お出かけ日和 中

 レストランからの帰り道、音無はゲームセンターに立ち寄る事にした。

 本屋に服屋、スーパーマーケットと複数の店舗が建ち並ぶ総合施設の一角に陣取る小さなそれは、地元の学生の溜まり場となる事は多いのだが、音無にとっては久方ぶりの来店だった。

 そんな彼がこの場所委歩み寄った訳、それは単にやることが無くて暇だと言う理由が口実だが、実際の所それにはフォスを楽しませたいと言う本音も隠されていた。

 勿論、彼女はこちらの世界にはあくまでも試験の一環として立ち寄ってはいる為、わざわざ遊びにつきあわせなくてはいけない義務は無いのだが、彼女なりに折角ならつきあってみようという本音があるのだろう。

 その為か、何処か感情の読み取り難い彼女の顔はほんの少しだけほぐれており、何時にも増してその横顔は幼く見えた。

 少なくともフォスに音無の考えが読めてるかは不明だが、心が弾んでいるのは事実な様だ。

 「よしきた!」

 「なんだこれは、拓斗なんだこれは? なぁ、なんか来るぞ。 なんか来るぞ拓斗」

 彼女にとって、こちらでは興奮こそしても怯える事は先ず無いその光景を、フォスは震える声で実況していた。

 その理由は前の事として、フォスの世界にはクレーンゲームの類いは存在しないからだ。

 「拓斗! なんかくるぞ、こっちに妙なのが来てるぞ!」

 二本のアームで掴まれた人形は、ぎりぎりのバランスを保ったままフォスの側へとやってくると、真っ逆さまに落っこちる。

 「なぁ拓斗! 落ちたぞ! 何か変なのが落ちたぞ!」

 「落ちたんじゃなくて、ゲットしたの。 ほらフォス、そこから取れるから取ってごらん」

 何故かは不明だが、物心ついたばかりの子供の様に音無に陰に隠れ、筐体の中に転がる犬を模したぬいぐるみを音無の服の裾越しに睨む。

 「だ……大丈夫なのか?」

 「人形だから大丈夫でしょ」

 「……に! 人形なのか!? 本当に大丈夫なのか? ゴーレムの器にはされてないのか?」

 「いや……ゴーレムとか、そういうのを作る技術はこっちには無いから大丈夫だよ」

 音無の認識しているゴーレムと彼女が言う本当のゴーレムが同じかは判らないが、少なくとも人形を操るという点では同じなのだろう。

 そうなればこのぬいぐるみが何処か危ない道具に見えるのかも知れないが、突然ぬいぐるみが跳ねフォスに噛みつくなどあり得ない事くらい知っていた音無は、さも呆れた様子で腕組みをすると、景品の取り出し口の扉を軽く押して見せる。

 「ほら、これは噛みついたりは絶対に無いから大丈夫」

 「ほ……本当か?」

 「本当にだよ」

 初めて機械を見た先住民の様な仕草で、ゆっくりとかに歩きをして筐体に近づいたフォスは、短く深呼吸をすると意を決した様子で細い右腕を筐体に突っ込み、その先に転がっていたぬいぐるみに触れる。

 そして、おそるおそる様子を確かめるように指でつつき、感触を確認するように握りしめるとゆっくりと引っ張る。

 「ね、大丈夫でしょ?」

 「そ……そうだな、これは噛みつかないな……」

 音無はそんなフォスを見て溜息を吐くと、何気なくその手を離す。

 しかし、それが間違いだと気がついたのは次の瞬間だった。

 「拓斗! 拓斗!!」

 「な……なに?」

 突然の大声に驚いた音無は、彼女が何故猫の様な悲鳴を上げたのかを理解する。

 「噛まれたぞ! 拓斗、これに噛まれたぞ!!」

 彼女は確かに噛まれては居た、しかしそれは先ほどから警戒していたぬいぐるみでは無く、クレーンゲームの筐体そのものだった。

 「拓斗!」

 大抵この手の機械の扉は、バネ仕掛けで自動で閉まる様になっている。

 この筐体もその常識から外れず、バネ仕掛けで戸が閉まる様になっており、音無が支えるのを止めた為にこの扉は少しだけ閉じ、フォスの手に当たっており、その状態を彼女は筐体に腕を噛まれたと勘違いしているのだろう。

