第9話 マユミとテライさん
夏が過ぎ、秋が到来した。残暑の厳しい日々が続いていたが、この頃はそれもようやく収まってきた感じだ。空が柔らかい色合いに染まっている。
この日、マユミは機嫌が良くなかった。ゼミで教授に絞られ、アルバイト先のパン屋で変な客に絡まれ、精神的にまいっていた。晴れるや会の練習も、休もうかと思ったが、歌った方がストレス発散になるだろうと、重い足を市民センターに向けた。今日は先生が来れず、リーダーのタナカさんの指揮のもと、練習をする予定だ。
「こんばんは」
「あら、モリタさんこんばんは。どうしたの元気ないわねー」
練習室の扉を開けると、モリヤマさんが声をかけてくれた。マユミはここぞとばかりに、モリヤマさん聞いてくださいよー!と今日の鬱憤をモリヤマさんにぶつけた。練習開始ギリギリまでモリヤマさんに話をしていたら、アルトリーダーのテライさんに
「モリタさん、練習の時間ですよ」
と、促された。マユミはまだしゃべり足りず、しぶしぶアルトパートの集団に戻った。軽い運動、ブレス、やきざかなの音出し。いつもはどれも楽しくできているのに、今日一日の出来事で頭がいっぱいのマユミには、つまらないものに思えた。だるい、めんどうくさい、練習なんて空しい。そんな気持ちが、マユミの心に広がっていた。
「モリタさん、集中できないなら少し休んでいたら?」
休憩に入った途端、テライさんからそんな言葉をかけられ、マユミはびっくりしつつも笑顔を作って応えた。
「え、大丈夫ですよ。歌えばスッキリすると思いますし」
「そんな刺々しい状態で歌って楽しいの?そんな気持ちで一緒に歌われる私たちのことはどうでもいいの?」
テライさんの強い言葉に、マユミは驚いた。周囲のメンバーも、いったい何事かといっせいにこちらを見る。テライさん、どうしたの?と、モリヤマさんが尋ねた。
「モリタさんは練習が上の空のようなので、少し注意しただけです」
と、テライさんは固い表情で答えた。
「まぁ、モリタさんも今日は色々あったみたいだし、少し多めに見てあげましょうよ。若いんだし」
「色々あったのは聞いています。でも、そんな気持ちで歌ってもらわれてはここにいる他のメンバーに対して失礼なのではないかと言っているんです」
テライさんの言葉に棘が含まれてきた。それでもモリヤマさんはひるまずに反論する。
「そうはいってもモリタさんはまだ若いんですってば。気持ちの切り替えがうまくできないんですよ。ここは大人のテライさんが我慢する状況でしょう?大人の対応をしてくださいな」
ほらほら、と笑顔でモリヤマさんはテライさんに語りかける。テライさんはまだ固い表情だったが、ため息をついてわかりました、と答えた。
「モリタさん、きついことを言ってしまってすみませんでした。休憩後、練習に参加してください」
「い、いえこちらこそ色々引きずったまま練習しちゃってすみませんでした!楽しく朗らかにがモットーなのに暗~い感じで参加しちゃって……」
「いえこちらこそ大人げない対応をしてしまって……」
マユミとテライさんと、ぺこぺこと交互に頭を下げあっていると、テナーのサイトウさんもやって来た。
「そろそろ仕舞いにしておかないと、二人ともおもちゃみたいに頭を下げ続けてしまいますよ」
サイトウさんの一言で、マユミとテライさんははっとして頭の下げ合いをやめた。顔を上げるとテライさんと目が合った。テライさんはくすりと笑った。マユミも小さく笑った。モリヤマさんとサイトウさんはやれやれと肩をすくめていた。
練習が終わった後、マユミはテライさんに夕飯に誘われた。仲直りのご飯ということなのだろう、マユミは喜んで誘いに乗った。場所は晴れるや会の皆とよく行くファミレスだった。
「今日は本当にごめんなさいね」
食事がテーブルに届いた頃、テライさんはそう口を切った。
「いえ、こちらこそ子供っぽいことしてすみませんでした。私の機嫌なんて皆さんには関係ないですもんね」
頼んだパスタをくるくると丸めながらマユミは返事をした。こういう話の時、食べていいのか悪いのかよく分からなかったので、テライさんが頼んだものを口にするまで、マユミはくるくるとパスタを回し続けていた。
テライさんはドリアを一口食べると、再び口を開いた。
「私、今まで仕事一筋で、何の趣味も持ってなかったの。それが晴れるや会を知ってから世界が変わってね。こんなに楽しいことがこの世の中にあったんだって、初めて思えたの」
「そうなんですか」
「だから私にとっては晴れるや会が、全力で趣味を出す場所で、十分に楽しまなくちゃ、って思っていたの。だからモリタさんの今日の態度が、許せなかったのね」
「本当にすみませんでした……」
マユミはしょぼんと肩を落とした。全力で情熱を傾けているところに、あんな態度を取られては怒るのも無理はない。テライさんの大切な趣味を、台無しにしたのだから。
「いいの、大丈夫。私もちょっと熱くなりすぎていたから。モリヤマさんが間に入ってくれなければもっと大変なことになっていたでしょうし」
「モリヤマさん、いつもあんな風にみんなの間を取り持ってすごいですよね」
「そうね。私も見習わなくちゃいけないわね」
穏やかにテライさんは笑った。
「モリタさん」
「はい」
「今日に懲りずに、また練習に来てくださいね」
テライさんの笑顔は素敵だった。
今日のパスタはいつもよりしょっぱい味がした。
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