共同生活は何かと大変 下

 音無が住む町、押豆町には押見川(おうみがわ)と呼ばれる二級河川が存在する。

 大きさはそれほど大きくは無いのだが、その川をいくつかの主要道路が跨いでいる為に町に住まう人の多くはこの川の名前を知っており。

 特段に速くも無い川に向け長い釣り竿を向けている人も頻繁に見かけるのだが、その釣り人がいつもの定年を迎えた老人では無く、小学校高学年位の子供だった事に眉根を寄せて、そのすぐ後に今日が休日であった事を思い出す。

 「あの川は押見川って名前、水が綺麗だから上流の方とかでは泳いだりも出来るみたいだよ」

 「水が汚いと泳げないのか?」

 「そうじゃなくて、汚いと泳ぎたくないでしょ? 普通は……」

 毎度の如く見当外れな方向で関心するフォスに対して訂正をかけた音無は、大袈裟な仕草で言葉を繋ぐ。

 「とは言っても、綺麗だろうが綺麗じゃ無かろうが、僕は泳げないけどね」

 皮肉気味に紡がれた音無の一言。

 「どうしてだ? ケルピーに水辺へ引き込まれでもしたのか?」

 「ケルピーって……そうじゃなくて単に僕は金槌なだけ」

 頭の中で『どうしてそんな特集な事例を真っ先に思い浮かべるんだ』などと思いはしたが、ここでそんな事を聞いても話が拗れるだけだと思った音無は簡単な返事を投げる。

 だが、フォスにとってはその言葉の意味が理解出来なかったのか、少しだけ首を傾げた後、音無の体のあちこちをぺたぺたと触りながら口を開く。

 「拓斗、固く無いぞ?」

 「一応聞くけど、何が固くないのかな?」

 脳裏をかすめる嫌な予感に眉根を寄せつつも、一応問いかけた音無に対して、フォスは案の定な答えを返す。

 「当たり前だろ、拓斗は金槌なのに固く無いのはおかしいでは無いか」

 「そりゃそうでしょ、っていうか金槌ってのはあくまでも物の例えで、泳ごうとすると金槌みたいに沈んじゃうって事なの」

 その説明で納得したのか、フォスは水辺で釣りを勤しむ少年達の方を向いてから新たに湧いた疑問符を投げる。

 「拓斗、あれは何をしているのだ?」

 「あれは釣りをしてるんだよ、あの長い棒の先には糸が続いてて、さらにその先には針と魚の餌がついてるの」

 音無は釣り竿を伸ばし、さも暇そうに溜息を吐く子供の後ろ姿を指差してそう告げる。

 「何だ? 人魚に裁縫でも依頼するのか?」

 「……」

 「どうしたのだ? 拓斗」

 「……えーと……うん、君に普通の説明をしてはいけないのを忘れてたよ」

 音無は本日何度目になるかも判らない溜息を吐いた後、丁寧に釣りの詳細について説明しながら足を進める。

 彼らが今向かっているのは町の中心にほど近い、商店が軒を連ねる一角だ。

 一旦バスを使うことも考えたのだが、目的の商店へと向かう場合はこの河川敷を歩いて向かうのと大差無い事を知っていた音無は、町の紹介がてら歩いて向かうことにしたのだ。

 「――って事、大体判った?」

 一旦説明を終えた音無は、道中で買った缶コーヒーを一口飲み込み、隣を歩くフォスに向き直る。

 彼女はいまいちサイズの合っていないだぼだぼのTシャツに、腰から下は男物のカーゴパンツ姿で音無の後を追いかけるのだが、どこか納得いかないのか、退屈そうに釣りに励む子供を見ては首を傾げる。