 だがそれならまだ良い、問題はこの時フォスがぬいぐるみを掴んでいた事だ。

 ぬいぐるみがストッパーとなり、フォスの手は筐体に挟まれ身動きが取れなくなっている。

 普通なら何て事の無い状況なのだが、先程のやりとりからか彼女は半ばパニックを起こしている為に、そんな些細な自体ですら大事になる。

 一応手を引いて筐体から抜こうとしてはいるみたいだが、戸の形状の関係で彼女の手は一方通行なその戸に引っかかって上手く抜けずに彼女の恐怖心を煽る、そしてその恐怖心は彼女の冷静な判断力を鈍らせ、鈍った判断力は恐怖心を――っといった具合の悪循環が発生し。

 傍目からも目立つ魔女衣装の彼女は、トラバサミに捉えられた野犬の様にじたばたと半狂乱を起こしたままもがく黒い影になっていた。

 「いや、フォス? 落ち着こっか」

 「拓斗! 噛まれている! 拓斗!!」

 「だから大丈夫だから」

 「なんだこれは! なんか噛んでるぞ!」

 「だから! フォス――」

 小柄な体をフルに使い、筐体を蹴り始めたフォスを止めるべく、音無は彼女に背後から掴みかかるのだが、ふと音無は状況を意識し直す。

 端から見ればそれは、ゲームセンターの陰、筐体の陰に隠れる様に膝をついた女と、その上にのしかかる男。

 ましてや女の方はぎゃーぎゃーと大声で騒いでいる。

 「あ……これまずい……」

 ふと自分が状況を悟った時には、彼の背後には店員の気配と声が投げられた。

 「あの、お客様――」

 「いや! その違うんです!」

 顔を真っ赤にしながらも、これ以上怪しまれないようになるべく平静を装って振り返った音無は、自分で口にしときながら怪しさ満点な文句を吐く。

 「その……この子こっちの(世界の)子じゃなくて、初めて見るゲームに(尋常では無い程)驚いているだけなんです、その、直ぐに静かになるように僕の方からも言いますね」

 一応嘘は吐いていないと無理矢理自分を正当化し、音無は筐体の扉を手で開きフォスを救出する。

 謎の使命感に追われたのか、しっかりとぬいぐるみを抱えたまま無言で脂汗を流すフォスを余所に、野良猫か何かにするように彼女の襟首をつまんだ音無は一目散に店を出ると、その直ぐ横にあった本屋の店舗に駆け込む。

 彼女がこちらの世界の文字が読めるかは怪しかったが、本位はフォスの世界にもあり、漫画本や絵本の類いなら文字が読めなくても彼女なりに楽しめ、何よりあちらとは違う文化に触れる事自体楽しめるだろう。

 何より、ちょっとした事をいちいち大事に変えてしまう力を持った彼女でも、ありふれた本の類いなら心配は不要な筈だ。

 そんな彼の思いが通じたかは不明だが、独特なインクの匂いが染みついた店内を見渡した後、音無を半ば見上げる様にして振り返る。

 「ここは何だ?」

 「本屋だよ、本くらいはフォスの世界にもあるでしょ?」

 「ああ、確かにあるがちょっと変わってるな」

 彼女の言葉の意味が分からなかった音無は、頭上に『?』を浮かべると、見慣れた店内を見渡す。

 店の規模はこれと言って広くも無ければ狭くも無く、流行の漫画から画集の類いまで一通り揃った品揃えと言い、天井からつり下げられたボードや本の間からはみ出したポップなど、ごくごく一般的なそれを見た音無は彼女の言葉の意味に検討を付ける。

