでも彼女が納得してくれるのならもうどうでもいいと、音無は自棄を起こした発言で会話の腰を折る。

 「兎にも角にも……」

 頭を掻きながらそう言った音無は、ふと目の前からフォスの姿が消えている事に気がつき、辺りを見渡す。

 「フォス?」

 視線を九十度ほど動かした時、音無は見覚えのある黒装束が調理器具売り場の前にある事に気がつく。

 「どうしたの?」

 店の入り口付近に設けられたそのスペースには、鍋やまな板を初めとして所狭しと様々なキッチン用品が並んでいるのだが、フォスはその中で一際鮮やかな色彩を放つ一角で立ち、興味深そうにその棚を眺めている。

 「いやな、拓斗の道具とよく似てると思ってな」

 音無の声に気がついた彼女は、そっと腕を上げ、陳列棚の一角に下げられたフライパンを指さす。

 それは一羽の鳥のイラストが描かれたフライパンだった。

 サイズとカラーは色々あれど、同じ柄のそれが並ぶ光景は、大空を大量の鳥が飛んでいる様にも見える。

 そんなイラストを見て、音無は小さく鼻を鳴らすと口を開いた。

 「似てるも何も、これ僕のフライパンと同じ奴だからね」

 音無はそう言うと、フライパンの一つを手に取り、自分の物と違いくたびれていない感触に再び鼻を鳴らして返事をする。

 音無自身詳しいことは知らないが。

 最近この手の商品は人気があるらしく、同じイラストレーターがデザインしたと思われる柄の調理器具は、ぱっと一角を見渡すだけでも幾つも目に留る。

 「同じだと? 複製の魔法か?」

 フォスの世界は魔法が栄えた反面、科学という物に乏しい。

 故に彼女の世界では本は複製の出来ない貴重な物であり、同じ様手作業でしか作れない筈の調理器具がどれも同じデザインと言うのは不思議な事なのだろう。

 一人納得した音無は、さっと別のフライパンを手に取り、寸分違わないデザインのそれらを並べて見せ得意げに口を開く。

 「魔法が無い反面、こちらの世界の人間はこういう事は得意だからね」

 「なるほど、面白い話だな。 ついつい膝が笑ってしまう」

 相変わらずの言葉使いに苦笑いを浮かべた音無へ、フォスは予想外な質問を投げる。

 「ところで拓斗、どうしてこちらの人間はわざわざ同じ形に拘るのだ?