 「まだ判らないの?」

 「そうでは無い、釣りの詳細については理解したのだが、どうにも判らないだよ」

 「一体何が?」

 と、手短に組まれた音無の一言に、フォスは鮮やかな瞳を輝かせて疑問符を返した。

 「何故釣りをするのだ?」

 「何故って……」

 「拓斗の家の中を見ても判ることだが、おまえ達人間は努力しなくとも食料を得る術を持っているだろ」

 「努力しなくてもって……あのね、食べ物を手に入れる為にみんな仕事をしているの、だから何もしていないに、色々な物が手に入ってる訳じゃ無いんだよ」

 その音無の一言に、さらにフォスは追い打ちをかけた。

 「それならそれで、何故彼らはわざわざ自力で食料を得ようとしているのだ? 仕事をすれば食料が手に入るのだろ? だったら何故働かずに狩りに勤しんでいるのだ?」

 再度突きつけられた感覚の違いに、音無は短く溜息を吐く。

 「あのね、子供は学校とか行って沢山の事を勉強しなきゃいけないから仕事なんて出来ないの。

 フォスの居た世界じゃどうだったか判らないけど、子供ってのは親に守ってもらうのが普通なの、物理的にも精神的にも、そして金銭的にも」

 正確な事は不明だが、労働や通貨と呼ばれる物がフォスの世界には無いのかも知れない。

 だからこそ、音無の言った労働の概念がうまく飲み込めず、何か勘違いをしている。

 そう思った音無だったが、帰ってきたのは少しだけ予想外な返事だった。

 「そうか、子供は働けないのか。

 だったらいっそ親に求めればいいだけだろ? それなのに何故彼らは自ら狩りをしているのだ? あんなの無駄でしか無いだろ?」

 その一言に、頭の中でうまくかみ合っていなかった考えが合致し、一つの答えの輪郭を組み上げる。

 「無駄って……遊ぶことに無駄なんて無いでしょ」

 「……?」

 再度返ってきた反応を伺い、音無は確信を得た。

 間違いが無い、彼女にとって娯楽と言う感覚自体が理解出来ない物なのだろう。

 暇つぶしに、ストレスの発散として、そして仲間との親睦を深める為に行われる娯楽という感覚が彼女には無いのだ。

 だからこそ、釣りをする子供を見て彼女はあんな反応をした。

 「魔法なんて夢の世界の住人なのに、やたらと合理主義なんだな……」

 その事実は、娯楽を売りにする商売の音無にとって、にわかには信じられない事だ。

 「フォスは趣味とかって無いの?」

 「趣味? それはあれか、人間の持つ習性の一つらしいな。

 無駄な事に汗を流し時間を費やす事だろ?」

 だが、彼女の口ぶりからして、彼女が生まれ育った魔界と言う環境がどんな物であるのかなんとなくではあるが判ってきた気がした。

 AT車しか運転したことが無い人間が、MT車という実用性という観点では不完全でしか無い機械を操る楽しさを知る事は無い。

 不完全だからこそそれぞれが試行錯誤を重ね、些細な失敗を重ねながら不完全な物を少しでも完全に近づける楽しみを覚える物であり。

 不完全と楽しさは抱き合わせの存在であり、不便をしなくなると言うことは、楽しさを忘れるという意味でもある。

 だとしたら全知全能とも呼べる万能な力、それを魔界の人間は誰しもが使えると言うことは、言い方を変えたら不完全である事が無いとも取れ、娯楽と言う概念が薄れた世界になっていくのも道理かもしれない。

 だからこそ、彼女にとって趣味もまた理解出来ない行為なのだろう。

 音無はそんな彼女に食い下がるべく、釣りに勤しむ子供を指差して口を開いた。

 「あの子供達さ、どんな顔してる?」

 「どんなとは……そうだな。 間抜け面と言うやつだな」

 少しだけ予想外な返事に曖昧に笑うと、音無は正しい答えになる様に軌道修正を加えた。

 「間抜け面じゃなくてさ、その他にどんな表情をしてるかな?」

 「……そうだな、笑っているな」

 「そう、笑っているんだよ、趣味ってそんな物なの。

 何かの為にするんじゃ無くて、自分が楽しむ為にやる事なんだよ」

 遠くに居る子供を指差し、フォスに向けて唱えたその一言が何故か自分自身にも返ってくるのを覚え、音無はフォスに悟られない様に眉を寄せるのだった。






 「拓斗、私はどの服を選べばいいのだ?」

 「とりあえず外で着る服と部屋着とかを二組ずつ選べばいいんじゃない? その位のお金は払ってあげるからさ」

 そう言い、音無は徒歩15分の所にある服店の店内、女物の服が並ぶ一角を指さしてそう告げ、自身は彼女が服を選ぶ時間の暇つぶしにと、適当に帽子などが並ぶレジ横の一角へと足を進める。

 一応彼女のそばに寄り添い、服の選定の手助けをする選択肢も考えはしたのだが、下手にそんな事をしては周りから余計な誤解を招く恐れがあったのと、今回買う衣服の中に下着類なども含まれていた為の配慮だった。

 だが、そんな音無を見つめたままフォスは首を傾げ、言葉を投げた。

 「拓斗、服ならどんな服でもいいのか?」

 「ん? まぁ好きなの選んでいいよ」

 「私が好きな服を着たら拓斗は喜ぶか?」

 彼女の言葉の意味はよく分からなかったが、適当に肯定を返すと、音無はハンガーに掛かっていた帽子を手に取り返事を投げる。

 彼が持つ帽子に取り付けられたタグには、やや低めの価格設定が刻印されていた。

 「別にこの店のならべらぼうに高い服とかは無いはずだから」

 音無が言ったとおり、今彼らが居るのは最近流行のチェーン店である。

 合わせやすいシンプルなデザインと、気軽に買える価格設定を売りにしているだけあり、この店の服は全般的に値段が安い、その為音無はフォスの衣服をこの店の物で揃えようと考えたのだ。

 人によってはけちだと言うかも知れないが、値段が安いという事は奢られた側としても気軽にその誘いに乗れるという意味であり、下手に相手に気を遣わせないで済むという事でもある。

 とはいえ、こちらのそれとは全く違う常識を引き下げたフォスが、音無のそんな思惑を読み取ってくれたかは不明ではあるが……

 「べらぼう……? とは何だ?」

 「えーと、まぁ兎に角好きな服を選んで来るといいよ、ほら、このカゴ使えばいいからさ」

 そう言い差し出されたカゴを受け取ったフォスが、相変わらず曖昧な表情を作ったまま女物の服が並ぶ一角へと消えていくのを見送り、音無は小さく溜息を吐いて持っていた帽子を頭に乗せる。