 科学の代わりに魔法が発展したあちらの世界の場合、これらの物が貴重品である可能性は高い。

 そもそも製紙や印刷そして製本など、今となっては当たり前なこれらの技術の殆どは科学による産物であり、これらの技術が無かった頃は、わざわざ動物の皮をなめして作った羊皮紙やパピルスなどへ羽ペンや筆などで手書きの文字を書き込んだ物が一般的だった。

 勿論そうなっては大量生産なんて概念は無くなり、長い期間本は貴重品の代表格として地位を確立していた。

 それと同じく、フォスの世界でも本が貴重だった場合は、この店舗の様に所狭しと本が並んでいる現状が信じられないかも知れない。

 元より、いかに本が傷まないようにするかよりも、見た目の美しさや斬新さを競う為に大量の本が平積みされている光景や、並んでいる本の色鮮やかさなども特徴で気なのかも知れない。

 「あっちじゃ本の量産って珍しいのかな?」

 そう言い、音無は手近な小説を一冊掴むと、ぱらぱらとページをめくってフォスに見せる。

 「それもそうなのだが、どうにも店が明るいと思ってな」

 「ああ、そういうことか、フォスの世界じゃ蛍光灯なんて無いだろうからね」

 音無の感覚では本屋は明るくて当たり前だが、電気なんて概念の無い彼女の世界では、照明はろうそくがガス灯がせいぜいだろう。

 仮に魔法で照明を得てる可能性はあったが、そうで無い場合貴重な本を置く環境に直射日光や火の気を近づけたくないのは道理であり、本屋がこちらとは違い薄暗くなるのは当たり前かも知れない。

 そう一人納得した音無だが、本棚にある本の背表紙をさっと見て、フォスがまだ不思議そうに首を傾げている事に気づいた。

 「『ケイコウトウ』? それはよく分からないが、こちらの本屋はずいぶんと無防備なんだな、鍵も無いとは」

 「ああ、盗まれないかって事? それは大丈夫だよ、こっちには科学の力があるからね」

 天井に設置された防犯カメラと、店の出入り口付近に設置された万引き防止用のセンサーを指さす。

 本が貴重なら、それだけ本を盗む人間は増えるだろう、ましてやこちらの本屋は店の規模の割に店員は狭く、そう思ったのは道理かも知れない。

 そんな具合の彼の予想は、次の一言で薄氷の如く砕け散った。

 「そうか、それなら安心だな、本に噛まれる心配は無いのか」

 「あー、ごめんそこまで僕の想像力は強くなかった」

 彼女が言った鍵はつまり、本を並べる本棚の鍵では無く、本そのものの鍵。

 もっと具体的に述べれば、人間に噛みつこうとする本の口を閉じるための鍵という事だ。

 「まさか!? 凶暴な本を鍵無しで置いてるのか?」

 「凶暴な本って何だよ……」

 ぼそりと呟いた音無の脳裏で、鋭い牙を生やした六法全書が買い物客に襲いかかるB級映画もさながらの光景が展開され、遅れてやって来た理性にかき消される。

 「あーごめん、なんかもう聞くのもめんどくさいからいいやその話は……」

 一瞬でもしょうも無い妄想をしてしまった自分を恥じ、音無は手を振って話題を切ると持っていた本を畳んで本棚に仕舞う。

 「まぁこういう小説はフォスには読めないかも知れないけど、漫画本とか雑誌とかもあるからさ、適当に持ってきなよ。

 ほら、そのぬいぐるみ持っていてあげるからさ」

 その一言の意味が理解出来ないのか、未だ脂汗を浮かべたままの彼女は服の袖で汗をぬぐうと、ぽかんとした表情で音無を見上げる。

 宝石を詰め込んだ様な鮮やかな瞳、その先に浮かぶ疑問符を受け取った音無は、妙なむず痒さを覚える。

 「こっちの世界の常識を覚えてくれないとこっちも色々と困るの、だから勉強用だよ」

 小動物を思わせる仕草を見せたフォスから目をそらすと、音無は適当な言い訳を重ねるのだが、そんな彼の意志が読めないのか、それとも納得がいかないのかフォスは持っていたぬいぐるみを更に強く握りしめ首を傾げる。

