高本さんに捧ぐ

「高本さん、辞めたって知ってた?」


 え?

 昼休みに先輩から聞かれて僕は戸惑った。


「だって、この前の異動内示に載ってなかったじゃないですか」


 僕の会社では支社、支店も含めて異動する全社員の一覧表が三月二十日ごろに発表される。

 そこから知人の動向や自分の所属部署に関係する出入りを確認するわけだが、確かに高本さんの名前はなかった。

 今年は技術者の退職がないから送別会がないね、などと同僚と話したばかりだからだ。

 今はまだ四月の十日だ。そんな話があるのだろうか。

 確か、会社の規定で退職を希望する者はその一ヶ月前までに総務部に申し出るように、という社則があった。

 だからまあ、もしかするとまだ籍は残っていて、実は有給消化中であることも考えられる。

 四月末日の退職だ。それなら確かにあり得る。あり得るが、え、辞めたの?

 僕が高校出たてで就職した頃、高本さんは既におじさんだった。頭は禿げており、大柄で、いつもつまらなそうな表情を浮かべていた。

 それから十五年。僕が若手の新人から中堅に変わる程の時間が経っていた。

 高本さんはその間、ずっと課長補佐の肩書きを名乗っていた。

 その間、二度、彼と同じ課に所属したが、彼は徹頭徹尾、コミュニケーションを嫌った。

 いかつい外見の割に、話す声は小さく、か細い。

 部署での飲み会に誘うと「行かない」の一言でばっさり切られる。

 彼自身が異動する際の送別会であっても「好きにやっとけ」で本人は来ない。

 と言うわけで、高本さんと会話した人は、以降会話したくなくなる。

 僕だって、仕事で必要が無ければ会話をしなかったし、彼はそもそもほとんど仕事をしていなかったので、その機会自体もほとんど無かった。

 僕だけではない。皆がそうだった。

 そんなわけで、彼の存在自体がなんとなく薄ら暗いアンタッチャブルな物だった。

 あまりに不機嫌そうだと、逆に周囲がフォローしてしまうという不思議な例だ。

 僕らは土木の技術者なのだけど、職人ではない。いや、職人であってもだけど、コミュニケーションというのは絶対に欠かせない。

 一人では道路も水路も作れないのだから、普段から雑談をし、毎朝、毎夕に進捗状況等を話し合う。設計の変更はきちんと周知する。

 そうやって行かないと、僕たちの仕事は上手くいかない。

 もちろん、毎度毎度、大量の失敗を抱えているのだけど、それを上手く処理するのもコミュニケーションあってこそだ。

 彼はその輪に加わらない。

 だから……かどうかは知らないのだけど、結局彼は出世しなかった。

 正直に言えば、僕は彼が典型的なぶら下がり社員だと思っていた。仕事もしないのだから当然、出世への意欲もないのだろうと。


 だけど違った。


 年度末の異動内示を見て逆上した高本さんはすぐに総務課へ出向き、退職願を叩き付けたという。

 その内示には、高本さんと同級生で、長らく準課長級に甘んじていた小川さんの、課長への昇級が記されていた。

 僕はここに驚いたのだけれど、高本さんも後輩が追い越して管理職になる度に苛ついていたのだろうか。誰も普段との違いに気づかなかったけれど。

 だけど、彼が課長になっても部下が困るのも事実だ。それもまた、共通認識だった。

 定年まで数年を残しての退職。そこに至るまで彼の胸中にいかほどの怒りと寂寥感があった物だろうか。

 いなくなった後も、彼の話をすれば悪し様に言う者は多く、僕の主観的にも、また客観的にどうひいき目に見ても問題を抱えた社員ではあった。

 しかし、それでも先輩であるので、彼のこれからも長く続く余生が出来るだけ幸せであることを祈るだけだ。


 本人に直接伝える事は出来ないのでここに記す。お疲れ様でした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る