共同生活は何かと大変 上
夢から覚めるのは一瞬の事だ。
しかし瞼の裏にへばりついたまどろみを溶かし自分が何者であり、自分が今どこに居て、そして今が何時なのかを整理するにはそれなりの時間を要する物である。
積み木を箱に戻す際一旦積木をバラバラに崩すのと同じで、夢の入り口を潜る際バラバラに分解された自分の意識を順番に再度組み立てる行為に勤しみながら、音無は幾つかの違和感に気が付いた。
それは今現在自分の体を支えている地面の感触である。
元々物書きと呼ばれる仕事は、少ない運動量の割に椅子に座っている時間が非常に長く、腰を痛める事は珍しくない。
だからこそ音無自身作業に使う椅子はそこそこ高価な物を使い、同じ理由から寝床のマットレスにもそれなりに大金をはたいている。
そのおかげか、彼の寝床は下手なホテルのベットとは比べ物にならない位クッション性が良く、雲に寝転んでいるとも取れる快適な寝心地はまどろみから解放されようとする音無の意識をなかなか手放してくれない。
「……痛っ……!」
その筈なのだが、今現在音無が背中に感じていたのは痛みに姿を変えた、強烈なこりだ。
音無はがちがちに固まった背中を解す為、ぼんやりとした意識のまま、ゆっくりと寝返りを打つ。
そこで、何故自分の背中がこり固まっている原因に気付く。
彼が今現在寝ている場所、そこは何時もの柔らかなベッドの上でも、ましてや長距離移動に利用するバスの座席でも無く、彼がリビングに敷いていたラグだった。
「……あー」
ラグ自体はそれなりに厚手の物ではあるが、それでもその上に長時間硬いフローリング地の感触を吸収するには何かと問題があるのは事実だ。
音無は顔をしかめながらゆっくりと上体を起こすと、今現在自分がどんな理由で何時ものベットのある寝室では無く、くつろげる環境である半面寝るには何かと力不足なこの部屋で夜を明かしたのかを思い出して溜息を吐く。
そして、視線を横に動かし、そんな自分を熱心に観察していた相手の顔を窺ってから、再度大きく溜息を吐いた。
リビングにある扉の奥から此方を窺う小柄な人物、彼女は自分の名をフォスと名乗り、更には己は魔法使いであると自己紹介までした人物だ。
小柄で童顔と一見すると子供の様にも、だが何処か大人びた雰囲気とそれを裏付ける様な端正な顔立ち故に自分よりも年上にも見て取れるその人物は、昨日突如自分の元へと姿を現し、本人は魔法と呼んだ力を使い、危機的な状況を一瞬にして纏めてしまった。
結果、突然そんな奇跡を起こした彼女を、彼女の言い分通り魔法使いとして認識せざるを得なくなった訳彼は、とりあえず『身寄り?』の無い彼女を家に泊める事にしたのだ。
「生き返ったか人間?」
「いや、生き返ったんじゃなくて目が覚めただけだから」
当然といった様子でそんなボケをかます相手に対して、音無は冷静に突っ込みを投げると、布団代わりに被っていたコタツ布団を退けて立ち上がる。
「そうか、ところで拓斗、次の願いは決まったか?」
「いや、急に言われて決められる訳ないでしょ」
耳にタコが出来そうな勢いで紡がれる同じ質問、音無にとってその質問の重要性が理解できないのは当然であり、寝起きだと言うのに少しずつ痛みだした頭痛に眉を寄せる。
「そうか……にしても判らないんだ、どうして人間はそんなに魔法を特別視するのだ? 魔法を使ってやると言ってるのだからもっと気楽に使えば良いではないか」
「僕に言わせたら、どうして人の家で我が物顔で過ごせるのかが判らないよ」
そんな音無の皮肉に対して、フォスは悪びれた様子も見せず、『今更そんな事聞くのか』なんて表情で口を開いた。
「契約が満了されるまで、魔法使いは魔法使われと共に過ごすのは当たり前の事じゃないか」
「『――じゃないか』ってそう当たり前の様に言われてもさ――」
ぶちぶちと彼女の言動に愚痴を吐こうと思った音無だが、直ぐに口を噤むと、そもそも昨日から判らないでいた質問を掘り返す事にした。
「――って言うか、君が魔法魔法って言ってるあれは、そもそも何で自分の願いをかなえようとしてるのかを教えてくれるかな?」
「魔法は魔法だ」
どうせまともな答えは返ってこないだろうと思ってた音無は、これと言って驚いた様子見せずにもう一つの質問の答えを催促する。