 「だからほら、選んできなよ」

 だが、やはりフォスは首を傾げるだけ。

 「僕の方が心配しなくて大丈夫だよ、自分の分で欲しい本があるから別に待たせる訳でも無いしね」

 もしかしたら音無を待たす事になることを気にかけてるのか、そう思ったのだが、フォスは短く首を振る。

 「どうかしたの? 本とか嫌い?」

 「そうでは無いが」

 「じゃあどうしたの?」

 そう言い、彼女の手からぬいぐるみを受け取ろうとするが、彼女は持っていたぬいぐるみを強く抱くと、音無の手を避ける。

 「これは私が持つ」

 「……あ、それを手放すのが嫌だったのね」

 どうやらフォスは音無がぬいぐるみを預かるという提案を嫌っていたみたいだ。

 「もしかしてそれ結構気に入ってるの?」

 フォスは短く頷く。

 やたらと幼く見える童顔といい女にしても低い背格好と言い、何かと子供に見える彼女。

 首から骸骨のネックレスをさげてたりするせいでこういったメルヘンな趣味は無いかと勝手に勘違いしていたが、それは間違いだった様だ。

 「拓斗、これは非常に良いぞ、私は気に入った」

 「なんか以外だね、フォスってこういうの結構好きなんだ」

 年相応(あくまでも見た目年齢に関しては)に見えるフォスの発言に、音無は少しだけ安心感を覚えると、伸ばしていた手を引き戻す。

 「でもちょっと安心した、フォスって趣味とか娯楽とか、そう言うのに疎そうで心配だったんだよ」

 「そう見えていたのか? 私とて年頃の女らしい趣味の一つや二つ持っているさ」

 もうすぐ二百歳になると言っていた彼女の何処が『年頃の女』なのかは不明だが、音無がフォスを心配していたのは事実だ。

 魔法が全ての世界で育った彼女は、音無が見る分にはどうにも感情が希薄に見え、同時に彼女という人物が、どんな人間なのかも見えなかった。

 だが、そんな事は杞憂に過ぎないと、彼女の発言が証明し、音無が抱えていた悩みを軽くし――

 「これは転生術の依り代に丁度良さそうだ。

  拓斗、これは是非とも依り代に使わせてもらうぞ」

 ――てはくれなかった。

 まぁ彼女に何かしらの趣味があるのは事実な様だが、少なくとも年頃の女は平気で『転生術』など、訳判らない発言を淡々と紡ぐことはしない。

 ましてや、具体的には実際に何をするのかは判らないが、『ぬいぐるみを依り代』として使うような儀式が、年頃の女の趣味とも思えない。

 「えっと……ごめんフォス、その辺の話は僕には早かったよ」

 津波の様に一瞬引いた後に押し寄せてきた激しい頭痛に、音無は一歩後ずさってから大きく深呼吸をする。

 「まぁいいや、好きなの選んできたら? 僕はここで待ってるから」

 音無はそう言い、今週発売したばかりの小説数冊を手に取り、他に何かめぼしい物が無いかと視線を泳がせ、背後の本棚へ振り返る。

 だが、そんな彼の視線に、見覚えのある三角帽が浮かんだ。

 「あれ? 行ってなかったの?」

 「いや、もう決めてきた所だが、少し拓斗に聞きたい事があったのだ」

 「ん? 何?」

 予想外な疑問に、音無は首を傾げてから催促をする。

 「拓斗は本を書く仕事だよな?」

 「あーそういうことか、確かにそうだよ。

 って言っても、結構マニアックな小説だから見つけられないと思うけど」

 軽く自虐を吐いた音無は、本を持ったままぱたぱたと手を振ってみせる。

 「それじゃこれは拓斗の書いた本か?」

 そう言い、何故か服の下から本を取そうとしたフォスに呆れつつ、ほんの少しだけ彼女が次に取るであろう行動に期待をする。

 音無が物書きを生業にしている事は以前彼女に話しており、こちらの文字がちゃんと読めなくとも、家にある書類などから音無の名前がこちらではどのような文字で表記されるのか位は知ることが出来るだろう。

