ラジオ

 咲見はカフェスペースでコーヒーが冷めて行くのを見つめていた。

 ラジオの収録時間が迫っている。その事実が咲見を落ち着かなくさせる。

 咲見は大柄な男で、元はプロレスラーだった。今は団体の寮監兼道場主として若手や現役の選手を鍛える日々を送っている。

 最近は折からのプロレス熱再燃に併せて団体の活動も好調であった。もちろん、日々に問題がないわけではないが、おおむね上手くいっている。

「おじさん、緊張してるの?」

 同居する甥のサカシが声を掛けてきた。手には自動販売機で購入した水のペットボトルが握られている。

 小学生のころから面倒を見てきた小僧が高校生になって身長が一八〇センチを超え、体つきも一端の空手家の様に見えた。

 日曜日の午後ということもあり、暇を持て余したサカシは咲見について放送局までやってきたのだ。

「ああ、緊張してるよ。恐ろしい話だ。なんせ慣れていない」

 言って咲見は笑みを作った。武骨な顔が奇妙に歪む。

 ラジオは本社に持ち込まれた取材依頼が咲見に降って来たものだ。

 現役の選手よりも古の有名選手の方がえてして知名度は高い。人選は間違っていないだろう。

 宣伝になるのであれば、プロレスラーはなんでもやる。なんせプロなのだ。しかし、ここのところ咲見はメディアに出ることが億劫で仕方がなかった。あるいは恐ろしいのか。

 妙な感情に、咲見は手を伸ばした。

 指先にあるコーヒーの紙コップが果てしなく遠くに感じ、届かない気がした。しかし、事実として丸いテーブルにコーヒーは乗っており、難なく掴めてしまった。遅々として進まない時計の針も、あっさりと収録開始時刻を告げるだろう。

「でもおじさん、映画とかにも出たことがあるんだよね?」

 サカシが言うのは団体寮の教官室に置かれた古いVHSソフトの話だ。

 寮を開設してしばらくして、知人のプロレスマニアや引退したレスラーが過去の映像ソフトや書籍類を大量に持ち込んできた。

 どいつもこいつも年齢を重ね、家族が住む自宅にかつての情熱を保管することに耐えられなくなったのだ。その点、企業の研修施設を改修した寮には図書室があり、備え付けられた本棚はいい仕事をした。関係者や、たまに他団体からも映像が送られてきて、オールドマニアが見れば泣いて喜びそうな宝が並べられている。

 しかしながら、そこに住むのは現役の関係者であってマニアではない。

 皆は過去よりも現在と未来を志向し、生活と鍛錬に没頭しているので、図書室に入り浸るのはサカシくらいのものだった。

 その中からサカシが咲見の出演したVHSのパッケージを見つけ出してきたのだ。

 典型的な二線級アクション映画である。

 リングが今よりもずっと華やかだった頃、咲見は映画に出演していた。今にして思えば酷い演技だったと思うが、当時は舞い上がって照れながらも一生懸命に頑張った。結局、引退直後まで含めると咲見は五本の映画に出演した。

 まったく、寮にVHSを再生できる機械が無くてよかったと咲見は思っている。あれば恥ずかしさに負けてそれほど生産もされなかった貴重なVHSをへし割っていたかもしれない。

 だが確かにテレビや映画、ラジオへ精力的に出演した時期があったのも事実だ。

「歳をとればなんでも怖くなるもんだ」

 それは咲見の本心であった。

 かつて、二人で暮らしていた頃は毎晩の様にやったスパーリングもここのところ随分とやっていない。

 部活で柔道をやりキックボクシングの道場に日参し、寮の練習場で若手レスラーたちに混ざって汗を流す。山盛りの飯を食い、プロテインを飲む。

 筋肉がつき、指は節くれだち、すでにサカシの目つきは少年から精悍な青年のものになっていた。

 今のサカシを相手に咲見が全力でやって勝てるか。いや、そもそも勝負になるか。

 現実を突きつけられるのが恐ろしい。それはサカシも同じようで勝負に関する提案は二人の間で秘かに封じられていた。

 だが、実のところ今の咲見が恐れているのはもっと単純なことである。

 サカシの関係者に思い出して欲しくないのだ。

 そもそも、サカシは咲見の妹の子供である。

 だが、もっと適切な説明をするのであれば咲見の妹が一時期婚姻関係にあった男の連れ子で、別れた時に押し付けられたのだとぼやいていた。さらに言えば、失踪した咲見の父が後妻に迎えた女の連れ子が妹だったので、全くの他人と言ってしまってよかろう。

 その誰もがサカシを放ってどこかへ行ってしまったので、咲見はサカシと暮らしているのだ。もはや連絡も取れない。

 しかし、もしそのうちの誰かが咲見を見てサカシを思い出したらどうか。そうして、やはりサカシと暮らしたいと思えばどうだ。

 親権などの細かい話は分からないけども、二人の生活が終わるのではないか。漠然と、咲見はそんなことを恐れている。

 立場があるので相手をぶん殴って黙らせるわけにもいかず、プロであるゆえに連絡先を隠すわけにもいかない。どれくらいの人数が聴くのかもわからないローカルなラジオですら、咲見はそんなことを考える。

 あとほんの一年もすればサカシは高校を卒業し、どこかへ出て行く。

 それは以前からサカシと話し合っていることだ。咲見の元に居続けるのは許さない。

 二人は親子ではない。あくまでも一時な養育者と被養育者の関係である。

 ある日始まった生活も、もうすぐ終わる。叶うならその日まで穏やかで楽しい日々を過ごしたい。

 咲見は手の中ですっかり冷めたコーヒーを口に運んだ。風味が飛んで苦みだけが主張する液体が喉を流れていく。

 だが、そうはいってもプロなのだ。

 視界の隅にラジオ番組のスタッフがやってくるのを見て咲見は腰を上げた。時計を見れば、間もなく収録が始まる。

 せいぜいひょうきんに楽しいオジサンを演じて見せよう。

 あとで叩き割りたいほど恥ずかしくても、無様でも精一杯やる。咲見にそれ以外の選択肢はなかった。

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