それは、昨日の一件自体、魔法と信じざるを得ない出来事だったのは明らかであり、これ以上その事について言及しても何か目新しい情報が得られないとの判断からだった。
「正直なところ、拓斗の願いを叶える事自体はこれといって重要な事では無いんだ」
「……ん? あれほどしつこく同じ事を聞いてた癖に、それが重要じゃないって?」
「誤解をさせた様ならすまない」
フォスは軽く詫びると、続きの言葉を紡いだ。
「細かく説明すると、拓斗の願いを叶える事が私にとって重要な事であり、その願いがどんな願いであろうが私にとってそれはあまり重要な事では無いと言う事だ」
「つまり、僕の願いを叶える事が、フォス自身の願いだと?」
「それも正確には違う解釈だな。
願いを叶える対象、即ち魔法使われは拓斗である必要は無い。
そして、それは私の願いでは無く、私がやらなくてはならない使命だ」
微妙に食い違っていたフォスの考えを読み取り、己の認識を彼女の持つそれと並列化させつつ、音無は追加の質問を加える。
「使命? それはどういう意味?」
「簡単な事だ、私達魔法使いは、自分の力を大勢の人間からその力を認められて初めて、一人前として認められる」
いまいち睡魔が抜けきらない音無は、今一つエンジンのかからない頭を回転させて彼女の言葉を深読みしてみる。
「一人前としてねぇ……つまり自分は魔法学校か何かの最終試験に巻き込まれたって事かな?」
口に出したこっちが恥ずかしくなる憶測を、少しだけ遠い所に目線を動かして唱えてみる。
技術系の学校の生徒が卒業前に本職の元でひとしきり実務経験を積む授業を受けたり、自動車学校の卒業前に、実際に条件付きで公道を走るのと同じで。
本格的に魔法を使う魔法使いになる前の勉強として、特定の条件下でその能力を推し量る試験を行う。
『覚えるよりも慣れろ』そんな言葉を顕現した様なやり方だが、利にかなっていると言えばかなっており、音無が知る限りでも、そんな内容をテーマにしたSF作品と言う物だって腐るほどある。
だが、それらはやっぱり空想の世界の事であり、現実では先ずお目にかかる事の無い出来事だ。
第一、自分でその可能性を示したはしたが、フォス自身が魔法と呼んでいる技術には何かしら裏があるのは明らかであり、自身が言った『魔法学校』なんて物があるなど、始めから思ってもいなかった。
「それは流石に空想が過ぎるぞ――」
「ま、まぁそうだよね」
きっぱりと切り捨てるフォスの一言に、大袈裟に嘯く事で感情を隠すと、背中を駆け抜けるむずがゆさに耐える音無。
一瞬、フォス自身のこれまでの反応からして『良く判ったな』なんて事を耳かき一杯程度でも思ってしまった自分が恥ずかしくてたまらない。
「『最終試験』だなんて。
最終も何も、魔法学校には試験はこれ一つしかないんだからわざわざ『最終』なんて言葉付ける必要無いだろ」
「学校も試験もあるのかよ!」
中途半端な状態に畳まれていたコタツ布団を手放し、脊髄反射で突っ込みを入れた音無は、そのまま布団の上に膝を付く形でかがみ込む。
「魔法に魔法学校ってどんなファンタジー小説だよ」
「どうした拓斗、そんな所で膝を付いたらミノタウロスになるぞ」
「そこは『牛になるぞ』でしょ! 何で中途半端にグレードアップしてるの! って言うか、そもそも牛になるぞでも使い道違うから!」
本人は気にた素振りは無い様だったが、音無の動きが気になったフォスの質問に対し、音無は短い溜息の後、言葉を繋いだ。
「膝を付いたのはあれだ、昨日も見ただろ? あれと同じ」
「ん? あれは腰が抜けただけだろ? なんだ拓斗、お前ミノタウロスが怖いのか?」
「いや、ミノタウロスはどうでもよくて……何て言うかな、説明すると少し厄介な状況なんだけど――」
音無はいまいち力が入らない腰から下を庇う様にさすった後、妙に表情を暗くしてから答えた。
「簡単に言えばそうだな……驚いたり、怒ったり、喜んだり。
そう言う極端な感情の起伏を起こすと、少しの間足に力が入らなくなるんだよ」
「嬉しくて膝が笑うってやつか?」
「いや、だからその言葉使い間違ってるから」
軽く訂正を加えた後、音無は繋ぐ。
「マイナーな部類だから知ってる人は少ないけど、自分はナルコレプシーってやつでさ、まぁ細かな原因とかも判ってない変な奴なんだけど、その関係で体の力が抜けたり、軽い幻覚見たり、突然眠ったりとこういう良く判らない症状が出るんだよね」