 何かと天然色満点な彼女だが、別に頭が悪いわけでは無く寧ろ頭脳面では優秀だ。

 そんな彼女なら、この店内にある本の中から音無が書いた一冊を探し出すのも不可能では無いかもしれない。

 「さっき見つけたのだが、表紙を見た途端拓斗の本では無いかと思ったのだ」

 出身地不明の自信を浮かべるフォスは、一冊の本を取り出してみせる。

 その本は全体的に肌色を基調にしたデザインをしてお――というかぶっちゃけ裸体が印刷されており。

 何処かなまめかしいタイトル――というかぶっちゃけ口に出すのも憚るようなエロ単語が印刷されたそれは、疑う余地も無くエロ本という物だった。

 「……いやさ、どうやったら僕がエロ本の著者になるのかな? っていうかそもそもそれ小説じゃなくて写真集でしょ」

 もう大声を出して突っ込みを入れるのも馬鹿馬鹿しく感じた音無は、弱々しく告げてフォスの手から本を奪い取る。

 「大体、これを僕が書いたと思った根拠を聞きたいよ」

 「前に拓斗は言ったではないか。 私に服を脱げと」

 「ああ言ったけどさ、言いましたけどさ! それは汚れた服を着替えろって意味でしょ」

 「……そ……そうなのか?」

 ごく当たり前な事を言う音無に対し、フォスは再び脂汗を浮かべながらまん丸な瞳を見開いて愕然と硬直する。

 蛇口をひねったら何故か石油が湧き出した様な、本当に思いがけない事態に遭遇したと言わんばかりの彼女の反応は見てるだけで面白くはなってくる。

 だが、こうもまぁ露骨に驚かれると自分が間違った発言をしたのでは無いかと心配に成るのが道理であり、音無は自分で言った言葉を反芻し、自身の発言が自然な事だと再確認する。

 だが、そんな音無の思いとは裏腹に、フォスは好き勝手に言葉を並べる。

 「すまない、女の裸体が写っていたのでこれは拓斗と関係がある物だと思ったんだが……」

 「いや、裸=僕みたいな変な勘違い、いやもうどうでもいいけどさ」

 呆れて物が言えなくなった音無は、当たりを見回して手元にある雑誌がどの一角にあるかを確認すると返却の為に足を進める。

 何故彼女が迷い無く、真っ先に店内で一番目立たない一角へと足を進めたのかは不明だが、ここで彼女に再び返却に行かせるよりも自分が直接行った方が良いだろう。

 少なくとも、ぱっと見は子供にしか見えない女が、ましてや魔女っ子衣装の女が男しか居ない一角に足を踏み入れるのは目立つが、彼の様に何処にでも居る男が何気なく足を踏み入れる分には特に目立たないだろう。