 「似合わな」

 側ににあった鏡と向き直ってから反転して映し出された自分に対して小言を吐く。

 だだっ広い店内は、色とりどりの服と控えめな音楽に満たされ、小綺麗にに磨かれた床の上各所には、売れ行きの服に袖を通したマネキンが有り体なポージングを決めていた。

 「拓斗、これはどうだ?」

 なんてこと無くそれらを見ていた音無の背中を、予想よりも速く返ってきたフォスの声が叩き、少しだけ嫌な予感を覚えつつ振り返った音無は、目の前に広げられた水色の水着を見て一瞬硬直する。

 「……フォス、これはいつ着る気かな? これから海に行くなんて一言も言ってないよね?」

 「そうだな、拓斗は海に行くなんて一言も言ってないな」

 「じゃあなんで水着なの?」

 嫌な予感が的中した事にたじろぎつつも、一応彼女の意見を聞こうと問いかけた音無に、フォスは一点の迷いも無い口調で説明をした。

 「これは簡単な事だが、何よりこの服は伸縮性に富んでおり身動きが取りやすい、そしてこの服は水に濡れてもすぐに乾くと言うではないか。

 先の様に汚してしまっても、これならば着たままこの服を洗えると言うことだろ?」

 「……あー、なんか予想外な発想にちょっと感動したかも……」

 軽く吐いた皮肉に、フォスは目を光らせて返事を投げる。

 「そうだろ? そうであろう?」

 「まぁ軽く感動をしたのは事実だけど、とりあえず水着は却下、もっと普通な服を選んできたら?」

 「……そうか」

 どこか無感情な印象のある彼女にしては珍しく、大げさなほど肩を落としてからとぼとぼと売り場へと歩み始めたフォスの後ろ姿を見送り、音無は大きく溜息を吐いた。

 正直なところフォスがこの様な服を着てきたのには驚いたが、同時に内心で納得もしていた。

 こちらにやって来た時、フォスはいかにもな具合の魔女っ子ファッションだったからだ。

 彼女が魔界と呼ぶあちらの世界でその服装が流行ってるかは不明だが、彼女が着古したあの服を着ていたということは、少なくともあの時のフォスの服装はあちらでは特別珍しい物では無いという事である。

 そして、そんな服がメジャーだという事は、こちらのファッションのセンスとは全く違う感覚で彼女が服を選ぶ可能性があったという事であり、彼女が滅多矢鱈と合理主義な事を情報に付け加えると、見た目を無視して何かと機能的な服を選ぶ事は目に見えていたからだ。

 勿論、幾ら機能的とは言えセパレートタイプの水着、もっと詳しく言えば沢山のフリルの付いた水色のビキニが高機能な服なのかと問われると微妙な所ではあるが……

 「拓斗、これならどうだ?」

 「いや、これはもっと駄目でしょ」

 次に持ってくるのは作業着か合羽かも知れないと思っていた音無は、目の前に広げられた黒いパンツ(レース)を見てなるだけ冷静に返事を返す。

 「どうしてだ?」

 「どうしてって、それはまずいでしょ」

 音無自身忘れてはいたが、下着を買う必要があったのは事実ではある。

 だが、おそらくフォスはこの無駄にセクシーな下着を、下着として使う気は無いのは間違いない気がした。

 そして案の定……

 「まずいのか?」

 「うん、だってフォスはその下着だけで外に出歩く気でしょ? それもう自分を変態だと認める様な物だよ」

 「……な……下着だけで出歩くだと?――」

 フォスは少しだけ困った様な表情を作り、目を見開く。

 まるで『何を言出すのだこいつは!?』とでも言いたげなその表情に、音無は自分の早とちりから来た恥ずかしい発言に戸惑う。

 だが……

 「――そんな事あるわけ無いだろ、ちゃんと靴と帽子くらいは身につけるさ」

 「変態だよ!! もう完全に変態だよ!」

 音無の突っ込みは思っていた以上に大声だったらしく、店内で陳列棚の商品をたたみ直していた店員がこちらの方を一瞥する。

 「……っ兎に角、もっと普通の服とかは無かったの?」

 「何を言うのだ、拓斗は服ならどんな服でもいいと言ったでは無いか」

 「まぁ言ったけどさ、ええ言いましたけどさ! だからといって水着と下着ってどういうチョイスなんだよ!」

 何故か半ギレ状態で説いた説教に対し、フォスは意味が分からないといった具合に瞬きしていたのだが、いつの間にか直ぐ側にやって来て居た店員に向き直り、口を開いた。

 「聞いてくれ、この拓斗は困った人間なのだ」

 先ほどから騒いでいた二人を不審に思いやって来たのだろう、その店員は営業用の笑顔でフォスの声に耳を傾ける。

 度の強そうな眼鏡をかけた店員に対し、フォスは続きを述べた。

 「拓斗は私がこの服を着たら喜ぶと言ったのに、いざこれがいいと言ったらそれでは駄目だとわがままを言うのだ」

 言ってる言葉を聞けば音無かフォス、どちらかがわがままを言ってるだけにしか聞こえない一文だ。

 だが、彼女が持っているのは良くあるTシャツでは無く、セクシーさ満点の黒い下着となると色々と問題になる。

 「ちょっとフォス! それは色々誤解を招くから!」

 「ではどう言えばいいのだ?」

 「あのお客様、その様なプライベートな内容を店内では――」

 「いいから黙ってて!!」

 魔法使いと店員の両方に釘を打ち、小さく溜息を吐いた音無に対してフォスは追い打ちを加えた。

 「大体だな、拓斗、おまえはわがままだぞ。

 突然『服を着るな』と言ってみたり『ここで脱げ』と言ってみたり、そうかと思えば『外で服を脱げ』などと命じてみたり、正直この関係も契約の内だとは言え、正直私は困っているのだよ」

