第7話 マユミと大人たち。

 マユミが晴れるや会に入会してから1カ月が経った。大学にもゼミにもアルバイトにも慣れてきて、ゴールデンウィークを楽しく忙しく迎えた。晴れるや会の練習は週2回、ゴールデンウイーク中に実家に帰った時と、アルバイトで遅番の時以外はきちんと通っていた。テライさんをはじめアルトパートの人々、モリヤマさんやタナカさん、先生などにも打ち解けて、毎回晴れるや会の練習に行くのが楽しみになっていた。

 パートごとに話すようになった人も増えた。ソプラノリーダーのモリヤマさん、サブリーダーのイイダさん、アルトリーダーのテライさん、サブリーダーのアオヤマさん、サワダさん、テナーリーダーのササキさん、最年長のサイトウさん、バリトンリーダーのムカイさん、マルウオさん。全員とも一言二言話しているが、よく話すのはこの人達だ。特に最年長のサイトウさんはタナカさんも先生も一目置く存在で、83歳とは思えない声のよく通る、物腰が柔らかく話上手で、マユミも年をとったらこんな風になりたいなと思うような人だった。

 そんな人たちと共に、歌を歌うのは本当に楽しく、いい調子で日々が過ぎていった。

 ある日、マユミはアルバイトの遅番で少し遅れて市民センターにやってきた。今日は新しい楽譜が渡される日なのだ。年末のコンサートに向け、歌える曲を少しずつ増やしていく。一曲につき、だいたい1~2カ月かけて覚え、毎年5~6曲披露するらしい。コンサート当日は正装で、ピアノもプロの先生に頼むそうだ。

 この時間なら先生も来てるだろうな、パート練習中だろうか、と思いながらマユミは練習室の扉を開けた。途端、先生の声が聞こえた。

「マルウオさん、大声で歌えばいいってもんじゃあないんですよ。抑えるところは抑えて、強弱をつけて歌うんですよ」

「声が出てりゃいいじゃねぇですか」

「これは合唱なんです。呼び込みとは違って音楽を声で奏でるんです。演歌歌手だってカラオケで歌うときだっでサビの部分とそうでない部分と、音量が違うでしょう?そこを表現しないと」

 先生とマルウオさんが話している。どうやらパート練習の休憩中らしい。あ、モリタさん、こんばんは、と、抑えた声でモリヤマさんが声をかけてくれた。テライさんも手招きをしている。

「こんばんんは。マルウオさんどうしちゃったんですか?」

 雰囲気が雰囲気なだけに、マユミも小声でテライさんに話しかける。

「新しい曲の練習をしていたの。今回の曲、イタリアの情熱的な愛の歌なんだけど、マルウオさん、強弱をつけずに大声で歌っちゃって……」

「それで先生に注意を?」

「そう、情熱的な歌でも抑揚はあるのよ。そこを無視して練習していたものだから」

「ありゃー」

 パート練習でも手は抜かないのが先生の信条だ。そこはぶつかってしまうだろう。

 マルウオさんは、いつも楽しく大きな声で歌う人だ。マユミの数カ月前に入会し、普段から声が大きい。音出しのやきざかなでも、「やきざかな~ あ・イチキュッパッ」とか「やきざかな~ アジの開きだよっ」など合いの手を入れてマユミたちを楽しませてくれる。ただ、音の強弱をつけるのは苦手のようで、先生やテナーリーダーのササキさんによく指摘されていた。

「マルウオさん、まずは譜面どおりに歌ってください。感情を乗せるのはその後です。情熱的ですから声が大きくなるのもわかりますが、それでも抑えるところは抑えてください。それに、全部大声で歌うから後半体力が持たないんですよ」

 先生の説得にマルウオさんは少し不服そうな表情をしたが、前の曲でも後半にバテていたのはマユミも知っていた。

「そう言われたって魚屋は大声が一番なんですよ」

「今は魚屋さんではなく、一人の歌い手としていてください。大声はお店で好きなだけ出して、ここでは譜面に合わせて歌ってください」

 他のメンバーたちはハラハラしつつ二人のやり取りを聞いていた。これでは休憩にならない。マユミも新しい楽譜をもらったはいいが、先生とマルウオさんが気になって楽譜が読めない。ケンカしているわけではないものの、雰囲気がちょっと気まずい。どうなるのだろうとマユミが見守っていると、先生がパンパンと手を叩き、

「モリタさんもいらっしゃったことですし、もう一度、元の曲がどのようなものなのか聞いてみましょうか」

と、マルウオさんから離れてパソコンに向かい、音楽データを再生した。

 陽気な音楽に、よくわからないが何語かで何かを語り掛けているような歌だ。確かに大声で情熱的に歌っているところもあるが、囁くような部分もある。恋人に愛を囁いているのだろうか。盛り上がりのある歌だった。

「はい、こんな感じですね。盛り上がって愛を語る歌ですが強弱はあります。抑えるところはきちんと抑えて、クライマックスを盛り上げてください。はい、パート練習再開です」

 それぞれが椅子から立ち上がり、パート練習の準備に入る。マユミはテライさんから歌詞とその意味を教えてもらい(イタリア語で書かれている歌詞の発音をカタカナで教えてもらった)、ようやくパート練習に入った。

 マルウオさんはどうしたかな、とちらりとテナーの集団を見ると、マルウオさんは大声で歌ったりせず、他の人と合わせて神妙に練習をしていた。別段、不機嫌そうな感じもしない。先生も何事もなかったかのように指示を出している。マユミだったら先生とあんな風に言い合ったら、不機嫌全開で荒れた練習をしているだろう。マルウオさんも先生も大人なのだ。

 30分ほどでパート練習は終わってしまった。まだまだ歌い足りないが今日はここまで。予期せぬ事態が起きはしたが、皆普通に先生やマルウオさんに笑顔で挨拶をして帰っていく。マユミもぎこちないが笑顔で先生とマルウオさんに挨拶をして帰っていった。二人からはいつも通りの気持ちの良い挨拶が返ってきた。なんだかんだ言っても、晴れるや会は大人の集団なのだ。感情の切り替えが早く、後を引かない。マユミは大人の世界ってすごいなぁと思いながらベッドに転がった。

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