 皆同じ形で無くとも誰も困らないであろう?」

 当然と言えば当然だが、それは予想外な質問だった。

 「確かに……どうしてって言われるとあれだけど、みんなこのデザインが好きなんだよきっと」

 適当な言い訳と共に持っていたフライパンを棚に戻す音無。

 生産性だのコスト削減だの、幾つも理由はあるのだが、フォスに説明するにはその理由が一番取っつきやすいとの判断だったが、音無自身その言葉に違和感を覚えた。

 「拓斗はこの鳥が好きなのか?」

 その言葉に思わず口を噤む。

 彼自身、同じフライパンを愛用してはいるが、わざわざこの商品を選んだ理由が思い出せないのだ。

 安さで選ぶならいくらでも他の商品がある。

 逆に少し奮発して良い物を買うには、初めから選択肢に入らない微妙な価格設定のこのフライパンに、デザイン以外の魅力は無い筈である。

 だが……ここに一つ大きな問題があった。

 「……別に好きって訳では無いんだけどね」

 その通りなのだ。

 彼の好みからしても、この様な商品を選ぶことは先ずあり得えなかった。

 「どうしてこれを買ったんだろう……」

 デザインという物はそう言った力があるのか、もしくはその時にしか思い出せない細かな事情が重なった結果、彼は過去に同じ商品を買い物かごに入れたのか。

 兎に角理由は不明だが、今は忘れた何かしらの理由があるのだろうと判断し、音無はフォスの元を振り返る。

 だが、そこに彼女の姿は無かった。

 「あれ……これデジャブかな?」

 ぼそりと独り言を吐いた音無は、自分方向を遠くから見つめる少年と目を合わせ、曖昧に笑ってみせる。

 その子供はまだ四五歳位で、彫りが深く整った顔立ちをしていた。

 自身の視線が帰ってきた事に気づいたのか、少年は色の薄い前髪を揺らし、何処か大人びた歩き方で視界から外れる。

 「……?」

 何故こちらを見てたのかは不明だが、どこかに親が居るのだろう。

 音無はこれと言ってその事を気にも留めずに足を進め、フォスを探す。

 「フォス?」

 調理器具売り場を抜け、その横に隣接する洗剤売り場へ足を踏み入れた時、音無の背中に弱い衝撃が走った。

 「!? なんだ、フォスか……ってどうしたの?」

 衝撃の主はフォスだったらしく、彼女は下を俯いたまま音無の背中に顔をぶつけたまま固まっている。

 「フォス聞こえる?」

 音無の声は耳に届いているのだろう、彼女は表情を隠したまま小さく首を縦に振ると、顔を上げ小さな声で告げる。

 「……拓斗、帰ろう」

 「いやいや、今来たばかりでしょ。 っていうか肝心な物まだ何も買ってないし」

 だが、そんな彼の思いを無視し、フォスは好き勝手な言葉を並べる。

 「……早く帰ろう拓斗」

 小言を吐く音無の手を掴むと、何処か鬼気迫った様子で手を引く姿に違和感を覚える。

 「どうかしたの?」

 「何でも無い、早く帰ろう拓斗」

 今まで驚くことはあっても、ここまで取り乱す姿は見たことが無かった。

 肉食動物と檻に閉じ込めらた草食獣を思わせるフォスの言動。

 あまり表情には出さないが、彼女はこちらの世界で外出することを心底楽しんでいるのは明かだった。

 だからこそ、こうしたちょっとした買い出しでも彼女を連れて居る訳だが、これまでとは明らかに違う彼女の反応に音無は嫌な予感を覚える。

 昨日会った魔法使い、グラニッツが告げた事実が再び脳裏で陰る。

 フォスはあちらの世界では典型的な落ちこぼれだったという、そしてあちらの世界で魔法使いとして劣ることはつまり、無条件に差別されると言うこと。

 だとしたら、魔法使いが少ないこちらの世界は、彼女にとって過ごしやすく、外出を楽しいと感じるのも事実だ。

 「フォス、もしかして……」

 その予想が事実なら、彼女がこうして一刻も早く家に帰りたい理由も自然と分かってくる。

 「あら、あなたの魔法使いはずいぶんと奇抜な格好をするのね。

 ま、私としては嫌いじゃないけど」

 その人物は不意に姿を現していた。

 水に濡れた花を思わせる、艶やかで、同時に何処かミステリアスな香りをもった女の声。

 それは音無の元へ届き、そっと囁く様に鼓膜を震わせる。

 「拓斗……早く帰ろう!」

 そう言い、振り返ろうとした音無の手を無理矢理引くフォス。

 明らかに取り乱しているその様子を心配した音無は、慌てて声を上げようとするが、彼女の手に別の手が重ねられてた刹那、フォスはさっと手を離し、口を噤む。

 「……フォス?」

 彼女は一人目を見開き、さっと何かを避ける様に音無の影に入る。

 「相変わらずですね、フォス・クルスラット」

 フォスと音無を結んだ線の先、そこにその人物は居た。

 「?……君はさっきの」

 それは、先ほど遠くから音無へ視線を投げていた少年だった。

 彼はシンプルな服の裾を揺らし、その側に居た女、猖雅谷 公香の元へ歩み寄ると、口を開いた。

 「どうも始めまして、私はシスト・ノットヤード。 彼女の後輩です」

 そう告げ、少年の物にしか見えない幼い顔に獣を思わせる狡猾な笑みを作り、シストはにんまりと笑うのだった。

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