 「だからちょっと黙っててフォス! 本当に誤解を招くか――」

 「お客様! その様な――」

 「だから違いますから!」

 「拓斗は私が脱いだら元気になるのだろ? それは私が『ヘンタイ』と言う物だからか?」

 本人としては一切その様な気は無いのだが、第三者から聞いたら何かと誤解しか招かない発言を繰り返すレコーダーと化したフォスは、再度投げられた音無の停止命令を無視し、当然と言った具合で文句を吐く。

 「拓斗、それとやっぱり判らないのだ。

 今朝拓斗が言っていた、『女が脱ぐと元気になるナニ』とは一体何なのだ? 出来れば見せてくれないか?」

 「ムガー!!」

 「お、お客様……」

 横で耳のてっぺんまで真っ赤にさせた店員を見て、内心少しだけ『あ、ちょっと可愛い』とか思いつつも、逆に顔を真っ青にさせて問題発言を繰り返す小さな口を押さえ、店の奥までフォスを引きずる音無。

 「どうした拓斗? 人前では見せられない物なのか?」

 「そうだけ――そうじゃなくて! 見せるとか見せないとかそう言う話を人前でやったら変な誤解招くから!」

 「何故だ?」

 「何故でも如何様でも!」

 フォスがどうやってこちらの言葉を覚えたのかは不明だが、こういった極端なスラングまでは覚えていない事が悔やまれる。

 勿論、知っていたら知っていたでそれはどうかと思う上、知らないからは言えいちいち教えるのもそれはそれで問題な気がした音無は、小さく溜息で嘯く。

 「とは言っても……これじゃ全然話が進まないな……」

 音無は頭を掻き小さくぼやく。

 「拓斗は困ってるのか?」

 不意にそんな声が響く。

 「そりゃね、感覚の違いに僕は大いに困惑してるの」

 何故唐突にその様な質問を投げたのかは判らなかったが、それでも僅かな皮肉込みの返事を返した音無は、自分を見つめる紫の瞳を見て溜息を追加した。

 「そうか、拓斗は困惑してるのだな」

 当たり前である、突然目の前に現れた魔法使いの、こちらではあまりにも目立ちすぎる服装を気にしてこの店へとやって来たのに、彼女が選ぶ服は狙った様に特殊な物なのだ。

 だが、内心このことを強く咎める事も出来ないのも事実だ。

 こちらと彼女が魔界と呼ぶ世界では、自身が思っている以上に沢山の事が違いすぎるのだ。

 彼女の言う通りなら、家の側ではジャガイモの栽培と同じ感覚でマンドレイクが栽培され、夜中には吸血鬼なんて怪物も夜道を闊歩しているのだ。

 そんな夢おとぎ話の世界の住人と、こちらの人間の感覚が違うのは当たり前であり、他人の視線よりも、異形の怪物を恐れる彼女達が当たり前だと思っていた羞恥心を持ち合わせていないのも道理とも言える。