だが、そこまで説明した途端、嫌な事を思い出して舌を噛む。
こうなるのが判っているのなら、始めから説明しなければいい。
そうは思っていたのだが、少しでも苦しみを理解してほしいと思ったのが間違いだった。
誰かに体の事を話せば、帰って来るのはいつも決まって同情の視線だ、これ以外にどんな目を向けるのが正解かと問われても自分でも答えられないが、少なくとも彼は同情の視線が嫌いだった。
悲しい経験をしたぶん強くなれるだの、苦労の分他人の痛みが判る様になるなんて、そんな薄っぺらい言葉が嘘だと小さい頃から嫌と言うほど知らされてきた音無は、自分自身の体の事を良く思っていなかった。
「拓斗……お前は……」
「いや、今のは無し! 忘れていいから」
ほらやっぱりだ、そう音無は思った。
自分の目の前に居る不思議な自称魔法使いだって、音無の事を知った途端同情の目線を向ける。
そんな事されたってこっちが嫌なだけだ。
障害を持つ事が辛い事だと知っているのに、再度他人から『辛いね』って言われる事は苦痛でしかない。
暑い部屋で必死に暑さに耐えている時に、『暑いね』と再度状況報告されたら気分が悪いのと同じだ。
だからこそ音無は無理矢理会話の腰を折ろうとして目線を上げたのだが、目があったフォスの紫の視線は、自分が今まで出会ってきたのとは違う色に輝いていた。
「お前……面白いな」
「……はぁ?」
「嬉しいと倒れるのか? 悲しいと倒れるのか? 突然眠り異界の精霊を見る事が出来るのか?」
『異界の精霊』とは恐らく幻覚の事を指しているのだろう、なんて事を思いつつ、音無は自分に向けられている視線が、『同情』では無く『好奇心』の色に染まっている事に気が付いた。
「他には何だ? 拓斗はどんな事が出来るのか?」
「いや、だから……」
「空は飛べるのか? 影は? 影は消せるのか?」
「ちょっと待ってよフォス、そんなのは無理、って言うか出来る訳無いでしょ?」
止まる事無く溢れ出るフォスの好奇心に押されながら、音無は降参とばかりに声を上げる。
「どうしてだ?」
「どうしてかと聞かれても、出来ないものは出来ないよ、って言うか、僕のこれはただの病気であって、特技でもなんでもないんだよ?」
何がフォスの好奇心を刺激したのかは判らないが、相変わらずいまいち感情が読めない童顔に、今は好奇心が滲みだしていた。
今までこの話をした時とは違う彼女の反応に、何処かむずがゆさを覚える音無だが、正直彼女が見せたこの反応は嫌いでは無い。
それは。自分の姉が幼いころ良く見せたそれと良く似ている。
幼い頃から物語が好きで、その真似ごととして書いた稚拙な文章を呼んでくれた姉は、どうやれば物語を作れるのかとしつこく問いかけを繰り返した。
その時は彼女の反応が面白くてしょうがなく、得意げになって彼は物語を書くのに夢中になった、結果として彼は今の仕事に就く事が出来た訳だが、それでもその事実を素直に受け入れる事が出来ないのが現状である。
自分を支えてくれ持ち上げてくれた姉の存在、それは今となっては見たくも無い現実を突きつける指標になっていた。
誰かが悪い訳ではない、『誰が悪い』かと問われれば結局『自分が悪い』のだと口にするだろう。
そう、余計な事を考えたせいで胸に鋭い釘が刺さる様な感触を覚えた。
「……拓斗?」
その見えない棘の一端がフォスにも見えたのか、不意に彼女は疑問符交じりに彼の名を呼んだ。
相変わらず何者か不明で、相変わらず意味不明な設定を語る彼女に対して本音をぶつけたところで何か問題が起きる気もしなかったが、それでもそんな胸中を語る気にはなれない。
「あーいや……その話はまた気が向いた時にするから」
適当に嘯いて話題を逸らした音無だったが、やはりその胸中は鉛の様に重たかった。
何故こんな重たい気持ちになったのか、それはフォスのせいでも、姉のせいでも無く、全て一切合財自分が悪いのだ。
腹が減っては戦が出来ぬなんて言葉があるが、戦をやらなければ腹が減っても大丈夫なんて訳では無い。
昨日の段階で大きな仕事が一区切りついていた訳だが、それでも自分が健康である事を証明する空腹は目を覚ましてからすぐに姿を見せた。
そもそも、昨日目覚まし時計のタイマーをかけないで寝た事もあり、今の時間は昼前。