 「……拓斗!」

 そう思った矢先、背後からフォスの声が響く。

 「フォスはそこに居て、あと、この本があった一角には今後足を踏み入れるの禁止」

 投げやりな指示と注意を背中越しに投げ振り返りもせずに足を進めるが、刹那彼は襟首を掴まれて立ち止まる。

 「フォス、僕あんましこの本を持ってるところ周りから見られたくないの、だから手を離してくれないかな?」

 「すまない……」

 溜息の後に続く文句の返事は、今までに聞いたことの無いほどしおらしい彼女の声だった。

 まるで世界が明日終わると聞いた様な、取り返しのつかない失態をしたかのような絶望的なその声に、音無は思わず身を震わせてから振り返る。

 「いや、そこまで謝らなくてもいいから」

 音無の目に映ったのは、真っ青にして震えるフォスだった。

 彼女は三角帽子の唾をつまみぎゅっと目深に被り直し、ガタガタと震えながら音無の表情を伺う。

 「すまない……本当にすまない、私は拓斗の本が読みたくて……その――」

 「いや、別に怒ってる訳じゃ無いから――」

 「許してくれ拓斗! 私はお前を元気にしたくてあの本を……そのエロホンという物を――!」

 「だから変な誤解招く言い方をしたら駄目だって」

 「拓斗は私に言ったでは無いか、服を脱げ――」

 「あーもう!」

 「――むぐっ!」

 端折りすぎて色々と誤解を招くフォスを黙らせようと、彼女の口を手で塞いだその瞬間には時すでに遅し、彼らは周りの見物人に取り囲まれていた。

 「兎に角フォス、僕はこの事に関して怒ってる訳じゃ無いから謝らなくて良いの、判った?」

 口を塞がれ居るために言葉は聞こえないが、コクコクと頷く彼女を見て溜息吐くと、音無は周りの人間を何でも無いと意思表示をする。

 「ところで拓斗、迷惑ついでに一つ聞かせてくれ」

 「今度は何?」

 すでに迷惑なんて言葉でまとめるには激しすぎるトラブルに巻き込まれているのだが、何かお人好しな音無は嫌な予感を感じつつ答える。

 「拓斗はこのエロホンというのは好きなのか?」

 「……いや、なんでそんな聞きにくい事を尋ねるかな」

 生き物である限り彼女もそれ系の知識はあるはずなのだが、何故かきょとんとした表情のまま硬直する。

 「嫌い……なのか?」

 「嫌いと言うか……そのね……」

 「つまり、好きでは無いんだな?」

 何の確認なのか、見物客に取り囲まれた状態で再度尋ねる。

 「そのね、こういうのは答えにくい質問だから」

 そう有耶無耶に答えた刹那、フォスの顔から一斉に血の気が抜けていく。

 「……やっぱり嫌い……なのか?」

 「あのそう言うのじゃ――」

 「すまない拓斗! エロホンが嫌いなのに持ってきてしまった」

 「あー……」

 滅多矢鱈に目立つ上に誤解を招く会話が振り出しに戻った事を知った音無は、言葉にも成らない声を上げると、当たりを見渡す。

 こちらを伺うのはどれも白い視線、まぁその点は若い男女がエロ本を巡って言い争いをして、挙げ句の果てにはフォスが服を脱ぐだの何だのというものだら、余計にタチが悪い。

 おかげで口々に何か小言を言っており、下手したら店員を呼び出しかねなかった。

 何より問題なのはフォス自身である。

 ここで何か言っても余計に彼女は騒ぐだろう、かといって彼女が納得いく答えを言わない限り延々と騒ぎ続ける筈だ。

 そこで、音無は少しだけ考えた後短い深呼吸をしてから言葉を繋ぐ。

 「拓斗、もう一度答えてくれ、拓斗はエロホンが好きなのか? それとも嫌いなのか?」

 「――だよ」

 「今何と言ったのだ?」

 声が小さすぎて彼女の耳に届かなかった本音を、音無は深く息を吸い込んだ後大声で言い放った。

 「ああ! 好きだよ大好きだよ! 僕はエロ本大好き人間だよ!!」

 その一言に、フォスの暗い表情は一瞬にして晴れ、店内には男性陣を中心に謎の拍手が鳴り響くのだった。






 「何やってるんだよ自分……」

 うなだれる様、音無は夕暮れ時の河川敷を歩く。

 その横には買い物袋を下げたフォスが並び、音無もまた左手にペットボトルや米など重たい荷物が入った袋が下げられている。

 ついでに言えば、その袋の奥の方には先ほどのやりとりの主役であるエロ本が埋まっており、あれからどんなやりとりがあったのかを容易に想像させる。

