第3話 マユミとやきざかな。

「次ー、音出ししますー」

「タナカさん、今日はアレやめましょうよ。見学客もいることだし。普通のでいきましょうよ」

ふくよかな女性が何かをやめようとしている。

「何言ってるんですか。普段の我々の姿を見せないと彼女だって困るでしょう」

タナカさんが反論する。でもーと、ふくよかな女性は嫌そうだ。何が始まるんだろう。私がいるとやりたくないもの?普段はやっていること?マユミは頭に疑問符をたくさんつけて首を捻る。

「さて、気を取り直して音出ししますよー。さんはい」

 タナカさんはふくよかな女性を制してキーボードに向かい、音出しを始めた。

 やきざかな~。ドミソミドの音程で、そんな単語が飛び出してきた。マユミは一瞬、なんと言われたのか分からなかった。そしてふたたび聞いてみると、やきざかなと言っているのが分かった。やきざかな。なんで。なにゆえに、やきざかななのか。ふくよかな女性がためらったのがなんとなく分かるような気がする。

 やきざかな~。音階が上がる。やきざかな~。皆真剣に音程を合わせてやきざかなと言っている。傍から見て(聞いて)いるとすごくシュールだ。

 やきざかな~。やきざかな~。やきざかな~。

 音階が延々と上がり、やきざかなも高音になってきた。音が出ない男性陣、女性陣も出てきて、最後にふくよかな女性(モリヤマさんだっけか)がソプラノのいい声でやきざかな~と歌い上げると、今度は反対に音が下がってくる。自分が歌える範囲まで音が戻ってくると、また数人が音を出し始める。今度はだんだんと低くなり、音の出る人、出ない人が出てくる。最後にがっちりとした体格の男性が地を這う声で、やきざかな~と音を出すと、

「はい、それじゃあパート練習に入ってください」

と言ってタカナさんはキーボードから手を離した。


 はーっ。


 独特の(やきざかな、な)練習法に呑まれていたマユミはため息をついた。これは面白い。面白いけどこれでいいのか。というツッコミが入りそうになったが、今はいち見学客である。黙って見ているのが賢明だろう。でも入会したら今度は自分がやきざかな~と音を出すのかと思うと、先は明るいのか暗いのか分からない。

「どうですか、音出しの感想は」

「へあっ?ああ、楽しそうだと思いました」

 タナカさんが近づいてきて、話しかけてきた。

「そうでしょうそうでしょう。うちは楽しく朗らかに、をモットーにやっているからねぇ。まぁだから歌唱力はそれなりになっちゃうんだけど。本気で歌いたい人は市の合唱団を勧めていますよ」

 あそこは指揮をしている音楽家の先生も熱心ですし、大所帯ですからねぇ、とタナカさんはのんきに言った。と、練習室の扉が開いた。振り返ると坊主頭の男性がにこにこしながら入ってきた。つるりと己の頭をなで、「やぁやぁ。遅くなりました」と皆に詫びている。

「先生こんばんはー!」

「こんばんは。先生」

「今日はお休みなんじゃないかと心配しましたよぅ」

 皆が思い思いの言葉を坊主頭の男性にかける。坊主頭の男性は、私とタナカさんに気付いて、どうもこんばんは、と頭を下げた。

「見学者のモリタさんです。モリタさん、こちらがうちの先生。エイコウ先生です」

「こんばんは、モリタです。今日はよろしくお願いします」

 エイコウ先生。変わった名前だな、とマユミは思いながら挨拶をした。坊主頭のエイコウ先生は笑みを浮かべて、マユミにぺこりと頭を下げた。

「どうも、ニシムラエイコウです。元住職です。なので名前がエイコウなんですよ。宗派はみなの衆、栄光は誰の手に、って感じでよろしくお願いします」

 若干寒いジョークが入った自己紹介をされた。そうか元住職ってことはお坊さんなのか。だから坊主頭なんだな、でもお坊さんがはれるやっていいのか?元だからいいのか?とマユミは疑問に思いながらお辞儀を返した。

「先生、今後のスケジュールなんですが……」

と、タナカさんが話し出したので、マユミはおとなしくパート練習を聞いていた。皆、真剣に、でも楽しそうに練習している。楽しく朗らかに、がモットーらしいので、ハードルが低い。メンバーと仲良くなれるかどうかだが、今のところ、マユミを拒むような雰囲気はない。むしろ入ってほしいオーラを感じる。今すぐに決めることはないと思うが、8割がた入ってもいい感じになってきている。