普通に生活していても空腹を覚える時間帯であったが為に、音無は遅めの朝食と早めの昼食を兼ねてブランチをする事にした。
「とはいっても……」
ただ一つ問題があるとしたら、冷蔵庫の中には玉ねぎとひき肉位しか食材が無かった事だ。
これから買い出しに行くにしても、昼過ぎには外に出かける用事があった為にあまり食事に時間をかけたくは無かった音無は、とりあえずカップ麺でも無いかと他の棚を開けては見るが、目に留まったのは買い置きのホールトマトの缶詰位だった。
明らかに役不足な組み合わせである、普段から自炊をしている音無自身、料理の腕にはそこそこ自身がありこの組み合わせからハンバーグを作る事も考えたが、昼前とはいえ一応寝起き、ましてや炊飯器の中に熱々のご飯が無いときてはそれを作るのも気が引ける。
となれば……
「久しぶりにあれを作るか」
廊下の奥から此方を窺うフォスの視線を余所に、音無は思い立ったメニューを作る為にフライパンとまな板、そして大量の水を張った鍋を準備して、玉ねぎを素早くみじん切りにする。
「拓斗、これは何だ?」
「何って、鳥でしょ?」
音無がコンロに置いたフライパンを指さしフォスが疑問符を、投げ音無は短く答える。
彼が言った通り、そのフライパンの面には鳥をモチーフにした模様が描かれている。
「鳥? ああ、ハルピュイアの親戚だな、何故そんな物が描かれているのだ?」
「寧ろパルピュイアが鳥の親戚でしょ……と言うより、デザインだよ、こういう風に色々なデザインの方が使ってて楽しいでしょ?」
「そうなのか、人間の間じゃそんな無駄な事が流行ってるのか?」
「無駄って……まぁどうなんだろうね、この柄を決めたデザイナーの人の作品って最近矢鱈と人気あるのは事実だけどさ」
音無はこの手のイラストが描かれた家具や調理用品がホームセンターの一角で群れを成しているのを思い出し、短く鼻を鳴らすと冷蔵庫の中からひき肉の入ったパックを取り出してラップを破る。
「拓斗、何をしているのだ?」
「魔法使いでも見てわかるでしょ?」
音無は手早く刻んだ玉ねぎとひき肉を熱したフライパンに落としてからそう告げるが、フォスは小鳥の様に首を傾げた後、何か納得した様に口を開いた。
「薬の調合か?」
「……いや、それは違うから」
案の定と言うのはおかしな事だが、案の定フォスの答えは少しだけずれた物だった。
音無は曖昧に笑いつつフライパンの中身を炒めると、顆粒のコンソメとガーリックペースト、そしてホールトマトを加えてからターナーでかき混ぜる。
軽快に油が跳ねる音は、ぐつぐつとした煮込みの音へと変化し、香ばしい肉の焼ける匂いはトマトの爽やかな酸味を含み香りに変化する。
「料理って言うの、魔法使いってのがどんなものなのか、そもそもそんなのが今の今まで何処に隠れてたのかは判らないけど、少なくともそんな魔法使いの君だって料理位は食べるでしょ?」
そう言うと、音無はフライパンの中と沸騰し始めた鍋の中にそれぞれの量の塩を落とし、フライパンの中のミートソースの中身をスプーンで掬って味見をする。
「料理……?」
若干いぶかしげな表情を浮かべるフォスの思いは不明だが、ソースの味を確認した音無は軽く喉を鳴らすとフライパンの中に大量のドライバジルを、鍋の中にはひと束の乾麵を落としてかき混ぜる。
「後は麺がゆで上がれば完成、もう少しだから待っててね……ってあれ?」
使い終えたまな板を洗いつつ音無はフォスに対して話しかけるが、その方向に彼女が居ない事に気が付き、目を瞬かせる。
「何を待つのだ?」
「……ってうぁ!」
不意に声が響いたのは、自分の真後ろからだった。
何を思ったのか、彼女はいつの間にか此方へやって来ては、彼の真後ろに回り込んでいたらしい。
彼女自身は音無を驚かせるつもりは無かった様だが、それでも突然の事に驚いた音無は妙な悲鳴を上げてから振り返る。
「驚かせてしまった様だな、拓斗は驚くのが苦手なのにすまない事をした」
「いや、まぁ良いんだけどさ」
音無は呆れ交じりの表情で頬を掻くと、後少しで茹であがるであろう麺をかき混ぜてから溜息を吐く。
その溜息には、単純に自分の家に他人が居ると言う慣れない状況からも来てはいたが、それ以上に再び脳裏をよぎった嫌な思い出からだった。
元々彼はキッチンに立つ事が多く、帰りの遅い両親の代わりに晩御飯を作る事も珍しくは無かった。