 「どうしたのだ拓斗?」

 「……見ればわかるでしょ? いや、まぁいいや」

 「そうか? 拓斗が望むならその悩み、魔法で解決してやるぞ」

 のど元まで出てきた『お前が悩みの根源だ』という一言を嚥下すると、曖昧に笑ってから言葉を返す。

 「叶えられる願いは六つまで、そのうち三つをしょうも無いことに使ってるからね。

 実質あと三つしか願いを叶えられない訳だし、もうちょっと良く考えてみるよ」

 ちらりと一瞥した先に広がる景色は、今まで幾度となく見たそれと同じだ。

 どこからともなくノスタルジーが漂う河川敷、柔らかな風に短く切りそろえられた草花は揺れ、青臭くはあるが心地よい香りを漂わせ。

 川を跨ぐ様に建設された鉄橋の上を制服姿の学生が足早に駆け、一日の終わりが近づいていることを伝えてくれる。

 「そうか……ならばゆっくりと考えるが良い」

 僅かな空白の後、フォスはそう告げ、ちらりと川縁から続く景色を見て、足を止める。

 「どうかしたの?」

 「あ……いや、大した事では無い」

 本人としても無意識にやった事なのだろう。

 フォスは慌てて足を踏み出すと、開いた音無との距離を詰める。

 「地元が恋しい?」

 オレンジ色の光の中に輝く紫の瞳、宝石の様に綺麗なその瞳に曇る感情を読み取った音無は、そう問いかけ足を止める。

 「いや……そういうのでは無いが……」

 つられる様に足を止めたフォスは、何処か歯切れ悪くそう答える。

 「正直に言えば良いのに、好きなんでしょ地元が――」

 「違う! ……いや、何でも無いんだ」

 ちょっとした意地悪のつもりで投げかけられた言葉を一瞬強い言葉で返した後、我に返って曖昧に誤魔化すフォス。

 これまで妙な言い回しはしても、こうして露骨な嫌悪感を見せた事の無かった彼女一言、それは自分でも予想外だったのだろう。

 さっと目を逸らし、これ以上本音を悟られまいと必死に誤魔化すフォスだったが、引く様子の無い音無に観念したのか、少しだけばつが悪そうに振り返ると口を開いた。

 「あちらの世界が好きか嫌いかと問われたら、私自身悩ましい物だ。

 ただ、私はこっちの世界が好きなのかも知れない、そう思っただけだよ」

 音無はつい彼女が元居た世界を思って河川敷を見ていたのだと思ったが、それは間違いであり、実際に彼女が思って居たのはこの世界その物だ。

 「私の世界は基本孤独だ。

 こちらの世界みたいに人間は居ないし、何より人のつながりがずっと薄い」

 河川敷から先に見えるのはオレンジに染まった住宅街だ。

 人がそれぞれ背中を寄せ合う事で形成された世界、それぞれの家庭が小さなコロニーを形成しているその景色は人の繋がりを良く現している。

 家々は別の物でも、水路や電線、そして都市ガスなど全ての棟が繋がり、互いに相互干渉しながらも町としての機能を保っている。

 「何より……こちらの世界の人間はみんな自由に生きている。

 魔法が無いからこそ、人と人の優劣は存在しない、それは本当に素敵な事だ」

 果たしてそれは事実だろうか、確かにこちらの世界の人間には魔法を扱う術は無い。

 魔法が無いからそこ、科学が発展し全ての人間が等しく便利になる世界が形成された訳だが、だからといって皆が何一つ諍い無い日常を送っているかと言えば、それは嘘になる。

 どの世界にも優劣を競おうとする人間は一定数存在し、それらに類する人間は一つ何かに劣っている相手を見つけたら容赦なく叩きもする。

 そして、一つそんな光景を目の当たりにしたら、周りの人間もそれに便乗し、それはいじめへや差別へと発展する場合だってある。

 「それは言い過ぎだと思うけどね……」

 そう否定をした後フォスの言葉の意味がなんとなく判り黙り込む音無。

 こちらの世界は魔法が無い分様々な分野が発展した、大袈裟な話ではあるがその結果としてそれぞれの世界でこれらの問題が発生していると言えなくも無いが。

 それは同時に、どれかに劣っていてもその分何かで勝つことが出来る世界であるという意味でもある。

 現に、音無は身体的なハンデを持ってはいるが、その分文才と言う能力に長けている為こうして人並みの生活を送ることが出来ている。

 だがもし仮に、己の能力を誇示する手段が一つしか無ければ……?

