第13話 マユミとコンサート、その2。
年の瀬も迫り、いよいよコンサート当日の日曜日である。マユミは朝早く目が覚めた。6時起きだなんて、大学の講義に出るときでもそんなに早く起きないのに。子供かと、ひとり突っ込みを入れて布団から出る。前日の夜から吊していた白のブラウスと黒のロングスカートに目を向ける。今日はこれを着て皆の前で歌うのだ。丁寧にたたんでバッグの中にしまう。それに合わせるのは入学式に履いていた黒いパンプスだ。慣れないヒールだが、立つだけならなんとかなるだろう。
結局サイトウさんは退院できなかった。先週の練習の日に奥さんから来たメールも容態が良くないと伝えてきていて、皆で心配していた。しかし歌の質を落としてはいけないと、先生や各パートリーダーなどから楽しい話を話してから練習に入るという対策を少し前からとっていた。一番笑ったのはササキさんの学生時代の女装事件で、彼女の目の前で女装させられたという罰ゲームの話だった。この話は今日もまた本番前に話してくれるそうで、本番も緊張せずにリラックスして挑めそうだ。
10時からゲネプロである。それまでに朝食を済ませ、お風呂に入り、ばっちりメイクもして楽屋に入る。ああ、緊張するし楽しみだし不安だしちゃんと歌えるのかしら歌詞を違わないかしら音程外さないかしらと頭の中で思考がぐるぐる回り出す。マユミは深呼吸をして、ぐるぐる回り出した思考を止める。ともあれ、時間はまだある。一人総ざらいをして気持ちを落ち着かせよう。ああ、朝ご飯もしっかり食べないと。
今日は、マユミの人生の中でも、特別な一日になりそうだ。
時間の少し前に、市民センターに向かう。マユミは平常心へいじょうしんと呟いて歌うホールの隣にある楽屋に入った。
「おはようございます!」
「おはよう、モリタさん」
若干緊張気味のマユミを迎えてくれたのはアルトリーダーのテライさんだった。既にモノトーンの服装に着替えていて、とても知的に見える。モリタさんおはよう、とモリヤマさんの姿もある。こちらはこれから着替えるようだ。他のメンバーもいつもとあまり変わらない様子で、マユミはほっとした。
とにかく、荷物を置いて着替えを始める。ゲネプロの後は本番まで少ししか時間が無いのだ。この格好に少しでも慣れておく必要があるとマユミは思った。
慣れないパンプスを履いて、楽屋を出た。ホールを覗き見すると、まだ観客はいなかったが、白シャツに黒いズボンをはいたタナカさんたちが既にいた。タナカさんはムカイさんと一緒に観客席の中央に立って、カメラをいじっている。先生も、ピアノの傍でピアノの先生となにやら話し込んでいる。ゲネプロまであとわずか。本番まで、あと2時間。
「ああ、モリタさんおはよう。よく眠れた?」
近くにいたササキさんが声をかけてくれた。
「おはようございます、ササキさん。はい、ばっちり爆睡しました」
マユミは笑顔で答えると、ホール全体を見渡した。
「ここで歌うんですねー」
「そうだよ。まぁ、このホールいっぱいに人が入るってことはないから、そこは少し安心していいと思う」
だいたい埋まって4割かな、とササキさんは言った。4割かー。多いのか少ないのかよくわからない。と、考えていると後ろからテライさんたちがやってきた。いよいよゲネプロが始まる時間なのだ。
そろそろ舞台袖に行こうかなとマユミが思っていたら、タナカさんが携帯を持って、慌てて先生のもとへ走っていった。深刻な表情だ。話を聞いていた先生も厳しい顔をした。どうしたのだろう。
すると先生が、手招きして全員をホールの上に集めた。不穏な空気に、ざわざわと心がざわめく。
「サイトウさんが昨日、お亡くなりになったそうです」
先生からの報告に、全員がしんとなった。
「それでもコンサートは開催しますよ。サイトウさんの分まで、歌いきって、コンサートを成功させましょう。それがサイトウさんへの一番の弔いです」
そう言うと、先生は合掌して一礼した。皆もそれに倣って合掌して黙祷をした。サイトウさん、ダメだったのか……。マユミは寂しい気持ちになった。ここからどうやって楽しく明るく歌を歌えばいいのだろう。
「さぁ、まずはササキさんのお話を聞きましょうか」
ぱん、と手を叩いて、先生が明るい声で仕切りなおした。えっとなったのは当のササキさんで、マジでまた話すんですか?とうろたえた。マジでまた話してください、あれほどインパクトのあるお話は私の説法でもないですからと、先生も言い返した。
そんなぁ、とササキさんは情けない声を出した。ほらほら、皆さんの気持ちを切り替えさせてください、と先生がせきたてる。じゃあ仕方ないですね、また話しますよ、と私の初めてのゲネプロはササキさんの伝説の話から始まった。
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