 寧ろ、たまたま食文化が近く、音無の手料理を彼女がおいしいと言っただけで奇跡だったと捉えるべきだろうか。

 「拓斗はどうなる事を望む?」

 何を思ったのか、不意にそんな質問を投げるフォス。

 「どうなるって……まぁさっさと買う服が決まることかな?」

 遠くからいぶかしげな視線を投げる店員に軽く会釈を返しつつ、音無はそう答えた。

 すると、フォスは少しだけ考えた後、履いていたカーゴパンツのポケットに手を突っ込んでから口を開く。

 「それならさっきから言ってるでは無いか、なのにあの服は駄目だと言うのは拓斗だぞ?」

 「あのね、水着は四六時中着る物じゃないし、下着はそもそも単品で身につける物じゃ無いの、そんな格好で町中歩いてたら警察に囲まれちゃうでしょ?」

 「ならばどの様な格好がいいというのだ?」

 「どんなって……兎に角問題にならない格好で、なおかつフォスが着てみたいと思う服なら何でもいいんだよ」

 そう自分の意見を投げた後、自分も服選びにつきあってやろうと彼女の手を掴んだ音無は、右手を通して伝わってくる抵抗の意思を感じ取り振り返る。

 「つまり、私と拓斗両方が違和感を感じない服を求めていると言うことだな?」

 「……なんだよいきなり」

 妙にかしこまって告げたフォスの一言に眉根を寄せた音無は、曖昧に同意をした刹那瞬間、彼女がポケットから取り出したそれを見て息を飲む。

 「そうか、それが望みなのだな」

 フォスが取り出したそれは、手のひらで隠せる程度の大きさの紙箱だった。

 黒字に赤で五芒星が描かれた特徴的なデザインを見て、音無はそれが何だか瞬時に理解する。

 それは間違いなく、昨日彼女が魔法を行使する際に使ったマッチ箱だった。

 「ではその願い叶えるとしよう」

 フォスはその箱を開き、そう告げた刹那、店内の空気が一転する。

 具体的に空気の何が変化したのかと問われると返答に困るのだが、その変化は絶大だった。

 感覚としては温度や湿度に近いだろう、空気を満たしていた要素の一つが突然跳ね上がり濃密な気配となり、店内の空気が一瞬にして質量を持つ。

 先日彼女が強盗を追っ払う際に魔法を使おうとした時と同じである、そこまで来てやっと状況を理解した音無は、慌てて彼女を止めようと口を開くが、それよりも速くフォスは魔法を展開していた。

 「ちょっと待ってフォ――!!」

 彼女は中に入っていたマッチの内一本を取ると、箱の側面にこすりつけて炎を生み出す。

 大きさとしては指の先ほどの小さな炎、それは一瞬の間を開けた後瞬く間に爆ぜ、カメラのストロボの様に強力な光となって音無の視界を塞いだ。

 そして、目がやっと慣れた時、景色は一転していた。

 「――って……なんだよこれ……」

 先ず目に止まったのは、店内に所狭しと並べられたローブとマント、そして三角帽子だった。

 間違いが無い、それはフォスがこちらにやって来た時に身につけていた魔女っ子衣装である。

 「ふむ、これなら選ぶ手間もはかどるな」

 満足げにその服を取ると、フォスは鼻を鳴らしてからサイズ確認の為に体に当ててみる

 「まぁ確かにその服なら問題は無いし、フォスが選ぶのも楽かもしれないけど……」

 そこまで言い、音無は六回しか使えない貴重な魔法の一つを、またしょうも無い事に使ってしまったと、目元に手を当てて嘆くのだった。






 「拓斗、買い物とは楽しい物だな」

 小さな体には不釣り合いな大きさのビニール袋を下げたフォスは、感情の起伏の薄い顔に笑みを浮かべて歩みを進める。

 「まぁさ、確かに楽しくはあったけど……」

 そう言い、音無は先ほど起きた出来事を思い出す。

 「まさか店員さんも店中の服が全部コスプレ衣装に化けて、おまけにそんな服を一切の迷い無く買い求める客が居たらそりゃあんな顔をするよ」

 フォスが魔法で服屋のラインナップを書き換えた後、当たり前の様に値札が付けられた変わり果てた商品の代金を受け取っていた店員の、唖然とも困惑とも取れない複雑な表情を思い出して溜息を吐く。

 あれからというもの、二人は服の他に何かと必要になるであろう雑貨の類いを買い求める為、歩いて行ける範囲の店を回り細々とした買い出しを済ませ、大きな買い物袋を下げて河川敷の側の道を歩き、家へと向かっていた。

 当たりの景色は少しだけオレンジ色に色付き始め、暖色に染まった川の流れと家路を急ぐ学生の自転車ががノスタルジックな空気を強調していた。

 「っていうか、フォスの魔法って一体どれくらいの事まで出来るの?」

 「まぁ大抵の事は可能だぞ、勿論願い事の数を増やせなんて物は無理だが」

 「ああ、やっぱりそういうのはやっちゃいけないルールなのね」

 この手の話が主体となる物語では定番とも言える話に、曖昧に鼻を鳴らして答えた音無だったが、そんな彼に対してフォスは訂正をかける。

 「いや、ルールやしきたりの問題では無く、単純に魔法の数を増やしたくても増やすことが出来ないのだよ」

 「え? そういう事?」

 「そうだ、先も言ったでは無いか、こちらには魔力が存在しない、そんな環境ではそう気軽に魔法を使うことが出来ないのでな」

 今朝方フォスが言っていた言葉の意味を思い出し、静かに納得をした音無は、野菜や飲料が詰まった買い物袋を左手に持ち替えてから口を開いた。

 「使った分の魔力の補充が出来ないって事か……」

 「それ以外にもいくつか叶えられない願いという物があるが、今のうちに聞いとくか?」

 「大事な話の筈なのに今更言うのね……」

 「何だ? 聞きたくないのか?」

 「そういう意味じゃ無い」

 先ほどから騒がしく川の側で屯っている子供を一瞥し、音無は彼女の声に耳を傾けた。

 「細かな定義は省略するが、私達魔法使いでも叶えられない願いという物があり、もっと正確に述べるなら、私たちには『叶えられない願い』と『叶えてはいけない願い』と呼ばれる二通りの願いがあるのだ」

 「二通り?」

 フォスの言う言葉の意味が判らなかった音無に、彼女は歩みを止めること無く補足を加える。

 「『叶えられない願い』と言うのはそのままだ、たとえばさっき言った様な使える魔法を増やすなどといった、物理的や魔法的に不可能な事柄を差す。

 そして次に『叶えてはいけない願い』の説明だが、これは魔法使いとしての決まりで、可能ではあるがやってはいけない事となっている願いのことだ」

 「出来るけどやってはいけない事?」

 「そうだ、たとえば時間の逆行や未来予知だ。

 技術的には魔法で可能ではあるが、過去改変や未来を知ると言うことはそれだけ多くのリスクを伴うと言う事になっている。

 だからこそ、皆魔法使いはそれに類する魔法の使用が禁止されている」

 「あ……その辺は現実的なのね」

 道理ではあるが、フォスの様な存在の口から出てくるとも思って居なかった理由に少しだけ笑った音無に、フォスは言葉を繋ぐ。

 「そして次に、死人を生き返らせる事だ。

 正直なところ、魔界では人が死ぬことなど珍しくなく、日常的に魔法で死人を生き返らせる。

 だが、こちらの世界では死んだ人間を生き返らせる事は、後々の事を考えタブーとされている」

 再び現れた文化の違いに驚くが、それは当然な事だと思い軽くうなずく音無。

 具体的な説明は無かったが、人が死んだら当たり前の世界の住人を生き返らせる行為、それをタブー視するのは、過去改変と同じく予想外な結果を避ける為なのだろう。

 「そして、一番特殊な例ではあるが、他人の呪いを解除することもやってはいけない行為の一つだ」

 「他人の呪い?」

 「そう、呪いだ。

 あちらでは解呪を生業とした魔法使いは多く、呪われて呪いを解き、そしてまた呪われるなんて事は珍しくない。

 だが、そんな当たり前の呪いを解くことは、こちらの世界に居る間だけは禁止されているのだ」

 「ずいぶんと物騒な世の中だな……っていうか魔法なんて使える人は居ないのに、どうやったら呪われるんだよ」

 そう口に出し、自分の直ぐ横を歩くフォスを見てから訂正をかける。

 「魔法使いが呪いをかけたら話は別か……」

 「そういう事だ、私たちにとっては呪う事など大して難しい事では無いからな」

 「だけどそれをするには」

 「勿論、六つの願い事の一つを、誰かを呪う為に使わなくてはならないがな」

 「『呪い』とは言っても、願いであり七不思議の一つである魔法を、他の魔法使いが邪魔してはいけないって事か……」

 音無は一人納得して鼻を鳴らすが、今ひとつ納得がいかない事があった。

 フォスの話し口からしても、他人を呪う事を願い事として使うケースはそれなりに多いのだろうが、わざわざ六回しか使えない夢の世界の力を、報復の為に使う人間の気持ちが理解出来なかった。

 そして、そんな呪いを食らった人間がどの様な気持ちになるのか、検討も付かない。

 音無自身ごく普通の人間だ、全知全能でも無ければ屈強な精神の持ち主でも無い、だからこそ、他人を恨む事は数え切れない程あった。

 だが、幾ら恨むことは数多くあっても、本気で報復をしようと考える事は一度も無かった。

 少なくとも大抵の人間はどんな理由があれ、他人を本気でおとしめる程の勇気を持っていないのだ。

 自分の非を全て棚に上げ、全ての悪を他人のせいに出来るほど強い精神を持っていたら何も苦労などしない、そして何より、自分自身を恨むことなど無かっただろう。

 「……?」

 そのとき、ふと音無の胸中である考えが姿を見せた。

 形としては不定形だが、よくよく考えると不自然な一点、それは呪いに関する決まり事がある事実だ。

 他人の魔法に干渉してはならない決まりがあると言うことは、魔法使い同士の魔法が干渉し合う可能性がこの世界にはあると言うこと。

 つまり、魔法使いの数が音無の認識よりも遙かに多いと言う事だが、音無自身魔法使いなんて存在はフォス以外には知らず、彼女が起こした様な出来事を耳にしたことも無いのだ。

 考えれば考える程深まる違和感、その答えを聞こうとフォスの方へ向き直った時、音無は視線の奥に広がる予想外な光景に息を飲む。

 「……! 大変だ!」

 音無は持っていた荷物を地面に放り出すと、そのまま河川敷の土手を半ば転がる様にして駆け、川の直ぐ側まで駆け寄り絶句する。

 音無が見る先、川の中央付近で一人の少年が溺れていたのだ。

 「さっきの子供か……」

 昼間この川の上流で釣りをしていた子供の一人だろう、少しだけ視線を動かすと、川の流れに追いつこうと必死に川縁を駆ける仲間の姿もあった。

 釣りに夢中になっていた時、ふと足を踏み外して川に落ちてしまったのだろう、川の流れ自体はさほど速くは無く、人並み程度泳げるのなら子供でも自力で川縁まで泳ぎ切ることが可能だろう。

 だが、それはあくまでも少年が水着を着ていたり服を着ていなかった場合での話だ。

 水中では衣服は大きな抵抗を生み出し思った以上に人の動きを制限する、この状態では大の大人でもまともに泳ぐことは出来ず、無意味に体力を消費してしまう。

 それが子供だった場合、事態は致命的な物へと化ける。

 「何か方法は……ロープとか枝とか……!!」

 頭の隅に残っていた記憶を掘り返し、少年を救うのに役立つ物が無いかと当たりを見渡すが、視線の届く範囲にはこれと言った物が落ちていない。

 そこで、だれか助けを呼ぼうと携帯電話を取り出すが、これで人を呼んだところで助けが来るまでの間に少年は川の流れに完全に飲まれてしまうだろう。

 ここで大声を出したとしても、結果は同じだ。

 幾ら帰宅時とはいえ都合良く人が駆けつけてくれるとも思えず、水しぶきを上げる子供を助ける事は不可能だろう。

 となれば、残る手段は一つだけだ。

 「ああもうくそ!」

 頭の中では直ぐに駆けだし、少年を救うべく川の中に飛び込むべきだとは判っていた。

 だが、体が言うことを聞かない、正確には彼自身が尻込みをしてしまうのだ、人命がかかっているのは間違いない、だがどれだけ助けたい意思があっても泳ぐことが出来ない音無には意思を現実に持ち込む勇気が無い。