そんな時、良く姉が彼にちょっかいを出していたのだ。
単に受験勉強に勤しむ彼女の代わりにキッチンに立つ音無への労いや、単純な気分転換から来る行動なのは判っており、その行為は第三者から見たら今時珍しい中の良い姉弟の姿だったかも知れない。
だが正直なところ、その位の頃から音無は姉を避ける様になっていた。
別に何か嫌な事をされた訳でも無い、音無が姉に何か悪さをした訳でも無い。
ただ、音無は姉が羨ましくてしょうがなかったのだ。
姉はこの頃には名門の大学への受験に勤しみ、これといって問題を起こさない限り第一志望への入学も間違いないと言われ、学校内でも友達や教師から好かれる存在だった。
家族にとってもその評価は嬉しい物だったのか、両親はそんな姉を自慢して回った。
確かに優れていた、それなのに彼女は状況でも驕る事無く、ひたむきに努力する才能すら持っていた。
だが、そんな人間が一つ屋根の下に住んでいたが故に、音無の持つコンプレックスは強い物へとなる。
学校の机に座って教科書を読んでいる時間よりも、大学病院の待合室で本を読んでいる時間の方が長く、そのせいで成績は中の下。
何か努力するにも、直ぐに発作を起こして倒れてしまう軟弱な体。
結果、学校を休む事が多くなり友達も少なくなっていた。
ちょっとした特技を持っているだけで総合点では中の下以下の自分と、何でも器用にこなす姉の存在を比べれば比べる程、劣等感は強いものになっていた。
「拓斗、鍋が怒ってるぞ?」
呆然とそんな事を考えていた音無の耳を、フォスの声が叩く。
ふと意識を戻して彼女の指さす方向を見てみると、麺を茹でていた鍋が沸騰し、噴火中の火山の様に泡を吐き出してコンロの火を消していた。
「ああ! っと、まぁこんなものか」
慌ててガスを止めた音無は、とりあえず茹であがった麺を一本口に含んでから具合を確認すると、麺を皿二つによそってから、フライパンの中身を麺にかけ様として手を止める。
「どうかした?」
一連の動作を興味深げに見ているフォスに対して、音無は疑問符を投げる。
「ソースだよ、これを麺にかけたら完成」
「……?」
理由は判らないが、相変わらず疑問符を浮かべるだけの彼女に対して溜息を向けると、音無はソースの一部をスプーンで掬ってから彼女に差し出す。
「食べてみ? 美味しいから」
「食べる……か? 何だ?」
「何って、お腹すいてるでしょ?」
だが、そんな音無の言葉の意味を良く理解できないのか、フォスは首を傾げるだけで行動に移そうとしない。
一瞬好き嫌いか何かだと思った音無は、彼女の表情を窺うが、その顔にはそう言った物は無く、代わりに初めて見る物に対して向けられるそれと同じものがあった。
「お腹がすくとはどういう事だ?」
フォスの言葉を聞いて、音無はいぶかしげな表情を浮かべるが、状況が判らないと言わんばかりのフォスの表情とは裏腹に、彼女の腹が小さく鳴いた。
「……?」
「いや、お腹すいてるんでしょ?」
腹がなった事を恥ずかしがると言うより、単純に何故鳴ったのか判らないといった様子で下腹部をさするフォスを余所に、音無は溜息を吐いてから再度スプーンを差し出す。
「……?」
「だから、口開けてみ?」
空腹故に断る理由も無かったのだろう、フォスは音無の差し出したそれを素直に受けると、判りやすいほど目を輝かせた。
「……なんだこれは!?」
「ミートソース、フォスは食べた事無かった?」
自称魔法使いがどんな存在なのかは不明だが、その反応からして大体の事に見当を付けた音無の言葉に、フォスは直ぐに返事をした。
「ミートソースとは魔法か?」
「料理だよ」
「……料理とは何だ?」
単に冗談のつもりだろうが、いまいち釈然としないフォスの疑問に首を傾げた音無に対して、フォスは口端を少しだけ吊り上げて言葉を紡いだ。
「拓斗、お前は天才か?」
「……いや、大袈裟すぎるでしょ」
そう呆れて答えた音無は、思わず緩む口端を隠す様にそっぽを向くと、手早く料理を盛り付ける。
フォスの言動の意図がいまいち判りにくい所はあったが、それでも、彼女の一言で胸の奥で蟠っていた思いが少しだけほぐれるのを感じるのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます