彼女の両親と食事を

 正面に座ったおばさんが上機嫌になにか話しかけてくる。

 その横に座ったおじさんはやや不機嫌に黙っている。

 僕の横に座った、彼らの娘であり僕の恋人でもあるヒョウカは、おそらく母親を牽制しつつ僕に話しかけてくる。

 が、彼女は母親の発言を訳す気はないらしく、おばさんがまくし立てるように話しかける言葉のほとんどが誰にも受け取られる事無く消えていった。

 場所は僕がたまに行くダイニングバーで、間違っても恋人の両親と初めて会食をするのには適していない。やはりちゃんとしたレストランか割烹の方がよかったとも思うが、ヒョウカの希望でこの店になった。

 この店の前で集合して、食事が終わればこの店の前で解散するのだろう。

 なんのことはない。二人で一緒に行ったことがある飲食点がこの店だけなのだ。



 僕がヒョウカに初めて出会ったのは三ヶ月前。

 知人と二人で飲みに来たダイニングバーの、横のテーブルで食事をしていたのがヒョウカとその友人だった。

 酔った勢いで声を掛けて、一緒に飲んでいる内に意気投合した。

 その晩にはホテルに寄ってセックスをした。

 ただ、情事の直前に彼女が「付き合ってからじゃないとイヤ」と言うのでじゃあ付き合おうという口約束が交わされ、晴れて恋人同士になった。

 だから、僕らは恋人同士なのであって、たとえその後、今日までの三ヶ月間に一度も会っていないとしてもそれはなんの関係もない。らしい。


 一応、僕だって三ヶ月間を野面さげて笑って過ごしていたわけじゃない。

 付き合った当初は一応、毎日電話を掛けてみた。彼女はいつも忙しそうで、言外に迷惑そうな空気を感じ取ったので四日目でやめたが。

 ラインだって積極的に送ってみた。返信があったのは五回に一回ほどなので、これも迷惑なんだろうと思って数日でやめた。

 と言うわけで、僕が知っている彼女の事は少ない。

 だいたい僕と同世代で、外国出身。しかし、大学から日本に来ており、七年間に日本語が上達したため一見して彼女が日本人でないことを見破るのは難しい。

 ヒョウカという名前は本名ではなく、大学時代からのあだ名であるらしく、では本名はと聞いてみたが、彼女が発音する彼女の本名はあまりに耳に馴染まずに覚えることをすぐに諦めてしまった。

 あとは外見的にも言われなければ外国人だとは気づけない。

 そんなところだ。

 彼女のパーソナルな情報は出会った日に聞いたことが全てで、その後に知ったことはない。

 典型的な酒の勢いを借りたその場限りの関係だったはずだ。

 僕らはその後、顔を合わすことなく、付き合うという口約束も霧散してしまう。

 そういうことは今までも何度かあった。

 だから、僕はすっかりその気で他の女の子に手を伸ばしかけていたし、別の女の子から彼女はいるのかと聞かれれば純粋な気持ちでいないと答えることが出来ていた。



 その彼女からの久しぶりの電話があったのが昨夜の事だった。

 正直に言えば、既に連絡先を消去していたので誰からの電話か理解するのに時間がかかった。


『ヒョウカです』


「え、誰?」


『あなたの彼女のヒョウカですよ』


 そう言って始まった電話の内容は、両親が日本に来るので恋人として挨拶をしてくれという内容だった。


「ええっと、僕たちってまだ付き合ってるの?」


『なに言ってるのよ。別れ話なんかしてないじゃん』


「ていうかさ、捨てられちゃったのかと思ったよ。連絡全然とれないからさ」


『オー、カルチャーギャップね。ワタシガイジンだから』


 ヒョウカは電話口でわざとらしく片言を喋った。


「ていうか、両親ってなに? 普通にイヤなんだけど」


『なによ、いいじゃないの。ちょっとご飯食べるだけだからさ。お母さん達も心配なんだって。いい歳の娘が異国でちゃんとやってるか。だから彼氏がいるなら会わせなさいって』


「いないっていえばいいじゃん」


『まあ、呆れた。あのときちゃんと付き合おうって言ったじゃない。それもあなたの方から。アレは嘘だったの』


 確かに、彼女から強制されてではあるが、僕から付き合ってくれと言った。その時点では嘘でも無かった。しかし、それっきり三ヶ月も放っておかれると、いっそのこと嘘だったことにしてもいいような気もする。


『あ、ホントに嘘だったの? ヒドい。私を弄んだのね』


 僕が黙っていると、ヒョウカは芝居がかった言葉を繋いだ。


「いや、ていうかね。じゃあ百歩譲って僕が悪者でもいいんだけどさ、じゃあなんで電話とか……」


『電話なら出たわよ。その時に出れなくても毎回すぐにかけ直したじゃない』


 ぐ。確かに。


 毎度、電話を掛ける側は僕だったものの、その期間は音信不通と言うわけではなかった。通話中の拒否感は酷かった気がするが、こうやって断言されるとその感情にもなんだか自信が持てなくなってくる。


「いや、でもほら、そっちからも電話してくれてもよかったんじゃん?」


『それは文化の違いよ。私の国ではデートは男から誘うものなの。だから、私はずっと待ってたのよ』


 ホントかよ。

 嘘くさい言い訳だが、言い切られてしまえば追求も出来ない。


「じゃあラインだ。既読スルーをバンバンしてたじゃん。あれは心が折れるって」


『あのねえ、私はガイコクジンなんだよ。文章のコミュニケーションなんて苦手に決まっているじゃない』


 また言い切った。これも多分嘘だ。彼女はそこそこ難しい日本の大学を出ているし、就職先も日本の企業だと言っていた。文章コミュニケーションが苦手で勤まるわけがない。

 しかし、言い返せない。


『ほら、疑惑は晴れた?』


 僕が言葉に詰まったのを鋭敏に察知して、彼女が詰めにかかる。


「でも、両親と会うのはそれとは別問題だよね」


『なに言ってるのよ。彼女の親が会いたいって言っているんだから、会うのが筋でしょう』


「日本ではそうじゃないよ。両親と会うって、普通は結婚を意識したカップルがやるイベントだよ。僕らはそんな段階じゃないでしょ。会ったばっかりどころかお互いのことをほとんどなにも知らないじゃん」


『私は君と結婚してもいいと思っているよ?』


 マジか。


「僕は無理だよ」


 だってもう君の顔も覚えていないんだもの。知らない人とは結婚できない。


「ていうかね、はっきり言っておくけど、もう無理だよ。ちゃんと言葉にしてって言うなら言うけど、別れてよ」


『イヤだ』


「イヤだって言うけどさ、じゃあどうするの。僕の側には気持ちが全然残ってないよ」


『とにかくイヤなの。私はカソリックなのよ。そんなに簡単に付き合ったり別れたり出来ないわ』


「君の信仰は申し訳ないけど知らないよ。お互いの気持ちが向いていないならもう終わりだよ」


『そこまで言うなら仕方ないわね。明日の食事に付き合ってくれたら綺麗サッパリ別れてあげるわ。これが最大限の譲歩。もしこれもダメなら私はあなたの事を一生うらむからね』


 それは嫌だな。一生会わないとしても折に触れて思い出したときに嫌な気持ちになりそうだ。

 それに、やることをやってしまっている負い目がある。


「よし、わかった。明日ね。とにかく飯を食えばいいんだろ。それでお別れだからね」


 こうして、僕は人生で初めての恋人の両親との会食に挑むことになったのだ。



 ダイニングバーの前で三ヶ月ぶりに再会した恋人の顔をみて、僕は首をひねった。

 果たしてこんな顔だっただろうか。記憶が曖昧で、別人が来てもわからない自信がある。

 そこらにいる同世代のありきたりな女の子だ。


「お~い」


 しかし、僕を見つけて手を振ってきたのできっと間違いないのだろう。

 彼女は駆け寄ってきて僕の腕を取ると後ろから歩いてくる老夫婦に何事か言った。


「ええと、久しぶりだね」


「ほら、そんな顔しないでよ。楽しそうな顔か、せめて緊張して見せて。紹介するね、お父さんとお母さん」


 彼女が指さすとおばさんが会釈をした。おじさんの方はムスッとした表情で僕と目も合わせない。


「あ、どうも」


 僕も会釈を返す。彼女は母国語で両親になにかをいい、僕の手を引っ張ってダイニングバーに入ってしまった。



 僕は運ばれてきた揚げシューマイなどを肴にビールを飲んでいたが、彼女はサワー、彼女のお母さんはウーロン茶を飲んでいた。

 お父さんは既に中ジョッキ二杯の生ビールを飲み干して焼酎をすすっている。


「なんだかお父さん、機嫌が悪いみたいね」


 ヒョウカが母親との会話の合間に僕に話しかけてきた。


「それなら僕にだってわかるよ」


 お父さんはじっと僕をにらみ続けているので、僕はそちらを向けずにいる。

 ヒョウカも僕と両親を取り持つ気はないらしく、僕と雑談をしつつ、母親と雑談をしているが、それらを決して通訳しない。


「ていうかさ、本当に久しぶりだよね」


 ヒョウカは自分のグラスを持って僕に差し出した。

 僕もビールのグラスを持ち上げて軽くぶつける。


「再会に、とか言えばいいのかな」


「最後の夜に、だっていいわよ」


 軽口を叩きながら僕らは酒を飲む。


「もし僕がさ、諦めずに連絡を取ろうとし続けてたらもっと良好な関係があったのかな」


「どうかな。私も忙しかったし。でも、嬉しかったとは思うけど」


「……なんで僕だったのさ。誰でもいい彼氏役なら適当な知り合いを連れてきたらよかったのに」


「彼氏がいるのにわざわざ偽物を仕込むのも面倒じゃない。両親に嘘をつくのも嫌だし」


「嘘っていうか……僕たちの関係だってほとんど赤の他人じゃん」


「あ、それ酷い。恋人同士だから私も抱かれたんだよ」


 横に両親を置いて選ぶ話題じゃないが、どうせ伝わらないので僕らは続ける。


「じゃあ、僕のこと好き?」


「んん、正直、私も君のことをよく知らないしね。でもあの晩はそれでもいいかなって思ったのは本当だよ。楽しかったし気持ちよく酔っ払っていたし」


「僕もそうだったからさ、また会いたいって思ってたんだよ。そのあと一週間くらいね」


「短い!」


 ヒョウカは思わず笑い、それをこらえるようにサワーの残りを飲み干した。

 店員を呼んで、代わりのグラスワインを注文した。母親は旦那になにか話しかけているが、父親は酔いが回ったのか、目が据わってその言葉が届いていない。


「でもそんなもんだって。あのことはヒョウカの中でなかったことになったんだと思ってたから」


 梨の礫をいつまでも投げ続けるのは無意味だし、相手にも悪い。


「初めて会った人とあんな関係になったのが初めてだったから私の中でもどうしたらいいのか戸惑っていたのよ。多分ね」


 しおらしく言うが、どうも彼女は適当な嘘を振りまくタイプに思えてどこまで信じていいのかこちらが戸惑う。


「どうであっても今更、どうでもいいよ。今日はとにかくご飯を食べて解散。それでお別れ。またどこかでばったり会うことがあれば知り合いとして挨拶くらいはするよ」


「あら、元恋人としてじゃなくて知り合いなんだ。冷たいわ」


「まだいう。実態のない恋人なんて恋人じゃないでしょ」


「実態って何よ」


 彼女は楽しそうに笑った。それが、僕と話しているからなのか、両親の前だからなのか。

 僕の表情は彼らから見てどう見えているのか。正直、どんな顔をしていいのかわからない。



 やがて、僕らは食事を終えて会計を済ませた。

 支払は彼女の母親が受け持った。

 特に断る理由がないので、甘受してお礼を言うと、ヒョウカが訳したのか、母親は大げさに手を振った。


「じゃ、さよなら」


 歩き出した両親を追いながら振り返ったヒョウカが楽しそうに言った。


「気が向いたら……もし私とやり直したくなったら電話して。楽しかったわ、ありがとう」


 小さく手を振り、そのまま両親と歩き去った。

 僕は彼女に連絡することはないだろう。すでに連絡先を消してしまっているし、履歴は残っているが、そんな気にもならない。

 彼女はきっと、僕のそんな気持ちも理解した上でそういうことを言うのだろう。

 言葉も通じないおじさんとおばさん、言葉は通じるが心がサッパリ通じない女の子との食事は、僕の心に強烈に書き込まれた。

 今後の人生できっと、何度も今晩のことを思い出すのだろう。

 話の種にはなるし、なにより、彼女とは結局セックスをしているのだから、損はしていないのだと総括して僕は帰り道を歩き出した。

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