 「兎に角何か方法は……」

 こういう時に何の役にも立たない自分に苛立ちを覚えつつ、音無は足を川に流される少年を追いかけながら思案を進めるが、いい案が一切浮かんでこない。

 こんな時、自分の姉なら一切迷うこと無く川に飛び込み、少年を直ぐに助け出しただろう。

 だがそれとは引き替え、何もすることが出来ない自分に不甲斐なさを覚える。

 やはり自分は役立たずだ、場違いにもそんな事を思った矢先、その声が響いた。

 「拓斗、おまえの願いは何だ?」

 いつの間にか追いかけてきたのだろう、背後にはTシャツにカーゴパンツ姿のフォスがあった。

 「……な、こんな――」

 『こんな時に何を言ってる』そう言いかけ、音無はフォスが伝えた言葉の意味を理解する。

 「拓斗、私は魔法使いだ、だからこそ魔法使われであるおまえの願いは、全て叶える事が可能だぞ?」

 そう、今この瞬間、音無は少年を救うための第四の手段を持っていたのだ。

 つまりそれは……

 「フォス、三つ目の願いだ」

 音無は荒くなった呼吸を落ち着かせ、なるべくはっきりと聞こえる様にその言葉を唱える。

 「あの子供を助ける力が欲しい」

 「……了解した」

 フォス自身、音無がその願いをすることは判っていたのだろう。

 彼女は直ぐにポケットからマッチ箱を取り出すと、マッチを一本手に取り火を点ける。

 刹那、真っ赤な炎が自分の意思を持っているかの様に荒れ狂い、音無の体を包み込むが、初めてフォスが魔法を使ったときと同じく、その炎には熱が一切感じられなかった。

 「これから二十四時間、拓斗にあの子供を助ける事が出来る力を授けてやろう」

 荒れ狂う炎の先でフォスはそう告げ、小さく指を鳴らす仕草に合わせて炎が消える。

 「って言っても……何がどう変わったの?」

 フォスが何かしらの魔法を使い、音無に子供を助ける力を授けたのは間違いないのだろうが、残念なことに音無にはその実感が一切湧かないのだ。

 「確かに感覚としては何も変わらないかもしれないな、だが拓斗、おまえは今あの子供を助ける力を手に入れたのだよ」

 相変わらず一点の曇りも無い表情でそう告げるフォスに頷くと、音無はもしかしてと思い自分の掌を見つめ、そして目の前を通過しようとしている子供を一瞥して短く息を吐き、その掌を少年の方へと向けた。

 刹那、辺りを満たす空気が少しだけ変化した気がした。

 フォスは音無に少年を救う力を与えたと言った、ならばやることは一つ、その力を使い少年を救うのだ。

 音無は右掌に意識を集中させ、その手の延長戦上に少年の体がある事を意識する。

 そして、脳裏にある明確なイメージを形にするべく、音無は強く意識を集中させ、大声で叫んだ。

 「はあっ!!」

 ――

 ――だが、思っていた事は何も起きず、二人の沈黙と、川を流れる少年が上げる悲鳴だけが河川敷を包む。

 「……拓斗、おまえは何をしているのだ?」

 彼女にしては非常に珍しく、痛い程の沈黙の後、フォスが困った様に一言切り出した。

 「……えっと……あれ!? そういうことじゃ無いの?」

 「何がだ?」

 「だから! こうなんか超能力みたいな……そのサイコキネシスみたいな何かであの子供を引っ張れるとか、そういうのじゃ無いの!?」

 恥ずかしさを誤魔化すため、顔を真っ赤にしながらも紡いだ音無の一言に、フォスは露骨に眉を寄せる。

 「何を言ってるのだおまえは、そんな非現実的な事出来る訳無いであろうに」

 「……いや何でだよ! 魔法あるのにそれは無理ってどういうことだよ!」

 「そう言われてもな、私はおまえに子供を救う力を与えただけで、そんな便利な力を与えた訳では無いからな」

 心底困った様にそう告げるフォスは、燃え尽きたマッチ棒を川に投げ捨て、少年を指さす。

 「子供が流れているぞ、急がなくて良いのか?」

 「急ぐって、その前にどうやってあの子を救えば良いのかを教えてよ!」

 「そんな事決まってるだろ? あの子の手を掴めば良いだけだ」

 大きな溜息の後に紡がれたその一言、あまりにも適当な言葉だったが、音無はその一言が意味している事に気がつき、生唾を飲み込む。

 「……手を掴む……?」

 フォスの一言は少年の元へ音無が行ける事を意味しているのだ。

 つまり、音無は今、川の中心付近を流れる少年の元へ行ける力を手に入れたと言う事だ。

 「もう金槌じゃ無いって事?」

 「なぁに、川に踏み出せば直ぐに判る事さ、今の拓斗は金槌じゃない――」

 背中を押す様なフォスの一言、それに納得した音無は深く深呼吸をすると地面を蹴り川へとジャンプする。

 根拠は無い、だがフォスが使った魔法の詳細には検討が付いていた。

 音無が泳げない為に少年を救えないのなら、泳げる様になる魔法をかければいい、つまり今の音無にはこの川を泳ぐだけの力が備わっているという事なのだ。

 「――優れた船と言うことだ」

 水面が眼下に迫った時に聞こえたフォスの一言、その声を聞き嫌な予感を覚えた音無は、刹那の瞬間顔面を『水面に打ち付けて』いた。

 「ごふっ!」

 それは比喩でも抽象でも無い、文字通り彼は水面に顔を『打ち付けて』いたのだ。

 この時の音無の体は飛び込んだ自身の衝撃で軽く跳ね、再度水面に『乗る』とそのままカーリングの様に水面を滑り、そのまま十数メートル横移動、その先にあった鉄橋の橋桁に衝突して音無は鈍い打撲音と共に妙な声を上げる。

 アメンボの様に水面で体を捩ってしこたま悶絶した後、音無はずきずきと痛む背中をさすりつつも、やっと状況を理解し始める。

 「……えっと……」

 音無はうつぶせの姿勢から水面で状態を起こすと、足の下を流れる水の流れを確認して今の現状を再確認する。

 「……これは船っていうより」

 音無は右手を水面へ押し立て、本来まともな抵抗も無いはずの水面から確かな抵抗が伝わるのに眉根を寄せる、その感触はウォーターベッドのそれとよく似ている。

 水面に面しているのにも関わらず、冷たい水の感触だけが感じられるのだが、その箇所が水で濡れる気配は無い。

 「拓斗、嫌水魔法は気に入ったか?」

 「嫌水って……」

 遠くから聞こえるフォスの一言で音無はやっと事態を正確に理解する。

 これがフォスの選んだ魔法なのだ。

 川で溺れる少年を救いたいが、音無は泳ぐことが出来ない。

 ならば、泳がなくともその場所へとたどり着ける手段があれば良いのだ。

 即ちそれは……

 「水の上を歩けば良いのか……って何処の誰だよ!」

 脳裏で海を真っ二つに割り、己とその仲間の逃げ道を確保したとされる某民族指導者を思い浮かべつつも、若干不安定とはいえ普通に水面に立ち上がれる感触に溜息を漏らす音無。

 「拓斗、感動してもらえるのは結構なのだが、その少年が今まさに力尽きようとしてるぞ」

 現実離れした状況に感動し、呆然と足の下を流れる川の流れに見とれていた音無へ、フォスが冷静に声をかける。

 「……って感心してる場合じゃ無いよ!」

 そこで音無は我に返ると、慌てて少年の元へ駆け寄るのだった。






 「馬鹿みたい」

 そんな光景を遠くから眺めていた彼女は、カーキ色のスプリングコートの裾を風になびかせながらそう告げる。

 距離としてはほんの数十メートルなのだろうが、初見のその相手は見ず知らずの子供を救うことに必死になってるせいか、こちらには気がついていない様だった。

 勿論、相手が自身に気がついたところで、相手も自分の顔など知らないのでこれといって関心は示さないだろうが……

 「……何故?」

 そんな彼女の背中に、落ち着き払った声が響く。

 鋭い口調とは裏腹に愛らしい声を扱うその相手を、振り返ることも無く背中で感じると、女は更に言葉を繋いだ。

 「何故って、そんなの見たら判るでしょ? 彼は折角与えられた特別な力を、見ず知らずの他人の為に使ってるんだから」

 目を細め、遠くで水の中でもがく子供を引き上げる音無の顔をよく見ると、持っていた鞄の中から煙草を取り出して咥える。

 「特別な力ってのは、自分だけに使う物でしょ?」

 「呪い以外の話では……」

 一点の迷いも無く紡がれた一言に、含みのある笑みで答えた女は風で乱れる髪を押さえ、咥えていた煙草の先にライターの火を点す。

 吐き出した煙は風に舞い霧散し、煙草の先から舞う燃えかすもまた風に舞いどこかへと姿を消す。

 ただ、鼻を突く臭いだけがその場に煙草の存在を告げる。

 「私は、――」

 僅かな沈黙が包んだその空間で、女の後ろにいた人物が声を燻らす。

 「――あなたの為だけの存在です、少なくとも契約が終わるまでの短い間だけは。

 だからこそ、思う存分私を利用してください。

 私はあなたの夢の全てを、叶えるだけの力を持っています」

 これまでも何度も耳にした口上に、女は小さく笑うと、咥えていた煙草を川へと吐き捨てる。

 「相変わらずその謳い文句なのね、まぁいいけど」

 女は川の流れに飲まれ、ばらばらにほぐれながら川を流れていく吸い殻を見つめたままそう告げると、後ろに立っていたその相手の顔を見てから声を投げかけるのだった。

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