「えー、それではちょっと合わせてみましょうか」

 タナカさんとの打ち合わせはいつの間にか終わったらしい。メンバーの前に先生が立って話しかけていた。タナカさんもテナーのパートに入り、姿勢を正す。先生が指揮棒を握り、両手を振り上げた。

「さん、はい」

 よく聞く合唱の歌だ。学校の合唱コンクールで歌うような、誰でもなじみやすい曲だった。明るく、楽しく、のびやかな歌声が練習室に響く。

 これなら自分も歌えるかもしれない。先生も優しそうだし――

「テナー、ちょっと音がずれてますよ」

「ここはアルトを響かせて」

「音を他と合わせて、ソプラノだけで歌っているんじゃないですからね」

「バリトンはもっと主張して」

……意外と厳しい。

 一曲通しで歌い終え、さらに途中から歌い直し、歌い直し、もういちど最初から通して歌う。

先生のアドバイスを受け入れて、少しずつだが確実に良くなっていくのが、この短い時間でも分かる。皆、素直に、熱心に取り組んでいる。


すごいなぁ。


 歌の力、みたいな感じになってしまうが、年齢や職業も違う一人一人が、先生の指揮ひとつでまとまっているのがすごいとマユミは思った。

「では休憩に入りましょうか」

 時計を見て先生が指揮棒を下ろす。はぁ~っとメンバーから開放感のため息がこぼれた。じゃあ10分まで休憩で。ありがとうございます!とやりとりがあって、空気ががらりと変わる。

「モリタさんって言うの?どう?ここの雰囲気」

 ふくよかな女性がペットボトルに入った水を片手に近づいてきた。

「わたしモリヤマって言うの。モリ繋がりねー!よろしくね」

 マユミが何か応える前に自己紹介までされてしまった。こんなとき、どこから会話を続ければいいのだろうと、マユミは一瞬考えた。

「……ええと、皆さん本当に楽しくやってるんだなぁって思いました。よろしくお願いします、モリヤマさん」

「そうでしょ?歌を歌っていると本当に楽しいもの。歌っていると仕事の事も何もかも忘れてパァーって世界が広がる感じがいいのよねー。」

「モリヤマさん、モリタさんが引いてますよ」

「あらタナカさん、私別に変な事言ってないですよ、言ってないわよね?ねぇ?」

 モリヤマさんの勢いに呑まれていたマユミに、タナカさんが助け船を出してくれた。初対面でそんなに食いついたら引いちゃいますって、と近くの椅子を引っぱりだしてマユミの隣に座る。

「どうでしたか、練習の様子は」

「皆さん、真剣ですごいなぁって思いました。歌うのが本当に楽しいんだなぁって」

「そうですか、そんな風に見ていただけてとても嬉しいです」

「あの、タナカさんはどうして晴れるや会の合唱サークルに入ったんですか?」

 モリヤマさんにじっと見つめられながら、マユミはタナカさんに質問した。リーダーだし、入会理由を聞いてみてもいいかな、と思ったからだ。

「そうですね、定年退職してやることが無くて一日ぶらぶらしていたのですが、たまたま妻と晴れるや会のコンサートを聞きに来たのがきっかけで。ああ、歌もいいなぁって思ったんですよ」

 何より楽しそうだったしね。とにこやかにタナカさんは答えてくれた。

「やっぱり楽しそうなのが印象に残りますよね。私も、商店街での合唱を聞いてて、皆さんの表情が楽しそうだったから気になって来てみたんです」

 ああ、聞いてたのねこの間のゲリラ合唱。と、モリヤマさんが答える。

「ゲリラ合唱?」

「ゲリラ豪雨みたいにぱっと歌ってぱっと解散するの。ちゃあんと商店街の許可も取っているのよ」

 怒られたら商店街合唱サークルの元も子もないしねー、とモリヤマさんはけらけらと笑った。

「休憩終わりですよー」

「はーい」

「じゃあまた後でね」

「では後半も見学楽しんでください」

 休憩終了の合図があると、モリヤマさんとタナカさんはマユミから離れ、パートに戻っていった。

「さて、後半ですがいきますよ」

 楽しそうに先生が腕を回した。

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