 たとえば、魔法を扱う技術が全ての世界だった場合、魔法の技術に劣っていると言うことが何を意味するか考えるまでも無い。

 「拓斗、お前は気がついて無いかも知れないが、この世界はとても美しい」

 フォスの瞳に悲観にもにた感情が浮かぶ。

 「諍いの無いこの世界に住めるのなら、正直私は魔法なんて必要無いと考えている。

 魔法が無くもこちらの世界なら生きる意味を見つける事が出来る、そんな気がするのだよ」

 魔法が使えて当たり前、生きていく上で必要なのは魔法だけ。

 そんな世界で生まれ育った彼女にとって、無限の可能性が広がるこちらの世界はまぶしく輝く物かも知れない。

 だが……

 「フォスが思っているほど、この世界は綺麗では無いよ。

 少なくとも、僕はそう感じている」

 可能性が無限にあるからこそ、苦しむ時だってある。

 別の道を歩みたくとも思うように足が動かず、後ろ髪を引かれ、不意に立ちふさがる障害に足を奪われる事だってざらにある。

 音無自身今の仕事が嫌いな訳では無いが、好きな訳でも無い。

 ただ、これくらいしか自分には出来ないのだ、出来れば他の道を歩みたい。

 そう思っても現実はそう簡単には変わらない、変わらないからこそ受け入れ自分の力で乗り越えるしかないのだ。

 「だからさ……」

 音無はさっと空いている方の手を差し出し、少しだけ笑うと彼女の頭に乗せ短く告げる。

 「お互い頑張ろ――がぁっ!」

 その声が彼女の元に届いた刹那の瞬間、何故か音無は強烈なタックルを真横から受け、土手を転げ落ちていた。

 「ちょ……ちょちょちょ!! フォス! な……何が!?」

 斜面を転がりながら、状況を整理しようと必死に問いかけるが。

 その様をあざ笑う様に持っていた買い物袋が地面に落ち、中に入っていたジャガイモやリンゴと共に傾斜を転がる。

 音無の悲鳴は次第にうめき声へと変化し、最終的には道の先にあった大きな岩に体をぶつけて体を止めるのと同時に収まった。

 「がふっ!……」

 「大丈夫か拓斗? 困ってるのなら魔法で助けてやるぞ」

 本人は状況が理解出来ているのか、相変わらずのんびりとした口調で紡がれるフォスの声に、雑草に埋まった状態で手だけを振って無事だと返事をする音無。

 「っていうか一体何が……」

 岩にぶつけた腰は痛いものの斜面が柔らかかったのは不幸中の幸いだろう、大きな怪我の無かった音無は、全身に草の種やら土汚れなどを纏った状態で顔を上げる。

 元々小さかったフォスの体が、よりいっそう小さく見える視線の先、そこには音無の知らない陰が生まれていた。

 「……?」

 その人物の背格好はフォスより少し高い程度、肉付きが良くなく華奢な体とやたらと綺麗に手入れをされた長髪、そしてフォスのそれとは対照的な白を基調とした服装のその人物は、肩から下げたメッセンジャーバッグを地面へと置きこちらへと大袈裟に手を振る。

 「こんにちは!」

 「……あの、誰です?」

 外見のせいで女にも見えなくは無いその少年は、さわやかな笑みを作って笑うと色こそ違うが学ランとよく似た服の裾を揺らしてフォスの背中に腕を回すとこう言った。

 「僕の名前はグラニッツ・アルベルニア、彼女と同じ魔法使いさ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る